No. 6 : Hamelin plays Roslavets (2)



浮月斎
野々村 「スクリャービンの亜流」では片付けられない、独自の生命を持った作品ではあると思いますね。
私は「亜流」とは言っていません。聴き始めにエピゴーネンだと思ったけれど、と述べているに過ぎない訳です。どちらにしても、私自身はあの作品群そのものを高く買っていないのですが、退けている理由は自分の感覚にあわないということを言っているんですけれど。

鈴木 ロスラヴェッツ、あまり合わないみたいですね(^^;。この軟体動物のような響きは、かなり好き嫌いが分かれるような気がします。生理的なもんかな?
生理的なもんみたいですね。それはロスラヴェッツそのものが面白くないというよりも、
工藤さんの言う『ただ今回の場合、アムランの表現に“キラリ”と光るものや、“ドキッ”とさせるものが不足していることも曲の評価に影響しているかもしれませんね』というアムランの話を主に前回言っている訳ですが、このアルバムが自分にはつまらないのは、アムランのせい「だけ」なのだろうか?という思いもある訳ですが。スクリャービンでは第1番とか第3番あたりの方に曲の新たな魅力を引き出していたアムランが、後期の作品はそれほど強烈なインパクトを与えていないことと今回のロスラヴェッツでとの相関を述べたつもりなんですが...。

野々村 浮月斎 このディスクから聴く分には、ロスラヴェッツの新古典への変節というのが全然よく理解できないですね。
ピアノソナタ5番はそちらの傾向に属する作品だと思いますが、1曲だけではわかりにくいし、またアムランの解釈は、そういう側面を(意図的に)抑えているのでは。

浮月斎 特にそれが10年代の作品で面白く聴こえなかった。私には音楽的官能を微塵も感じえません。
これは、ロスラヴェッツの作品に限定したコメントですか?それとも無調のピアノ作品全般に関するコメントですか?

浮月斎 ロスラヴェッツについては、聴きっぱなっからこりゃ完全にスクリャービンのエピゴーネンだと耳が行ってしまった感があります。しかし聴いてみて、スクリャービンの持っていたある種の誇大妄想的・形而上学的思念と感性はきれいに除かれて、意味づけを持たない音群の層的移動という雰囲気が10年代の作品には強く、ピアニスティックな位相とはやや違う感覚を覚えました。
この文章は、「スクリャービンの魅力でもある*濁った*部分はきれいに除かれて」、「ピアニスティックな位相とはやや違う」、単なるエピゴーネンよりもさらにつまらない音楽になっている、という風に私は読みました。

浮月斎 これだとこの時期のシマノフスキの方が遥かに好ましい。
そりゃ、シマノフスキの方がずっと面白いですよ。でも、少なくとも私は、ヒンデミットよりはロスラヴェッツやルーリエの方が好きですね。

浮月斎 いつものアムランらしさが聴けたのは5つのプレリュードと第5ソナタあたりぐらい。
要するに、調性的な曲でないとダメってこと?

浮月斎 私はアムラン・ファンではありますが、彼のレペルトワールもこういうマニアックなものばかりに止住しないで、積極的にまだまだヴィルチュオーゾ・ピアノのユニックな域を果敢に攻めてもらいたいなと思うのですが、如何なものでしょう?
でも、「リスト全集」や「アルカン全集」みたいな企画をやる気がなく、かつ無調音楽は苦手だとしたら、こういう路線しかないのかもしれません。なんかもったいないけど。

浮月斎 私は「亜流」とは言っていません。聴き始めにエピゴーネンだと思ったけれど、と述べているに過ぎない訳です。
しかし、少し前で述べたように、「エピゴーネンよりはまし」という意味にも読めませんでした。

鈴木 この軟体動物のような響きは、かなり好き嫌いが分かれるような気がします。生理的なもんかな?
浮月斎 生理的なもんみたいですね。
そこで、無調ピアノ音楽全般に対する感覚なのかどうかに興味があるわけです。もちろん、「無調が嫌い」なのはけしからん、なんて言うつもりは毛頭ありません :-)

工藤 ただ今回の場合、アムランの表現に“キラリ”と光るものや、“ドキッ”とさせるものが不足していることも曲の評価に影響しているかもしれませんね。
浮月斎 というアムランの話を主に前回言っている訳ですが。
ええっ、演奏論が主だったのですか!!そういう風には読めなかった。

浮月斎 このアルバムが自分にはつまらないのは、アムランのせい「だけ」なのだろうか?という思いもある訳ですが。
少なくとも、私にとって*イマイチ*なのは、両方の問題です。現代音楽の批評では、演奏の問題も曲のせいにされがちなので、やや演奏の問題を強調した書き方になりましたが。

浮月斎 スクリャービンでは第1番とか第3番あたりの方に曲の新たな魅力を引き出していたアムランが、後期の作品はそれほど強烈なインパクトを与えていないことと今回のロスラヴェッツでとの相関を指摘したつもりなんですが。
その点はよくわかりました。でも、だとすると、アムランというピアニストにはあまり豊饒な未来は開けていないのかもしれない。曲芸的な編曲で鬼面人を驚かせ続けるくらいしかないのかも....。

浮月斎 野々村 ええっ、演奏論が主だったのですか!!そういう風には読めなかった。
感覚的な作品感を演奏感に煮混ぜてしまっています。どちらかというと、ロスラヴェッツというよりアムランしか聴いていない状態で曲まで語った感じです。理由は以下に関係するのですが、

野々村 そこで、無調ピアノ音楽全般に対する感覚なのかどうかに興味があるわけです。もちろん、「無調が嫌い」なのはけしからん、なんて言うつもりは毛頭ありません :-)
(笑)。決して嫌いだということはないんですけれどね。この作品たちにピンとこなかったのは確かです。この演奏だからかもしれないけれど。どうも感想がうまくまとまっていないのは、野々村さんの言うように、アムランに問題があるのはわかっているけれど、無意識にそうではなさそうというアムラン責任回避感が働いて、ロスラヴェッツがつまらんのでは?と強弁しているようなところが自分にはありますねぇ。こりゃ問題だな(^^;。

野々村 しかし、上の方で書いたように、「エピゴーネンよりはまし」という意味にも読めませんでした。
まぁ、気持ちの上で「スクリャービン一派かな」と思った程度に考えて下さい。あまり意味深くありません。

浮月斎 また、このディスクから聴く分には、ロスラヴェッツの新古典への変節というのが全然よく理解できないですね。
野々村 ピアノソナタ5番はそちらの傾向に属する作品だと思いますが、1曲だけではわかりにくいし、またアムランの解釈は、そういう側面を(意図的に)抑えているのでは。
それはなるほどと思いました。私が聴いた限りでは、意図的に抑えたのか、5番ソナタなどは彼があれ以上の妙味を出しきれなかったのかそこら辺を悩んでいますが。スクリャービンで言うと6番あたりと受けた印象は同じです。

浮月斎 特にそれが10年代の作品で面白く聴こえなかった。私には音楽的官能を微塵も感じえません。
野々村 これは、ロスラヴェッツの作品に限定したコメントですか?それとも無調のピアノ作品全般に関するコメントですか?
これは上述のとおり、変な言い方ですが「アムランによるロスラヴェッツ」という意味になります。

浮月斎 ロスラヴェッツについては、聴きっぱなっからこりゃ完全にスクリャービンのエピゴーネンだと耳が行ってしまった感があります。(中略)ピアニスティックな位相とはやや違う感覚を覚えました。
野々村 この文章は、「スクリャービンの魅力でもある*濁った*部分はきれいに除かれて」、「ピアニスティックな位相とはやや違う」、単なるエピゴーネンよりもさらにつまらない音楽になっている、という風に私は読みました。
普通に読めばそう解釈しますよね。申し訳ないのですが、ここでは「アムランによる」という限定をつけて自分では書いているのです。だから演奏論と作品論とがごったになっている訳ですが。と言っても、アムランのスクリャービン自体も「ある種の誇大妄想的・形而上学的思念と感性」とはやや離れた感覚である訳で、スクリャービンへの逆照射にもなる演奏だったと考えています。ロスラヴェッツからはそういう逆照射を聴ける要素をここでは捉えられていません。

浮月斎 これだとこの時期のシマノフスキの方が遥かに好ましい。
野々村 そりゃ、シマノフスキの方がずっと面白いですよ。でも、少なくとも私は、ヒンデミットよりはロスラヴェッツやルーリエの方が好きですね。
私ももうちょっとここら辺を聴いてみたい誘惑はあるんですけれどね。

浮月斎 いつものアムランらしさが聴けたのは5つのプレリュードと第5ソナタあたりぐらい。
野々村 要するに、調性的な曲でないとダメってこと?
アムランがということですか?アムランがということだと私の感想としてはそう言ってもいいかも知れない。

野々村 でも、「リスト全集」や「アルカン全集」みたいな企画をやる気がなく、かつ無調音楽は苦手だとしたら、こういう路線しかないのかもしれません。なんかもったいないけど。
難しいところですね。本当はアルカンをもっとやってもらいたいのですが、ヴィルチュオーゾ・ピアノといっても音楽史の落ち穂拾いでも仕方がないし...。彼自身、この路線でずっといけるとは思っていないのではないと私は思っています。最近のリストを聴き、このロスラヴェッツを聴く限りでは。

野々村 いやいや、私の知る限りでは、ロシアアヴァンギャルドの音楽は極めて*健康的*ですよ。むしろ、健康的すぎるために評価が低いのではないか、と感じるくらいです。「変わっている」ことと「妖しい」ことは全然違います。
そういうもんですか。ということは、アムランの音のカラレーションも作品とマッチしていると言えるのですか?

野々村 でも、だとすると、アムランというピアニストにはあまり豊饒な未来は開けていないのかもしれない。曲芸的な編曲で鬼面人を驚かせ続けるくらいしかないのかも...
結局はそこなんですよ。複雑な心持ちなんですが、私は今回のロスラヴェッツでこういう優秀な曲芸ピアニストが面白いと思いつづけてきただけなのか、この人の化け方に期待して聴いているのか、わからなくなった感じ。と言っても「鬼面人を驚かせ続ける」ことを私がまだ期待しているのは事実で、その方が今はいいじゃないというところでしょうか。化け方まで期待できないわけですから。

何だかんだいっても、工藤さん曰く『とはいえ、あまり聴く機会のない曲を、これだけ高水準のテクニックで聴かせてくれたのだから、僕としては十分に満足しています』という意見には近いんですけれどね。そうは読めないとおっしゃるでしょうが(^^;。アムランが好きだから、もっとやってもらいたいところに戻ってほしくてあーだこーだと文句も言いたくなるというところでしょうか。

野々村 野々村 ええっ、演奏論が主だったのですか!!そういう風には読めなかった。
浮月斎 感覚的な作品感を演奏感に煮混ぜてしまっています。どちらかというと、ロスラヴェッツというよりアムランしか聴いていない状態で曲まで語った感じです。
了解しました。私も、ポリーニやアファナシエフの録音を追う過程で似たような状況に遭遇しましたが (^ ^) 彼らの選曲は今回のような弁解の余地のないものだったので、事実を受け入れるほかありませんでした。

浮月斎 どうも感想がうまくまとまっていないのは、野々村さんの言うようにアムランに問題があるのはわかっているけれど、無意識にそうではなさそうというアムラン責任回避感が働いて、ロスラヴェッツがつまらんのでは?と強弁しているようなところが自分にはありますねぇ。
私の場合、最初に聴いたのがNEW WORLDの『コンコード・ソナタ』(数回聴いただけで売り払った)、次に聴いたのがMusic & Artsの『アルカン:協奏曲他』(資料として保存してはいるが、殆んど聴いていない)だったので、「指はよく回るがただそれだけの、全然センスのないピアニスト」という先入観が強く植え付けられていて、今回も「やっぱりね」だったんですよね...。

浮月斎 また、このディスクから聴く分には、ロスラヴェッツの新古典への変節というのが全然よく理解できないですね。
野々村 ピアノソナタ5番はそちらの傾向に属する作品だと思いますが、1曲だけではわかりにくいし、またアムランの解釈は、そういう側面を(意図的に)抑えているのでは。
浮月斎 それはなるほどと思いました。私が聴いた限りでは、意図的に抑えたのか、5番ソナタなどは彼があれ以上の妙味を出しきれなかったのかそこら辺を悩んでいますが。
私もよくわからなかったので、カッコ付きにしたわけです。新古典時代にももっとピアノ曲はあるはずなのに、5番のソナタしか選んでいないのは、新古典時代の作品はあまり好きでないためで、*しかたなく入れた*5番もああいう解釈になったのではないか?という風に想像していますが。

浮月斎 特にそれが10年代の作品で面白く聴こえなかった。私には音楽的官能を微塵も感じえません。
野々村 ロスラヴェッツの作品に限定したコメントですか?
浮月斎 これは上述のとおり、変な言い方ですが「アムランによるロスラヴェッツ」という意味になりますか。
10年代の作品(調性的な最初の数曲を除く)の方が私には面白かったので、無調のピアノ曲全般が嫌いなのかな?と思ってしまったのでした。

浮月斎 アムランのスクリャービン自体も「ある種の誇大妄想的・形而上学的思念と感性」とはやや離れた感覚である訳で、スクリャービンへの逆照射にもなる演奏だったと考えています。ロスラヴェッツからはそういう逆照射を聴ける要素をここでは捉えられていません。
それは、スクリャービン作品の方が明確なコンセプトを持っているからだろうと、私は考えているわけです。

浮月斎  いつものアムランらしさが聴けたのは5つのプレリュードと第5ソナタあたりぐらい。
野々村 要するに、調性的な曲でないとダメってこと?
浮月斎 アムランがということですか?
そういうことです。

浮月斎 アムランがということだと私の感想としてはそう言ってもいいかも知れない。
ところが、私の感想は全く逆だったので、「クセナキスやシュトックハウゼン....」という最初のポストになったわけです。

浮月斎 ヴィルチュオーゾ・ピアノといっても音楽史の落ち穂拾いでも仕方がないし...。彼自身、この路線でずっといけるとは思っていないのではないと私は思っています。最近のリストを聴き、このロスラヴェッツを聴く限りでは。
私も、今回の選曲を見てそう感じました。しかし、それだったらリゲティのエチュードやシャリーノのソナタにすればいいのに。彼の曲芸的な美質を失うことなく、望み通り芸術にも奉仕できるのに。リゲティのエチュードはかなり録音が出ていますが、SONYのエマール盤があれば十分。シャリーノのソナタも伊Dynamicからダメリーニの録音が出ていますが、こちらはかなり入手困難だと思われます。

野々村 いやいや、私の知る限りでは、ロシアアヴァンギャルドの音楽は極めて*健康的*ですよ。むしろ、健康的すぎるために評価が低いのではないか、と感じるくらいです。
浮月斎 そういうもんですか。ということは、アムランの音のカラレーションも作品とマッチしているといえるのですか?
基本的にはそう感じました。「どれも同じ」なのは問題だけど。

浮月斎 結局はそこなんですよ。複雑な心持ちなんですが、私は今回のロスラヴェッツでこういう優秀な曲芸ピアニストが面白いと思いつづけてきただけなのか、この人の化け方に期待して聴いているのか、わからなくなった感じ。
というわけで、私の期待は、「テクニックが落ちないうちに現代音楽の代表的レパートリーを録音しまくってほしい」ということなんです。たとえエマールよりも譜読みは甘くても、エルフェや高橋悠治の一見それらしいメチャクチャが、クセナキスの代表的な録音としてまかり通っているような現状は変えてくれるだろうと。

浮月斎 と言っても「鬼面人を驚かせ続ける」ことを私がまだ期待しているのは事実で、その方が今はいいじゃないというところでしょうか。化け方まで期待できないわけですから。
私もそこは同意見です。ただ、リスト全集やアルカン全集がいやなら、落ち穂拾いやゴドウスキー編曲版に走るよりは、現代弾きとして歴史に名を残してほしいなあと。じゃあ、ロスラヴェッツは正しい選択かというと、やっぱりああいう作品では彼の良さは出てこない。フェルドマンや武満を弾いたら、さらに悲惨なことになるんだろうけど。

浮月斎 いろいろ勉強になりますね。実はこのCDをまた聴いたんですが、何度聴いてもつかめない部分があったというのが正直な印象でした。

野々村 私の場合、最初に聴いたのがNEW WORLDの『コンコード・ソナタ』(数回聴いただけで売り払った)、次に聴いたのがMusic & Artsの『アルカン:協奏曲他』(資料として保存してはいるが、殆んど聴いていない)だったので、「指はよく回るがただそれだけの、全然センスのないピアニスト」という先入観が強く植え付けられていて、今回も「やっぱりね」だったんですよね...
なるほど。アムランの印象って言うのは、野々村さんが言う「指はよく回るがただそれだけの、全然センスのないピアニスト」と見るか、「胸をすくようなスーパー・ヴィルチュオーゾ野郎」と見るか、「ホロヴィッツやグールド以来の大天才」と見るか。他にもあるかもしれない。いろいろ見方は違うみたいですが、私は真ん中。技術的完璧さが時として起こす爆風みたいなものが、興奮に値すると思う訳です。私は割とそういうプレーヤーが単純に好きなんですよ(^^;。しかし、それ以上のものがあるかと聞かれれば、あまりないなと思うのもまた事実。だから、実際アムランで聴き返したことがあるのはスクリャービン(これもあくまで比較のため)とウィグモア・ホール・ライブ程度なんですよね。アンビバレンツなんですよ、よく考えると。

野々村 新古典時代にももっとピアノ曲はあるはずなのに、5番のソナタしか選んでいないのは、新古典時代の作品はあまり好きでないためで、*しかたなく入れた*5番もあ いう解釈になったのではないか?という風に想像していますが。
それは私も共感できるところです。アムランはこのロスラヴェッツの新古典時代の作品は単にいつもどおりの流儀で弾いているだけでは?という風にも感じているのです。だから無調時代の作品の方に実はリキをいれているのは感じました。しかしそれでも無調ものに得る*官能「のようなもの」*を珍しく私は何も感じなかった訳で、それが作品のせいなのかアムランのせいかどうも判じがたかったというのが見えてきました。

浮月斎 これは上述のとおり、変な言い方ですが「アムランによるロスラヴェッツ」という意味になりますか。
野々村 10年代の作品(調性的な最初の数曲を除く)の方が私には面白かったので、無調のピアノ曲全般が嫌いなのかな?と思ってしまったのでした。
という訳ではありません。ここで言いたかったのは、本当はアムラン自体なのかもしれないと思えてきました。とはいえ概して面白さが飲み込めないですが。野々村さんの「私には面白かった」ということは、作品の話ですか?アムランのピアノ?それとも両方ですか?

浮月斎 アムランのスクリャービン自体も「ある種の誇大妄想的・形而上学的思念と感性」とはやや離れた感覚である訳で、スクリャービンへの逆照射にもなる演奏だったと考えています。ロスラヴェッツからはそういう逆照射を聴ける要素をここでは捉えられていません。
野々村 それは、スクリャービン作品の方が明確なコンセプトを持っているからだろうと、私は考えているわけです。
スクリャービンは、赤裸にしても残る要素はあると思えますね。ただ、そういう意匠を取っ払ってもなお面白いかというと、実はあまり面白くない。オケ作品はまさにそういう骨格みたいなものすら殆どないと思いますけれど。

野々村 要するに、調性的な曲でないとダメってこと?
浮月斎 アムランがということですか?
野々村 そういうことです。
浮月斎 アムランがということだと私の感想としてはそう言ってもいいかも知れない。
野々村 ところが、私の感想は全く逆だったので、「クセナキスやシュトックハウゼン....」という最初のポストになったわけです。
私はそういう風に聴けなかったんですよ。クセナキスやシュトックハウゼン...という意味はそういうことですか...。アムランがアムランとしてのパティキュラーなレーゾン・デートルを真に保てるという意味においては、私がつかんでいるアムランの特質・美質というのは、やっぱり調性作品なんですよね。どうも彼自身はれっきとしたコンテンポラリィ弾きみたいなレッテルは貼られたくない一面があるようにも思えます。しかし、逆にそういう方面に彼が踏み込むのなら、私はリストやゴドフスキーあたりよりはずっとスリリングだと思います。結果がというより、姿勢がという点ですが。ここらが皆さんのご意見を特に拝聴したい点なのですが、どうでしょうか。といってもクセナキスやシュトックハウゼンのピアノ曲はほとんど聴いたことはないのですが。

浮月斎 ということは、アムランの音のカラレーションも作品とマッチしているといえるのですか?
野々村 基本的にはそう感じました。
その辺の「生理的受容性」が今回、私が大きく違うところかな。

野々村 私の期待は、「テクニックが落ちないうちに現代音楽の代表的レパートリーを録音しまくってほしい」ということなんです。
期待できるかどうか私には判じ得ませんけれど、面白そうな気配は確かにあるんですけれどね。

野々村 じゃあ、ロスラヴェッツは正しい選択かというと、やっぱりああいう作品では彼の良さは出てこない。フェルドマンや武満を弾いたら、さらに悲惨なことになるんだろうけど。
そうですね。フェルドマンは何とも言えないけれど、武満はそう思います。武満のピアノ作品だと昔、ウッドワードだったかな、頑強な音のイメージだったけれど結構楽しめたような気がするんですが...。

野々村 浮月斎 アムランの印象って言うのは(中略)いろいろ見方は違うみたいですが。
私の場合は、出会い方が悪かったのだと思います。1枚目で「構造把握能力が弱い(特に横の線が)」と感じ、2枚目で「テクニック至上主義で趣味が良くない」と感じてしまった。最初がスクリャービンだったら、かなり印象が変わったかも。

浮月斎 技術的完璧さが時として起こす爆風みたいなものが、興奮に値すると思う訳です。私は割とそういうプレーヤーが単純に好きなんですよ(^^;。
私も、『ホロヴィッツ編・展覧会の絵』なんかは好きですよ。ただ、まず曲がある程度面白くないと、いくらテクニックを披露されても楽しめないのです。せめて、ラフマニノフとか。

浮月斎 だから無調時代の作品の方に実はリキをいれているのは感じました。しかしそれでも無調ものに得る*官能「のようなもの」*を珍しく私は何も感じなかった訳で、それが作品のせいなのかアムランのせいかどうも判じがたかったというのが見えてきました。
これは、おそらく作品のせいだと思います。*理念優先*の、システムを導入して無理矢理無調っぽくした音楽と見ました。

浮月斎 野々村さんの「私には面白かった」ということは、作品の話ですか?アムランのピアノ?それとも両方ですか?
まずは作品。メシアンの『音価と強度のモード』みたいな、「システムによる無理矢理な無調」が、私はけっこう好きなんです。そして、アムランの深く考えないスタイルも、結果的に音楽の流れを濁らせないというメリットがある。ただ、ここでの「面白かった」は、あくまで「20年代の作品よりは」であって、決して絶対比較ではありません。

野々村 それは、スクリャービン作品の方が明確なコンセプト持っているからだろうと、私は考えているわけです。
浮月斎 スクリャービンは、赤裸にしても残る要素はあると思えますね。ただ、そういう意匠を取っ払ってもなお面白いかというと、実はあまり面白くない。
上記のコメントは、ピアノ作品限定です。

浮月斎 オケ作品はまさにそういう骨格みたいなものすら殆どないと思いますけれど。
こちらは、単なる精神病の症例報告 :-p

野々村 ところが、私の感想は全く逆だったので、「クセナキスやシュトックハウゼン....」という最初のポストになったわけです。
浮月斎 これもなるほど。私はそういう風に聴けなかったんですよ。クセナキスやシュトックハウゼン...という意味はそういうことですか...
もちろん、「アムランは無調音楽の方が向いている」という意味ではありません。あくまでこの録音をもとにした話です。

浮月斎 アムランがアムランとしてのパティキュラーなレーゾン・デートルを真に保てるという意味においては、私がつかんでいるアムランの特質・美質というのは、やっぱり調性作品なんですよね。
「19世紀的な型にはまった調性」という意味ならば、その通りだと思います。しかし、『コンコード・ソナタ』みたいな、メロディを譜読みを通じて引き出さなければいけないような曲になると途端に怪しくなってくる。それよりは、淡々と無調を弾いた方がまだまし。

浮月斎 しかし、逆にそういう方面に彼が踏み込むのなら、私はリストやゴドフスキーあたりよりはずっとスリリングだと思います。結果がというより、姿勢がという点ですが。
で、「非構築的な作品」なら、結果もいけると思うわけです。

浮月斎 といってもクセナキスやシュトックハウゼンのピアノ曲はあまり(いやほとんど)聴いたことはないのですが。
クセナキスのピアノ作品は、現在CD化されている録音は高橋アキが弾いたもの以外はすべてインチキ。シュトックハウゼン作品も、素晴らしいと言える演奏はhat hutのチュードアの歴史的録音だけ。まあ良心的なのがSONYのコンタルスキー。WERGOのヘンクは学究的だけど退屈。koch schwannのヴァンバッハは論外。

野々村 私の知る限りでは、ロシアアヴァンギャルドの音楽は極めて*健康的*ですよ。
浮月斎 そういうもんですか。ということは、アムランの音のカラレーションも作品とマッチしているといえるのですか?
野々村 基本的にはそう感じました。
浮月斎 その辺の「生理的受容性」が今回、私が大きく違うところかな。
そのようですね。このあたりからは、趣味の問題でしょう。

野々村 私の期待は、「テクニックが落ちないうちに現代音楽の代表的レパートリーを録音しまくってほしい」ということなんです。
浮月斎 期待できるかどうか私には判じ得ませんけれど、面白そうな気配は確かにあるんですけれどね。
チュードアのシュトックハウゼン、ポリーニのブーレーズといった域までは到達しないとは思うけど、ともかく「譜面の正確な再現」を音資料として残すことには、価値があります。現在の現代音楽録音の少なからぬ部分は、「アシュケナージは論外」なんてレベルじゃなくて、「安川加寿子は論外」のレベルですから...。

野々村 じゃあ、ロスラヴェッツは正しい選択かというと、やっぱりああいう作品では彼の良さは出てこない。フェルドマンや武満を弾いたら、さらに悲惨なことになるんだろうけど。
浮月斎 そうですね。フェルドマンは何とも言えないけれど、武満はそう思います。
どちらの作品でも、「メロディを引き出す能力」が重要。

浮月斎 武満のピアノ作品だと昔、ウッドワードだったかな、頑強な音のイメージだったけれど結構楽しめたような気がするんですが...
ETCETERAから出した再録音も素晴らしかったですね。彼は、音像を掴み取る能力に長けたピアニストです。

工藤 あれから何回か聴き直してみましたが、やはりスクリャービン(特に初期の方)ほどのインパクトは感じられない、というのが率直な感想です。

野々村 「革命の機運」が音楽に影響を与えていたとは思いますが、1917年の革命自体が契機になったとは、私は考えていません。私が知っている限りは、ロシアアヴァンギャルドの音楽が最も*前衛的*だったのは1915〜16年で、革命以後は、むしろ退嬰化が始まったと感じています。
お恥ずかしながら、僕はどの年代が“ロシアアヴァンギャルド”と呼ばれるに値するかを知らないもので、この辺りの話はよくわからないのですが、例えばショスタコーヴィチの「鼻」なんかは“ロシアアヴァンギャルド”と見なしても良いのでしょうか?僕の手元にあるディスクの中では「La Musique Russe des Avant-Gardes: Jean-Pierre Armengaud (pf)」(Nuova Era 7263)が、Lourie、Scrjabin、Roslavets、Mossolov、Obouhov、Shostakovichらの作品を扱っているのですが、それらから判断すると1920年代はまだ“ロシアアヴァンギャルド”という流れの中にあったと考えられるのですが、それで正しいですか?

野々村 いやいや、私の知る限りでは、ロシアアヴァンギャルドの音楽は極めて*健康的*ですよ。むしろ、健康的すぎるために評価が低いのではないか、と感じるくらいです。「変わっている」ことと「妖しい」ことは全然違います。
これについてここしばらく考えていたのですが、スクリャービンの後期の作品とか今回のロスラヴェツなどで出てくる独特の静けさみたいなものに、僕は“妖しさ”を感じているような気がします。ただ、上で「鼻」を例に出したのは、「鼻」については上記の野々村さんのおっしゃっていることと全く同意見だからです。

浮月斎 ヴィルチュオーゾ・ピアノといっても音楽史の落ち穂拾いでも仕方がないし...。彼自身、この路線でずっといけるとは思っていないのではないと私は思っています。最近のリストを聴き、このロスラヴェッツを聴く限りでは。
野々村 私も、今回の選曲を見てそう感じました。しかし、それだったらリゲティのエチュードやシャリーノのソナタにすればいいのに。彼の曲芸的な美質を失うことなく、望み通り芸術にも奉仕できるのに。
シャリーノのソナタというのは知りませんが、アムランのような明るめの美音でリゲティなんか確かに聴いてみたいですね。オーソドックスなレパートリーでも何か合いそうな曲ってありませんかね?

野々村 工藤 例えばショスタコーヴィチの「鼻」なんかは“ロシアアヴァンギャルド”と見なしても良いのでしょうか?
「ロシアアヴァンギャルド」は、「イタリア未来派」のように自称していたわけではないので、厳密には何とも言えませんが、

工藤 1920年代はまだ“ロシアアヴァンギャルド”という流れの中にあったと考えられるのですが、それで正しいですか?
おそらく、『鼻』も含めて、それで正しいと思います。実際、ロシア革命後数年は、共産党政府も前衛芸術を支持していたわけですし。ただ、風向きが社会主義リアリズムの方向に変わり始めたのを敏感に察知したルーリエのような小才の効く人から亡命し始めて、ショスタコが活躍し始めた頃にはかなり空洞化が進んでいたように思われます。ロシアアヴァンギャルドは、音楽だけに限らない現象だったので、年代的なことは、むしろマレーヴィチの絵画の変遷を追ってみた方が、わかりやすいでしょう。

工藤 スクリャービンの後期の作品とか今回のロスラヴェツなどで出てくる独特の静けさみたいなものに、僕は“妖しさ”を感じているような気がします。
スクリャービンは、老化とともに精神分裂が進行しただけのことで、ロシアアヴァンギャルドと直接には無関係でしょう。ロスラヴェッツは....私はそういう印象は受けませんでした。響きは似ていても、空気感が全然違う。

工藤 ただ、上で「鼻」を例に出したのは、「鼻」については上記の野々村さんのおっしゃっていることと全く同意見だからです。
ロスラヴェッツ、ルーリエ、ヴィシュネグラツキーあたりの音感覚には、スクリャービンの神秘和音の影響があるのかもしれませんが、モソロフとかオルスタインとか、そういうのとは無関係な未来派系モダニストもいて、ショスタコは年代的には後者に属していますね。

工藤 シャリーノのソナタというのは知りませんが。
無調版アルカンという趣の音楽で、作曲家や現代弾きの友人たちは趣味が悪いとけなしていますが、私は結構好きだったりする (^ ^)。ダメリーニの録音は音を意図的に抜きまくっているという噂なので、是非アムランに再現してほしいと思います。

工藤 アムランのような明るめの美音でリゲティなんか確かに聴いてみたいですね。
昨日、エマールの録音を聴いていました。彼の考え抜かれた解釈も、一部の内省的な曲にはマッチしているのですが、大半の曲はヴィルトゥオジック系なので、やっぱりアムランで聴いてみたい。

工藤 オーソドックスなレパートリーでも何か合いそうな曲ってありませんかね?
スカルラッティ、シューマン、ラフマニノフあたりかな?レパートリー的には、ヒストリック・リターン後のホロヴィッツの線を狙っていけばいいのでは。

鈴木 野々村さんへのレスでもあるのですが、アムランの演奏よりも、ロスラヴェッツの音楽に小生共鳴してしまったのですがクラスターのレデリウスと類似点を感じています。ただ、レデリウスはロスラヴェッツに比較して、表面は遙かに調性的なのですが明るい諦観というか、何かそのようなものを聞き取った感じです。例えは悪いですが、前にも書いたとおり、退屈に思えたトルストイの文章での描写や、タルコフスキーの映像が、いつのまにか自分の視線と不可分になってしまうような異化作用がこの音楽にはあると思います。ただ、メジャーな音楽にはなりえないのは(なったら困るが)、その音楽の異化作用の麻薬的な力によると思います。

恐らく、不確実、不定型な作用を及ぼすこの音楽に浮月斎さんはいらだちを覚えている。野々村さんは、はっきり言って慣れ(悪い意味じゃないですよ)、佐々木さんは、詩的に聞こえるこの音楽への新鮮な共感、工藤さんは、柔軟な吸収性の良さ(若いのはうらやましい!)、斉諧生さんは、メインストリームではないこのような音楽への戸惑い、小生も野々村さんと同じように、このような音楽の免疫があって面白がっている、という風に、みなさんの文章、レスを読んでいて思えたのですが。

野々村< 鈴木 恐らく、不確実、不定型な作用を及ぼすこの音楽に浮月斎さんはいらだちを覚えている。
これは、ちょっと違うような気がするのですが、

鈴木 野々村さんは、はっきり言って慣れ(悪い意味じゃないですよ)、佐々木さんは、詩的に聞こえるこの音楽への新鮮な共感、工藤さんは、柔軟な吸収性の良さ(若いのはうらやましい!)、斉諧生さんは、メインストリームではないこのような音楽への戸惑い、小生も野々村さんと同じように、このような音楽の免疫があって面白がっている、という風に、みなさんの文章、レスを読んでいて思えたのですが。
それ以外は見事なサマリーで、これ以上加えることはありません(^ ^)。

浮月斎 鈴木 恐らく、不確実、不定型な作用を及ぼすこの音楽に浮月斎さんはいらだちを覚えている。
苛立ちといよりは、影の見えない実体に接している感じでしょうか(^^;。オカルトのつもりで読んだらSFだったという感じかなぁ...。いや、好悪は別として、なかなか面白い作曲家であることは認めます。

鈴木 野々村 それ以外は見事なサマリーで、これ以上加えることはありません (^ ^)。
ロスラヴェッツが変に気に入っちゃった小生以外、アムランの演奏も含めて、あまりこの集まりでは評判が良くなかったですね。

斉諧生 ロスラヴェツを聴き返してみました。

佐々木 Three Etudes(1914)でのきらきらとした動機のつらなりと推移 (特に前2曲)部屋を暗くして聴くと立体的なイメージが喚起される感があり、アムランの美質と相俟ってとても印象的です。
私も、このディスクで最も印象に残ったのは、この3曲、就中第2曲"Con dolce maniera"でした。司会としてはそろそろ打ち止めかなぁと思います。





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