No. 2 : Maag conducts Mozart's latter symphonies


ARTS 47363-2 Mozart : Symphony No.40 & 41
(ARTS 47363-2)
1. Symphony No.40 g-moll K.550
2. Symphony No.41 C-dur "Jupiter" K.551

Orchestra di Padova del Veneto
Peter Maag (dir)


ARTS 47364-2 Mozart : Symphony No.38 & 39
(ARTS 47364-2)
1. Symphony No.38 D-dur "Prague" K.504
2. Symphony No.39 Es-dur K.543

Orchestra di Padova del Veneto
Peter Maag (dir)


ARTS 47365-2 Mozart : Symphony No.32, 35 & 36
(ARTS 47365-2)
1. Symphony No.32 G-dur K.318
2. Symphony No.35 D-dur "Haffner" K.385
3. Symphony No.36 C-dur "Linz" K.425

Orchestra di Padova del Veneto
Peter Maag (dir)





 発言者 : 浮月斎(モデレータ)、斉諧生、佐々木、鈴木

  ※なお、文中どおり鈴木は38番・39番のデイスク入手が間に合いませんでした。



浮月斎 さて、今回もそれがしが切り出します。私はとにかく今回このマークのモーツァルトに痛く感心しました。これは最近のモーツァルトの中でも出色のものと思いました。あの老齢でありながら、音楽の逞しいフレージングと質感、躍動感と濃厚な表現−特にホルンの強奏、弦の質感、強靭なダイナミクスなど非常に個性的で、古楽の演奏法を存分に取り入れているかのごとき強烈な印象があります。合奏のやや粗さなど全然目ではない。なるほど、マークは自分で好きなように納得の行くような指揮をしたかったのだなと感じました。
40番・41番などは古楽と現代オケの非常に豊かな止揚、39番はワルターっぽさもあるがもっと鄙びた力強さと濃厚さとがありますね。私は「プラーグ」が最も気に入りました。ダイナミクスとフレージングの素晴らしさ!セルのような精妙・巧緻な硬質のモーツァルトとまるで違うが、見事に統率された合奏力ということでは同質性を感じました。「リンツ」も最近の演奏にない、したたかな生命力を感じました。皆さんは如何でしょうか。

鈴木 斉諧生さんが詳しいレポートをくれると思いますが、小生40番から聞き始め、その40番にがっくりきました。小生の愛聴盤はセルですが、他の演奏は、どれもこれも緊張感が足りない。好きではないけれど、フルトヴェングラー位がセルの緊張感に対抗できる訴えを持っています。マークは、田舎の小学校の年輩の校長が一所懸命、朝礼で話をしている姿を思う浮かべ、あっ、しまった!40番から聴いてはいけないんだ!と反省しました。
次に聴いた、41番は、なかなか素晴らしい演奏ですね。「ハフナー」「リンツ」もいいですね。このように、40番とは違うモーツァルトのデーモニッシュ、アポロン的な表現はマークはさすがにうまいと思います。38番、39番は小生いまだに手にしていません。ARTSは、一時どっと大阪の市場に流れてきて、あっというまになくなってしまったという印象です。タワー梅田店のARTS在庫は、パラパラの状態です。小生、モーツァルトの交響曲では39番が最も好きなので、あればもう少し、なんのかんのと言えるのですが。

斉諧生 さて、マークのモーツァルトですが、最初に聴いたときは、『マークよ、お前もか!ブリュッヘンあたりの真似をするくらいなら、わざわざ録音しなくてもよいのに』という印象でした。ここで取り上げられることになってから、改めてスコア片手にじっくり聴いてみると、何の何の、実に芸が細かい。非常に個性的な表情が綿密についていますから、煩わく感じる向きもあるかもしれませんね。
40番の冒頭など、私はちょっと抵抗があります。弦楽器はフレージングからヴィヴラートの掛け方から完璧にコントロールされているし、管楽器もホルンを筆頭にシゴきぬかれており、音色の作り方、楽器間のバランス等、隅々までマークの意図が反映されている演奏でした。ちょうどティーレマンと比較試聴みたいになってしまって、気の毒でした。古楽器派が決してしないようなことも多く見られ、彼らの成果を参考にしつつ、自分が前からやってきたことを盛り込んでいった演奏ではないか、というのが2回目の印象でした。昔の38番のLPを聴き直してみたいと思います。つまり、またも浮月斎さんと意見の一致をみたわけです。

細かいことですが、あえて苦情を付け加えるならば、
1.「ハフナー」4楽章のテンポが遅く、con fuocoの趣がないこと。この曲はカザルス盤をベストと考えています。
2.39番4楽章のテーマに妙な休符みたいなのが入るのは、やりすぎでしょう。
3.「ジュピター」4楽章のフーガが中途半端に重くなるのは疑問。オーケストラの合奏能力に足を引っぱられたのかも。

佐々木 モーツァルトの交響曲については古楽系の演奏はほとんど聴いていませんし普段もあまり聴かないのですが...。マークのモーツァルトなんですが、どうも好きになれません。実に切り込みの鋭い表現でおっと思わせるような、感心するところが沢山あるのは確かなんですが、私の場合、もっと弦主体のまろやかな音色が好きなのです。
41番は特にそう感じましたが、ティンパニがうるさいしアクセントの鋭さがどうも馴染めません。39番の2楽章など素晴らしいんですが、やはり細かいアクセントなど、わずらわしく感じてしまいます。すごく意気込みを感じる表現なのに、全体として聴いた時にどうも満足感が残らないんです。なんだか曖昧な表現で申し訳ないですが。

斉諧生 弦楽器はフレージングからヴィヴラートの掛け方から完璧にコントロールされているし、管楽器もホルンを筆頭にシゴきぬかれており、音色の作り方、楽器間のバランス等、隅々までマークの意図が反映されている演奏でした について:
スコアを持ってないもので専門的な事はよく分かりませんが、音色と楽器間のバランスについてはどうも私には刺激的すぎる印象です。

斉諧生 古楽器派が決してしないようなことも多く見られ、彼らの成果を参考にしつつ、自分が前からやってきたことを盛り込んでいった演奏ではないか、というのが2回目の印象でした。
「古楽器派が決してしないようなこと」って例えばどんなことなんでしょうか?。

鈴木 佐々木さん。マークのモーツァルト、佐々木さんに合わないのは雰囲気的にもの凄くよく分かります。マークは、詩的ではない!どちらかというと非常に即物的な表現です。最近のオリジナル楽器での演奏の方が、詩的な部分がありますよね。でも、即物的な表現を知っていると、詩的な演奏の中にたまにあるウソを見抜く(聞き抜く?)ことが出来ます。マークは、詩的な部分を極力切り捨てて物理的な音を表現しています。
そのことは、ベートーヴェンの演奏でも同じです。「エロイカ」は小生のフェバリッツな曲目ですが、マークはまるでロマンティックではない。トスカニーニやギーレンと比較してもかなり、即物的です。そこにベートーヴェンの文学的な意味はない。でも、物理的な本質はあるわけで、マークを聴く面白さは、斉諧生さんの言われているように、スコアのどこをどのように表現すべきかを、即物的に聞くことが出来るということだと思うのです。

レコ芸で宇野氏がマークのモーツァルトを絶賛していますが、宇野氏の舌は短めですので読み手によく伝わらないのですが、恐らくスコアを見て、「ああ、ここはこう演奏すれば解決するんだ!」という演奏者からの視点で絶賛しているのではと思います。物理的な視点からの、聴き方が可能だからです。むしろ、佐々木さんにはホグウッドのモーツァルトが似合っています。絶対。マークは似合いません。セルも似合いませんし、ワルターも似合わないなあ。一度、古いけどデイヴィスを聞いてみてください。もしかしたら...

浮月斎 ちょっと鈴木さんのおっしゃる意味を測りかねているのですが...。

鈴木 マークは、詩的ではない!どちらかというと非常に即物的な表現です。最近のオリジナル楽器での演奏の方が、詩的な部分がありますよね。
そうですか?マークのフレージングの中にも旧時代風の濃厚な表現が沢山でてきますよ。この場合、芸の細かさを濃密に出し過ぎることに対してうんざりすることはあっても、「即物的」といわれるものとは別次元のような気がします。このマークで評価が分かれるとすれば、徹底してここまで思い存分やることに対して是とするか否とするかだけかもしれません。私はその過剰な大胆さが気に入りましたけれど。私はオリジナル(ピリオド)の方がきれいなだけで、よほど詩的想像力に欠けるような気がします。ブリュッヘンくらいしか楽しめませんけれど、それとてハイドンよりつまらない。

鈴木 マークを聞く面白さは、斉諧生さんの言われているように、スコアのどこをどのように表現すべきかを、即物的に聞くことが出来るということだと思うのです。
スコア片手に聴くと、この曲の演奏でこれをやっちゃいかんというもの以外、どれくらいの解釈の幅が許されるかという面白さがわかるという話ではないでしょうか。マークの場合、古楽のエッセンスも含めてあらゆる要素を一度全部煮込んでから、マークなりの方式で濾したような気がします。通常は、表現上切り捨てるエッセンスが多いのですが、マークの場合、かなり煮溶かしたものが多かったという気がします。

鈴木 レコ芸で宇野氏がマークのモーツァルトを絶賛していますが、宇野氏の舌は短めですので読み手によく伝わらないのですが。
それは読んでいませんが、宇野氏の絶賛か。そうだろうなぁ...。スコア云々よりも、宇野氏はもともとマークを評価していますからね。マークがあれだけ好きなことをやったんだから喜ぶでしょうね。マークは佐々木さんも評価されていなかったようですね。

佐々木 私の場合、もっと弦主体のまろやかな音色が好きなのです。41番は特にそう感じましたが、ティンパニがうるさいし、アクセントの鋭さがどうも馴染めません。
素直な流れになっていないというのはありますね。しかし、あのアクセントも結構私は楽しかったです。

佐々木 すごく意気込みを感じる表現なのに、全体として聴いた時にどうも満足感が残らないんです。
古楽の意匠をもう少しとれば評価がかわる可能性もありそうですね。でも、徹底したひとつのモーツァルト像という気はします。

鈴木 浮月斎 そうですか?マークのフレージングの中にも旧時代風の濃厚な表現が沢山でてきますよ。この場合、芸の細かさを濃密に出し過ぎることに対してうんざりすることはあっても、「即物的」といわれるものとは別次元のような気がします。(中略)ブリュッヘンくらいしか楽しめませんけれど、それとてハイドンよりつまらない。
確かに、ブリュッヘンは面白いけど、きれいなだけではない詩的な表現の演奏は結構たくさんあると思いますよ。ホグウッドは、全集として捉えると?の部分はあるけれど、第39番から第41番までのモーツァルト録音の最初期のものは結構楽しめます。小生、演奏楽器ノンポリなので、何が何でもピリオド楽器派ではありません。
マークの表現が「即物的」と言ったのは、実は、ここで浮月斎さんが書かれている意味においてです。スコアを読んで、自分の思いのまま(やりたいように)音にしちゃったという意味で、「旧時代風な濃厚な表現」という意味ではありません。でも小生、この録音からあまり「旧時代風な濃厚な表現」は感じませんでした。「旧時代風な濃厚な表現」なら、小生クナでいやというほど付き合っています。モーツァルトの演奏評価ってもの凄く難しいですね。他の作曲家と違い、好き嫌いがはっきり出やすいのかな。指揮者の解釈上の制約が生まれるのは、ベートーヴェン以降かも知れませんね。

浮月斎 マークの場合、古楽のエッセンスも含めてあらゆる要素を一度全部煮込んでから、マークなりの方式で濾したような気がします。通常は、表現上切り捨てるエッセンスが多いのですが、マークの場合、かなり煮溶かしたものが多かったという気がします。
これは、ちょっと意味が分かりません。もしそうなら、もっと透明な表現のモーツァルトになっていたのではと思います。あるはちょっと濁っちゃったという意味ですか?それから次のやり取りですが、

浮月斎 佐々木さんも評価されていなかったようですが。
佐々木 私の場合、もっと弦主体のまろやかな音色が好きなのです。41番は特にそう感じましたが、ティンパニがうるさいしアクセントの鋭さがどうも馴染めません。
浮月斎 しかし、あのアクセントも結構私は楽しかったです。
佐々木 すごく意気込みを感じる表現なのに、全体として聴いた時にどうも満足感が残らないんです。
浮月斎 古楽の意匠をもう少しとれば評価がかわる可能性もありそうですね。でも、徹底したひとつのモーツァルト像という気はします。
難しいな。モーツァルトで自分がどのような表現を聞いて充足感を覚えるか、現実、なかなか難しいです。小生、セルやデイヴィスで交響曲はけっこう満足感を味わっていますが、巷間評判の高いワルターでそのような満足感は感じないし、アーノンクールやブリュッヘンでもそうです。
まず、自分がモーツァルトのどんな曲からモーツァルトに入っていったのかが分かれば、案外、満足感の得られる演奏が割り出せるかも知れません。小生、クラリネット五重奏曲からモーツァルトにはまり込んだので(もちろん、それまでにもいろいろと聞いてはいましたが、はまりこむところまで行っていませんでした)、案外自分で好悪が分かりやすい。その上で、マークということになると、ちょっとモーツァルトへの自分の感覚と違うかなと感じます。でも、第41番のティンパニの音、小生好きですよ(^^;。案外。

浮月斎 鈴木 確かに、ブリュッヘンは面白いけど、きれいなだけではない詩的な表現の演奏は結構たくさんあると思いますよ。
「詩的」という表現がまた定義が難しいですね。叙情的ということでしょうか?

鈴木 ホグウッドは、全集として捉えると?の部分はあるけれど、第39番から第41番までのモーツァルト録音の最初期のものは結構楽しめます。
私はどうも楽しめませんでした(^^;。コープマンも。

鈴木 マークの表現が「即物的」と言ったのは、実は、ここで浮月斎さんが書かれている意味においてです。スコアを読んで、自分の思いのまま(やりたいように)音にしちゃったという意味で、「旧時代風な濃厚な表現」という意味ではありません。
なるほど。言葉の問題なのでしょうが、私の場合、「即物的」というと単純に非主情主義・無表情というニュアンスにとってしまうのでした。

鈴木 でも小生、この録音からあまり「旧時代風な濃厚な表現」は感じませんでした。
私の聴く限りでは、マークのフレージングや弦と管の扱いのうちには、ワルターのモーツァルト(NY時代ですが)や時としてビーチャムのハイドンなんかに聞こえるアウフタクトやメロディと対旋律の処方みたいのが聞こえてきます。ちょっとした微妙な旋律線の弾かせ方に聞こえる筈です。39番に特にそう思ったので、鈴木さんには申し訳ないのですが。

鈴木 モーツァルトの演奏評価ってもの凄く難しいですね。他の作曲家と違い、好き嫌いがはっきり出やすいのかな。
私はセルが好きな反面、カイルベルトやクリップスみたいな穏健・豊かなモーツァルトも好きです。また、NYPならワルターのものも。

浮月斎 マークの場合、古楽のエッセンスも含めてあらゆる要素を一度全部煮込んでから、マークなりの方式で濾したような気がします。通常は、表現上切り捨てるエッセンスが多いのですが、マークの場合、かなり煮溶かしたものが多かったという気がします。
鈴木 これは、ちょっと意味が分かりません。もしそうなら、もっと透明な表現のモーツァルトになっていたのではと思います。あるはちょっと濁っちゃったという意味ですか?
これは単純に言うと、大時代的な主情表現に古楽奏法を「リ」ミックスしたということです。ここではオケの能力があまり高くないということを一応勘案する必要はありますが。

鈴木 難しいな。モーツァルトで自分がどのような表現を聞いて充足感を覚えるか、現実、なかなか難しいです。モーツァルトは好き好きが分かれますよね。
ふむふむ。私はシューリヒトやセル系とクーベリック系が最も好きです。しかし、ムーティみたいなシンフォニックなアプローチも悪くないなと思います。でもどのアプローチでも楽しめますが、いいと思うものは少ないかもしれません。フルトヴェングラーのモーツァルトなんて全然つまらないし。ベームもBPOにはいぶし銀的なよさはありますが。

鈴木 でも、第41番のティンパニの音、小生好きですよ(^^;。案外。
私は固めのマレットでガンガンたたくティムパニが意外と好きだったりします。

佐々木 鈴木 確かに、ブリュッヘンは面白いけど、きれいなだけではない詩的な表現の演奏は結構たくさんあると思いますよ。
浮月斎 「詩的」という表現がまた定義が難しいですね。叙情的ということでしょうか?
「詩的」というのは人によって解釈の幅が大きいコトバなんでしょうが、モーツァルトのシンフォニーで「詩的」な演奏というと難しいですね。また同じやりとりで、

鈴木 マークの表現が「即物的」と言ったのは、実は、ここで浮月斎さんが書かれている意味においてです。スコアを読んで、自分の思いのまま(やりたいように)音にしちゃったという意味で、「旧時代風な濃厚な表現」という意味ではありません。
浮月斎 なるほど。言葉の問題なのでしょうが、私の場合、「即物的」というと単純に非主情主義・非表現的というニュアンスにとってしまうのでした。
マークの演奏は「即物的」というよりは、悪い意味ではなく、「主観的」な感じがしました。

浮月斎 単純に言うと、大時代的な主情表現に古楽奏法を「リ」ミックスしたということです。ここではオケの能力があまり高くないということを一応勘案する必要はありますが。
なるほど。これはよく分かります。

どうもモーツァルトは好き嫌いを言うのが難しいですね。鈴木さん御推薦のディヴィスは実は私も気に入っています。思いつくままに並べると、ディヴィス/ドレスデン・シュターツカペレの39&41、シューリヒト/パリ音楽院oの40&41、ベーム/BPOでは25、バレンボイム/ECOの40&41あたりは、印象が良かったですね。シューリヒトは今手許にありませんが。

鈴木 でも、第41番のティンパニの音、小生好きですよ(^^;。案外。
浮月斎 私は固めのマレットでガンガンたたくティムパニが意外と好きだったりします。
そうですか。私の再生装置の問題もあるかもしれませんねぇ。

斉諧生 マークの演奏の評価については、浮月斎さんの御見解とほとんど同じなので、思いついたことなどのみ。

鈴木 レコ芸で宇野氏が演奏者からの視点で絶賛しているのではと思います。
そういう面あるでしょうね、きっと。新星日響を思うように操れないというか、自分の音楽に共感してくれないオーケストラで演奏・録音している立場からだと。

佐々木 もっと弦主体のまろやかな音色が好きなのです。
ガーディナーはいかがでしょうか?「リンツ」あたり。特に変わったことをしているわけではないのですが、モーツァルトを聴く*幸せ*を実感しました。

佐々木 すごく意気込みを感じる表現なのに、全体として聴いた時にどうも満足感が残らないんです。
そういう部分もありましょうね。私は「満足」ならしましたけど、じゃあ、この6曲のベストにマーク盤を推すかと問われれば、考え込んでしまうと思います。鈴木さんがこの意味でお使いかどうかわかりませんが、ある種の「緊張感」というか、「一を以てこれを貫く」迫力・説得力には欠けますから。

浮月斎 マークの場合、古楽のエッセンスも含めてあらゆる要素を一度全部煮込んでから、マークなりの方式で濾したような気がします。通常は、表現上切り捨てるエッセンスが多いのですが、マークの場合、かなり煮溶かしたものが多かったという気がします。
私は浮月斎さんの表現に納得できました。月並みに言えば、「古楽器派の手法を取捨選択して換骨奪胎、よく自家薬籠中の物にし得た」ということでしょう?
これに関連して、

佐々木 「古楽器派が決してしないようなこと」って例えばどんな事なんでしょうか?
私が感じたのは、次のような点です(順不同)。

  1. リピートの処理。古楽器派は新モーツァルト全集記載のリピートを墨守する傾向があるが(緩徐楽章の前後半を、それぞれ繰り返したりしますよね)、両端楽章の提示部とメヌエットの主部くらいに限定している。フレージングも新全集そのままあり、自由な改変あり、伝統的な処理ありと多彩。
  2. 弦楽器が、要所々々で、レガート、ポルタメント気味のフレージングや深いヴィブラートを用いている。(例:38番1楽章96小節後半の音型をポルタメント気味に処理。同2楽章54・55小節での深いヴィブラート)。
  3. また、現代楽器でのみ可能な、陰の濃い音色の利用。(例:38番1楽章の序奏の弦楽器の低音でのフォルテ−16・22・26小節)。
  4. トランペットの突出を抑制する傾向。ティンパニの音色が重め(バチの選択の問題だろうと思います)。アーノンクールが極端過ぎるのかも。
  5. その他、気がついたものを思いつくままに挙げれば、39番の1楽章の序奏の表情(7〜8小節の粘りけのある歌!)や主部の遅めのテンポ。40番1楽章の58小節から61小節にかけてのデクレッシェンド、同150小節付近のピアニッシモ、同2楽章56小節の死んだような音色。

浮月斎 斉諧生 月並みに言えば、「古楽器派の手法を取捨選択して換骨奪胎、よく自家薬籠中の物にし得た」ということでしょう?
そういうことです。特に「よく自家薬籠中の物にし得た」という点ですね。最近の古楽には考証的蘊蓄には瞠目すべきものは沢山ありますが、ハイドンや初期のモーツァルトならともかく、古楽器に拘泥しても品位の高い味わいに欠けると私は感じています。だったら現代楽器との融和をうまくやるほうがいいというのが、率直なところです。マークは自分なりにそれを解答したということを評価しています。
で、私はスコアは見ていないのですが、

斉諧生 2.弦楽器が、要所々々で、レガート、ポルタメント気味のフレージングや深いヴィブラートを用いている。
ということが私には最も「非古楽」的かつ古い時代のなごりだと感じました。しかも奏法を徹底するアンサンブルの創生と言う点もそうです。それから、抽象的な言い方ですが、私は木管を立体化するような弦とのバランスの取り方というのは、古楽にはあまり感じません。古楽はどうしても平板になります。

という訳で皆さんどうもありがとうございました。





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