No. 4 : Shostakovich [Derevianko] Symphony No. 15



DG 449 966-2 Shostakovich : Symphony No.15
(Deutsche Grammophon 449 966-2)
1. A.Schnittke : Prelude in Memoriam Dmtri Shostakovich
2. D.Shostakovich : Symphony No.15 op.141bis [arr.: V.Derevianko]

Gidon Kremer (vn), Clemens Hagen (vc), Vadim Sakharov (pf, celesta)
Peter Sadlo, Edger Guggeis, Mihael Gärtner (prc)





 発言者 : 鈴木(モデレータ)、斉諧生、佐々木、野々村、工藤、浮月斎



鈴木 お次はクレーメル他のショスタコ交響曲第15番(室内楽版)を始めたいと思います。

斉諧生 このCDを論じるには、「編曲」という行為の持つ意味、という観点を持ち込まざるを得ないでしょうね。編曲には2種あると思います。

A:編成を拡大する編曲
B:編成を縮小する編曲

Aの意味は簡単です。音源から提供する情報量を(時には飛躍的に)増大させて、原曲作曲時の音楽的想念(ファンタジー)を解放するわけです。上手に解放した編曲は原曲以上に愛好され(「展覧会の絵」)、解放できなかった編曲(かえってファンタジーを限定してしまう編曲)は、下手物扱いされる(ストコフスキーのバッハ)。
ではBは?
元来は原曲を簡便に再生する意味があったでしょうが、レコードの普及によって、これはナンセンスになってしまいました。この種の編曲の現代的意味は、次の3つに集約されると考えます。

1:奏者の妙技を発揮する(例:カツァリスのベートーヴェン/リスト演奏)
2:異なった音色感を愛でる(例:モーツァルト・オペラの管楽合奏編)
3:音楽構造の明確化により、その意味を再発見する(例:「春の祭典」の2台ピアノ版)

(もちろん、3つの複合型も存在します)

さて、このデレヴィアンコによる編曲ですが、その動機は19世紀的に「簡便な再生用」だったわけです(もちろん党との関係で原曲が演奏困難に陥ることも想定される中では、曲自体の生き残りを懸けた行為だったかもしれません。)。
では、体制崩壊後において演奏・録音し、CDを再生する行為に付与された意味は、何なのでしょうか?皆さんの御意見を伺いたいと思います。

野々村 このCDを論じる際にまず触れるべきは、編曲のあり方だろう。この室内楽版は作曲者自身の手によるものではない。初演のプロセスに立ち会ったピアニストが、原曲のテクスチュアの薄さをこれ幸いと、自らのピアノトリオのレパートリーに組み入れようとしたもので、彼も決して「この楽想は室内楽編成の方が適切」と思っていたわけではない。ショスタコ自身がこの編曲を歓迎し、op.141bisという作品番号を与えたことが、この版の「正当性」の根拠なのだろうが、それは時代状況を鑑みてしかるべく割り引いておくべきだろう。まず、交響曲第14番が当局から批判された記憶がまだ生々しい時期で、このような形の自作へのオマージュは素直に嬉しかっただろうし、泰西名曲の引用が頻出する原曲は、無能な指揮者の手にかかると風呂屋のペンキ絵のような無惨なものになってしまう恐れがあるので、譜面通りに演奏すれば少なくとも原曲のパロディックな味わいは保たれる室内楽版は、それなりに歓迎すべきものだったのかもしれない。

しかし、音が薄いから縮小編曲は簡単というのは素人の考え方で、実はこちらの方が難しい。大編成を刈り込むことには、原曲では音の海の中に埋もれていた構造に光が当たるというメリットがあるが、元々薄く、全ての音がはっきり聴き取れていたオーケストレーションをさらに薄くすると、「欠如」ばかりが目立つことになる。この編曲は、原則として弦のパートはヴァイオリンとチェロに、管のパートはピアノに移すが、オケの中からソロが立ち上ってくるような箇所ではピアノが和音を弾いて弦がソロを取る、というものであるが、弦楽合奏の中からヴァイオリンソロが聴こえてくるのと、ピアノの和音をバックにヴァイオリンを弾くのでは全然違うし、さまざまな管楽器の音色の使い分けは、ピアノの平板な音色では表現しようもない。しかも、管と弦のパートをピアノトリオにまで切り詰めた一方で、打楽器パートの音数はほぼ原曲通りなので、盛り上がってくるとどうしても打楽器パートが勝ったイケイケ音楽になってしまう。

結論としては、この室内楽編曲はわざわざ取り上げるようなものとは思えない。ザンデルリンクやハイティンクによる優れたオリジナルの録音を知っている者としては、なおさらである。あらためて、クレーメルの選曲センスを疑ってしまう。編曲者の経歴から見て、*ユダヤ系ロシア人コネクション*が発揮されたようだ。まあ、それでも、アダムズやシルヴェストロフの協奏曲を弾くよりはずっとましだが。ただ、演奏の水準はなかなかのもので、多彩な音色を駆使したクレーメルのヴァイオリンは冴えているし、斬り込みの鋭いハーゲンのチェロも安定感抜群。サハロフのピアノもソツなく、第3楽章の掛け合いは楽しめた。これでもう少し音楽に自発性があれば言うことなしであるが、そこはいまや「ロッケンハウスの仲間たち」ではなく「クレメラータ・ムジカ」なので、しかたないかもしれない。吉野直子とのデュオアルバム『Insomnia』を聴いて、迷走するクレーメルはいよいよテクニックにも陰りが....と思っていたのでこれで一安心、と書こうとして録音データを見たら、今回の録音の方が1年近く前なんですね。まだ安心はできない。なお、カップリングのシュニトケの小品に関しては、特に申し上げることはございません。この時期の彼はこういうのを量産していたのね、というだけ。この選曲だって、*ユダヤ系ロシア人コネクション*の一環なわけで。

浮月斎 まず手付け的な感想を。

斉諧生 このCDを論じるには、「編曲」という行為の持つ意味、という観点を持ち込まざるを得ないでしょうね。
やはりこういうことになりますね。でもこのディスクを聴いていると、編曲自体が様々なパロディ・モチーフを煮込んだ交響曲の親密な展開化などというよりも、単純に奏者その人たちにライトスポットを当てるだけの空しいものよとまず実感しました。
大体、パーカッションはそのままにというのが妙です。最初からプロポーションのとれた室内楽編曲などを考慮していない訳で、そのあたりのいびつさに仕掛けがあるのかと思いました。が、それも判然としません。しかし、割り切って聴くと意外と楽しめたりしました。それもやはりクレーメルとハーゲンのエッヂの鋭い音が楽しめるからでした。

斉諧生 体制崩壊後において演奏・録音し、CDを再生する行為に付与された意味は、何なのでしょうか?
この編曲の出生について私も事の詳細をよく知りませんでした。しかしここで、こういう形で取り上げられたのは、私なぞは「ロッケンハウス」の方々のレパートリー拡張路線かと単純に考えたに過ぎません。彼等にしてみれば、面白くてスリリングな題材を確実にひとつ手に入れたのではないかと思う次第。オーディオ的にも無邪気に楽しい部分がたくさんあって、そういう点では面白いといえますね。しかし、この曲の編曲という意味をその妥当性を考えると、

野々村 泰西名曲の引用が頻出する原曲は、無能な指揮者の手にかかると風呂屋のペンキ絵のような無惨なものになってしまう恐れがあるので、譜面通りに演奏すれば少なくとも原曲のパロディックな味わいは保たれる室内楽版は、それなりに歓迎すべきものだったのかもしれない
はまさにそのとおりでしょう。

原曲の15番がややもすると無意味なコラージュに陥りやすい分、室内楽は諧謔的なモチーフを平穏化して「曲の統体的体型」を知るという点はある程度成功しているとは思います。しかし、原曲を聴いている人からみれば、いまさら何を知るべしや?という問いがループしちゃうとは思いますがね。

鈴木 困っちゃったのは、小生、野々村さんとほぼ同じ意見なんですよね。反論張ろうと思っていたけど、小生には反論がない(^^;。小生にとってまるで面白くない編曲でした。演奏は、マアマアだと思うのですが...。

野々村 今回はあまり意見が出ないですね...。

斉諧生 編成を縮小する編曲は元来は原曲を簡便に再生する意味があったでしょうが、レコードの普及によって、これはナンセンスになってしまいました。
「編成が固定された室内楽団体のレパートリー拡充」という欲求は常に存在して、これは現代においてもナンセンスとは言えないのではないでしょうか?もちろん、クラシック音楽の枠内での話ですが。

斉諧生 では、体制崩壊後において演奏・録音し、CDを再生する行為に付与された意味は、何なのでしょうか?
「クレーメルマニアのコレクターズ・アイテム」:-)。

浮月斎 大体、パーカッションはそのままにというのが妙です。
単に、あの編曲者が打楽器の音色感を他楽器に置き換えるだけの技術を持っていなかったせいだと思います。もし私が編曲するとしたら、「プリペアド・ピアノと弦楽四重奏」あたりでしょうか。

浮月斎 しかし、割り切って聴くと意外と楽しめたりしました。それもやはりクレーメルとハーゲンのエッヂの鋭い音が楽しめるからでした。
でも、その*楽しさ*は『1812年』と同系統の楽しさで、もはや原曲のニュアンスとは何の関係もありませんよね。そういう目的だったら、5番や9番を使った方が....。

斉諧生 体制崩壊後において演奏・録音し、CDを再生する行為に付与された意味は、何なのでしょうか?
浮月斎 しかしここで、こういう形で取り上げられたのは、私なぞは「ロッケンハウス」の方々のレパートリー拡張路線かと単純に考えたに過ぎません。
ロシアの現代作曲家によるピアノトリオのための作品は、デニソフの名作を始め、CD1枚分以上あるのですが....。

浮月斎 しかし、原曲を聴いている人からみれば、いまさら何を知るべしや?という問いがループしちゃうとは思いますがね。
ただ、この編曲を聴くと、原曲のオーケストレーションの巧みさをあらためて実感できますよね。もっとも、ザンデルリンク盤の解説によると、あのショスタコらしからぬ薄いオーケストレーションは、強度の背筋痛という非音楽的な身体的要因の産物だったそうですが。

工藤 では、さっそくショスタコについての感想を。
既に議論が始まっているように、ここでは“編曲”のあり方について考えることがどうしても必要になってくるでしょう。しかし、今回クレーメルがこの曲を取り上げた背景には何らかの問題提起があるのではなく、ただ単に他人のやっていないものを自分のレパートリーに入れてみようという程度の意識しかなかったと思われます。実際、企画だけ聞けば面白そうな試みであることは事実ですし、多くの批評を見てもその点が評価されていたような気がします。

ここでの演奏を聴く限り、クレーメルの求めていたことは恐らくほぼ実現されているのでしょう。最近の「魔王」他を収めたディスクやショスタコのヴァイオリン協奏曲の2番とシューマンのチェロ協奏曲とをカップリングしたものなどを挙げるまでもなく、楽譜を音にするということにおいては非常に高い次元で達成されており、今まであまり知られていなかった曲を紹介するという点においても恐らく満足のいく結果が得られたことでしょう(何たってDGですし)。

しかし、知名度と作品の出来とは必ずしも相関がないという立場を取れば(だからこそ、あまり知られていない曲を取り上げる価値がある)、逆に知名度の低いものばかりを取り上げることにも問題があるといえます。知名度の低い駄作は、少なくとも知名度の高い駄作よりは存在価値が低いでしょう。ですから、知名度の低い作品を取り上げるからには、芸術家の良心に基づいた十分な判断がなければいけないと思います。しかしながら、今回の選曲についてはそれがなされているとは思えないのです。室内楽の編成でショスタコを取り上げたいのならば、他にいくらでも曲があります。しかも、名曲であるとの評価が固まってさえいる交響曲第15番をわざわざ選ぶだけの必要性というものは、正直言ってどこにも感じられない。

とはいえ、僕のようにショスタコに関係するCDなら何でも買うという人、クレーメルの大ファンという人だったりしたら、やはり非常に興味をそそられるディスクでもあります。この辺り、商業的には無視することのできない商品だともいえるでしょう。

さて、実際の演奏とは関係ない話が長くなってしまいました。これから具体的な批評に入らせて頂きます。

まず編曲についてですが、今回の編成を取る限り、これは十分な出来だと思います。皆さんご存じだと思いますが、この交響曲は非常に室内楽的な響きがする一方で、作曲者が指定した弦の最小プルト数は極めて大きなものです。なぜこのような大編成が要求されているのかは、例えば4楽章のクライマックスを思い起こして頂ければ良く分かって頂けることと思います。これは、チェロ協奏曲第2番の終楽章などにも聴かれるように、まさにショスタコ特有の盛り上げ方で、これは物理的な音量がどうしても必要な部分です。これを室内楽で達成しようとするのには本質的な無理があります。ショスタコ本人はクライマックスの作り方が非常に巧みな人で、編成の大きさによっていくつかの方法を使い分けています。ピアノ三重奏曲第2番の終楽章などにも極めてスケールの大きなクライマックスがありますが、あれは交響曲で要求される音量がなくても十分に迫力が感じられるよう周到に計算された結果です。したがって、今回の編曲にそれと同様の効果を求めることには本質的な困難があります。だからこそ、この曲を取り上げたことだけでもクレーメルに深い考えがなかったとさえ言えるのです。

次に演奏ですが、全般にソツなくまとめられているという印象が強いのですが、クレーメルの音色の選び方には若干疑問があります。音色の種類を多くするためなのでしょうが、クレーメルが多用しているポンティチェロ奏法が、必ずしもショスタコの流儀に合っていない時があります。例えば3楽章などは、少なくとも僕にとってはやり過ぎと感じられました。そして、個性的なアップ・ボウと“つぎ足し”ボウイングによる独特のフレージングも、ショスタコの節回しにとっては決して効果的とはいえないように感じられます。このような演奏の印象は、クレーメルとショスタコとの相性に起因するものではありません。今回のカップリング曲であるシュニトケは、以前メロディアからショスタコのヴァイオリン・ソナタと一緒に発売されていました。そこでのクレーメルは、ともに曲の内容を十二分に捉えた快演を聴かせています。20年前にはそれが出来ていたのです。しかも演奏技術自体は、シュニトケを聴いた限りでは、今回の方がはるかに上であるにも関わらず。一体クレーメルに何があったのでしょうか。

その他の演奏者については、特に感想はありません。全員達者な演奏で、クレーメルのスタイルによく従っています。でも、それだけ。僕はハーゲン四重奏団の1st Vnがクレーメルの真似をし出してから彼らに対して疑問を持つようになっているのですが、彼らの中でももっとも技術・音楽性ともに兼ね合わせていると思われるチェリストまでもが、クレーメルの“猿”真似をしないよう、願うだけです。先日のファン=クーレンなんかは“猿”真似の典型だと思います。全く評価できない。デビュー当時のモーツァルトの協奏曲なんてみずみずしくて良かったのに...。

ということで、ショスタコ・マニアかクレーメル・ファン以外には全くお薦めできないというのが僕の感想。やはり、ザンデルリンクの新旧両盤、ムラヴィンスキー盤、ハイティンク盤などを聴いてもらいたいです。しかも、これらは今回のクレーメル盤より安価で手に入ります。

工藤 皆さんの意見に対して若干コメントさせて頂きます。

斉諧生 さて、このデレヴィアンコによる編曲ですが、その動機は19世紀的に「簡便な再生用」だったわけです。
でも、「家庭用」という訳ではありませんよね。

斉諧生 もちろん党との関係で原曲が演奏困難に陥ることも想定される中では、曲自体の生き残りを懸けた行為だったかもしれません。
それに関しては、作曲者自身による2台ピアノ版というものもありますし、何も他人の手を借りなくても良かったはずです。第一、交響曲でも13番は題材が題材だっただけに問題になりましたが、14番以降の作品ではショスタコの国際的な評価との兼ね合いもあり、そう露骨に党が演奏禁止などの措置を取ることはできなくなっていたと思います。それに、15番は特にはっきりとした標題性を持っている訳ではなく、実際に初演後の演奏回数も比較的多かったはずです。13番以降決別していたムラヴィンスキーが取り上げたこともその要因の一つでしょうが。

斉諧生 では、体制崩壊後において演奏・録音し、CDを再生する行為に付与された意味は、何なのでしょうか?
“体制崩壊後”ということには何の意味もないでしょう。あるとしたら、そのように深読みしてもらうことで演奏そのものに対する評価を好転させようとすることくらいでしょうか。アファナシェフよりはずっと腹黒い(^^)。

浮月斎 しかしここで、こういう形で取り上げられたのは、私なぞは「ロッケンハウス」の方々のレパートリー拡張路線かと単純に考えたに過ぎません。彼等にしてみれば、面白くてスリリングな題材を確実にひとつ手に入れたのではないかと思う次第。
まさに、それだけでしょう。僕もメンバーが揃って楽譜が手に入れられれば、弾いてみたいと思いますもの(^^)。

野々村 泰西名曲の引用が頻出する原曲は、無能な指揮者の手にかかると風呂屋のペンキ絵のような無惨なものになってしまう恐れがあるので、譜面通りに演奏すれば少なくとも原曲のパロディックな味わいは保たれる室内楽版は、それなりに歓迎すべきものだったのかもしれない。
浮月斎 はまさにそのとおりでしょう。原曲の15番がややもすると無意味なコラージュに陥りやすい分、室内楽は諧謔的なモチーフを平穏化して「曲の統体的体型」を知るという点はある程度成功しているとは思います。
でも、今回のクレーメルのように勝手な色づけをしてしまえば、そのような編曲の意図はすべて台無しになってしまいますよね。第一、ショスタコは署名とか承認とかいったことには極めて無頓着で、よほどのことがない限りはノーとは言わなかったことにも注意すべきです。

鈴木 ショスタコの室内楽盤交響曲は、小生にはまるでペケでした。室内楽盤ショスタコ交響曲には大いに期待していたのですが、クレーメル他の演奏は最後まで聴き通せない。聴かなきゃという義務感も感じていたのに(^^;。なぜか途中でストップを押してしまいます。感覚的な話で申し訳ないですが、聴いていてイラ立ってしまうのです。原曲はザンテルリンクで聴いていて、そんなことはないのですが、室内楽盤は最後までなかなか聴けない。個々のフレーズはパロディックでなかなか面白いのになぜなんだろう、ということでご猶予を。なかなか集中して聴けないこともイラ立ちの原因かなあ。

野々村 工藤 まず編曲についてですが、今回の編成を取る限り、これは十分な出来だと思います。
しかし、ピアノトリオの方はともかく、あれだけの打楽器はそんなに簡単には用意できないので、あの編成を取ったこと自体も、議論されるべきでしょう。

工藤 だからこそ、この曲を取り上げたことだけでもクレーメルに深い考えがなかったとさえ言えるのです。
そもそも、彼って深く考える人でしたっけ?深いことは何も考えていないけど、知り合いの現代作曲家は熱心に紹介したがるあたり、アバドみたいな人かと思っていた。

工藤 クレーメルの音色の選び方には若干疑問があります。(中略)ショスタコの節回しにとっては決して効果的とはいえないように感じられます。
確かに、約10年前のSQ15番の録音では、もっと作品の意図に沿った音色を使っていたと思います。しかし、今回の録音は、あの版を選択した時点で、もう「ショスタコの流儀」なんて、どうでもいいのでは?あの編曲で特に致命的なのは第2&4楽章で、それは演奏でカバーできるようなものではないので、残る楽章を*明るく華やかに*演奏する姿勢は理解できますが。彼のこの種の音色選択がさらに不適切に感じられた録音としては、『ピアソラへのオマージュ』(ELEKTRA/NONESUCH)が挙げられます。本人はセールストークで「私の最高の録音」とか称していましたが、どこから見ても最低の録音でした。最近発売された第2集は、幾分持ち直した(とは言っても単なるサロン音楽で、ピアソラの自演と比べられるような代物ではない)ように感じられましたが。

工藤 このような演奏の印象は、クレーメルとショスタコとの相性に起因するものではありません。(中略)20年前にはそれが出来ていたのです。しかも演奏技術自体は、シュニトケを聴いた限りでは、今回の方がはるかに上であるにも関わらず。一体クレーメルに何があったのでしょうか。
彼の*お気楽路線*は、デュオのパートナーをアファナシエフからマイセンベルクに替えたあたりで、すでに始まっていたと思います。今回のカップリング曲の旧録音は聴いたことがありませんが、私が知っている彼のシュニトケ作品の録音(Vn.協奏曲第3番,室内協奏曲第1番,Vn.ソナタ第2番の拡大編曲)を聴く限りは、彼はあまり良いシュニトケ奏者ではないような気がします。いすれの作品でも、BIS盤がベター。





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