No. 7 : Wand conducts Brahms #1 - 3 (2)



斉諧生 野々村 今回も趣味を除いて非常によく一致したと言えるのではないかと。
私もそう見ています。

佐々木 ものによっては評価→浮月斎さん・斉諧生さん
野々村 3曲通じて肯定的→佐々木さん・斉諧生さん・野々村
私に関しては、どちらも当たっています(^^;。2・3番は、音楽の作り方に対して(客観的に)肯定評価する一方、(主観的・心情的には)もひとつ魅力的な要素が乏しいなあと思っているわけです。それに加えて、ヴァントとNDR響を贔屓にしているという心情的な要素も混入しているので、どちらともとれる書き振りになっているのだと思います。

野々村 むしろ、この録音への肯定度と作品自体への思い入れ度で2次元グラフにした方が、よく見えてくるのではないかと。

2次元グラフ


工藤 工藤 地味な曲がまさに“地味に”再現されています(決して否定的な意味ではありません)。
斉諧生 終結は地味ですが、けっこう派手にガンガンくる曲ではないかと思います。
僕にとっては、派手に聴こえる部分にはあまり魅力がなくて、例えば1楽章のコーダに入る前のホルンソロみたいな部分にこそ惹かれる曲なんですよね。だから、クナの演奏は素晴らしいとは思うのですが、今一つしっくりこないんです。こういうところ、好き嫌いは別にしてカラヤンはよく押えていると思います。もっとも、最近聴いていないので、聴き直したら印象が変わるかも(^^;。

鈴木 ただ、ヴァントは年取ったから天然記念物みたいな評価(我が、朝比奈氏もそうですが^ ^)になっていると思うんです。どちらかというとマニアックな指揮者で、本来は一般受けする指揮者ではないと感じます。
僕が今回のディスクから受けた印象では、「わしゃ、正しいことをしてるのじゃ」という、融通のきかなくなった爺さんといった感じでしょうか。2番で僕が言っていたフレージングに関する部分も、このような印象に通ずるものがあります。だって、確かに楽譜に書いてあることにも忠実だし、イントネーションも間違っちゃいないんだけど、結果として名優の朗読ではなく、学芸会の劇みたくなっているんですもの。

浮月斎 (第2番)木管の歌をとり過ぎるともたつき気味:これはオケの技量のせいです。もたつくというのは、特に1楽章だと木管が弦のパッセージの模倣でフレーズインしてくる際、入りを強めるのに「微妙に」テンポを落とし気味にきこえるというのが正しい書き方です。
これ、“入りを強め”ようとしてのことなのでしょうか?純粋に音の立上りが悪いだけでは?

浮月斎 2番について言えば、弦と互角に戦っていません。3楽章110-120小節で、オーボエに負けるフルートがあるかいな(^^;。工藤さんのフルートが弱いという指摘は勿論ですが、私はクラとファゴットがかなり弱いと思いました。
クラとファゴットは、音量はそこそこあるんです。でも、音色がない。だから“シンセサイザーのような”という書き方をしました(この表現の是非はおいといて(^^;)。低弦とファゴットが重なる部分でも、ほとんど音の違いが聴きとれない。上記の部分に限らず、1楽章の展開部に入った直後くらいの部分でもフルートの音が通らないことに閉口させられました。

工藤 あと、律義にフレージングをし過ぎているためか、旋律が窮屈になってしまう箇所が多いことも僕の趣味とは違います。
佐々木 これは、私には逆に新鮮に思われました。
浮月斎 いやいや、これはセルなんかの得意技ですよ。(^^; だからこういう吹かせ方をしてもうまく聞こえる木管というのは相当の実力があるという訳です。
そうですね。今回の印象だと、4番だったら最初の主題提示の時点で、弦の裏打ちをする管に失望してしまうような気もします(^^;。

浮月斎 工藤 これ、“入りを強め”ようとしてのことなのでしょうか?
指揮ではなく奏者たちが「入り」を力んでもたつきがちに聞こえてしまいます。強めというより、インしてくるタイミングでの力みというべきでしょうか。

工藤 純粋に音の立上りが悪いだけでは?
それもおおいにあるでしょうね。弦の伸びと微妙にタイミングがあわないのは、ライブだからというのもあるでしょうけど。

工藤 クラとファゴットは、音量はそこそこあるんです。でも、音色がない。だから“シンセサイザーのような”という書き方をしました(この表現の是非はおいといて(^^;)。低弦とファゴットが重なる部分でも、ほとんど音の違いが聴きとれない。上記の部分に限らず、1楽章の展開部に入った直後くらいの部分でもフルートの音が通らないことに閉口させられました。
同感です。録音のせいではないことは今回はっきりわかりました。「弱い」というのは勿論、聞こえが悪い→音色に光沢がないという意味です。特にクラがさみしい。クラとファゴットがあまりにパートパートしているので、シンセサイザーという表現も確かにわかります。

工藤 今回の印象だと、4番だったら最初の主題提示の時点で、弦の裏打ちをする管に失望してしまうような気もします(^^;
ああなるほど。そういえばそうですね。4番はテンポの取り方で印象はかなり変わるかなという期待だけだったんですが、木管のうまさという点ではよりシビアですからね。

斉諧生 第2番の聴き比べをやっていました。

  • A:ヴァント&NDR響(r.1996、今回の盤)
  • B:ヴァント&NDR響(r.1983、旧全集盤)
  • C:ヴァント&ケルン・ギュルツェニヒ管(r.1950年代末?)
    →持っていることすら忘れていた仏Musidisc盤LP。ステレオ表記だが、たぶんモノラル末期の録音。
  • D:シュミット・イッセルシュテット&NDR響(r.1967)
    →ハンブルグ・ムジークハレでのライヴ録音を集成した独ACANTAのLP5枚組全集(ヌヴーとのVn協を含む。)
やはりAとBは表現が酷似しています。ただし、FlとHrnに関しては、音色がかなり違うので別奏者と思われます(特にHrnは旧盤の方が上手)。A・Bに共通して言えるのは、木管の色彩感が乏しい点。3楽章冒頭なぞ、聴いていて仰天しました。私の「肯定度」は低下せざるを得ません。ここまで来ると、オケの技量の問題というよりも、ヴァントが意識的にやっていることではないか、と思えてきます。

浮月斎さんのおっしゃる『3楽章110-120小節で、オーボエに負けるフルートがあるかいな(^^;』も、旧盤でも全く同じですから、これはヴァントが意図的にFlを抑えて、木管の線の絡み合いを表出したがっているのだと思います。敢えて違いを探せば、旧盤の方が「勢い」を感じさせる点でしょうか。フィナーレのコーダの金管も、少しは開放的に鳴らしています。浮月斎さん御指摘の(第4楽章)51小節めと307小節めにかかるアウフタクトで音量を落とすも、旧盤では見られません。もっとも1番では新盤の方が表現意欲旺盛ですから、単に*老化現象*とも言えますまい。詰まるところ、ヴァントは2番という曲を、きわめて禁欲的に演奏しようとしているのではないでしょうか。例えば第4楽章344・345小節のTimpを強打させないのも、そうした意図からでしょう。

で、それを聴き手がどう受け止めるか、という問題になってくると思うのですが、私としては、あまり魅力的に思えない、という評価に落ち着きます。歳をとると、そういう風にやりたくなってくるのでしょうかねぇ...。Cでは、むしろ木管の色彩感を強調した、実に元気な演奏です。録音も木管はかなりオンでとっています。腰の重い歌わせ方や対位法の重視は変わりませんが。ヴァントの3種の中では、これが最も気に入りました。

Dのシュミット・イッセルシュテットは、堂々たる正攻法で、田園牧歌の中に憂愁味を含ませて、間然とするところがありません。録音的には最もハンデがあるわけですが、ベース・ラインはきっちり聞こえてきます。全体としては弦合奏中心のバランスですが、木管も埋もれずに、ちゃんと音色を効かせています。過不足ない名演で、ただただ感心しておりました。まぁ30年違いますから、メンバー的には完全に入れ替わっておりましょうけれど、このオケならばやはり「一流の上」であったろうと思われます。

山下 今回のブラームスの議論で、特に第2番が精緻ともいえるし、薄味ともいえるといった御意見が多かったように思います。そこで、違ったオケでも似たような感じなのか聴き比べていたら、はまってしまい(^_^;;1日が過ぎてしまいました。テンポの変化の仕方や、叙情的かあっさりかといったところは指揮者に負うところが大きいと思いますが、細部についてはオケの力量次第なので、仕方がないなあ、と思えてきました。

野々村 工藤 僕が今回のディスクから受けた印象では、「わしゃ、正しいことをしてるのじゃ」という、融通のきかなくなった爺さんといった感じでしょうか。(中略)確かに楽譜に書いてあることにも忠実だし、イントネーションも間違っちゃいないんだけど、結果として名優の朗読ではなく、学芸会の劇みたくなっているんですもの。
ただ、ここで考えておかないといけないのは、上記のような欠点も、本当にヴァントのせいだけなのかどうか。根底に不平等があるのだから、「純客観的」なのが、果たして批評として本当に正しい姿勢と言えるのかどうか。例えば今回の録音のプラス面を積極的にとらえて、批評家たちがプッシュしていくことで北ドイツ放響のステイタスが高まり、これまでなら何も考えずにBPOを目指していたプレイヤー達が北ドイツ放響にも来るようになれば、事態は改善されるのではないか。現在のような過密日程では、仮にヴァントが振ったとしても、瑕こそ少ないものの、より平板な音楽にしかならなかったのではないか。私が「批評」をする時は、このあたりが気になります。

工藤 野々村 ただ、ここで考えておかないといけないのは、上記のような欠点も、本当にヴァントのせいだけなのかどうか。
ヴァントと北ドイツ放響がもしある程度まとまった期間に渡って共同作業をしているのであれば、鳴っている音に対しては(金銭的な問題ももちろんあるでしょうが)かなりの部分がヴァントの責任ということになるでしょう。

野々村 根底に不平等があるのだから、「純客観的」なのが、果たして批評として本当に正しい姿勢と言えるのかどうか。
今回の録音に当たって例えば、ベルリン・フィルを起用しようと思えば、それは可能だったのでしょうか?もし、その辺の選択の余地があって、なお北ドイツ放響と録音を行なったのだとすれば、それは“不平等”と言えるのでしょうか?ラトルとバーミンガム市響なんかだと、オケの技量が足りないと批判される一方で、ちゃんとその音楽作りが評価されてもいますよね。今回のヴァントの場合も同様で、ただオケの技術のアラの方がヴァントの音楽作りよりも目立ってしまう部分があって、それが僕にとっては大きなマイナスポイントになっているんですよね。

野々村 工藤 もしある程度まとまった期間に渡って共同作業をしているのであれば、鳴っている音に対しては(金銭的な問題ももちろんあるでしょうが)かなりの部分がヴァントの責任ということになるでしょう。
もちろん、「ヴァントに責任はない」というつもりは毛頭ありません。

工藤 今回の録音に当たって例えば、ベルリン・フィルを起用しようと思えば、それは可能だったのでしょうか?もし、その辺の選択の余地があって、なお北ドイツ放響と録音を行なったのだとすれば、それは“不平等”と言えるのでしょうか?
「選択しようと思えば」の内容も問題で、NDRとの録音の実績でようやく顔見せ程度の客演は可能になったものの、「解釈を徹底させての録音」なんてのは、まだまだ難しいのではないでしょうか。それがようやくできるようになったのが、現在のアーノンクールなのかなあ?

工藤 ラトルとバーミンガム市響なんかだと、オケの技量が足りないと批判される一方で、ちゃんとその音楽作りが評価されてもいますよね。今回のヴァントの場合も同様で、ただオケの技術のアラの方がヴァントの音楽作りよりも目立ってしまう部分があって、それが僕にとっては大きなマイナスポイントになっているんですよね。
ラトルは比較的新しいレパートリーを多く手掛けているのに対して、ヴァントはよりによって過去に幾多の名盤があるような曲ばかり振っているので、そういう評価になってしまうのでは。少なくともブルックナーは、「融通のきかなくなった爺さん」で切り捨ててしまえるような録音ではなかったと思うし。

これまでの議論を見ても、ブラームスのベターな録音として挙がっているものは大半が古き良き時代の録音で、そうしてみるとますますヴァントやNDRを批判してもしかたないような気がするのです。

斉諧生 とりあえず、ヴァントと北ドイツ放送響について。ヴァントはケルンが長かったです。ステレオ初期にはケルン・ギュルツェニヒ管(歌劇場のオケの録音時の名称)でモーツァルト、ベートーヴェン、ブラームスをひととおり入れていたんじゃなかったかな(仏ムジディスクか米ノンサッチのLPを見かけます)。この頃の録音でCDになっているのが
  • ハイドン:交響曲第82・103番
  • バルトーク:弦チェレ・ディヴェルティメント(以上EMI)
  • ハイドン:天地創造(ACCORD。これは持ってません)
日本のレコード市場に登場したのは、1982年に、ケルン放送響を振ったブルックナー全集がいきなり廉価盤でテイチク(当時ドイツ・ハルモニア・ムンディの出口だった)から発売されたのを*宇野先生*が褒めてからでしょう。バックハウスのシューマンの伴奏は古くからありましたが。

それと前後して、テンシュテットと喧嘩別れした北ドイツ放送響の音楽監督になりました(在任1981〜1992年)。1990年にはこのコンビで来日しています。大阪ではブルックナーの第8を演奏したので聴きに行きました。

LP末期に北ドイツ放送響とのブラームス全集とケルン放送響とのシューベルト全集が出ました。CD期に入って間もなく、北ドイツ放送響とのベートーヴェン全集とブルックナー再録音シリーズが始まりました。前者は完結後に3・5・6番をライヴで再録音。後者は1・2番は未だに録音していないのに、8・9番は2回づつ録音してます(あと5番をBPOで)。1回目が教会でのコンサートのライヴ録音で残響が多すぎるのが気に入らず、ホールでのライヴ録音で入れ直したとか。

工藤 僕が今回のディスクから受けた印象では、「わしゃ、正しいことをしてるのじゃ」という、融通のきかなくなった爺さんといった感じでしょうか。
とにかく頑固爺ィみたいですよ。N響を振りに来たときに「レオノーレ3番」のリハーサルに2時間要求して(事務局サイドは「N響はこの曲を良く知ってますから30分で...」と申し出たのを一蹴)、最初の和音に15分だか30分だかを掛けたとか、いう話です。まぁ初対面のオケに一発*かました*のかもしれませんが、リハーサルには拘るそうで、BPOを振らないのも希望どおりの時間が取れないからだという話を読んだことがあります。

鈴木 ただ、ヴァントは年取ったから天然記念物みたいな評価(我が、朝比奈氏もそうですが^ ^)になっていると思うんです。どちらかというとマニアックな指揮者で、本来は一般受けする指揮者ではないと感じます。
ナチス・ドイツのユダヤ人政策や第2次大戦の影響で、ドイツ・オーストリア系指揮者の層が薄くなった上に、帝王カラヤンがライバルになりそうな連中を潰しまくったわけですから...。カラヤン健在であれば、ヨッフムの晩年やヴァント、サヴァリッシュの現在もなかったでしょうし。

北ドイツ放送響は御贔屓のシュミット・イッセルシュテットの創設したオーケストラですので、やっぱり贔屓にしております。創設時には旧・東側から逃げてきた連中をシュミット・イッセルシュテットが集めて回って、ベルリン・フィルの出身者が大勢いたとかいう話でした。シュミット・イッセルシュテットとの録音は多くないのですが、ライヴのブラームス全集が出てました。これも聴き直しておきたいものです。

1973年にシュミット・イッセルシュテットが急逝してからモーシェ・アツモンなんぞを担いでいたのですが、1979年にクラウス・テンシュテットを招聘(ちょうどカラヤンの後継グループとして名前が出た頃)。このころのライヴ録音が最近CDで出回っているようですね。私も北ドイツ放送局製作の私家盤LPで「エロイカ」を持ってますが、荒れ狂い放題の熱演です。ところがすぐ喧嘩別れしてしまってテンシュテットはLPO方面へ行ってしまい、その後任にヴァントをケルンから呼んできて、コマーシャル的にも成功したという経過でした。今はジョン・エリオット・ガーディナーが音楽監督在任中ではなかったでしょうか。

浮月斎 皆さんの意見も聞きながら、自分におけるヴァントの総括。ヴァントについて。かなりいい意味で厳格な楽士気質を感じました。70歳代後半以降のベームに比べると生気の放ち方は段違いにいいですが、よくも悪くも音楽を自分なりの想念に咀嚼して吐き出すということはやら(れ)ない人で、評価の分かれ目はそこにあるのかもしれません。

それからNDR。私は木管については否定的な書き方ですが、NDRについては以前から割と好きなオケです。特に弦の音の質感(特に低弦)。最近のBPOより好ましい。ただ、部分的な力量不足は否めないという程度ですので、一応お断りしておきます。

第2・3番については聴き直しても評価はほぼ同じ。ただ、もたつき気味という私の感触が何ゆえだったか、スコアを見直しながらわかったのは、ヴァントが音価をたっぷり長めにとっていることに改めて気がつきました。それもかなり厳密に。第1番の4楽章などもそうです。第1番は3回通して聴いたものの、何度聴いても気に入りました。で、件の185小節ですが、コンブリオ回帰といってもかなり音響の厚みを増した再示であることを逆に思い出させられた次第で、むしろ聴き直してみて却って見事だと思いました。もうすこし微細にアチェレをかけてくれるとよかったですが。それにしても4楽章での転調に伴う和音バランスの推移の明快なところが見事!

斉諧生 A・Bに共通して言えるのは、木管の色彩感が乏しい点。3楽章冒頭なぞ、聴いていて仰天しました。(中略)ここまで来ると、オケの技量の問題というよりも、ヴァントが意識的にやっていることではないか、と思えてきます。
セル盤・トスカニーニ盤・ライナー盤を聴き直して比較させていただければ、木管の色彩感に乏しい前者2盤と比べても、このヴァントはセル以上に木管のソロ・ソリを厳格に吹かせ、トスカニーニ以上に表現を締めています。これは斉諧生さんご指摘のとおりでしょう。ただ、NDRの技量自体にも弱みあることはこれまで述べたとおりです。

斉諧生 詰まるところ、ヴァントは2番という曲を、きわめて禁欲的に演奏しようとしているのではないでしょうか。
私の耳には、第1番とは音楽の作りを明確に変えている感があります。第2番の方がもう少しふくよかな音の作りでしょうか。でも確かに表現は窮めて禁欲的ですね。

佐々木 ヴァントの2番、3番を聴き返しての感想ですが、「管の音色に魅力がない」が「非常に丁寧なフレージングとリズム感はなかなか面白い」と、最初の感想とそう変わりない所に落ち着きそうです。1番ほどの魅力には欠けますが、たまに取り出して聴いてみようと思うくらいの魅力は十分あります。

斉諧生 ここまで来ると、オケの技量の問題というよりも、ヴァントが意識的にやっていることではないか、と思えてきます。
そうなんですか。やっぱり頑固親父なんでしょうねぇ。B〜Dは聴いてませんが、Aは奏者が伸び伸びと弾いて(吹いて)いる感じが全然ありませんもの。

斉諧生 Dのシュミット・イッセルシュテットは、堂々たる正攻法で、田園牧歌の中に憂愁味を含ませて、間然とするところがありません。
私も(多分)これと同じ物を昨日聴きました(CD:Arlecchino ARL130)。2番が1967年、3番が1969年の録音ですが同じオケとは思えない程、管の音色が豊かなのに驚きました。音楽の流れも開放的ですし。これを聴きながら、やはりヴァントが締めている部分が多いのかなぁと思っていた次第です。ヴァントについてはそろそろ議論も煮詰まってきましたので終わりにしたいと思います。





Back to previous discussion
Back to okuzashiki top
Back to index.htm