No. 3 : Afanassiev " Homages & Ecstasies "


COCO-80603 Homages & Ecstasies
(DENON COCO-80603)
Froberger, Wagner/Liszt, Rachmaninov, Scriabin, Schumann
Grieg, Chopin, Debussy, Liszt, Tchaikovsky, Wagner

Valery Afanassiev (pf)





 発言者 : 鈴木(モデレータ)、斉諧生、佐々木、野々村、工藤、浮月斎

  ※この合評会の編輯は、ディスク提案者の野々村さんによるものです。



[本編]

鈴木 小生ベートーヴェンのバガテルからアファナシエフのファンで、よく聴いている方だと思います。ただ、シューマンとムソルグスキー「展覧会の絵」は、グロテスクなジャケットが災いしてか、聞かなきゃなあと思いつつ購入していません。それは、芸術という形式に対してのポーズが鼻につくところがあるからだと思います。でも、これだけのピアニストはざらにはいない。今度のは、小曲ばかりを集めて、亡き大ピアニストから得たエクスタシーを自分なりに再現する、そしてその成果を各ピアニストに捧げるという、非常に企画物的な内容です(^^;。

アファナシエフのピアノは思い入れたっぷりで、サラリとした感触の音楽ではありませんが、一曲々々がなかなかに素晴らしく、小生聴き惚れてしまっています。この思い入れを気に食わないひともあるあるでしょうが、ロマン味たっぷりで、しかもメロディの歌わせ方、ペダルの使用方法など、呼吸を感じさせて、音楽の中に引き入れてしまう希有なピアニストではあると思います。

斉諧生 ピアノ曲に疎い私としては(収録曲でいうと、グリーグのギレリス盤とチャイコフスキーの誰かのがあるだけで、後は未知の曲)、皆さんが発言される前に言ってしまうのが得策だろうと...。まとまらないので箇条書き風に。

  1. 曲の配列が上手で、移り変わりに違和感がありません。相変らず頭脳派(知能犯というべきか)ですね。
  2. 標準的なテンポを知らないのですが、シューマンとドビュッシーはかなり遅く取っているのではないでしょうか。特にドビュッシーは和音の響きだけで勝負、という趣き。
  3. グリーグについてはギレリスと比べましたが、「さすらい人」の慰藉の音楽など、やっぱりギレリスの方が真っ当な演奏ですよね。
  4. 素直によい曲、よい音楽だなと思ったのは、フローベルガー、ラフマニノフ、チャイコフスキーでした。
  5. アファナシェフって、変にぎくしゃくした感じに弾くことがありますね(特に左手)。これに違和感を覚えるか、その「間」を詩情に感じるかが、評価の分かれ目ではないでしょうか。

野々村 この録音を聴く限り、アファナシエフというピアニストはすっかり変わってしまったと言わざるを得ない。すなわち、彼の従来のスタイルでは魅力的に響いたはずのフローベルガー、シューマン、ショパン、ドビュッシーの解釈が軒並み退屈で、その一方で数年前までの彼なら見向きもしなかった筈のリスト、ワグナー、ラフマニノフの作品は実に味わい深く演奏されているのである。

中期バロックの作曲家フローベルガーなどは、彼の得意分野のはずなのだが、過度にロマンティックな色付けのため、対位法の効果が生きてこない。シューマンとショパンも、*大ピアニストのn回目の全集*の類よりはましかもしれないが、平板な音色とありふれたダイナミクスで、全然物足りない。あの『クライスレリアーナ』の衝撃はどこに行ってしまったのか。そして、ドビュッシーの『雪の上の歩み』は、クズと言い切れる解釈である。ただ遅いだけで何の工夫もない。1994年の来日時の解釈では、テンポの極端な遅さは変わらないものの、多彩な音色を駆使して立体的な音楽を作り上げていたのに。そもそも、足を引きずるような重たい音型がこの曲の特徴なのだから、「実は速いのに遅いと思わせる」のがプロの芸のはずだ。

これに対して、今回一番印象的だったのが、ラフマニノフの2つの前奏曲。まっすぐに伸ばした指でしか得られない絹のような伴奏部のタッチと粒立ちの良い旋律部の対比が実に美しい。『森の情景』『ブラームス後期』といった彼のピーク時の録音が思い出されるが、音色の豊かさと声部の整理のされ方では、これらすら凌駕しているかもしれない。このようなアンコールピースが聴ければ、どんなに酷いコンサートでも許してしまうので、このCDも許しましょう :-)。

リストとワグナーの小品では、むしろ意図的に単調な音色で、微妙な和声の変化を淡々と聴かせてくれる。特にワグナー作品の解釈は、響きをそぎ落としすぎのようにも聴こえるが(比較試聴対象なし)、これが現在のアファナシエフの美学なのだろうか。シューベルトのソナタやベートーヴェンのバガテルなどの、一見平明で単調な譜面から深い意味を引き出していたかつての姿勢とは対照的だ。チャイコフスキー、グリーグ、スクリャービンの作品は、特に印象には残っていないが、これは作品の限界でもあるのだろう。しかし、このスクリャービンの『前奏曲集 op.11』も、ホロヴィッツの録音では面白く聴けるので、演奏に思い入れが足りないという面もありそうだ。要するに、これらの作品は「箸休め」として収録されたということなのだろうが、やはり一昔前までのアファナシエフならば、このような行為は絶対にしなかった筈である。それではと、恒例の自筆ライナーノートを読んでみると、「最近の若い演奏家には音楽的な雰囲気が欠けている」などというジジイの繰言が臆面もなく書かれているようでは、彼の先行きが心配になってしまう。

浮月斎 アフアナシエフ、なかなか楽しませてくれますね。自作の文芸をさりげなく強烈に売り込むあたりももはや常套手段でしょうか。まず、音楽の前にライナーについて。また「オーセンティック」批判が出ていますが、アファナシェフほどの人がなんでそんなちっぽけなものに拘泥するのかと平均律以来思っておりました。しかし、今回のライナーにはキーワードが2つあって、それはエクスタシィとリアルという言葉にあります。エクスタシスは原義的に自己内在化への途−即ち自己の中に崇高なる存在を探究・合一することであり、それを真実在(リアル)と彼自身が語ることにより、彼が捧げたオマージュのピアニスト達を自分の自己内在化の極みに生き生きとよみがえらせたということを言いたいのでしょう。

野々村 シューベルトのソナタやベートーヴェンのバガテルなどの、一見平明で単調な譜面から深い意味を引き出していたかつての姿勢とは対照的だ。
そういう気はしますね。小品集だからコンセプト変えたのかなと思うくらい、抉るような解釈はなく、淡々としていました。ピアノの音がいつもより透明に感じるのはそのせいでしょうか。だから冒頭のフローベルガーなんか期待していたけれど、意外と面白くなかったですね。

で、私も一番驚いたのは何よりラフマニノフでして、特にト長調の本当に羽が暖かな風にのるかのごとき、これ以上ないような淡く抒情細かな清涼感がとても素晴らしかったと思います。ラフマニノフがよかったのでスクリャービンに期待したら、何とまぁルフトパウゼの長いこと!あれでは揮発してしまいます。香りも淡いし。リストのコンソレーションはその淡々と弾く味わいから出てくる自省的な和音美に何とも言えないよさはありました。が、こういうのを期待してアファナシェフを聴く人っているんですかね?チャイコフスキーの舟歌は何だかシベリウスを聴いている錯覚になりまして、逆にこういうのもいいなぁと(個人的にはやや厭世的薄暗さのあるプレトニェフ盤が好きだったりするが)。

佐々木 確かに、手元にある、シューベルトの18、21、ブラームスの小品集などに比べると浮月斎さん、野々村さんの言われるように随分淡々と弾いている感がありますね。シューベルト『幻想ソナタ』の緩徐楽章など、淡々と弾く中にも「怖さ」を感じましたが、今回はああいう凄みは無かったですねぇ。

まず、印象に残ったものから...ラフマニノフはあまり聴かないんですが面白かったですし、リスト、チャイコフスキーも、重々しいドビュッシーの後というのもあってこの馴染んだメロディをゆったりと弾かれるのに思わず聞き惚れてしまいます。逆にグリーグ、ショパンは密度が薄いというか、このあたりに限界があるのかなぁと。シューマンも、第2変奏あたりからは求心力不足を感じますし、最後の和音を打ち続けるところもいつものアファナシエフに比べると随分生温い感じがします。フローベルガー、ワーグナー、スクリャービン、ドビュッシーについてはこんなものかなぁという程度でした。

とは言っても、やはりアファナシエフ独特の「間」はどの曲にも感じられますし、ひとつひとつの曲ではいろいろ不満な点もあるのですが、全曲通して聴くと、私にはなかなか楽しめるアルバムでした。

鈴木 結局アファナシエフって、気になるピアニストだということは確かだと思います。ただ、同時代に生きているピアニストとして、その変質して行く様を我々見るわけで、野々村さんのように、その変質をいちいち批判されていたんじゃあたまらないなあ、と思うのも事実です。小生も、現代美術と言われる部分で、当時、若い作家に開放的だった、神田、眞木画廊やときわ画廊で、音を使った実験をやっていた方ですので、表現者というのは、驚くほど変化をする、変化をしないヤツは自己模倣に陥ってしまったヤツだ、という鉄則があるということを身に滲みて分かっています。アファナシエフだって変化するのは当たり前です。

芸術家と呼ばれる人間は、死んでから初めてその評価が始まります。忘れ去られるか、残るか。それだけです。演奏者としてのアファナシエフは、その記録は、恐らく残るでしょう。(これでも、小生の予言はけっこう当たる(^^;)。野々村バリアを作らなきゃ。(^^;;;;;

佐々木 鈴木 ただ、同時代に生きているピアニストとして、その変質して行く様を我々見るわけで、野々村さんのように、その変質をいちいち批判されていたんじゃあたまらないなあ、と思うのも事実です。(中略)アファナシエフだって変化するのは当たり前です。
私は、小品集だし、そもそもこういうコンセプトなのかと思って聴きました。確かに満足いかない演奏もありますが録音するものすべてが素晴らしいなんてことはあり得ない訳ですから。

鈴木 その記録は、恐らく残るでしょう。
同感です。シューベルトだけでも残るでしょう。

野々村 鈴木 野々村さんのように、その変質をいちいち批判されていたんじゃあたまらないなあ、と思うのも事実です。
「変わるのはけしからん」なんて言ってはいません。「変わって悪くなったのは残念だ」ということです。

鈴木 表現者というのは、驚くほど変化をする、変化をしないヤツは自己模倣に陥ってしまったヤツだ、という鉄則があるということを身に滲みて分かっています。アファナシエフだって変化するのは当たり前です。
その通りです。しかし、今までできていたことができなくなることを喜ぶわけにはいきません。例えばポリーニの1980年代後半の*変化*は、到底褒められたものではありませんね。

鈴木 野々村バリアを作らなきゃ(^^;;;;;
あくまでファンゆえの苦言なので、そこんとこよろしく。*批判*とは言っても、私の場合には、高い期待ゆえです。

佐々木 とは言っても、やはりアファナシエフ独特の「間」はどの曲にも感じられますし、ひとつひとつの曲では、いろいろ不満な点もあるのですが全曲通して聴くと、私にはなかなか楽しめるアルバムでした。
私も、あれが他ならぬアファナシエフのアルバムでなければ、「なかなか楽しめていいんじゃないかな、ラフマニノフの解釈は素晴らしいし」なんて肯定的な評を書いたのかも。

佐々木 確かに満足いかない演奏もありますが録音するものすべてが素晴らしいなんてことはあり得ない訳ですから。
レコード会社との録音契約を果たすために録音しまくっているならともかく、彼のDENON録音は*趣味の演奏記録*なのだから、納得のいかないものは出さないことも可能なはずです。今回のリリースが、自作の詩の朗読の間にラフマニノフとリストの録音だけを忍ばせるようなものだったら、おそらくもっと肯定的な評価をしていたはず。

工藤 まず最初にお断りしておりたいのは、はじめから他人の意見に影響された批評をするのも面白くないので、皆さんのmailの批評の部分はまだ読んでいないということです。したがって、もし相反する意見があったとしても、それは決してある批評に対する反論ではありません。それから、このようなピアノの小品集の類はまともに聴いたことがありません。また、収録されている曲もアイデンティファイできる程聴き込んだものは、一つもありません。

アファナシェフの演奏自体もブラームスの作品116を友人の家で聴いたことがあるだけです。ということで、何らかの比較対象を持った批評にはなりえませんが、お含みおき下さい。本来、僕はいわゆる“文学的な”音楽の聴き方は好きではありません。ですから、あるアルバムを聴く時に演奏者の意図というものを過度に推測することはめったにしません。しかし少なくともこのディスクに関しては、アファナシェフの強い主張というものを無視してしまう訳にはいかないようです。

そこで今回は、ライナーの内容や「オマージュ&エクスタシー」というタイトルを常に意識しながら演奏を聴くように心がけてみました。まず最初に思ったことは、音が奇麗だということ。そしてそれぞれの曲に対して恐らくふさわしいと思われる音色が選択されているということ。このことは、このディスクが良質のBGMとしての価値を持っていることを示していると思います。ましてや夏のクソ暑い時期に発売されたことを考えあわせるとなおさら。

しかし、やたらと深刻ぶったライナーに見合うような聴き方をすると、途端に曲の掘り下げの浅さが気になる部分が出てきます。まずは音色。上述したように基本的な音色は周到に選ばれており、雰囲気を台無しにするようなことはないのですが、曲の中での変化に乏しく、平板にさえ聴こえる曲が多い。

曲の色づけは専らデュナーミクと、時として不自然に感じられる間にばかり頼っていて、ピアノ曲らしい味わいに不足する傾向もある(ピアニスティックな曲ばかりであるにもかかわらず)。また、遅めのテンポが必ずしも効果を上げていないような気もします。ショパンなどにそれを感じました。

ライナーでは「エクスタシー」という言葉が強調されていましたが、このアルバム全体を通してそれを感じることは、僕にはできませんでした。しかし、ラフマニノフとリストに関しては全く違う印象。演奏の出来が他の曲とは比べ物にならない。この4曲を聴いた後(あるいは最中)には「エクスタシー」を感じることができる。縦の線と横の線との絡みやバランスが巧妙に整えられていて、まさにピアノでしか味わえない楽しさを味わせてくれます。はじめに敢えて“BGM”という表現を使ったのは、上記4曲以外は(製作者側の意思には反するのでしょうが)それ位の態度で臨んで聴くと丁度良い感じで聴けるのではないかと思ったからです。ということで、僕の評価は“準推薦”と“注目”の間。

鈴木 アファナシエフに対して、ほぼみんな同じような評価だったのには驚き入りました(^^;。工藤さんのご意見、準推薦と注目の間というのが、なんか結論のようですね。小生、実はアファナシエフのこの盤、暗めのイージーリスニングとして聞いてしまっていたようです。このCD悪くはありません。
ただアファナシエフご本人のライナーノートでも分かるように、大曲の大仰な演奏ではなく、非常に散文的なCDであったという印象です。1曲1曲は、曲によって、「もう少し」てなところがありますが、ポーズが気になるところはあっても(小生だけか?)、全体の構成は悪くないし、各人、それぞれの曲への思い入れは異なっていますが、納得できる曲もあるし、そうでないものもある。暗めのイージーリスニングということでは、良くできたアルバムだと思います。

野々村 *批判*とは言っても、私の場合には、高い期待ゆえです。
期待の星というのはよく分かります。ほんとだよね、小生もずいぶん期待しています。特に、アファナシエフには。

斉諧生 アファナシェフ盤に対する6人の評価をまとめれば、

◎(ほとんどの人が評価):ラフマニノフ、リスト
○(人によっては評価):フローベルガー、ワグナー、チャイコフスキー
×(否定的評価多し):シューマン、グリーグ、ショパン、ドビュッシー

という感じでしたでしょうか。

鈴木 ほぼみんな同じような評価だったのには驚き入りました(^^;。
前回は割れましたからね。意外でした。

浮月斎 野々村 今回のリリースが、自作の詩の朗読の間にラフマニノフとリストの録音だけを忍ばせるようなものだったら、おそらくもっと肯定的な評価をしていたはず。
そういう方が遥かに面白かったでしょうね。しかし、そうであったか否かに拘らず、今回ここで聴くことなければ多分買わなかったでしょうね、このアルバムは。アファナシエフは面白いとは思いますが、彼は自分が批判している「オーセンティック」なるもののアンチテーゼの次元に逆に止住してしまった気がします。
むしろ今回のアルバムの方が、とても彼の想像力の素直な持ち味が出ていました。そのいい悪いは作品の限界もありますが、私には結果的に彼の限界でもあるような気がします。そこがグールドとの格差だと思うんですけれどね。

野々村 鈴木 小生もずいぶん期待しています。特に、アファナシエフには。
クレーメルと仕事をしていた頃は、掛け値なしに良かったと思いますが、ここ数年は、色々な意味で贅肉が付きすぎているような気がします。まだまだ、いい音は出せるのに。

浮月斎 むしろ今回のアルバムの方がとても彼の想像力の素直な持ち味が出ていました。そのいい悪いは作品の限界もありますが、私には結果的に彼の限界でもあるような気がします。そこがグールドとの格差だと思うんですけれどね。
ステージを降りてからのグールドは、自分の土俵の中だけで相撲を取っていたのでボロが出なかった、という側面もなくはないと思いますが。

工藤
ライナーで述べられている“思想”って、どの位実際の音に反映されているのでしょうか。前にも言った通り、アファナシェフの他のディスクを持っていないのではっきりとは言えないのですが、少なくとも今回のディスクの場合はライナーの内容を演奏の中に聴きとることはできませんでした。
もっとも、ライナーの内容に拘り続けることで、出来の良くない演奏にも何らかの理由を見い出すことは可能かもしれませんが。

浮月斎 今回ここで聴くことなければ多分買わなかったでしょうね。
僕もそうだと思います。でも、全般に批判的な意見ばかり述べましたが、アファナシェフというピアニストには興味を持ったのも事実です。友人の家で聴いて以来気になっているブラームスとか、他のディスクも買ってみようかと考えているところです。

浮月斎 野々村 ステージを降りてからのグールドは、自分の土俵の中だけで相撲を取っていたのでボロが出なかった、という側面もなくはないと思いますが。
オーセンティック批判のフレームで比較した場合に、ということでご了解下さい。ここで言いたかったことは、グールドは−特にバッハで言えば−オーセンティックであったということです。現代思想の輩から担ぎ上げられて、一躍そうでない人のように思い違いされているが、オーセンティックな仕掛けがグールドのバッハの中で十分に結論が出ていると思いましたので。

工藤 ライナーで述べられている“思想”って、どの位実際の音に反映されているのでしょうか。
私としては彼の一文とディスク演奏とを相関させることに実は拘泥していません。むしろ、彼のライナーとはディスク内容のライトモチーフを彼の語彙によって敷延したもの程度に私は捉えています。面白いライナーのひとつだという程度で。私には、彼の「ライナーの内容を演奏の中に」真摯に聴きとろうとするのは、むしろ陥穽があるように思えます。幾分人を食ったような中味を笑い飛ばしながら、彼の文化的背景の暗示を紐解く程度にとどめておくべきでしょうね。

工藤 全般に批判的な意見ばかり述べましたが、アファナシェフというピアニストには興味を持ったのも事実です。
私もアファナシエフは気に入っています。野々村さんの「*批判*とは言っても、私の場合には、高い期待ゆえです」という心持ちは私も変わりありません。

鈴木 アファナシエフは、優れたピアニストであるのは間違いのない事実でしょう。ここで評判の悪いドビュッシーでさえ、えっ、このフレージング?このアーティキュレーション?という疑問を投げかけてくれただけでもたいしたものだと思います。
各曲の演奏評もみなさんのご意見はいちいちうなずけるのですが、一種のコンセプトアルバムの方法で作られた録音ですので、むしろ「全体を聞いてどういう感情を味わったか?」がこのCDの本来の評価であろうと思います。それがアファナシエフの目論見ではなかったか?アファナシエフの目指しているところは、恐らく音楽ではない。音楽は自身の表現手段として、環境として音楽を選んでいる。そういう感じです。

[雑談編]

浮月斎 今回のライナーにはキーワードが2つあって、それはエクスタシィとリアルという言葉にあります。エクスタシスは原義的に自己内在化への途−即ち自己の中に崇高なる存在を探究・合一することであり、それを真実在(リアル)と彼自身が語ることにより、彼が捧げたオマージュのピアニスト達を自分の自己内在化の極みに生き生きとよみがえらせたということを言いたいのでしょう。

野々村 だとすると、今回の真のコンセプトは、「言行不一致」でしょうか :-p

浮月斎 (爆)。でもそうでもないんじゃないですか。実存的なリアルさということでは。今日「レコ芸」を20年近く振りに立ち読みしましたが、濱田氏なんて完くあの文章の意味を理解できていませんね。ま、理解する必要もないけれど。(^^;

野々村 大半の解釈が、オマージュを捧げたピアニストのものよりも明らかに劣っているようでは...。
「いやいや、それは意図的なもので、だからこそ
『子供は親に追いつけない』と自筆ライナーにも
書かれていたのだ」なんてオチだったりして :-p

浮月斎 なるほど。これで全てが氷解しました。結果的にライナーには、いくつもの予防線が周到に張り巡らされていたという訳ですねぇ。

斉諧生 昨夜、町でばったり友人に会いまして、このMLの話などしておりました。アファナシェフのCDの話になった時、彼いわく『あの*コラージュ*のジャケットのやつ?』

彼はギレリスの写真のことを言っているのです。:-)。アファナシェフが素直にCDをこしらえるわけがない、というイメージが強いのでしょうね、ジャケットも。

浮月斎 グールドにフローベルガーとワーグナーっていうのは一体どういう意味なんでしょう?グールドは両曲ともやっているんですか?他は皆すぐディスクが想像できたのだけれど...。

斉諧生 ジークフリート牧歌、マイスタージンガー前奏曲などをピアノ編曲して演奏したLPが出てましたね。マイスタージンガーでは多重録音までやってました。柴田南雄先生は「これは観測気球で、本当にやりたいのはR・シュトラウスの交響詩のピアノ編曲だろう」と書いておられました。

浮月斎 なるほど。それは大いにありそうな気がしますね。関係ありませんが、クレムペラーによると、第1次大戦前のオペラハウスの指揮者雇用の際に、マーラーやシュトラウスのピアノ編曲ものを弾くのが流行っていたらしいですね。セルもシュトラウスに認められたのは、「ティル」をピアノで弾いていたところを聴かれたからだということらしいですが。

野々村 グールドは、スウェーリンクやバード&ギボンズの良い録音を残しているので、中期バロックとしては比較的対位法的なフローベルガーという選曲は納得できます。また、ワグナーは、指揮者としてもピアニストとしても、グールドはよく取り上げていたはずです。

浮月斎 という程度なのですね。いや私の思ったのは、直接にこれらの曲を演奏した記録でもあったのかという質問でして。でも、他のピアニストはともかく、グールドだけアナロジカルな選曲というのはなぜ?アナロジーでいくと、ジョン・ブルなんて面白いものがあるのに。

野々村 思うに、他のピアニストは生年順に並んでいるのに、一番若いグールドがトップバッターで、収録時間も断然長いですよね。アファナシエフにとっては、グールドだけが別格で、彼と同じものを弾くのは畏れ多いから、「彼がもっと生きていたら録音していたかもしれない曲」にしたのでは?

浮月斎 そうですね。私はアファナシエフがどれだけグールドに傾倒していたかは知る由もありませんが、このオマージュでのグールドの「特別な」扱い方に面白さと不思議さを感じていた次第です。

野々村 そう思って他のピアニストたちに割り振られた収録作品と収録時間を見ていくと、グールド>>ミケランジェリ、ホロヴィッツ、ラフマニノフ>>ソフロニツキー、ギレリス....というランキングまで付けられていると解釈したのですが、いかがでしょうか。

浮月斎 明察です。(^^;

野々村 そのくせ、カバー写真はギレリスという...人が悪いというかなんというか :-)

工藤 スクリャービンにしては健康的な音だと思ったのですが、曲が曲ですし。グールドがヴィデオで弾いているものなどと比べたりはできないですよね。しかし、あのヴィデオで漂ういかがわしさには、有無を言わせない説得力がありました。

浮月斎 大体、アファナシエフとグールドを全フレームごと比較するのは、ちょっとつらいですよね。

野々村 あえて比較するならば、工藤さんが言っておられたグールドの*いかがわしさ*というのは、けっこう重要なポイントかもしれませんね。ホロヴィッツにしてもミケランジェリにしても、そういうところは多分にあるわけで。





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