工藤
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野々村 しかし、ピアノトリオの方はともかく、あれだけの打楽器はそんなに簡単には用意できないので、あの編成を取ったこと自体も、議論されるべきでしょう。
それはその通りですね。残念ながらショスタコ本人による2台ピアノ版は楽譜すら見たことがないので、打楽器の部分がどのように解決されているのが非常に興味深いところです。ちなみに、作曲家同盟での内輪の初演はこの2台ピアノ版で行なわれていると思います。
野々村 そもそも、彼って深く考える人でしたっけ?深いことは何も考えていないけど、知り合いの現代作曲家は熱心に紹介したがるあたり、アバドみたいな人かと思っていた。
とりあえず、“心憎いまでの選曲センス”というのが、巷でのクレーメルの評価の一部ですよね。僕は、彼のセンス自体には疑問が残るけど、一応選曲に際して何かしようとはしているのだと思っていました。
野々村 確かに、約10年前のSQ15番の録音では、もっと作品の意図に沿った音色を使っていたと思います。
あれは、出だしで2nd Vnがノン・ヴィヴラートに耐えられなくなって、ちょっとヴィヴラートがかかってしまっている以外は、よく練られた演奏でしたね。
野々村 あの編曲で特に致命的なのは第2&4楽章で、それは演奏でカバーできるようなものではないので、残る楽章を*明るく華やかに*演奏する姿勢は理解できますが。
確かに。ただ、3楽章ってもっとグロテスクで恐い音楽なんだけどなぁ...。
野々村 彼の*お気楽路線*は、デュオのパートナーをアファナシエフからマイセンベルクに替えたあたりで、すでに始まっていたと思います。
例えば、エルンストの「夏の名残のバラ」なんかはDGへの新録音の方が技術的にも内容的にも評価できるのですが、「魔王」の方は旧録音の方が音楽に張りがあってずっと良かったりします。で、録音時期を見ると、上記のタイミングとそう変わらないのですね。僕は敢えて“弾き散らかし路線”と言いたいのですが、それはアルゲリッチとの録音にも顕著ですよね。シューマンのソナタなんかはもう全くダメだった。もっとも、それは僕の趣味が安永さんの演奏みたいなタイプだからかもしれませんが。でも、フンガロトンに入れたバルトークのソナタのような演奏はもう望めないのでしょうかね。
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| 野々村 |
野々村 譜面通りに演奏すれば少なくとも原曲のパロディックな味わいは保たれる室内楽版は、それなりに歓迎すべきものだったのかもしれない。
浮月斎 はまさにそのとおりでしょう。原曲の15番がややもすると無意味なコラージュに陥りやすい分、室内楽は諧謔的なモチーフを平穏化して「曲の統体的体型」を知るという点はある程度成功しているとは思います。
工藤 でも、今回のクレーメルのように勝手な色づけをしてしまえば、そのような編曲の意図はすべて台無しになってしまいますよね。
もちろん上記の私の指摘は、「あえて擁護する際のへ理屈」で、編曲者がそのような*意図*を持っていたとはまず思えません。
工藤 第一、ショスタコは署名とか承認とかいったことには極めて無頓着で、よほどのことがない限りはノーとは言わなかったことにも注意すべきです。
これは、自分の名前で発表される官僚の作文についてだけではなくて?
鈴木 ショスタコの室内楽盤交響曲は、小生にはまるでペケでした。(中略)クレーメル他の演奏は最後まで聴き通せない。聴かなきゃという義務感も感じていたのに (^^;。なぜか途中でストップを押してしまいます。
私は、BGMとしてはそれなりに楽しんでいましたが。むしろ、アファナシエフの方が辛い箇所が多かった。
工藤 残念ながらショスタコ本人による2台ピアノ版は楽譜すら見たことがないので、打楽器の部分がどのように解決されているのが非常に興味深いところです。ちなみに、作曲家同盟での内輪の初演はこの2台ピアノ版で行なわれていると思います。
もし録音するとしたら、こちらをやってほしかったなあ。「ロッケンハウスの仲間たち」ならできたんだろうけど。
野々村 そもそも、彼って深く考える人でしたっけ?深いことは何も考えていないけど、知り合いの現代作曲家は熱心に紹介したがるあたり、アバドみたいな人かと思っていた。
工藤 とりあえず、“心憎いまでの選曲センス”というのが、巷でのクレーメルの評価の一部ですよね。僕は、彼のセンス自体には疑問が残るけど、一応選曲に際して何かしようとはしているのだと思っていました。
「何かしようとする」のと「深く考える」のは似て非なる行為では?アバドだって、ノーノ作品の初演や録音、ウィーン・モデルンの発案、ベートーヴェンの手稿研究など、人一倍「何かしようと」しています。
野々村 あの編曲で特に致命的なのは第2&4楽章で、それは演奏でカバーできるようなものではないので、残る楽章を*明るく華やかに*演奏する姿勢は理解できますが。
工藤 確かに。ただ、3楽章ってもっとグロテスクで恐い音楽なんだけどなぁ...
確かに。でもそうすると、ますますあの編曲の範囲での音楽的バランスが崩れてしまいますね。
野々村 彼の*お気楽路線*は、デュオのパートナーをアファナシエフからマイセンベルクに替えたあたりで、すでに始まっていたと思います。
工藤 僕は敢えて“弾き散らかし路線”と言いたいのですが、それはアルゲリッチとの録音にも顕著ですよね。(中略)でも、フンガロトンに入れたバルトークのソナタのような演奏はもう望めないのでしょうかね。
あのバルトークは、パートナーがなあ。世の中には、愛だけでは越えられないものがあります。
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| 斉諧生 |
最初のメールの自己フォローです。
野々村 「編成が固定された室内楽団体のレパートリー拡充」という欲求は常に存在して、これは現代においてもナンセンスとは言えないのではないでしょうか?
もちろんそうですが、アマチュア等の試奏ならばともかく、コンサートに掛ける、CDに録音するといった行為は、それなりに聴き手にアピールする意義がなければ成立しない*ハズ*と考える(考えたい)わけです。「1回聴いたら、もぅエエわ」ではねぇ。ところが、このCDについては、それが捉えきれなくて、皆さんにお尋ねしてみたのです。でも、異口同音におっしゃるように、編曲自体は、あまりクリエイティヴなものではないようですね。
やっぱり、このCDは「クレーメルマニアのコレクターズ・アイテム」:-)(野々村)、「ショスタコに関係するCDなら何でも買うという人、クレーメルの大ファンという人だったりしたら、やはり非常に興味をそそられるディスクでもあります」(工藤)なのかな。
強いて分類すれば、
- 奏者の妙技を発揮する
- 異なった音色感を愛でる
- 音楽構造の明確化により、その意味を再発見するのうち、「1」の亜種、ということか。
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| 佐々木 |
ショスタコですが、私の印象も皆さんのご意見と大筋同じです。あの盤を提案した者としては、ちょっと責任を感じている次第。
野々村 管と弦のパートをピアノトリオにまで切り詰めた一方で、打楽器パートの音数はほぼ原曲通りなので、盛り上がってくるとどうしても打楽器パートが勝ったイケイケ音楽になってしまう。
最初に聴いた時に、これが何より致命的だと思いました。2楽章のクライマックスなど、打楽器とピアノの中から立ち上がってくるヴァイオリンがなんともいえず役不足といった感じでずっこけて椅子からずり落ちそうになりました。4楽章も同様で、この辺りは工藤さんもご指摘の通り。
浮月斎 しかし、割り切って聴くと意外と楽しめたりしました。それもやはりクレーメルとハーゲンのエッヂの鋭い音が楽しめるからでした。
野々村 でも、その*楽しさ*は『1812年』と同系統の楽しさで、もはや原曲のニュアンスとは何の関係もありませんよね。
私もBGMとして"ながら"で聴くと結構楽しめます。ただし頭の中では並行してムラヴィンスキー盤が鳴っていますが。クレーメルもがんばってる割には音楽として何を聴かせたいのか結局よくわからない...。
浮月斎 しかし、原曲を聴いている人からみれば、いまさら何を知るべしや?という問いがループしちゃうとは思いますがね。
原曲を知らないでこの盤を聴いたらこの曲の良さはほとんど伝わらないんじゃないでしょうか。あと、何といっても、ピアノの表現が平板に感じました。クライマックスでのアンバランスなどは別にしてもアダージョなど、ピアノがもっとイケていればもっと聴きごたえがある音楽になっていたのでは。という訳で、「わざわざこの版で演奏する意味がよくわからない」と私も思います。ただ、これは店頭に並んだ時から結構気になった盤で、
工藤 とはいえ、僕のようにショスタコに関係するCDなら何でも買うという人、クレーメルの大ファンという人だったりしたら、やはり非常に興味をそそられるディスクでもあります。この辺り、商業的には無視することのできない商品だともいえるでしょう。
私のように上記のいずれにも当たらない人間でも「買おうかな」と思うくらいなので、たしかに商業的な意味は大きいかと。
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| 浮月斎 |
とりあえず皆さん出揃ったようで。
野々村 でも、その*楽しさ*は『1812年』と同系統の楽しさで、もはや原曲のニュアンスとは何の関係もありませんよね。
勿論です。音楽というよりオーディオ的に愉しいというべきでしたね。
野々村 ただ、この編曲を聴くと、原曲のオーケストレーションの巧みさをあらためて実感できますよね。もっとも、ザンデルリンク盤の解説によると、あのショスタコらしからぬ薄いオーケストレーションは、強度の背筋痛という非音楽的な身体的要因の産物だったそうですが。
私としては正直、原曲の面白さを十分理解できていなかったのですが、改めてザンデルリンクやハイティンク盤を聴き直してみて、逆にオーケストレーションの巧妙さを味わえたことは却って収穫だった気がしました。完全なパロディ音楽程度の認識で初めて聴くのであれば、この編曲でも悪くはないのかもしれません。しかし、交響曲として名盤を聴いてしまった以上、響きの問題とか原作からのペーストのあり方を云々する以前に、音楽内容の持つ表層と意味というものをこの編曲版には伝える力量はないと言えそうですね。
工藤 その他の演奏者については、特に感想はありません。全員達者な演奏で、クレーメルのスタイルによく従っています。でも、それだけ。僕はハーゲン四重奏団の1st Vnがクレーメルの真似をし出してから彼らに対して疑問を持つようになっているのですが。
スタイル的には確かに個々の陣営で凌ぎを削り合うみたいな味わいはどこにもなかったような気はしますが、私にはその辺まで聴き出せることはできず、なるほどと思いました。
工藤 まず編曲についてですが、今回の編成を取る限り、これは十分な出来だと思います。
野々村 しかし、ピアノトリオの方はともかく、あれだけの打楽器はそんなに簡単には用意できないので、あの編成を取ったこと自体も、議論されるべきでしょう。
私としてはあのパーカッションの移動はあまりに単純なペーストだと思いましたが、真っ当な室内楽の体型にあえてしなかったのか、またはできなかったのかという疑問はありました。でも、これはこれで仕方ないですね。今にして思うと、クレーメルのカラレーションの問題も大きいですが、ピアノの役割と表現が実に平面的だということに起因していることもあります。
佐々木 あと、何といっても、ピアノの表現が平板に感じました。
とありまして、やっぱりそう思うよなぁと思った次第です。
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| 佐々木 |
野々村 しかし、ピアノトリオの方はともかく、あれだけの打楽器はそんなに簡単には用意できないので、あの編成を取ったこと自体も、議論されるべきでしょう。
工藤 それはその通りですね。残念ながらショスタコ本人による2台ピアノ版は楽譜すら見たことがないので、打楽器の部分がどのように解決されているのが非常に興味深いところです。ちなみに、作曲家同盟での内輪の初演はこの2台ピアノ版で行なわれていると思います。
2台ピアノ版の方がデレヴィアンコ編より断然面白そうですね。デレヴィアンコ版は打楽器がそのままなので変に原曲のイメージに引っ張られるのではないでしょうか(演奏者も、聴く方も)。
斉諧生 アマチュア等の試奏ならばともかく、コンサートに掛ける、CDに録音するといった行為は、それなりに聴き手にアピールする意義がなければ成立しない*ハズ*と考える(考えたい)わけです。「1回聴いたら、もぅエエわ」ではねぇ。ところが、このCDについては、それが捉えきれなくて、皆さんにお尋ねしてみたのです。
意味が捉え切れないという点、同感です。確かに「あんまり考えてない」ってのが正解のような気も...
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| 浮月斎 |
佐々木 2台ピアノ版の方がデレヴィアンコ編より断然面白そうですね。デレヴィアンコ版は打楽器がそのままなので変に原曲のイメージに引っ張られるのではないでしょうか。
引っ張りたかったからこういう編曲にせざるを得なかった、というのが現実なのではないかと思いました。しかし、ピアノの平板さが演奏者固有の問題か否かということが私には気になります。演奏者の力量不足ということなら、2台ピアノ版も演奏者によっては期待がありますが、やっぱりどちらにしても2台ピアノ版も所詮イミテーションはイミテーションに過ぎないのでは?という感想に落ち着く気がします。
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| 佐々木 |
浮月斎 しかし、ピアノの平板さが演奏者固有の問題か否かということが私には気になります。
私はピアノの平板さは演奏者固有のものだと思います。自発的な表現や高揚があまり感じられなかったのがその理由です。尤もそれがあのアンサンブルのスタイルなのかもしれませんが。
浮月斎 演奏者の力量不足ということなら、2台ピアノ版も演奏者によっては期待がありますが、やっぱりどちらにしても2台ピアノ版も所詮イミテーションはイミテーションに過ぎないのでは?という感想に落ち着く気がします。
2台ピアノ盤が原曲のイミテーションにとどまるのか新しいなにかを創造するのかは演奏者に負うところが大きいのではないでしょうか。2台ピアノの方が、原曲のイメージを引っ張られない分、演奏の中で自由な創造がしやすいのではないかと。そういう意味で「2台ピアノ版の方が面白そう」と思った次第です。編曲の出来不出来とは違う次元の問題ですが。(^^;)
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| 浮月斎 |
佐々木 私はピアノの平板さは演奏者固有のものだと思います。自発的な表現や高揚があまり感じられなかったのがその理由です。
ふむふむ。私はあれがクレーメル達の色付けみたいな気がしました。というより、よくよく思うにピアノトリオ的なインタープレイが全く徹底していない演奏ですよね。あれを編曲のせいとして聴くか、彼等の演奏の問題として聴くか。両方という気もするんですが(^^;。でも、もしここで素晴らしいピアニズムであったら、編曲の評価が覆るかというとどうかな...とも思っている訳で、またループしています。(^^;
佐々木 2台ピアノの方が、原曲のイメージを引っ張られない分、演奏の中で自由な創造がしやすいのではないかと。そういう意味で「2台ピアノ版の方が面白そう」と思った次第です。
なるほど。でも確かに聴いてみなくちゃわかりませんよね。ただ今回に関して言うと、「編曲」というからには、原曲よりどれほど自由になっているかという観点での評価はありませんでしたね。肯定・否定に関わらず。
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| 鈴木 |
でショスタコですが、全体的にみなさんのおっしゃるように、原曲を聴いてしまうと、それほど優れたアレンジではないなと思います。これだけオーディオが発達する以前は、大人数の演奏者を必要とする交響曲の室内楽盤アレンジは必要だったのは事実ですが、ショクタコのこの交響曲の頃は果たして必要だったかどうか。ベートーヴェンやモーツァルトとは違いますもんね。必要だったとすれば、当時のソヴィエトの音楽学生に対してだったと思います。アンサンブンルの練習はもちろん、同国の最大の作曲の曲に触れるということでは、教材として優れていたのでしょう。
しかし、当時のソヴィエトの人たちよりかなり高価なオーディオをもって聴く人間とすれば、このアレンジへの評価は辛目になるのは当然でしょう。またその演奏に対しても、様々な優れた原曲演奏が聴けるわけですから、「なんで今さら」という気持ちが先に立ってしまうのだと思います。この演奏は第2楽章の緩徐楽章はBGMとしてなかなか暗くて好きですが、原曲が持っている、革命後の官僚支配に対するパロディや、第2次大戦、スターリン体制での犠牲者への鎮魂曲、そして、恐らくショスタコーヴィッチ自身の過去への郷愁というような意味からから少しはずれてしまったと感じます。おそらく、みなさんが言葉を変えて述べておられるのは、そのことに対しての素直ないらだちのようにも感じました。演奏は、弦楽器はやはりうまいです。でもピアノはこのアレンジではもっとうまく弾くのは困難では?
結論としては、ソヴィエト時代の学生アンサンブルのために引っぱり出した(これは推測ですが)アレンジをCD化しても、あまり面白くなかった。暗ーい、ザンテルリンクの演奏や、明確なハイティンクの演奏を聴いていれば充分という気がしました。小生、工藤さんのようにショスタコに入れ込んでいませんが、ショスタコの敵(?)、プロコフィエフと同様、もっと聴きたい作曲家ですので、これから勉強しようと思います。
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| 工藤 |
まとめに入る前に、若干コメントを。
野々村 で、15番の当時のソ連国内での評価は、どうだったんでしょうか?
少なくとも、何らかの批判を引き起こすような否定的な評価はなかったはずです。勿論、純粋に音楽的な側面から何がしかの意見を持った人はいたでしょうが。むしろ、国外の人達、特に西側の人達は14番の路線を期待していたために、肩すかしをくらったような印象を持ったようですね。また、初演したムラヴィンスキーの録音がなぜか残っていない9番とか、外国で海賊盤が先に出回ったために仕方なく国内で録音を行なった13番などとは違い、初演後すぐにレコーディングが行なわれたことも、大作曲家の主要作品として早い段階で認められたことを示していると思われます。
工藤 第一、ショスタコは署名とか承認とかいったことには極めて無頓着で、よほどのことがない限りはノーとは言わなかったことにも注意すべきです。
野々村 これは、自分の名前で発表される官僚の作文についてだけではなくて?
自分の作品に対して手を加えられること以外は、すべてに対してそうだったようです。で、自作の編曲をどのように捉えるのかということになるわけですが、例えば弦楽四重奏曲第8番などでは、バルシャイ版の他にティンパニを含むものなども生前から出版・録音されており、それに対して内心不満は持っていたのかもしれませんが、とりあえず演奏禁止などの措置を取ることがなかったことを考えると、やはりノーとは言わない主義だったのだと考えられます。
野々村 「何かしようとする」のと「深く考える」のは似て非なる行為では?アバドだって、ノーノ作品の初演や録音、ウィーン・モデルンの発案、ベートーヴェンの手稿研究など、人一倍「何かしようと」しています。
確かに。その通りですね。最近のクレーメルは、悪い意味でのエキセントリックな方向に行き過ぎていると思います。ベートーヴェンとかブラームスの協奏曲のようなオーソドックスな舞台でも十分に個性を発揮できていたのに...。やはり、“普通”のことはやりつくしてしまったので退屈なのでしょうか。
浮月斎 私の意見では、今にして思うと、クレーメルのカラレーションの問題も大きいですが、ピアノの役割と表現が実に平面的だということに起因していることもあります。
やはり持続音が出せないという弱味がありますよね。で、それを克服するような工夫が特になされていない(編曲・演奏ともに)ということが問題ですね。
佐々木 2台ピアノ版の方がデレヴィアンコ編より断然面白そうですね。デレヴィアンコ版は打楽器がそのままなので変に原曲のイメージに引っ張られるのではないでしょうか。
この話をふっておきながらこんなことを言うのも何なのですが、たぶん2台ピアノ版もそれほど大したことはないと思いますよ。10番交響曲の2台ピアノ版による演奏は作曲者自身の演奏が残されていますし、他にも数点出ています。でも、まあそんなもんか、という程度ですね。ショスタコはピアノを弾きながら作曲するタイプではなくて、いきなりオーケストラの音をイメージして譜面を書いていったようですので、編成を縮小した編曲にはどうしても不満が残ります。ですから、
浮月斎 演奏者の力量不足ということなら、2台ピアノ版も演奏者によっては期待がありますが、やっぱりどちらにしても2台ピアノ版も所詮イミテーションはイミテーションに過ぎないのでは?という感想に落ち着く気がします。
この通りだと思います。
佐々木 2台ピアノの方が、原曲のイメージを引っ張られない分、演奏の中で自由な創造がしやすいのではないかと。そういう意味で「2台ピアノ版の方が面白そう」と思った次第です。
今回のCDを聴いて思ったことは、どんな風に手を入れてもショスタコの風味というのは強烈に残るんだなということです。ですから、そういう意味では編曲のヴァージョンが違っても、それほど聴後の印象というのは変わらないように思えます。
浮月斎 でも、もしここで素晴らしいピアニズムであったら、編曲の評価が覆るかというとどうかな...とも思っている訳で、またループしています(^^;。
で、結局僕の感想としては、このような編曲があること自体は興味深いことだし、機会があるなら演奏してみたいという気持ちは分かる、しかもその録音が存在するということは“資料”として意味のあることだと思う、が、わざわざ原曲を避けてこの編曲版を聴く必要は全くない、といったところに落ち着きます。弦楽四重奏曲を弦楽合奏にする、といった類の編曲と今回の編曲とはどうしても同列に置くことはできないでしょうね。
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| 佐々木 |
工藤 この話をふっておきながらこんなことを言うのも何なのですが、たぶん2台ピアノ版もそれほど大したことはないと思いますよ。(中略)編成を縮小した編曲にはどうしても不満が残ります。
よくわかります。私は、「非常に優れたピアニストがとても独創的な演奏をした場合」原曲と違う面白さが出るんじゃないかというつもりで言ったのですが、大概の場合はそうなるでしょうね。
工藤 で、結局僕の感想としては、このような編曲があること自体は興味深いことだし、機会があるなら演奏してみたいという気持ちは分かる、しかもその録音が存在するということは“資料”として意味のあることだと思う、が、わざわざ原曲を避けてこの編曲版を聴く必要は全くない、といったところに落ち着きます。
これは全く同感です。
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| 野々村 |
斉諧生 アマチュア等の試奏ならばともかく、コンサートに掛ける、CDに録音するといった行為は、それなりに聴き手にアピールする意義がなければ成立しない*ハズ*と考える(考えたい)わけです。
*編成が固定された*というところがミソです。吹奏楽団とか、マンドリンアンサンブルとか。クレメラータは可変なので論外。
佐々木 あと、何といっても、ピアノの表現が平板に感じました。クライマックスでのアンバランスなどは別にしてもアダージョなど、ピアノがもっとイケていればもっと聴きごたえがある音楽になっていたのでは。
ピアソラ録音もこの人がピアノを弾いていますが、最低です。いかにピアソラの五重奏団のメンバーが優秀だったのかを逆に知らしめてくれます。自分を脅かすような演奏家と共演しようとしないようでは、堕落する一方でしょう。ただ、ピアノがどう頑張っても、原曲に達するのは無理でしょう。シンセならともかく。ただ、ピアニストがもっと優秀だったら、今度は弦のパートの編曲の欠点がより明確に感じられるかも。
浮月斎 完全なパロディ音楽程度の認識で初めて聴くのであれば、この編曲でも悪くはないのかもしれません。しかし、交響曲として名盤を聴いてしまった以上、響きの問題とか原作のペーストのあり方を云々する以前に、音楽内容の持つ表層と意味というものをこの編曲版には伝える力量はないと言えそうですね。
ただ、ここで、「選曲の評価を演奏の評価に持ち込むべきか」ということが問題になってきますよね。例えば『スペイン交響曲』の新譜を、「こんな駄曲の録音を評価する必要はない」と切り捨てていいのか?
工藤 その他の演奏者については、特に感想はありません。全員達者な演奏で、クレーメルのスタイルによく従っています。でも、それだけ。
浮月斎 スタイル的には確かに個々の陣営で凌ぎを削り合うみたいな味わいはどこにもなかったような気はしますが、私にはその辺まで聴き出せることはできず、なるほどと思いました。
というか、それが「クレメラータ・ムジカ」なのでしょう。
浮月斎 しかし、ピアノの平板さが演奏者固有の問題か否かということが私には気になります。
佐々木 私はピアノの平板さは演奏者固有のものだと思います。自発的な表現や高揚があまり感じられなかったのがその理由です。
私も同意見です。ただ、*自発性のなさ*はあの録音全体の問題で、このピアニストに関しては、「音響自体がつまらない」と思います。
浮月斎 私はあれがクレーメル達の色付けみたいな気がしました。というより、よくよく思うにピアノトリオ的なインタープレイが全く徹底していない演奏ですよね。あれを編曲のせいとして聴くか、彼等の演奏の問題として聴くか。両方という気もするんですが(^^;。
というか、「ああいう演奏をする団体だから、あの版を選んだ」ということではないでしょうか。そういう意味では、お似合い。
鈴木 演奏は、弦楽器はやはりうまいです。でもピアノはこのアレンジではもっとうまく弾くのは困難では?
グールドのベートーヴェンの初期ソナタの解釈のように、想定楽器に合わせて音色を変えることは可能でしょう。また、和音はおダンゴにしてほしくないですよねえ。
鈴木 結論としては、ソヴィエト時代の学生アンサンブルのために引っぱり出した(これは推測ですが)アレンジをCD化しても、あまり面白くなかった。
編曲者が、「自分たちのピアノトリオのために編曲した」という文章をライナーに寄せてませんでしたっけ?(国内盤ではカットされている?)
野々村 で、15番の当時のソ連国内での評価は、どうだったんでしょうか?
工藤 少なくとも、何らかの批判を引き起こすような否定的な評価はなかったはずです。
じゃあ、「作品の生き残りのための編曲」ではなさそうですね。
工藤 むしろ、国外の人達、特に西側の人達は14番の路線を期待していたために、肩すかしをくらったような印象を持ったようですね。
私は、14番よりも15番の方がずっといい曲だと思いますが。ただ、14番を書いたからこそ、15番を書けたのでしょうが。
工藤 例えば弦楽四重奏曲第8番などでは、バルシャイ版の他にティンパニを含むものなども生前から出版・録音されており
それらにも、しかるべき作品番号が与えられているのですね?
野々村 「何かしようとする」のと「深く考える」のは似て非なる行為では?
工藤 確かに。その通りですね。最近のクレーメルは、悪い意味でのエキセントリックな方向に行き過ぎていると思います。
でも、なぜか世間受けはいい。その昔、まともなことをやっていた時代は、*エキセントリック*なんて批判されたのに...。
工藤 ベートーヴェンとかブラームスの協奏曲のようなオーソドックスな舞台でも十分に個性を発揮できていたのに…。やはり、“普通”のことはやりつくしてしまったので退屈なのでしょうか。
じゃあ、いい現代曲を演奏しろよ!!ツルんでいるゴミ作曲家じゃなくて。
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| 鈴木 |
野々村 編曲者が、「自分たちのピアノトリオのために編曲した」という文章をライナーに寄せてませんでしたっけ?
すみません。小生の持っているのは輸入盤です。元々ライナーは必要ないときには、読まない習慣がついてしまいして。でも、これはライナーを読んでおいた方が良かったですね。でも、あくまで推測なんですが、ピアノトリオは分かりますが、パーカッションはどうなのだろう。ソレを含めた上での編曲だとすれば、ただ、いい曲だから編曲したとか、自分のトリオのレパートリーのために編曲したとは、アンサンブルでは目的が分からない恨みがあります。そのため、小生は教育目的が大きかったんではないかと推測したのですが、これは、編曲者に聞かなければ分かりませんね。
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| 工藤 |
野々村 じゃあ、「作品の生き残りのための編曲」ではなさそうですね。
そうです。もっとも僕の頭の中では、それに該当する作品はありません。13番の交響曲や、森の歌などの歌詞改変も「編曲」と同じ範疇に入れてしまうのならば別ですが。基本的に一度完成した曲に手を入れるのは大嫌いだったようですし。13番の改変についてはコンドラシンの回想記が面白いですが、最近出版された「驚くべきショスタコーヴィチ」にも詳しいです。
工藤 例えば弦楽四重奏曲第8番などでは、バルシャイ版の他にティンパニを含むものなども生前から出版・録音されており
野々村 それらにも、しかるべき作品番号が与えられているのですね?
この曲の場合、番号がついているのはバルシャイ版だけです。ただし、バルシャイ版は生前には公開演奏されていないと思います。作品番号については、やや不明なことがあり、例えば映画音楽の組曲版はショスタコ本人の編集ではないのですが、それらすべてについて作品×aという番号が与えられているのがショスタコの了解に基づいているのかどうかは、少なくとも僕は知りません。ただ、少なくとも共産党員なってから以降のショスタコの作品については、大衆歌曲を除いては本人の了承なしに編曲物が出版されたり録音されたりすることはできなかったと推測されます。
なお、編曲に対する承認ということについては、基本的に僕の考えを述べているまでです。はっきりとした根拠となる資料がないので、関連する話から想像している部分があります。やや断定的な口調で書いてしまった部分もあるので、誤解を招いてしまったかもしれません。申し訳ありませんでした。ヴィオリストのV.メンデルスゾーンが、ヴィオラ・ソナタをヴィオラソロを持つ弦楽合奏曲として編曲したCDがあります。まったくもって聴くに耐えないシロモノなのですが、ジャケットには“Op. 147bis”とありました。まあ、これは特別悪質な例でしょう。
野々村 じゃあ、いい現代曲を演奏しろよ!!ツルんでいるゴミ作曲家じゃなくて。
少なくとも、作品の価値を引き上げるような演奏をするよう努力をすべきだとは思います。それが演奏家の“良心”だと思うのですが。
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