| 野々村 |
クラシックに限らない話だが、音楽マスコミでもてはやされる録音はクソみたいなものばかりでうんざりさせられる。しかし、この合評で取り上げられる録音は概して質が高く、いまやこういう機会がないと滅多にクラシックは買わなくなってしまった (^ ^;;) 私にとっては、実にありがたい。今回のパレー/デトロイト響の『幻想交響曲』他のCDも、満足度の高いものだった。デトロイト響というと、デジタル録音初期にドラティと組んだバルトークの名盤がまず思い出されるが、このステレオ録音初期の1枚も、アンサンブルの精度の高い、非常に優れた演奏である。メインマイク2本と音場マイク1本だけで地元の高校のホールで収録、という録音姿勢は今日のBISを彷彿とさせるものだが、後年のメジャーレーベル系のマルチマイク録音よりも音の鮮度は格段に良く、1950年代末の録音にもかかわらず各パートの動きが自然なバランスで聞き取れる。難点は、高周波数成分が十分に収録されていないため弦の響きに膨らみがなく、金属打楽器の響きが情けないことだが、私にはそれほど気にならなかった。このマーキュリー復刻シリーズはもっと色々買ってみたい、とまず思った。
オーディオ雑誌のCDレビューのような書き出しになってしまったが、本題に入ろう。『幻想交響曲』の解釈でポイントになるのは、標題性と構築性のバランスをいかに取るかである。私がこれまで聴いてきた録音は、バーンスタイン/NYPとブーレーズ/クリーヴランド管のもので、それぞれ標題性と構築性に的を絞った解釈の典型と言えよう。しかし、どちらの録音も私には不満だったので、今回パレー盤と出会えたのは大きな喜びである。バーンスタイン盤は、ストーリー描写に熱中するあまり音楽としての強度を失って、アニメの背景音楽くらいにしか使えそうにない。ブーレーズ盤は、音楽を絞め上げすぎた結果ファンタジーの入り込む余地も失われて、皮肉にもブーレーズ自身がライナーで指摘した通りに、楽想の凡庸さばかりが際立ってしまった。一方、今回取り上げるパレー盤では、瑞々しい音楽が説得力を持って駆け抜けていき、間然とするところがない。
このような素晴らしい演奏が実現した最大のポイントは、基本的には譜面に忠実に、しかしいったん走り出した音楽の流れには逆らわずに、各瞬間を最も輝かしく響かせる姿勢を貫いたところにある。譜面への忠実さでこの録音はバーンスタイン盤を凌ぐ。音楽自体の持つ情報量は、「ストーリー」よりもはるかに多いのだから。一方、この録音は、音楽の流れの闊達さでブーレーズ盤を凌ぐ。ブーレーズ流の分析的なアプローチが生きるのは、『海』『春の祭典』のような完成度の高い作品の場合だけで、楽想の弱さを色彩感と勢いでカバーしたこの作品では限界がある。もっとも、リハーサルの不十分さをブツ切り収録の編集技術でカバーすることが当たり前になってしまった今日の録音に今回のパレー盤のようなドライブ感を求めるのは、そもそもないものねだりなのかもしれない。いずれにしても、この作品の「標題性」や「構築性」は解釈の目標ではなく、徹底的な譜読みとリハーサルから自ずと立ち現れることを、今回の録音は教えてくれた。
この録音には、行進曲と序曲が2曲ずつカップリングされているが、CD復刻に際して別な音源から加えられた文字通りのフィルアップで、ことさらに聴くべきものもなく、あえて言及するつもりはない。
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| 斉諧生 |
私の場合、パレーに関しては褒めるしかないのですが、(^^;。この「幻想」は速いテンポでビシビシ決めまくってくれる、快感、快哉の演奏です。
この曲のルーチン的な描写はたいてい無視して明晰に進んで行く中に、鋭いスフォルツァンドや強いピツィカートを上手に使いつつ、濃厚な味わい、低弦の意味深い動き、細かい音型の煌めき等を見せ、ただごとならぬ曲であることを次々と表現していきます。パレーとかシューリヒトに「インテンポで淡々と演奏する人」というイメージを持つ人がいるとすれば、大きな間違いです。普通テンポを動かす人は加速・減速ともに多用するのですが、パレーはもっぱら加速を愛用するところが独特ですね。その逆がクナ。
作曲家でもあったからでしょうか、楽譜の扱いも自由で、第1楽章108〜110小節で変拍子風に振ってみせたり、第4楽章169小節では音を端折ってたたみかけたり、無茶といえば無茶ですが、私には気持ちいい!チェリと並べて聴いたせいもあって、オーケストラの仕上がりが少々粗い(特に弦合奏の精度が低いところがある)のは気になりますが、木管のフランス風の音色で帳消しと思っています。1958年にマイク3本だけでこれだけの録音が行われたというのも驚きです。パレー万歳\(^o^)/
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| 鈴木 |
これは、小生のHPでも扱いたいくらいの名演ですね。テンポは早めですが(多分、今まで聞いてきた「幻想」の中で一番早い)、非常に心地よいテンポです。第2楽章ワルツなど、もう少し遅くてもと感じないでもないですが、パレーの掛け声が小さく入っていて、気合いが入っています。テンポが早いということと、非常に各楽器間のバランスがうまくまとまっていますので、特に第1、第3楽章など、この当時の交響曲は舞踊曲を進化させた形で成立してきたということがよく分かります。
行き方として、「幻想」の文学的な側面を際だたせた演奏というより、純粋に音楽的として鳴らしたという感じですので、「文学的」側面を強調した演奏が好きな方には向かないかも知れませんね。ただ。あれよあれよという間に終わってしまうので、少し物足りないと言えば、物足りないですが、非常に引き締まった演奏に爽やかささえ、感じました。 と、ここまで書いたところで、ミュンシュ・パリ管を聞き始めましたが、最初からまるで印象が違う(^ ^ ;;;;。今度の日曜日までには、なんとかミュンシュの5種の「幻想」、最近評判は悪いですが、小生購入当時は気に入っていたアバドなどなどと、少し聞き比べてみようと思っています。
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| 浮月斎 |
既にパレー盤は聴いているものの、スコア片手に聴くのは久々でした。結論としては、サンフォニックな解釈としての「幻想」の中でもとびきりの名盤です。とにかくこれほど「幻想」の分厚い俗諺をぶっち切った演奏はなく、私にとっては小澤&BSO盤とともに歴史的な録音と思います。
この作品は形式・様式上、「交響曲」としてのフレームをもともと本性的に持っていないように言われますが、しかし「逆転的にであっても」交響曲としてのフレームを底においた形式美はきちんと備えている作品であるように感じます。ゆえに、幻想曲・狂詩曲的なノリでの長大なロマンティシズムの管弦楽作品という位置づけのような奇怪性・はみだし性を極めるべく解釈ではなく、結果として交響曲としての「いびつさ」が強調されようとも、ストレートに作品の持つ「交響曲」としての形式美・様式美を正面から対峙した真にサンフォニックな解釈でなければ値しないと思います。文芸的なセンスに満ちた音の一大絵巻と見せかけるベルリオーズの奸計に乗せられた演奏はナンセンスというのが私のこの曲の見方で、「固定観念」の循環と展開、込み入った管弦楽法の差異をどれだけストレートに出せるかということが焦点であろうと考えます。はっきり言うと、スコアを膨張させる解釈は必要ないということ。
パレーは音の出し方、スコアの読み全てにおいて微塵の曖昧さもなくそれを成し遂げており、実にタイトなボディながら馥郁たる香りもあり、鋭敏な音の切り上げ方の清々しい名演だと思います。といってガチガチに楽譜通りでもないところがまた面白いところです。小澤盤にそのよさを認めていた私としては、こんなに素晴らしい先達がいたとは昨年まで露知らずで、多少の演奏の瑕疵を除けば録音ともに実に見事としかいいようはありません。ただ、惜しむらくはこの快速性についていけるティムパニがややうまくないことかしら。
特にパレー盤の素晴らしいのは弦の弾き方の聴かせ方で、これぐらい明快にアルコ/ピチカート/コルレーニョを響かせた幻想を他に知りません。特に5楽章でのその表現法の面白さがくっきり現れてきます。1楽章での爽快さは、楽想の終結をアチェレで追い込むあたり見事です。ただその辺のスリリングさはミュンフン盤も気に入っています。最も驚いたのは2楽章はじめのトレモロの明確さで、人によっては何と味気ないと思うかもしれませんが、これは実に素晴らしいですね。さらりとしている。3楽章はやはり遠雷のティンパニ他がややあっさりしすぎの感もありますが、これくらいすっきりしているとどういう音楽かよくわかります。4楽章もテンポはまるきり共感できますし、響きも見事ですが、97小節あたりから若干加速するのがちょっと残念。私は小澤盤のように加速したテンポくらいの快速インテンポにやってもらう方がよかったです。5楽章は圧巻で、これくらいこの曲の本来の姿を白日の下に曝け出した演奏はないでしょう。ここには「夢魔」はいない。ただ面倒くさいテンポと楽器バランスが綿々と書かれているだけです。出だしからして実に吹っ切れていますが、47小節目のフルート、ピッコロが乗ってくる部分の明確さなんか素晴らしいですね。それから70小節少し手前からの畳み掛けるような加速の快感さは筆舌に尽きますし、ここまで吹き飛んできて85小節目終了のルフトパウゼはどきりとします。またディエス・イレ部分の弦の動きのクリアさは特筆です。ただ、やや金管(特にトロムボーン)に粗削りな部分が散見されるのが残念ですが、しかし聴いた後の爽快感ですべて吹き飛んでしまいます。とにかく、これくらい明晰・爽快でサンフォニックに響く「幻想」はありませんが、少しの冷ややかさもないのがまたパレーの面白さであり、隆盛期のデトロイト響の音だったということかもしれません。
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| 佐々木 |
パレーの幻想ですが、これは面白いですねぇ。この録音、1959年、パレー70代の演奏ですけれどとにかくモダンな演奏で驚きです。最初聴いたときは、度肝を抜かれながらもこれでは香りと雰囲気が蒸発してしまって、失ったものも多いかなという感を持ったのですが、数回聴いてみると、なんのなんのそんな事は全く感じなくなり十分に満足できる演奏という認識に変わってきました。これ以降、皆さんの御発言の繰り返しになってしまいますm(__)m。
基本のテンポ自体かなり速いですが、このテンポの上でのスフォルツアンド、アッチェレランドが物凄く効いています。それに特筆すべきは、やはりそれぞれの楽器の音の生々しさでしょう。第2楽章のハープの音や、第4楽章、17小節からのチェロとバスの音の張りは凄い。弦ではピッチカートやコルレーニョのリアルさも脱帽。管もことごとくメリハリの効いたアーティキュレーションで全曲どこを切り取っても緊張感が途切れません。この早めのテンポや急速なアチェレと音の生々しさ、メリハリとが相俟って醸し出す異様な緊張感、私は自分のHPにも書いた通り、「幻想」はあまり好きな曲ではないのですがパレーの「幻想」は飽きません。破天荒に面白いです。聴けば聴くほど*やみつきになる*演奏ですね。
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| 工藤 |
率直に言って、「幻想交響曲」という曲は一般に取り上げられるほどの名曲だとは、僕にはどうしても思えません。楽想の凡庸さ、構造の弱さ、こけおどしのオーケストレーション…、とにかくアラしか見えて(聴こえて?)こない。それでもベルリオーズの他の曲よりは大分マシだとは思いますが。他に良い曲がいくらでもあるのに、わざわざこんな曲を買ってまで聴こうとは思わない。
この姿勢には、このディスクを聴き終った後も変化はありません。しかし、この演奏は素晴らしい。ひょっとしたら今年1番の収穫になるかもしれない。以前、ショスタコーヴィチの15番交響曲の編曲版をこの合評会で取り上げた時に「出来の良くない曲は取り上げないということも演奏家の責任である。それでも敢えて取り上げるのであれば、不出来な部分をカバーして余りある演奏をするのが演奏家としての良心である。」という旨の発言をしましたが、パレーはまさに“良心”を持った演奏家だと感じられました。
「幻想」は作曲家自身がストーリーを書いているだけに、どうしてもその「標題性」が重視されてしまう傾向がありますが、僕の考えでは“標題”を感じとるのはあくまで聴き手であって、演奏する側が“標題”に溺れてしまうのはナンセンスです。この意味でもパレーの解釈は素晴らしい。
まず特筆すべきは、色彩感の見事さ。この曲の演奏のほとんどが“音の洪水”と化しているが、それは決してコントロールされたものではなく、やたらめったら金管を強奏させ、それとバランスを取るために弦の人数を多くして、単にデシベルが大きくなっているだけのものです。それに対してこの演奏では、完全にコントロールされた状態で“音の氾濫”を実現させている。それが凄い。3楽章のような全く聴くに堪えないような音楽が、そのために救われています。全般にピッチがあまり良くないことからこのオケの技量が推測されますが、そこからこれだけの音響を引き出しているのは、まさに職人芸に他なりません。さらに、テンポとデュナーミクの巧妙さ。それぞれアッチェレランドとクレッシェンドが効果的なところにこの指揮者の特徴を見てとることができますが、これは当然周到なリタルダンドとデミュニエンドがあってのこと。そして、これらは棒の技術だけでどうなるものではなく、徹底したリハーサルによってのみなしうるものなのです。
パレーのリハーサルが恐らく徹底したものであろう証拠として、非常に細かいことですが2楽章の旋律に含まれるポルタメントが挙げられます。43小節などで第1ヴァイオリンに現れるこのポルタメントの絶妙さはそれだけでも素晴らしいのですが、180小節で一度だけ第2ヴァイオリンとヴィオラが奏する場所で全く同様のポルタメントが実現されていることに、僕はパレーの“技”を見ました。
欠点は、ティンパニのピッチが悪いこと。あと、5楽章の鐘のピッチもGの音が僕には堪え難いのですが、これはこんなものなんでしょうかね?まあ、これらのことは大した問題ではありません。
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| 山下 |
この演奏は、私が持っていた幻想に対するある種ステレオタイプなイメージを払拭してくれました。掘り出し物ですね。いままで、あまり熱心に聴いていた曲ではありませんが、曲のもつ標題についても知っていましたし、それを劇的に誇大に(はったりといった方がいいかも)表現した演奏に耳慣れていました。そういった私の聴く前の予想を見事に裏切ってくれた感じです。確かに、この曲はメロディーラインだけでもっているような構成ですし、厚みのなさを露呈してしまうのを避けて誤魔化したくなる気持ちも分からなくもないのですが、あえてストレートに突き進んだところが新鮮でした。まさに、疾走しているという感じですが、その歩みを安易にゆるめなかったところに共感がもてました。第2楽章や第3楽章の後半など、そろそろ落ち着くかなと思い聴いていましたが、曲の標題に引っ張られず我が道を進んだ感しですね。
一気に聴き終えて、振り返ってみると楽章ごとの表情の変化があってもいいような気がしますが、感受性の強い芸術家の錯綜した気分といったおどろおどろしさをあえて際だ出せず、滑稽??な感じでまとめたパレーの遊び心に拍手ですね。今回は、比較的同じような感じ方のような気がしますが・・・。いかがでしょうか?
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| 野々村 |
「幻想」は真にサンフォニックな解釈でなければ値しない、というのは私も同感です。ただ、ブーレーズの新録音程度ではその言葉は使えないだろう、というだけ。
さて、ここまで絶賛が並ぶと、残された大きな論点は以下2点くらいでしょうか。
鈴木 行き方として、「幻想」の文学的な側面を際だたせた演奏というより、純粋に音楽的として鳴らしたという感じですので、「文学的」側面を強調した演奏が好きな方には向かないかも知れませんね。
浮月斎 この作品には形式・様式上、「交響曲」としてのフレームをもともと本性的に持っていないように言われますが、しかし「逆転的にであっても」交響曲としてのフレームを底においた形式美はきちんと備えている作品であるように感じます。(中略)文芸的なセンスに満ちた音の一大絵巻と見せかけるベルリオーズの奸計に乗せられた演奏はナンセンスというのが私のこの曲の見方で、「固定観念」の循環と展開、込み入った管弦楽法の差異をどれだけストレートに出せるかということが焦点であろうと考えます。はっきり言うと、スコアを膨張させる解釈は必要ないということ。
まず、この2つの意見のどちらに立つかでしょうか(もっとも鈴木さんの立場はニュートラルで、パレーの解釈を否定しているわけではないけど)。私は、「(スコアを見ながら)録音を繰り返し聴くのが普通の聴取姿勢になった今日では、*文学的*な演奏はナンセンス」という立場を取ります。逆に、20世紀前半までの時代背景では、*文学的*解釈も大いにあり得て、このパレーの録音は、時代の転換を的確に捉えたものだと感じます。
工藤 率直に言って、「幻想交響曲」という曲は一般に取り上げられるほどの名曲だとは、僕にはどうしても思えません。楽想の凡庸さ、構造の弱さ、こけおどしのオーケストレーション…、とにかくアラしか見えて(聴こえて?)こない。
次は、作品自体への評価でしょうか。私は、ブーレーズの言うように、「色彩的オーケストレーション」の出発点として、この作品はやはり歴史的な価値を持っていると思います。「こけおどし」と感じられるのは、後世にこの作品のオーケストレーションにならったこけおどし音楽が量産された結果ですから。遡及刑罰は好ましくない。
斉諧生 作曲家でもあったからでしょうか、楽譜の扱いも自由で、第1楽章108〜110小節で変拍子風に振ってみせたり、第4楽章169小節では音を端折ってたたみかけたり、無茶といえば無茶ですが、私には気持ちいい!
あとは、スコア片手に細部の解釈の議論になるわけですが、この程度の*即興性*は、あってよいものと考えています。大切なのは、「見取図」を恣意的に歪めないことだけです。
斉諧生 チェリと並べて聴いたせいもあって、オーケストラの仕上がりが少々粗い(特に弦合奏の精度が低いところがある)のは気になりますが、木管のフランス風の音色で帳消しと思っています。
工藤さんが指摘しておられるような弦楽合奏の細心のコントロールからみて、この「粗さ」は解釈の一部なのではないでしょうか。この作品における弦楽合奏の少なからぬ部分は、急速な上行/下行音型を反復する「音響効果」ですが、そういう部分は、ある程度アンサンブルがずれてクラスター的になっている方が、より*効果的*ですから。このずれが意図的なものか、それともアンサンブル能力の限界を逆用したものかは、あえて議論する必要はないと思います。
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| 工藤 |
野々村 ここまで絶賛が並ぶと、残された大きな論点は以下2点くらいでしょうか。
本当に、今回は否定的な意見というものがありませんでしたね。
野々村 私は、「(スコアを見ながら)録音を繰り返し聴くのが普通の聴取姿勢になった今日では、*文学的*な演奏はナンセンス」という立場を取ります。
ちょっとあまのじゃく的な考え方かもしれませんが、この息もつかせずたたみかけるようなパレーの解釈は、「次から次へと湧き出てくる幻想」を表現しようというものだと考えることもできはしないでしょうか?そういう立場に立てば、この演奏も十分“文学的”な演奏ということになります。こういうことを言うのは、ちょっと“文学的”という言葉に抵抗を感じたからです。以前、野々村さんがおっしゃっていた“デフォルメ系”という言葉の方がしっくり来ます。それとも、ここではこの2つの言葉を意識的に使い分けられているのでしょうか?だとしたらその違いを教えて頂けませんか?
野々村 次は、作品自体への評価でしょうか。私は、ブーレーズの言うように、「色彩的オーケストレーション」の出発点として、この作品はやはり歴史的な価値を持っていると思います。
歴史的な価値は必ずしも作品の出来には比例しませんよね。極論すれば、弦楽四重奏という形態を初めて用いたのがジェミニアーニだからといって、彼の弦楽四重奏曲が“価値”ある作品ではない。「幻想」はそれよりはずっと良い曲だとは思いますが、少なくとも“名曲”の中に入れられるほどの曲ではないと思う訳です。ただ、野々村さんのおっしゃるように「音楽史」を辿る上では、重要な意味を持っている作品だとは思います。
野々村 「こけおどし」と感じられるのは、後世にこの作品のオーケストレーション にならったこけおどし音楽が量産された結果ですから。遡及刑罰は好ましくない。
なるほど。結局、僕は「幻想」という作品を歴史的な流れの中において考えてはいなかった、ということですね。
野々村 大切なのは、「見取図」を恣意的に歪めないことだけです。
早めのテンポを取ることで、本来散慢な部分にも一本“筋”が通っていますよね。様々な楽想がこのテンポの中で、十二分に魅力を出し切っている。いわゆる“文学的”解釈(と僕が考えているもの)は、ある特定のテーマ等に固執してしまうあまり、他に沢山ある美しい・楽しい楽想を犠牲にしてしまうことが多く、そこが問題だと思います。
野々村 工藤さんが指摘しておられるような弦楽合奏の細心のコントロールからみて、この「粗さ」は解釈の一部なのではないでしょうか。
僕もそう思います。オケ能力の限界はあるでしょうが、とりあえずパレー自身が“問題にはならない”と判断してそのままにしてある、と考えるのが妥当ではないでしょうか。
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| 野々村 |
野々村 私は、「(スコアを見ながら)録音を繰り返し聴くのが普通の聴取姿勢になった今日では、*文学的*な演奏はナンセンス」という立場を取ります。
工藤 ちょっとあまのじゃく的な考え方かもしれませんが、この息もつかせずたたみかけるようなパレーの解釈は、「次から次へと湧き出てくる幻想」を表現しようというものだと考えることもできはしないでしょうか?そういう立場に立てば、この演奏も十分“文学的”な演奏ということになります。
そういうのは、「ものすごい美人が歩いてきた」と同種の、およそ*文学的*とは言えない表現ですね :-) その「幻想」の具体的内容が文章で描写できるようなたぐいのものでない限りは、「文学的解釈」とは言えないと思います。
工藤 こういうことを言うのは、ちょっと“文学的”という言葉に抵抗を感じたからです。以前のmailで野々村さんがおっしゃっていた“デフォルメ系”という言葉の方がしっくり来ます。それとも、ここではこの2つの言葉を意識的に使い分けられているのでしょうか?だとしたらその違いを教えて頂けませんか?
直前にあった言葉を使っているだけで、何も考えていないわけですが(^ ^;;)私は、*文学的*という表現の方が、この文脈では適切と感じました。というのは、以前書いた通り、グールドのトルコマーチやストコフスキーのチャイ5も*デフォルメ系*ではあるのですが、私はそのような「再構築」のレベルに達している解釈は、積極的に評価したいからです。要するに、作品に「文章で表現できるようなもの」を見出して、その文章に合わせて音楽を作り変えていくような解釈を、私は*文学的*と呼んで批判しているわけです。
野々村 私は、ブーレーズの言うように、「色彩的オーケストレーション」の出発点として、この作品はやはり歴史的な価値を持っていると思います。
工藤 歴史的な価値は必ずしも作品の出来には比例しませんよね。(中略)「幻想」はそれよりはずっと良い曲だとは思いますが、少なくとも“名曲”の中に入れられるほどの曲ではないと思う訳です。
私は、かなり積極的に評価しています。あるいは、工藤さんのおっしゃる*名曲*というのはもっと厳格な基準で、ベートーヴェンの交響曲でもその基準を満たしているのは2〜3曲、というようなものなのかな?『幻想』は、チャイコの6番なんかよりもずっといい曲だと思う。
工藤 ただ、野々村さんのおっしゃるように「音楽史」を辿る上では、重要な意味を持っている作品だとは思います。
私は、こういう時は現代曲を持って来た方が理解できるので :-)、あらゆる意味で、ペンデレツキの『広島の犠牲者に捧げる哀歌』と比較できると思います。*名曲*ではないが、ある作曲技法の出発点として重要で、*入門用*には非常に適切な作品でもある。
野々村 大切なのは、「見取図」を恣意的に歪めないことだけです。
工藤 早めのテンポを取ることで、本来散慢な部分にも一本“筋”が通っていますよね。様々な楽想がこのテンポの中で、十二分に魅力を出し切っている。いわゆる“文学的”解釈(と僕が考えているもの)は、ある特定のテーマ等に固執してしまうあまり、他に沢山ある美しい・楽しい楽想を犠牲にしてしまうことが多く、そこが問題だと思います。
私も、*文学的*解釈の問題はそこにあると思います。「音楽自体の持つ情報量は、『ストーリー』よりもはるかに多いのだから」と書いたのは、そういう意味です。
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| 浮月斎 |
野々村 ここまで絶賛が並ぶと
そうですね。珍しいですよね。でも、思うにこの演奏が*一般に*極上の演奏のひとつとして取り上げられなかった理由も感覚的にわかるんです。
工藤 率直に言って、「幻想交響曲」という曲は一般に取り上げられるほどの名曲だとは、僕にはどうしても思えません。楽想の凡庸さ、構造の弱さ、こけおどしのオーケストレーション…、とにかくアラしか見えて(聴こえて?)こない。
パレー盤の美点は裏を返せば、「幻想」とは実はイマジネーションに乏しい作品だということを見事に見せ切っていることでしょうね。異様なものはただ異様なものなんだという吹っ切れた明快さが私には素敵でした。そういう意味では、クレムペラーもそういう解決なので気に入っています。小澤盤では決してそこまで徹底していなかった。勿論、見せ切った上で如何にパレーが「幻想」を料理したかというところに妙味を感じた訳ですが、私の場合、料理のうまいまずいよりは、大したことのない素材をどう工夫して料理したかみたいなところにばかり目が行っていることを白状しておきます。
ゆえに、これを汎通的な「幻想」の名盤と位置づけるにはやはり複雑なところだろうと思います。バーンスタインやケーゲルのような、各々「幻想」の極北に位置づけられる「指揮者個人の情動を作品のイマジネーションに乗せかえる」面白さのある演奏とは違ったものですから、パレー盤というのは、ある意味でいろんな演奏を歴程した後に辿り着いて初めてその面白さが開陳するような気がします。
野々村 まず、この2つの意見のどちらに立つかでしょうか。(中略)私は、「(スコアを見ながら)録音を繰り返し聴くのが普通の聴取姿勢になった今日では、*文学的*な演奏はナンセンス」という立場を取ります。
これは私の場合も、最初に述べたとおりです。交響楽としてのユニックさを正面から或いは逆転的にでも捉えれば十分と思います。この作品に付された解題は音楽の実態に即してみると、演奏に付与する意義はないだろうと考えます。当時の作曲概念のフレームを超えていることを更に強調しているだけ。正直言うと私も工藤さん同様、この作品には辟易していまして(というよりベルリオーズ自体がすべてそう)、指揮者の情念や情感を共感しながら聴くという行為は既にできなくなっているのが事実。ただこれはあくまで最終的な謂であり、指揮者の妙な衒いさえなければ、爽快な情感が醸し出す*情念に満ちた*味わいも嫌いではありません。
野々村 逆に、20世紀前半までの時代背景では、*文学的*解釈も大いにあり得て、こパレーの録音は、時代の転換を的確に捉えたものだと感じます。
「時代の転換」がこの録音にあたるのかどうか私にはわかりませんが、少なくともパレー以前はいなかったし、以後もかなりこういう攻め方はほとんどないだろうと思います。
野々村 工藤さんが指摘しておられるような弦楽合奏の細心のコントロールからみて、この「粗さ」は解釈の一部なのではないでしょうか。
ではないだろうと思います。例えばミュンシュの求心的アンサンブルなどに出やすい瑕疵とも言えない瑕疵と判断しています。ただ音の異様さをそのまま淡々と示した演奏であることは確かでしょう。
斉諧生 この曲のルーチン的な描写はたいてい無視して明晰に進んで行く中に、鋭いスフォルツァンドや強いピツィカートを上手に使いつつ、濃厚な味わい、低弦の意味深い動き、細かい音型の煌めき等を見せ、ただごとならぬ曲であることを次々と表現していきます。
とにかく、楽想ではなく「音型」の面白さとバランスのクリアさは息を呑む見事さですね。明快なスフォルツァンドなど気持ちがいいですが、他の演奏よりデフォルメしているようにさえ聞こえますね。それから低弦の動きの明確さ。最近の録音でもこれだけクリアに聞えた試しはないように思います。
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| 山下 |
浮月斎 正直言うと私も工藤さん同様、この作品には辟易していまして(というよりベルリオーズ自体がすべてそう)、指揮者の情念や情感を共感しながら聴くという行為は既にできなくなっているのが事実。ただこれはあくまで最終的な謂であり、指揮者の妙な衒いさえなければ、爽快な情感が醸し出す*情念に満ちた*味わいも嫌いではありません。
過日、幻想についてポストしてからみなさんがアップされた内容を読んでいて、やはり*文学的*な演奏の指し示すものがつかみにくいと感じていました。単語レヴェルの情感ならまだしも、文章で表されるような標題が演奏にのらないというのはうなずけます。ナンセンスというより、「とある芸術家が...」というくだりを演奏に付加するのは難しいですね。
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