FAIRUZ Biography (Japanese)





Fairuz



レバノンの女性歌手ファイルーズ( FAIRUZ )は「アラブの歌姫」としてアラブ世界では知らぬ者はいないという。昔日、ラジオの民族音楽番組でファイルーズを聴き、熱烈なファンになってしまったのだった。分厚いベルベットに喩えられる、その独特の声の美しさ、染み通る歌唱力に魅了されたということである。彼女の音楽をサポートしたラハバーニ兄弟の力もあろうが、世界に多大のファンを獲得できたファイルーズの歌は、単なるアラブ世界の美意識を超えたものがある。井上裕規さんという方がオルターポップで輸入した CD (ALTER-POP ARPCD-01とARPCD-115)にファイルーズの生い立ちをまとめているので、ちと拝借します。


1935 年レバノンの印刷屋の娘として生誕。本名はナハード・ハッダード。マロン派キリスト教徒。貧しい幼少時代ではあったが、小学校時代から「学校で一番美しい声の持ち主」ということで有名だったそうな。音楽的センスと記憶力は抜群だつたとか。

やがて名伯楽サリーム・ファリーフル教授の目にとまり、学費免除のお骨折りまであって、レバノン国立音楽学校に入学。49 年より「国民歌謡歌手」として本格的な歌手生活に入る。この間、バールベック音楽祭(レバノンの有名な音楽祭)のステージに立ち、聴衆の喝采を浴し、大成功を収めた。その模様は、キプロスのニア・イースト・ラジオの電波に乗り、全アラブ地域に放送され、瞬く間に人気となる。53 年、当時このラジオ局のディレクタだったハリーム・エル・ルーミーによって「ファイルーズ」の芸名が与えられる。ファイルーズとは、アラビア語で「トルコ石」のことだそうだ。何でも、もうひとつ候補に挙がった芸名は「シェヘラザード」だったらしいが、井上氏の言うとおり、「ファイルーズ」の方が、実に彼女の特質を言い当てていると思われる。


この時期、このラジオ局の音楽プロデューサだったアーシー・ラハバーニが、51 年からファイルーズのために作詞・作曲を手がけ始める。此が彼女の本格的デビューにあたり、弟マンスールとともに作詞・作曲を開始、53 年「 GHRUB 」でデビュー、一躍注目を集め、翌 54 年「 YA BA LALA 」のヒット、55年にはファースト・アルバム「 EVENING IN BEIRUT 」を発表、アラブ世界での不動の人気を獲得した。アーシーとはその後結婚、 4 人の子をもうける。彼女はこのラハバーニ兄弟とともに、実に 900 曲近くのレペルトワールをこなしたというが、一説には 3000 曲を超える作品があるとも云われている。

ファイルーズは歌のみならず、映画、歌劇などにも活躍、今日そうした録音も多数残されているが、その美しい歌声は、アラブを超えた人々の心をも魅了し続けた。しかし、79 年アーシーとファイルーズは離婚(しかし「 To ASSY 」解説では 81 年になっている !?)、53 年から続いたラハバーニ兄弟との蜜月も幕を閉じ、彼女の黄金期もまた幕を閉じた。


この時期のファイルーズは、レペルトワールに息子ジヤード・ラハバーニやラハバーニ兄弟以外の作詞・作曲による作品が入りはじめ、音楽的にも大きな転機となる。それが 79 年リリースの「 WAHDON 」というアルバムや 80 年リリースの「 DAHAB AILOUL 」に見られる。ひとつには、ジヤードの作品がそれ迄になかった、ジャズの要素を積極的に取り入れた新しいスタイルであつたこと、またこの頃、フィルモン・ワハビーの曲を歌いはじめるなど、一時的にアラブ色を強めた基軸に変わりつつあったとのことである。

80 年にはジョゼフ・ハルブ作詞とワハビー作曲による「 DAHAB AILOUL 」というアルバムをリリース、それ以降、専ら息子のジヤードともにコンサート活動に専念することになる。しかし人気は衰えず、87 / 88 年にはロンドンやパリで公演、大盛況を収めた。






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