| 斉諧生 |
パレーの『幻想』ですが、予想外の高評に驚いています。「速すぎる」とか「味わいがない」とか、賛否相半ばするだろうからひとつ論戦でも、と思っていたのですが(^^;。
野々村 私は、「(スコアを見ながら)録音を繰り返し聴くのが普通の聴取姿勢になった今日では、*文学的*な演奏はナンセンス」という立場を取ります。
浮月斎 文芸的なセンスに満ちた音の一大絵巻と見せかけるベルリオーズの奸計に乗せられた演奏はナンセンス
いつものことながら御両所のおっしゃることに啓発されますが、手持ちのディスクをあれこれ聴いているうちに「*文学的*な演奏」というものの像がぼやけてきました。ミュンシュ&パリ管あたりは、それに含まれるのでしょうか?
工藤 率直に言って、「幻想交響曲」という曲は一般に取り上げられるほどの名曲だとは、僕にはどうしても思えません。
私は結構好きな方ですが、言われてみると、確かに、良い(と感じる)演奏と良くない(と感じる)演奏の差が大きいですね。後者では、ほんと、退屈です。ただ、パレー盤、モントゥー(SFSO)盤、クレンペラー盤、マゼール(CBS)盤を、いずれも良いと感じてきましたので、何が自分の基準なのか、はっきりしなくて迷っています。エネルギー感、ドライヴ感(<野々村さん)がポイントかなぁ?佐々木さん、山下さんは、この曲をあまりお好みではないそうですから、ここは鈴木さんの御意見を是非お伺いしたいところです。
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| 鈴木 |
斉諧生 さてパレーの『幻想』ですが、予想外の高評に驚いています。
じつは、前回のレスで、ミュンシュ指揮パリ管を聞いていたらで終わってしまったのですが、そこなんですよね。第1楽章冒頭を聞き比べて、両者の違いに愕然としてしまったのです。「文学的側面」と書いたのは小生で、反省しているのですが、この違いは何なのか「文学的側面」だけではとらえきれないものを感じています。しかし、パレーとミュンシュでは、アプローチの仕方がかなり異なりますので何がキーなのか少し探ろうと思ってはいます。でも、パレーの演奏は優れていることは間違いがありません。全く別のアプローチでも、それが表現足り得ていれば評価するというのが小生のスタンスですから。
野々村 私は、「(スコアを見ながら)録音を繰り返し聴くのが普通の聴取姿勢になった今日では、*文学的*な演奏はナンセンス」という立場を取ります。
小生もスコアは読めるのですが、「(スコアを見ながら)録音を繰り返し聴くのが普通の聴取姿勢になった今日では、*文学的*な演奏はナンセンス」という立場を取ります」という言葉には、"否"を唱えます。スコアはあくまで演奏のための指示書ですが(設計図ではないですね)、演奏者はそこからいろいろなものを取り出して音化して行く。作曲家は、それに自分の考え方を付加したいから、さまざまな言葉で縛ろうとする(マーラーが極端ですが)。しかしながら、一般的なリスナーにとって、スコアは必要か、それを読めなくては音楽を云々する資格がないのかという議論になれば、答えは"否"です。一般的なファンはスコアなどどうでもいい。むしろ、作曲家が何を表現したくてその音楽を作って、演奏者はそれをどういう解釈して音によって表現したか聞いて感動します。いわゆる"表現行為の結果"です。非常に曖昧な感覚的な世界なわけです。それを「スコア云々」で縛ると「ここはこういう風に演奏するのが正しい」というドグマに充ちた演奏だらけになり、演奏行為は、表現行為ではなくなると思うのです。だから、むしろ小生、最近はスコアは気にしないことにしています。
工藤 率直に言って、「幻想交響曲」という曲は一般に取り上げられるほどの名曲だとは、僕にはどうしても思えません。
斉諧生 私は結構好きな方ですが、言われてみると、確かに、良い(と感じる)演奏と良くない(と感じる)演奏の差が大きいですね。後者では、ほんと、退屈です。
作品の成立年代から考えると、ベートーヴェンのすぐ後と言ってもいいくらいに「幻想」は作曲されています。当時としては革命的な作品だったでしょうね。工藤さんのおっしゃられるとおり、この作品は指揮者の力量を問うことが多いですね。
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| 浮月斎 |
山下 過日、幻想についてポストしてからみなさんがアップされた内容を読んでいて、やはり*文学的*な演奏の指し示すものがつかみにくいと感じていました。
斉諧生 手持ちのディスクをあれこれ聴いているうちに「*文学的*な演奏」というものの像がぼやけてきました。
何度か言いましたが、私の焦点は「文学的」か否かということよりも、端的にサンフォニックな「幻想」の解決か否かということに尽きます。そしてそれはスコアの音を「命題」として引き出すべく演奏であるということ。そういう意味ではシベリウスの「北欧的」という表現とは意味が違います。「文学的」という表現を私なりに解せば、「主情主義的ロマンチシズム」的解釈、即ち、「幻想」はベルリオーズの示したプロットを指揮者なりの譜読みで敷延した奔放な表現物であると解釈する姿勢のことです。
ストレートにスコアの音を出してみても、この曲の楽想のおどろおどろしさや異常な音型・バランスはありありなのは既におわかりいただけていると思いますが、例えばバレンボイム盤などのように、全体的に妙に粘るアゴーギグやバランスを意図的に崩して色彩感を強意するなど、わざわざ余分な怪奇性・変奇的を衒っている。或いはバーンスタイン&ORTF盤のように、爽快な楽想にまで濃厚無比な味付けをし、情念放出的なはけ口にしてしまう。こういう演奏は「譜読みの敷延」の一大産物としか考えられません。「私の思う」ところの「文学的」表現とは、こういう演奏を主に指します。なぜならこういう類は「スコア解釈」の埒内にあるのかどうか微妙だからです。
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| 佐々木 |
先般から、"文学的"というのは具体的にはどういう事だろうと考えておりましたが、どうもうまくまとまりません。幻想は、先週聴きすぎた所為で少々食傷気味でして、この1週間あまり聴いていないのも一因です。これを拝読して思った(思い出した)のですが、幻想ってどの演奏を聴いても、あの標題と音楽との間にどうもギャップが感じられ、それが、私が幻想を聴くときにいつもひっかかっていた点なのです。特に第4楽章は、地獄の行進には聞こえないと思っています。今回のパレーを聴いて、「標題にこだわらなくても良いんだ」と蒙を啓かれた感があります。
斉諧生 さてパレーの『幻想』ですが、予想外の高評に驚いています。
私も、最初は「味わいがない」路線で行こうかと思ったのですが、2回目に聴いて印象が変わりました。先述の通り、私の「幻想」に対するいままでのわだかまりをある程度払拭してくれたことがその理由です。
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| 浮月斎 |
佐々木 幻想ってどの演奏を聴いても、あの標題と音楽との間にどうもギャップが感じられ、それが、私が幻想を聴くときにいつもひっかかっていた点なのです。特に第4楽章は、地獄の行進には聞こえないと思っています。今回のパレーを聴いて、「標題にこだわらなくても良いんだ」と蒙を啓かれた感があります。
まったくまさにその佐々木さんのおっしゃる「標題にこだわらなくても良いんだ」の一語に尽きます。あんな誘導は忘れて虚心に聴ければまずいいのではないかと。それを指揮者・演奏者が理解した時に初めて、「文学的」というような呪縛から離れられる、そういうパラダイムみたいなものでしょうか。つまり「文学的」というより、ベルリオーズのプロットどおりのイメージを聞き手は強要される必要はないんだということですね。演奏家はなおのことそう。ビバルディの「四季」のソネットみたいな程度でいいじゃないでしょうか。
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| 野々村 |
浮月斎 でも、思うにこの演奏が*一般に*極上の演奏のひとつとして取り上げられ> なかった理由も感覚的にわかるんです。(中略)パレー盤の美点は裏を返せば、幻想」とは実はイマジネーションに乏しい作品だということを見事に見せ切っていることでしょうね。異様なものはただ異様なものなんだという吹っ切れた明快さが私には素敵でした。(中略)パレー盤というのは、ある意味でいろんな演奏を歴程した後に辿り着いて初めてその面白さが開陳するような気がします。
このご意見には、あまり納得できません。音楽的にストレートに面白い、クラシックを聴いたことがない人にとってもイケてる演奏だと思います。むしろ、*標題的解釈*をインプリントされているクラシックファンにとってはつまらなく、さらに聴き込んでそれに辟易してきたクラシックマニアはまた面白く感じ始めるような、そういう演奏なのではないかと。
浮月斎 「時代の転換」がこの録音にあたるのかどうか私にはわかりませんが、少なくともパレー以前はいなかったし、以後もかなりこういう攻め方はほとんどないだろうと思います。
このあたりの真意は後述。
野々村 私は、「(スコアを見ながら)録音を繰り返し聴くのが普通の聴取姿勢になった今日では、*文学的*な演奏はナンセンス」という立場を取ります。
鈴木 小生もスコアは読めるのですが、「(スコアを見ながら)録音を繰り返し聴くのが普通の聴取姿勢になった今日では、*文学的*な演奏はナンセンス」という立場を取ります」という言葉には、"否"を唱えます。
カッコに入れたのは、スコアを見るかどうかは本質的ではないが、という意味なのですが。本質的なのは、「演奏会に出かけて一期一会の感動を味わう」という姿勢から、「録音を繰り返し聴く」という姿勢に変わったことの方です。
鈴木 一般的なリスナーにとって、スコアは必要か、それを読めなくては音楽を云々する資格がないのかという議論になれば、答えは"否"です。
そういう捉え方に対しては、私だって「否」ですよ。
鈴木 それを「スコア云々」で縛ると「ここはこういう風に演奏するのが正しい」というドグマに充ちた演奏だらけになり、演奏行為は、表現行為ではなくなると思うのです。
スコアを参照する行為というのは、「作曲家は何を指示しているのか、それを演奏家はどのように解釈し、あるいはどのように改変したのか」を知る助けになるわけで、やはり有益な付加情報だと思います。*ドグマティック*なのは、「スコアの《標準的な解釈》に忠実に演奏しなければならない」という偏狭な姿勢であって、スコアを参照する行為自体ではないはず。
浮月斎 「文学的」という表現を私なりに解せば、「主情主義的ロマンチシズム」的解釈、即ち、「幻想」はベルリオーズの示したプロットを指揮者なりの譜読みで敷延した奔放な表現物であると解釈する姿勢のことです。
そういうのは、もはや「譜読み」とは言わないのではないでしょうか。譜面よりも*文学的*プログラムを優先して、譜面を改変しているわけですから。
浮月斎 ストレートにスコアの音を出してみても、この曲の楽想のおどろおどろしさや異常な音型・バランスはありありなのは既におわかりいただけていると思いますが、(中略)「私の思う」ところの「文学的」表現とは、こういう演奏を主に指します。なぜならこういう類は「スコア解釈」の埒内にあるのかどうか微妙だからです。
言葉の使い方以外は同意見です。で、このような解釈は、「演奏会で一期一会」の場合は、*それはそれで印象的*かもしれませんが、「録音を繰り返し聴く」となると、まず飽きてしまう。それが「時代の転換」だと主張したいわけです。さらに、スコアを参照することの意義についてですが、このパレー盤のようなストレートな解釈だと、実はそれほどないのかもしれません。しかし、次回に取り上げるチェリビダッケのような解釈になってくると、「単にヘンなことをやっている」のか、「譜面の意図に忠実になろうとした結果、部分的に系統的な逸脱が生じている」のかを見分けるのに、スコアがあると便利になってくるのではないでしょうか。例えば、アファナシエフの『展覧会の絵』は一見無茶苦茶な解釈に思えますが、譜面を見ながら聴くと、その評価は180度変わる。
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| 山下 |
佐々木 幻想ってどの演奏を聴いても、あの標題と音楽との間にどうもギャップが感じられ、それが、私が幻想を聴くときにいつもひっかかっていた点なのです。特に第4楽章は、地獄の行進には聞こえないと思っています。今回のパレーを聴いて、「標題にこだわらなくても良いんだ」と蒙を啓かれた感があります。
私が感じていたことを佐々木さんがクリアに表現していただいていました。「標題にこだわらなくて良いんだ」まさにそうですね。
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| 浮月斎 |
野々村 このご意見には、あまり納得できません。音楽的にストレートに面白い、クラシックを聴いたことがない人にとってもイケてる演奏だと思います。
はい、よくわかります。あれは私の体験の敷延で、パレーもひとつの「極北」であり、反照する演奏を聴くとその妙味が更によくわかるということを言いたかった話です。「極北」を最初に聴いてウマがあえば勿論それでいいと思いますが、嶺はまたひとつだけでもないと。
野々村 むしろ、*標題的解釈*をインプリントされているクラシックファンにとってはつまらなく、さらに聴き込んでそれに辟易してきたクラシックマニアはまた面白く感じ始めるような、そういう演奏なのではないかと。
それは実際、私も同感です。前者の方々が面白くないと言うなら仕方がないと思いますが、後者にしても斉諧生さんが述べていたとおり、それでもすっぱりと好悪は分かれる筈ですね。やはりこの同人全員がたまたま一致したというのが実態でしょう。
浮月斎 「文学的」という表現を私なりに解せば、「主情主義的ロマンチシズム」的解釈、即ち、「幻想」はベルリオーズの示したプロットを指揮者なりの譜読みで敷延した奔放な表現物であると解釈する姿勢のことです。
野々村 そういうのは、もはや「譜読み」とは言わないのではないでしょうか。譜面よりも*文学的*プログラムを優先して、譜面を改変しているわけですから。
あくまで譜面の枠内において敷延した範囲でやっているようであり(そうでないのもあるのかもしれませんが)、まぁ「改変」とまではいかないと思いますよ。多くの巨匠達のシューマンの方がよほど改変ですね(^^)。野々村さんの言葉を籍りれば、「*文学的*プログラムを優先して」譜読みを組み立て直すという行為だろうと思うのです。それだけベルリオーズの示したプロットの呪縛が強固だということも見えてきますが。
野々村 で、このような解釈は、「演奏会で一期一会」の場合は、*それはそれで印象的*かもしれませんが、「録音を繰り返し聴く」となると、まず飽きてしまう。それが「時代の転換」だと主張したいわけです。
結果的にはそうかもしれませんが、他のパレーの録音なども聴いてみて思ったのは、これは単にパレー元来のスタイルであり、そこまでは視野に入っていなかったような気がするのですが。私が思うに、パレー盤は前後を見回しても或る意味で「特絶」した演奏のように捉えていますが、その辺は斉諧生さん如何でしょう?
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| 工藤 |
何度かパレーを聴き直してみましたが、印象はそれほど変わりません。やはり非常に素晴らしい演奏ですね。
野々村 あるいは、工藤さんのおっしゃる*名曲*というのはもっと厳格な基準で、ベートーヴェンの交響曲でもその基準を満たしているのは2〜3曲、というようなものなのかな?
いえいえ、そんな大そうなものではありません(^^;。この辺は好みの問題も入ってくると思いますので、これ以上議論する必要はありませんよね。ただ、野々村さんのおっしゃる
『*名曲*ではないが、ある作曲技法の出発点として重要で、*入門用*には非常に適切な作品でもある』という意見には納得しました。
浮月斎 パレー盤の美点は裏を返せば、「幻想」とは実はイマジネーションに乏しい作品だということを見事に見せ切っていることでしょうね。異様なものはただ異様なものなんだという吹っ切れた明快さが私には素敵でした。
その“異様さ”をあえて強調することなく、普通の語法で処理しているところが素晴らしいのだと思います。
浮月斎 「文学的」という表現を私なりに解せば、「主情主義的ロマンチシズム」的解釈、即ち、「幻想」はベルリオーズの示したプロットを指揮者なりの譜読みで敷延した奔放な表現物であると解釈する姿勢のことです。
野々村 そういうのは、もはや「譜読み」とは言わないのではないでしょうか。譜面よりも*文学的*プログラムを優先して、譜面を改変しているわけですから。
浮月斎 あくまで譜面の枠内において敷延した範囲でやっているようであり(そうでないのもあるのかもしれませんが)、まぁ「改変」とまではいかないと思いますよ。多くの巨匠達のシューマンの方がよほど改変ですね(^^)。野々村さんの言葉を籍りれば、「*文学的*プログラムを優先して」譜読みを組み立て直すという行為だろうと思うのです。それだけベルリオーズの示したプロットの呪縛が強固だということも見えてきますが。
例えば、リヒャルト・シュトラウスのいくつかの作品では、普通にスコアを音にしただけでも「文学的な解釈」が喚起される部分がありますよね。アシュケナージが棒を振るだけで精いっぱいでも、一応ストーリーだけは十分に辿れる(^^;。「幻想」では、オーケストレーションの技術がそのレベルにまで達していないために(これはもちろん、ベルリオーズの才能がどうこうと言っている訳ではありません。)スコアに書かれている音とストーリーとのバランスが、逆に演奏者の自由な判断に任せられてしまうことが、“文学的”というものの意味をぼやけさせてしまう一因になっているような気がします。なかなかうまく言葉に出来ませんね(^^)。
佐々木 今回のパレーを聴いて、「標題にこだわらなくても良いんだ」と蒙を啓かれた感があります。
浮月斎 まったくまさにその佐々木さんのおっしゃる「標題にこだわらなくても良いんだ」の一語に尽きます。あんな誘導は忘れて虚心に聴ければまずいいのではないかと。
やはり音楽として純粋に楽しむことができなければ、いくら標題を意識していたとしてもダメだと思います。個人的には、標題に溺れ過ぎるくらいなら、むしろただの音響に溺れている演奏の方がマシだと感じます。
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| 野々村 |
野々村 このご意見には、あまり納得できません。音楽的にストレートに面白い、クラシックを聴いたことがない人にとってもイケてる演奏だと思います。
浮月斎 あれは私の体験の敷延で、パレーもひとつの「極北」であり、反照する演奏を聴くとその妙味が更によくわかるということを言いたかった話です。「極北」を最初に聴いてウマがあえば勿論それでいいと思いますが、嶺はまたひとつだけでもないと。
「嶺はまたひとつだけでもない」のは同感ですが、パレーの演奏を「極北」と言われても納得できないんですよね。
工藤 例えば、リヒャルト・シュトラウスのいくつかの作品では、普通にスコアを音にしただけでも「文学的な解釈」が喚起される部分がありますよね。アシュケナージが棒を振るだけで精いっぱいでも、一応ストーリーだけは十分に辿れる (^^;。「幻想」では、オーケストレーションの技術がそのレベルにまで達していないために(これはもちろん、ベルリオーズの才能がどうこうと言っている訳ではありません。)スコアに書かれている音とストーリーとのバランスが、逆に演奏者の自由な判断に任せられてしまうことが、“文学的”というものの意味をぼやけさせてしまう一因になっているような気がします。
というか、これはこの作品は「交響詩『ある芸術家の幻想』」ではない、ということで、「オーケストレーションの技術」とかそういう問題ではないのでは?そもそもジャンルが違うということです。『メトロポリス』と『タワーリングインフェルノ』をパニック描写で比較するようなもので。
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| 浮月斎 |
野々村 「嶺はまたひとつだけでもない」のは同感ですが、パレーの演奏を「極北」と言われても納得できないんですよね。
「譜面通りに素直に音を出している」のは慥かにそうですが、実際そうでない演奏ばかりな訳で、相対的には或る種先鋒となるのは仕方がないでしょう(^^;)。
工藤 その“異様さ”をあえて強調することなく、普通の語法で処理しているところが素晴らしいのだと思います。
そのとおりですね。有り体にいえば、全くこのことが驚きなんですよね。
工藤 「幻想」では、オーケストレーションの技術がそのレベルにまで達していないために(これはもちろん、ベルリオーズの才能がどうこうと言っている訳ではありません。)スコアに書かれている音とストーリーとのバランスが、逆に演奏者の自由な判断に任せられてしまうことが、“文学的”というものの意味をぼやけさせてしまう一因になっているような気がします。
野々村 というか、これはこの作品は「交響詩『ある芸術家の幻想』」ではない、ということで、「オーケストレーションの技術」とかそういう問題ではないのでは?そもそもジャンルが違うということです。
私も「オーケストレーションの技術」というよりは、作品に作曲者自身が付与する説明文・詩・隠喩などのうち、ベルリオーズのものが一番もっともらしいが、スコアに書き入れるイタリア語の代わりになるような呪縛でしかなく、多くの演奏家がそんなものを音として具現化しようと引き摺ってきたのがそもそもおかしいと感じていました。パレーを聴いて思うところは、簡単率直に言えば「こんな簡単なこと」がパレーにあっさりできた驚きであり、逆に他の指揮者達は何故わからなかったのかなと疑問に思っていました。結局、「大味」の幻想のディスクの方が売れるから、それが録音の趨勢だっただけではないかと感じています。
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| 野々村 |
浮月斎 「譜面通りに素直に音を出している」のは慥かにそうですが、実際そうでない演奏ばかりな訳で、相対的には或る種先鋒となるのは仕方がないでしょう(^^;)。
ギーレンあたりだったら、この路線の「極北」を示してくれそうな気がするのですが。パレーの解釈は、もっと人なつっこいと感じる。
浮月斎 パレーを聴いて思うところは、簡単率直に言えば「こんな簡単なこと」がパレーにあっさりできた驚きであり、逆に他の指揮者達は何故わからなかったのかなと疑問に思っていました。結局、「大味」の幻想のディスクの方が売れるから、それが録音の趨勢だっただけではないかと感じています。
私の「歴史的考察」は、「パレーの路線はリハーサルに時間がかかるから儲からない」ということだったのではないかと....。マルチトラック録音の普及でポピュラー音楽の流れがアルバム重視に変わってLPの製造コストが下がったことで、クラシック音楽の音盤も「大量消費財」になったわけですが、そうなるとおのずと商品としての性格も変わってしまった。「売れる」かどうかも、マスメディアのコントロール次第になってしまった。
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| 鈴木 |
「幻想」なんですが、このメンバーでは、パレーの演奏に対して批判は出にくいですね。小生も前に書きましたように、これは、非常にいい演奏だと思います。ただ「幻想」自体、ブルックナーやマーラー、ショスタコーヴィッチが一般的になってしまった現在では、「いい曲か?」とか「おまえは好きか?」と聞かれると「ウ〜ン!」となってしまうんですが、作品の成立時代や状況を考えると、1830年に、これだけの音楽を作曲してしまったベルリオーズは、凄かったなと思うのです。ベートーヴェンの第9が1824年ですから、国は異なるとはいえ、これだけ色彩感に富み、それまでの様式感をうち砕き、交響曲というより、長大な交響詩を作曲してしまったベルリオーズはやはり凄いなと。
ただ、われわれは、その後のさまざまな作曲家の作品を、聞いてきた同じ土俵でベルリオーズを聞いていますので、その革新性は、もはや見えにくいのかも知れません。パレーと双璧のミュンシュ指揮パリ管を今聞いていますが、これは旋律の歌い方がうまい!そして旋律だけではなく、スコアの縦の線も絶妙にバランスされています。
しかも、この「幻想」は、熱い!パレーの縦の線も絶妙ですが、聞いていての印象は、横に(表現は悪いが)流れて行きますよね。ミュンシュは、音楽を聞いているときの時間感覚が揺れます。パレーではそのことはあまり強調されない。パレーの演奏は、ドイツ式ではないけれど、ある程度ザッハリッヒにこの音楽を鳴らしているようです。ミュンシュでは、さらにボストン響との演奏も名演で、むしろオーケストラがミュンシュの方法に練れている分、完成度はこの方が高いような印象を受けます。
誤解を恐れずに言うと、総体的な印象では、おそらく「幻想」のベストでしょう。みんなパリ管との演奏ばかりを賞揚しますが。音楽の性格付けと言うことでは、パレーをも大きく凌駕しているようです。パレーも無論いい演奏であることを認めた上で「そも、幻想ってどんな音楽なのか?」と言うことでは、ミュンシュ・ボストン響でしょうね。
じゃあ、他との比較ではということになると、ミュンフンとカラヤンは未聴ですので何とも言えませんが、カラヤンはなんとなく分かってしまいますね(^ ^ ;。その他では、不思議とアバド。これはなかなか見通しがよくて優れた演奏です。鐘の音も広島の平和の鐘の音のミックスだそうですが、なかなか迫力があります。アバド嫌いな方はご一聴を。デュトワはペケでした(^ ^ ;;;;。
で、パレーの演奏は、それらの演奏を含めた「幻想」演奏史の中でも、特筆すべき位置を持っているのではないかと感じます。パレーは、それまでの「幻想」につきまとう(これは作曲家のテキストの責任もあるのですが)、どろどろねちねちを抜き去ってしまった分、音響上の真正な姿を提示していると言っていいかも知れません。
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| 斉諧生 |
パレーの「幻想」については、ほぼ見えてきたかな、という感じですね。補足的に少々書きつける程度といたします。
1.「*文学的*な演奏」について
浮月斎さん、野々村さんはじめ皆さんの議論を拝読して、おおよそ把握できました。
浮月斎 ビバルディの「四季」のソネットみたいな程度でいいじゃないでしょうか。
リストの「前奏曲」も同様じゃありませんでしたっけ?
野々村 この作品は「交響詩『ある芸術家の幻想』」ではない。
ましてやバレエ音楽でもない、ということですね。余談になりますが、かなり以前に『レコ芸』の読者のページで、「ベルリオーズは第3楽章のどこかに主人公が恋人を殺害した場面の音楽を書き込んでいるはずだ」という趣旨の熱心な投稿がありました(笑)。彼の結論は、「155小節の下降音型」というもの。
2.パレーの演奏美学について
浮月斎 私が思うに、パレー盤は前後を見回しても或る意味で「特絶」した演奏のように捉えていますが、その辺は斉諧生さん如何でしょう?
そうですね。たしかに類例を見ないようにも思います。ライナーに幻想の録音があれば面白い比較ができたかもしれませんね。ほぼ同年齢(パレーが2歳年長)なのです。検討してみたいのは、例えば次のような視角です。(1)フランス近代楽派(特に、十数歳年長のルーセル、フローラン・シュミットあたり)の影響、(2)作曲家パレーの作品に表出された彼の音楽美学
3.「時代の転換」
ほとんど柴田南雄先生の受け売りで、しかも野々村さんが精通されている分野ですが、現代音楽も60年代後半以降はテンションの低い曲が中心になってくるそうですね(ミニマル系とか)。戦時の狂騒と戦後の虚脱・頽廃を幼少期に経験し、かつ、西洋文明への懐疑的姿勢をインプリントして成長した世代が、そのような演奏様式・作曲様式を選択したという面もあるのではないでしょうか。この頃のマーキュリーの指揮者はクーベリック、ドラティあたりですから、パレーともども*録音向き*として選ばれた可能性は高いですね。ただし、パレーの音楽は、その流れとは別に(それ以前に)成立したものではないかと思います(私の直観にすぎませんが)。
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