No. 6 : Hamelin plays Roslavets



CDA66926 Nikolay Roslavets : Piano Music
(Hyperion CDA66926)
1. Three Composition (1914)
2. Three Etudes (1914)
3. Piano Sonata No.1 (1914)
4. Prelude (1915)
5. Two Composition (1915)
6. Piano Sonata No.2 (1916)
7. Two Poems (1920)
8. Five Preludes (1919 - 1922)
9. Piano Sonata No.5 (1923)

Marc-André Hamelin (pf)





発言者 : 斉諧生(モデレータ)、鈴木、佐々木、野々村、工藤、浮月斎

※当合評会の編輯を一部野々村氏が行っております。



斉諧生 さて、ロスラヴェツですが、恥ずかしいのですが、降参と言わざるを得ません。ピアノや楽理は、めっきり弱いのです。比較のつもりでルディのシマノフスキを聴き出したら(練習曲作品33)、途中で区別がつかなくなり、ライナーノートを読んでも"the total chromatic","synthetic chord" といった用語が理解できない、という有様。音楽史上の位置づけ、楽理的分析等は、皆さんの御発言に俟つこととして、素朴な印象を書きつけるに留めます。ロスラヴェツにはヴァイオリン・ソナタ(1913年)があるそうですが、一度聴いてみたいものです。

最初の方の曲はドビュッシーを拡張したような趣もあるけど、次第に、より無調的に、より(ピアノという楽器を離れて)抽象度を高めていくように思います。作曲年代には10年程の幅しかありませんが、やはり革命の影響でしょうか。ピアノ・ソナタ第5番は、いかにもピアノの名人向けで前期の作風に後退しているように思います。概してソナタはつまらなかった、という印象です。1915年の前奏曲だけ、えらく解り易いと思っていたら、ライナーノートにも書いてありますね。初めて聴くアムランですが、音も綺麗だし、腕も達者と聴きました。たぶん演奏伝承もないだろう、これらの作品をちゃんと聴かせるのも音楽性豊かな証拠でしょうか。録音も良い。エンジニアは斉諧生御贔屓のトニー・フォークナー。

野々村 ロスラヴェッツは、ルーリエやヴィシュネグラツキーと並ぶロシアアヴァンギャルドの中心的な作曲家の一人だが、ルーリエのクレーメルやヴィシュネグラツキーのメファーノのような強力な推進者がいなかったため、知名度は今ひとつだった。それだけに、テクニックと美音では当代随一のアムランがロスラヴェッツをレパートリーに加えたことを素直に喜びたい。録音の出来もおおむね期待通りで、高速トリルや一気呵成のスケールといった華やかなテクニックは無調的なテクスチュアの中で従来以上に冴えており、デニソフらによる旧ソ連の抒情的なセリー音楽は、ロシアアヴァンギャルドの伝統の直接的な後継者であることを、あらためて印象づけてくれた。

しかしこの録音は、手放しに賞賛できるものではないこともまた事実である。いくらテクニックに揺るぎはなくても、どの曲も同じように聴こえてしまうのは、決して褒められたことではない。もちろん、作品自体の問題もあるのだろうが、これまでに聴いた幾つかのアムランの録音に共通する欠点である構築性の欠如は今回の録音でも変わらない。スクリャービンのソナタのようなコンセプトが明確な曲ならば、この特徴は美質にもなり得るのだが、このCDに収められた3曲のソナタになると、アイヴズ『コンコード・ソナタ』の録音の時と同じく、五里霧中で聴き手は途方に暮れてしまう。この欠点はおそらく彼自身も自覚していて、音楽史の落ち穂拾い的なディスコグラフィになっているのだろうが、そのくらいならクセナキスやシュトックハウゼン、あるいはファーニホーやシャリーノのような、戦後前衛の中では非構築的な作曲家たちの超絶技巧を要する作品に取り組んでほしいものだ。

鈴木 初めて聴いたとき、その関節のはずれたようなピアノの音に嬉しくなった。なぜだが分からないが、こういうはぐらかすような音が割と好きなのだ。ヴィシネグラツキーの4分音ピアノは、もっと関節が外れまくたっような音楽で、軟体動物を想像させるが、聴くには、多少とも根性が必要。ロスラヴェツの方がまともなピアノを使っている分、聞き易いのかも知れない。それまでの音楽とは異なる語法を持とうとしたこれらの音楽は、より聞き手に心象風景の表出を迫る。
技法的に、セリー12音階技法は、伝統的な和声からの脱却を目指し、テーマを書くだけで、自然に音符が増えて行く、機械的な手法をその中に併せ持っていたのだが、無論、当時はコンピュータで作曲していた訳ではなかったから、作曲家の個性や心象風景のベクトルはその作品の中に出る。ロシアアヴァンギャルドの少し前から、フランスで芸術運動として始まっていた「印象主義」とも、その根底では通底していたような気がする。
ロシアは当時、革命の嵐が吹きすさんでいたため、「印象主義」の作家たちが数多く取り上げた主題とは異なるが、ノスタルジックな心象風景という点では。ロシア革命は、王制打倒と同時に、ヨーロッパ先進諸国の工業化の取り込みと、農場を工業化して、農民を工場へ駆り立てる意味を必然的に持っていた。全ての世俗的な階級をなくすということは、みんな同じように食わせなくてはならない。そのためには、産業の工業化と農場の工業化は避けて通れなかったから。ところが、ロシア人はその性格の中に、工業化とは相容れない感性を持っている。また、本来は非常に宗教的な面も併せ持っている。根がロシアの大地と不可分なのだ。

作曲家というのは、一般大衆と比較してインテリゲンチャだったとおもう。恐らくロスラヴェツもそうだ。そのため、新しい時代、新しい文化の担い手として最新の作曲技法を取り入れなければならないという強迫観念と、ロシアの大地への郷愁とないまぜになった作品を書かざるをえなかったのではと思う。ここに聞ける音楽は、例えばトルストイが「戦争と平和」や、他の著作に書く自然描写を思い浮かべると、その気分がよく分かるし、新しいところでは、タルコフスキーの映画かな。
アムランは、ロスラヴェツの作品をピアノによる連続した曲として演奏しているように感じる。小生、このバラバラに響くアルペジオのまがい物のような音楽が意外と好きだ。ただし、少しペシミスティックな気分になるが。ロシア革命が確立して、政権がレーニンからスターリンに移ってゆくと、ロシア・アヴァンギャルドはその発生した地域に居場所がなくなった。カンディンスキーやシャガールは亡命して、なんとかその芸術を全うできたが、亡命しなかったメイエルホリドやその他の芸術家は転向しなければ、悲劇的な結末を迎えることになる。
ロスラヴェツは、1944年まで生きたが、音楽家としては窒息状態だったようだ。ところで、みなさんはカンディンスキーやシャガールの絵画を、「現代美術」として見ます?今や抽象絵画だから「現代美術」だというやつはいないよね。このCDに入っている最初の「3つのコンポジション」は、マーラー交響曲第9番の3年後に書かれた作品だ。不協和音だらけだから、「現代音楽」というくくりでは、大切ななにものかを聞き逃してしまうような気がする。こいつは、どんな時代に生きて、どんなつもりでこんな音楽を書いて、なぜ今聴いている自分がこんな心象風景をこの作品から持つのだろう?小生には、アムランの演奏論をする資格はないが、名前も知らなかったロスラヴェツが面白かった!

浮月斎 ロスラヴェッツについての、ロシアのこの時代の音楽史的俯瞰を知る由もありませんが、ロスラヴェツは、スクリャービンを出発点に、音群の転置を基盤とする新しい音楽の体系を構築、10年代激しく表現主義的であった作風から20年代に入ると新古典的な簡素化へと変化したと知りました。

私もはっきり言って、このアルバムについては書きようがないのですが、概観すると、作曲年代に沿って代表作を並べていくというありきたりのレコーディング・シチュエーションがまずアムランらしくないなと思いました。また、このディスクから聴く分には、ロスラヴェッツの新古典への変節というのが全然よく理解できないですね。特にそれが10年代の作品で面白く聴こえなかった。私には音楽的官能を微塵も感じえません。ロスラヴェッツについては、聴きっぱなっからこりゃ完全にスクリャービンのエピゴーネンだと耳が行ってしまった感があります。しかし聴いてみて、スクリャービンの持っていたある種の誇大妄想的・形而上学的思念と感性はきれいに除かれて、意味づけを持たない音群の層的移動という雰囲気が10年代の作品には強く、ピアニスティックな位相とはやや違う感覚を覚えました。これだとこの時期のシマノフスキの方が遥かに好ましい。20年代の作品はもうすこしまともに聴けたのですが、主題の断片的浮揚みたいなものの繰り返しで、モンタージュを続けて見せられているような眩惑感がありました。私の好みじゃないですね。

いつものアムランらしさが聴けたのは5つのプレリュードと第5ソナタあたりぐらい。実際、5番ソナタのトリルなどスリリングだし、繊細なタッチと打鍵のしたたかさはいつもどおり楽しめたのですが、スクリャービンの時に気になったのと同様、音組織の細かな色づけが淡白で健康的なのが気になります。作品の味わいと演奏の味わいとがどうも食い違いますね。なぜ彼が複雑なテクスチュアを軽々と超えていく愉悦感からは遠い作品をわざわざとりあげるのかが疑問。また、抽象的な響きの層構造とその推移が本然みたいなロスラヴェッツの作品では、ピアニスティックな線的処理がほとんどないために、余計つまらなく感じます。これはどうも私には、ボルコム&ウォルペのディスクがあまり面白くなかったことと関係があるような気がしますね。断片が浮かんでは消え、また別の断片がという浮遊感もアムランにはどうも楽音の処理の見事さ以上のものを感じませんでした。私はアムラン・ファンではありますが、彼のレペルトワールもこういうマニアックなものばかりに止住しないで、積極的にまだまだヴィルチュオーゾ・ピアノのユニックな域を果敢に攻めてもらいたいなと思うのですが、如何なものでしょう?

佐々木 ロスラヴェッツですが、降参です。系譜を含め、私にはよくわかりません。でも、何回か聴き返してみてとても面白いアルバムに思われました。

Three Etudes(1914)でのきらきらとした動機のつらなりと推移(特に前2曲)部屋を暗くして聴くと立体的なイメージが喚起される感があり、アムランの美質と相俟ってとても印象的です。

どの曲も同じように聴こえるとか、単調であるというご指摘がありましたが、確かにアムランの演奏は一つの雰囲気で覆われているように思います。かといって、これらの曲をもっと面白く聴かせることが曲の魅力を広げることになるのか、それともこの演奏できかれるいくつかのものを奪ってしまうのかは私にはよく分かりませんし、第1ソナタ、第2ソナタからは同じような動機が聞こえてきたり、アルバム全体が単調なのはアムランの所為ばかりではないだろうと思います。1920年代に入ってからのアルバム後半では第5ソナタなど、もっとうまい聴かせ方があるだろうとは思いますが全体として、演奏に悪い印象はありません。

最後に、選曲について、浮月斎さんのおっしゃるように、ロスラヴェッツの作風が新古典的なものへと変化したのならばある程度そのあたりを俯瞰できるような選曲であればもっとアルバムの魅力が増したのではないかと私も思いました。アムランの音楽がそれに合致しないというのであれば、1枚のアルバムでピアニストを変えるという手もあるわけですし。

工藤 アムランはスクリャービンしか聴いたことがありませんが、彼に対しての印象は今回のディスクでもほとんど変わりませんでした。強めのタッチの美音を持ち、キビキビとしたリズム感が非常に好ましいピアニストです。たぶん、曲の内容如何に関わらず、技術的に難しい曲であればあるほど、彼の魅力が出てくるような気がします。

僕はピアノのテクニカルな面については無知に等しいのですが、今回のロスラヴェツについていえば、少なくともスクリャービンほどの見せ場はほとんどない曲ばかりだったような気がします。したがって、僕にとってはスクリャービンと比べるとどうしても聴き劣りがしました。さらに、曲に対するアプローチもスクリャービンの時とそれほど変わっていないようで、ロスラヴェツの静的な面があまり良く表現されていないとも思いました。

音が健康的過ぎるのもちょっと…。“ロシアアヴァンギャルド”という言葉から僕が連想するイメージは、もうちょっと妖しいものなので、その意味でも若干ギャップがあります。とはいえ、あまり聴く機会のない曲を、これだけ高水準のテクニックで聴かせてくれたのだから、僕としては十分に満足しています。曲の出来とかアムランとの相性なども考慮すると、“準推薦”かな。

野々村 鈴木 ヴィシネグラツキーの4分音ピアノは、もっと関節が外れまくったような音楽で、軟体動物を想像させるが、聴くには、多少とも根性が必要
こちらは、*音響的*ではあるが音楽的とは言い難いというのが私の印象です。個人的には、少なくともピアノ音楽の分野では、ルーリエが一番面白いと思います。

鈴木 作曲家というのは、一般大衆と比較してインテリゲンチャだったとおもう。恐らくロスラヴェツもそうだ。そのため、新しい時代、新しい文化の担い手として最新の作曲技法を取り入れなければならないという強迫観念と、ロシアの大地への郷愁とないまぜになった作品を書かざるをえなかったのではと思う。ここに聞ける音楽は、例えばトルストイが「戦争と平和」や、他の著作に書く自然描写を思い浮かべると、その気分がよく分かるし、新しいところでは、タルコフスキーの映画かな
この主張には大筋で賛同したいですが、トルストイやタルコフスキーの作品には、キリスト教(ロシア正教)の信仰と切っても切れない側面がありますね。ロシアアヴァンギャルドたちはどうだったのでしょうか?

鈴木 ところで、みなさんはカンディンスキーやシャガールの絵画を、「現代美術」として見ます?今や抽象絵画だから「現代美術」 だというやつはいないよね
というか、現代美術においては、ポップアート以降は具象が主流で、抽象絵画はもはや歴史的存在でしょう。だからこそ、抽象と具象を平然と両立させるリヒターやポルケの創作に人々は瞠目するのです。

佐々木 何回か聴き返してみてとても面白いアルバムに思われました
私も、聴く分にはエンドレス再生でいくらでも聴けるんですよね。5分と聴けないような音楽が少なくないこの世の中では、あまり積極的に批判する気は起こりません。

佐々木 どの曲も同じように聴こえるとか、単調であるというご指摘がありましたが、確かにアムランの演奏は一つの雰囲気で覆われているように思います。かといって、これらの曲をもっと面白く聴かせることが曲の魅力を広げることになるのか、それともこの演奏できかれるいくつかのものを奪ってしまうのかは私にはよく分かりませんし
難しい問題ですが、少なくともこれらの作品の本来の意図が「環境音楽」的なものであるとは、私には思えません。

佐々木 第1ソナタ、第2ソナタからは同じような動機が聞こえてきたり、アルバム全体が単調なのはアムランの所為ばかりではないだろうと思います
それはもちろんそうですが、アムランに責任がないとも思いません。

工藤 音が健康的過ぎるのもちょっと…。“ロシアアヴァンギャルド”という言葉から僕が連想するイメージは、もうちょっと妖しいものなので、その意味でも若干ギャップがあります
いやいや、私の知る限りでは、ロシアアヴァンギャルドの音楽は極めて*健康的*ですよ。むしろ、健康的すぎるために評価が低いのではないか、と感じるくらいです。「変わっている」ことと「妖しい」ことは全然違います。

工藤 とはいえ、あまり聴く機会のない曲を、これだけ高水準のテクニックで聴かせてくれたのだから、僕としては十分に満足しています。曲の出来とかアムランとの相性なども考慮すると、“準推薦”かな
私も、結局はそういう評価です。

鈴木 今のところ擁護に回っているのは小生だけですね(^^;。アムランの演奏については、小生触れるだけ聞いていないので。みなさん、このCDに対しては、演奏に対しての不満ですか?曲そのものについての不満ですか?斉諧生さんの曲そのものについての「よくワカラン!」は了解しています。

野々村 野々村 私の場合は、主にアムランの解釈に対する不満です。曲自体も、(中略)メンデルスゾーンの交響曲と同じ程度には評価したいです
小生も、曲そのものは高く評価したいです。メンデルスゾーン云々は、ちょっと次元が違うと思いますが、でも、メンデルスゾーンの作品群と、同程度、あるいはそれ以上に今、評価されなければならないと言う点では納得です。小生、恥ずかしながらロスラヴェッツは全く知らなかったのですが、その作品の成立した時代や、作品の内容から考えると、もっと、聞かれなければと感じます。ところで、このピアノ曲集の他に、ロスラヴェッツを聞くことが出来ますか?是非、聞いてみたい。

野々村 鈴木 小生も、曲そのものは高く評価したいです。メンデルスゾーン云々は、ちょっと次元が違うと思いますが、でも、メンデルスゾーンの作品群と、同程度、あるいはそれ以上に今、評価されなければならないと言う点では納得です。(中略)その作品の成立した時代や、作品の内容から考えると、もっと、 聞かれなければと感じます
歴史を作るような作品ではなく、歴史に作られた作品ではあるが、*××の亜流*という水準は超えている、という意味において、メンデルスゾーンと同格に扱いたいのです。

ただ、「20世紀の音楽だから、今評価されなければならない」というような考え方には、私は批判的です。私が*現代音楽*支持の論陣をネットワーク上で張っているのは、20世紀のクラシック創作は、過去のいかなる時代よりも、少なくとも生み出された価値の総量では上回っている、と確信しているからです』

鈴木 ところで、このピアノ曲集の他に、ロスラヴェッツを聞くことが出来ますか?是非、聞いてみたい
Le chant du mondeのロシア近現代音楽シリーズでフルアルバムが1枚出ています。こちらは今回のCDよりも新古典主義的です。

鈴木 野々村 ただ、「20世紀の音楽だから、今評価されなければならない」というような考え方には、私は批判的です
小生「20世紀の音楽だから、今評価されなければならない」とはまるで考えていませんので、誤解なく。ただ、ロスラヴェッツという全く視野外だった作曲家の作品に、「へえ、こんな時期にこんな音楽を書いているヤツがいたのか」という素直な驚きがあったということです。その上で、「今、もっと評価されなければならない」と書いたのは、他の作品が、ほとんど録音されていない、そのため、ロスラヴェッツの全体像が全く見えないわけで、もっと聞いてみたいよー!と言う意味に捉えてください。メンデルスゾーンと言葉の上ででも同じ俎上で評価するのは、ちょっとナンセンスなような気がしますが、ロスラヴェッツ自体、ピアノ曲集だけ聞いて(それしか残っていないのなら話は変わりますが)、「これは面白い。他にどんな作品が残されているのか?」と関心を持つことで、本当の評価につながって行くと思うのですが。小生、素直にロスラヴェッツ面白かったです。浮月斎さんはロスラヴェッツ、あまり合わないみたいですね(^^;。この軟体動物のような響きは、かなり好き嫌いが分かれるような気がします。生理的なもんかな?

工藤 鈴木 このCDに対しては、演奏に対しての不満ですか?曲そのものについての不満ですか?
僕は、基本的に曲の好き嫌いについての感想は入れないようにしたつもりです。前々回のショスタコのように、編曲行為自体に問題が含まれるのとは違うので、曲が面白かろうがつまらなかろうが、それを演奏者がどのように料理するのかということに注目しようと考えています。

野々村 あえて挑発的な表現をするならば、メンデルスゾーンの交響曲と同じ程度には評価したいです
交響曲はともかく、弦楽四重奏レベルの曲とは肩を並べるでしょうね。しかも、メンデルスゾーンとかシューマンといった作曲家がロマン派の中で果たした役割と同じ程度の役割を、ロシア・アヴァンギャルドにおいてロスラヴェツが果たしたのだろうということも、このCDに収められた曲から窺えるような気もします。

斉諧生 ロスラヴェツ、作品論を中心に議論になりそうですね。前述したように、僕としてはもう少しアムランの演奏についても議論したいところですね。ただ、比較対象となる他の演奏があまりないということが障害になっているようですが
僕はあまりピアノ音楽自体を面白いと思わない方なので(あくまで好みの問題です。これについてはあまり突っ込まないで下さいね(^^)。)、この曲に限って特別好きだとか嫌いだとかいう感想は持ちませんでした。でも、ヴィオラ・ソナタとか、ピアノ三重奏曲などの室内楽を聴いた限りでは「まあ、こういうのもアリだな」という程度の感想だったので、ロスラヴェツはピアノ曲の方が面白いのかもしれません。

ただ今回の場合、アムランの表現に“キラリ”と光るものや、“ドキッ”とさせるものが不足していることも曲の評価に影響しているかもしれませんね。バシュメット/ムンチャンのソナタでは、もっと“深い”ものを感じましたから。

野々村 野々村 あえて挑発的な表現をするならば、メンデルスゾーンの交響曲と同じ程度には評価したいです
工藤 交響曲はともかく、弦楽四重奏レベルの曲とは肩を並べるでしょうね
交響曲を持ち出したのは、この直前に議論されていたからであって、それ以上の意味はありません (^ ^;;)

工藤 しかも、メンデルスゾーンとかシューマンといった作曲家がロマン派の中で果たした役割と同じ程度の役割を、ロシア・アヴァンギャルドにおいてロスラヴェツが果たしたのだろうということも、このCDに収められた曲から窺えるような気もします
というか、「20世紀前半の音楽史の中でロシアアヴァンギャルドが果たした役割」のことを述べたつもりです。この音楽運動の中に、ベートーヴェンやショパンに相当する才能はいなかったと思う。

工藤 ヴィオラ・ソナタとか、ピアノ三重奏曲などの室内楽を聴いた限りでは「まあ、こういうのもアリだな」という程度の感想だったので、ロスラヴェツはピアノ曲の方が面白いのかもしれません
まあ、*理念先行*の音楽だとは思うので、ピアノの抽象的な響きの方が合っている、くらいのことは言えそうな気がします。

工藤 ただ今回の場合、アムランの表現に“キラリ”と光るものや、“ドキッ”とさせるものが不足していることも曲の評価に影響しているかもしれませんね。バシュメット/ムンチャンのソナタでは、もっと“深い”ものを感じましたから
これは、アムランという演奏家の資質全体に関わる問題かもしれませんね。ムンチャンは、テクニカルな観点からは全然大したピアニストではありませんが、でも作品の本質を掴んでいる。

斉諧生 皆さんに御教示いただきたいのですが、ロスラヴェツの音楽史上の位置って、どのあたりなのでしょうか?柴田南雄先生の『西洋音楽史 印象派以後』でも明確にされていません。なにか、ロシアで勝手に十二音技法を始めたような、書き振りです。

野々村さんが『歴史を作るような作品ではなく、歴史に作られた作品ではあるが、*××の亜流*という水準は超えている、という意味において、メンデルスゾーンと同格に扱いたいのです』と書かれたことにも通じると思います。ロスラヴェツの作品を作った「歴史」とは、具体的にはどのあたりなのでしょう?ライナーノートにあるように、やはりスクリアビン?

野々村 斉諧生 ライナーノートを読んでも"the total chromatic","synthetic chord" といった用語が理解できない、という有様
ロスラヴェッツ(というか、*スクリャービン楽派*というか)に特有の用語で、ライナーはタネ本の丸写しにすぎないと思うので、「理解できない」ことは恥でも何でもないと思います。

斉諧生 最初の方の曲はドビュッシーを拡張したような趣もあるけど、次第に、より無調的に、より(ピアノという楽器を離れて)抽象度を高めていくように思います。作曲年代には10年程の幅しかありませんが、やはり革命の影響でしょうか
「革命の機運」が音楽に影響を与えていたとは思いますが、1917年の革命自体が契機になったとは、私は考えていません。私が知っている限りは、ロシアアヴァンギャルドの音楽が最も*前衛的*だったのは1915〜16年で、革命以後は、むしろ退嬰化が始まったと感じています。

斉諧生 ピアノ・ソナタ第5番は、いかにもピアノの名人向けで前期の作風に後退しているように思います
この作品には、「新古典主義」の片鱗が表れていると思います。

斉諧生 概してソナタはつまらなかった、という印象です
私は、これはアムランの問題だと思っています。5番のソナタにしても、Le chant du mondeの録音はテクニック的にはアムランに全然及びませんが、音楽的にはずっと面白いですし。

斉諧生 で、皆さんに御教示いただきたいのですが、ロスラヴェツの音楽史上の位置って、どのあたりなのでしょうか?
現在の「音楽史」では、第1次世界大戦前後に世界各国で起こったさまざまな動きのうち、「歴史を作った」と認められているのは、ウィーンの無調とパリの新古典主義だけだと思います。その他もろもろは、バルトークやシマノフスキはこれらの*辺境への影響*として、サティ、ヤナーチェク、アイヴズなどは*特異なエピソード*として扱われているように感じます(それが正しいとは思わないが)。で、ロシアアヴァンギャルドは、*特異なエピソード*として始まり、しだいに*中心からの影響*を受けていった、という風にみなされてきたように感じますね。勿論、このような西ヨーロッパ中心的歴史観への批判は近年高まっている(日本では、故秋山邦晴氏あたりが言い出しっぺか)のですが、ロシアアヴァンギャルドの音楽には、アイヴズやヤナーチェクの音楽とは違って、そのような見方を転覆させるような強靭さは、残念ながら私には感じられません。

斉諧生 柴田南雄先生の『西洋音楽史 印象派以後』でも明確にされていません。なにか、ロシアで勝手に12音技法を始めたような、書き振りです
柴田さんは、いわゆる現代音楽に関しては、「ヨーロッパの定説の紹介」以上に踏み込んだことはしていないと思います。

斉諧生 ロスラヴェツの作品を作った「歴史」とは、具体的にはどのあたりなのでしょう? ライナーノートにあるように、やはりスクリアビン?
オリジナリティとしてはスクリャービンがあり、その一方でパリ経由で西欧アヴァンギャルドの情報も得ていた、というくらいではないかと思っています。

で、私の考える「歴史」では、ロシアアヴァンギャルドは予兆にすぎなかったが、それと西欧の伝統(含近代)を巧みに融合して成功したのがショスタコーヴィチであり、それが純化されて爆発したのがウストヴォルスカヤ、ということになっているわけです。それを戦後前衛と融合してそれなりに成功したのが、デニソフやシュニトケらだが、やはり*それなり*以上のものではなかった。





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