No.19 : Horenstein conducts Bruckner #8 (2)


野々村 まずは軽くお返事。

斉諧生 はたしてホーレンシュタインは、本当に「ブルックナー・サウンド」を理解していたのでしょうか?
鈴木 多分、理解していなかったと思います。自分の方法論に強引に楽曲を近づけて演奏する、というのがホーレンシュタインのスタイルですが、
彼がやろうとしたことは、「後期ロマン派の音楽の現代的意味の提示」だったと思うので、これはこれでいいのでは? チェリビダッケの目標も似たようなものだと思うし。もちろん方向性は全然違いますが、それはチェリは「現代的」ではなく「普遍的」を目指したからでしょう。

大黒 ホーレン、好きなんですが、彼のブルックナーに対する適性にはやはり疑問符がつきます。
ただ、彼自身は、ブルックナーもマーラーも同程度に得意だと思っていたようですが。まあチェリも、ドビュッシーもラヴェルも同程度に得意だと自負していたわけですが。

で、先のクナの1963年ライブは、現在入手可能なのでしょうか? 先日チェックした感じでは、TAHRA盤が一番入手しやすそうですが。

鈴木 野々村 まずは軽くお返事。
おお、こわ!

野々村 彼がやろうとしたことは、「後期ロマン派の音楽の現代的意味の提示」だったと思うので、これはこれでいいのでは? チェリビダッケの目標も似たようなものだと思うし。もちろん方向性は全然違いますが、それはチェリは「現代的」ではなく「普遍的」を目指したからでしょう。
野々村さんのおっしゃることはそうだと思います。小生も*これでいい*と思います。ただ、ブルックナーにはどんな響きが美しいか?と言う議論になると、話はずれますね(^ ^ ;。

大黒 ホーレン、好きなんですが、彼のブルックナーに対する適性にはやはり疑問符がつきます。
野々村 ただ、彼自身は、ブルックナーもマーラーも同程度に得意だと思っていたようですが。まあチェリも、ドビュッシーもラヴェルも同程度に得意だと自負していたわけですが。
ロンドンの空港を降りるとき「今回はMかBか?」と聞いたそうですね(^ ^ ;。ホーレンシュタインは、マーラーとブルックナーに得意意識はあったでしょうね。でもそれは、ホーレンシュタインのマーラーもブルックナーも、たいして違わない解釈で押し切れるという自負のためかも知れません :-)。

野々村 で、先のクナの1963年ライブは、現在入手可能なのでしょうか? 先日チェックした感じでは、TAHRA盤が一番入手しやすそうですが。
63年ライヴは、KING盤、DIQUES REFRAIN盤とも入手しにくいのが現状です。KING盤はたまに中古屋に並んでいたりしますし、国内盤を扱っている大手CD屋で売れ残りを見かけることはあります(^ ^ ;。入手しにくいCDの話をしていても仕方がありませんので、Westminster盤で行きましょうか?
Westminster盤も、チョーゼツとは言わないけど、相当凄い名演です。TAHRA盤は、いかんせん録音が古いし、クナ晩年の境地には至っていないようです。でも、素晴らしい演奏ですので、是非ご一聴を。

で、このスレッドでは、ヨッフムや朝比奈が登場しませんね(^ ^ ;。マタチッチ&N響盤も・・・。もうこれらの演奏は、いいのかな・・・・???

野々村 まず、斉諧生さんから出ていた質問事項2点ですが、「キッチュ」というのは「俗悪なまがいもの」という意味で、「キッチュ化」というのも、そのままの意味で使っています。内声を豊かに膨らまさずに、金管とヴァイオリンとティンパニばかりが目立つようなオーケストラのバランスは、「悪趣味」以外の何物でもない。しかし、そういう「悪趣味」をふんだんに含んだ、「緊密な古典的統一」の正反対の音楽が存在できることを、マーラーは教えてくれたわけでした。

こういう風に「キッチュ」を定義すれば、「それ以外の部分」がどこを指しているのかは、説明するまでもないと思います。第3楽章全部と、第1・第4楽章の一部分ですね。

鈴木 TAHRA盤は、いかんせん録音が古いし、クナ晩年の境地には至っていないようです。でも、素晴らしい演奏ですので、是非ご一聴を。
早速聴きました。思っていたよりもず〜っと普通っぽい演奏で、ちょっと拍子抜け。これだったら課題盤の方が好みですが、BPOにはフルヴェンの解釈が染み付いていることを割り引いて聴くべきなのでしょう。

クナはウェストミンスター盤も聴き、さらにヨッフム/BPOも聴きましたが、これで斉諧生さんがおっしゃっていた、「ブルックナー・サウンド」の実体が掴めたような気がします。こういう音楽のまとめ方は理解できるし、おそらく最も「作曲者の意図に忠実」なのでしょう。

しかし、「これ以外のアプローチは有り得ない」とは思わないし、はっきり言って、私にとってはこういうアプローチは全く面白くない。チェリビダッケとホーレンシュタインは、これらとは明確に異なったアプローチを取っていて、私にはそちらの方がずっと魅力的です。そもそも、「望ましいアプローチは1つしかない」音楽というのは、内容の乏しい3流音楽だというのとほぼ同義でしょう。無限の可能性を秘めた多面性が、傑作の証です。

まず、チェリビダッケ(私が参照しているのは、シュトゥットガルト放響を振ったMETEOR盤)が行っているのは、元々の曲ではタガが外れかかっている「古典的統一」を、彼ならではの秘術を尽くして回復させた演奏。これはもちろん面白いけど、「ブルックナーである必要性」があまり感じられないのも確か。彼のブラームスの面白さと、さほど違わないのでは?

これに対して、ホーレンシュタインが行っているのは、タガを完全に外してしまうことで、キッチュ云々はそのことを言っていたわけだが、このような解釈を行った結果として、際立ってきたポイントが、実はもう1つある。進行しない和声、声部が埋もれてマスと化した中音域、弦のトレモロや金管の不協和音で裁断されていく時間、そして不意に訪れる全休止。これらはトーンクラスター音楽の特徴そのものである。

この予言的な側面を、私はかつてシューリヒトやケーゲルの録音の彼方に聴き、それを最も直截に音にしたホーレンシュタイン盤に出会って狂喜したわけだが、クナやヨッフムの「正しい」録音には、この要素は全く聞き取れなかった。

もちろん、こちらが「真のブルックナー」だと強弁するつもりはさらさらない。ただ、このような多様な解釈を許すくらいにブルックナーの音楽は多面的な、すなわち優れた音楽なのだ、というあたりでしょうか。

このような側面が8番よりもさらに明示的に表れているのが9番で、斉諧生さんが馴染めないものを感じ、クナのような指揮者には全面改訂版を選ばせ、私にとっては世紀の傑作と感じられる、とまあそういうことなのでしょう。

斉諧生 昨日今日と、彼のチャイコフスキーを聴いてみました−「悲愴」@ロンドン響 (EMI)、5番@NPO(Chesky)。やはり、良く言えば「聴かせ上手」、悪く言えば「ケレンたっぷり」の人ですね。

「新世界」もそうでしたが、かなり金管を強調してバリバリ吹かせます。また、弦は基本的にヴァイオリン優位のバランスですが(人数も標準以上なのでは?)、他のパートに「美味しい」動きがあると、その時だけ(たぶん録音上の操作も加えて)くっきり浮き上がらせる。

聴いている分には面白いのですが、フレージングをあまり追い込んでいないのと、音色の練り上げが見られないので、鈴木さんおっしゃるとおり、「パンツのゴムが緩い」感じがつきまといます。推薦盤には挙げにくいですね。
また、マーラーを摘み聴きしてみましたが、

鈴木 マーラーもブルックナーも、たいして違わない解釈で押し切れるという自負
と御指摘のとおり、ブルックナーと似た音づくりだと思いました(特に6番のアンダンテ)。その上で、ブルックナーの3・4楽章を聴き直してみたのですが、上記チャイコフスキーよりはよほど練られていて、これは少し見直しました。

鈴木 内声部の充実のない、メロディ主体のブルックナー
野々村 金管とヴァイオリンとティンパニばかりが目立つようなオーケストラのバランス
…なんてこともないんじゃないかなぁ…、と思ったのですが、そのあとでヨッフム/コンセルトヘボウの8番を聴いたら、皆さんのお言葉に納得してしまいました。(^^;;;
(鈴木さんお薦めの演奏ですよね? >ヨッフム。TAHRAからの1984年9月26日ライヴ)
もっとも、ヨッフム盤(TAHRA)で、あれだけホルンやトロンボーンが抑制されて聴こえるのは、むしろ、録音上の欠陥なのでは? ホールで鳴っていたのは至高のブルックナーだったろうと思いますが。

大黒 マーラーに対するアプローチをブルックナーに応用したという印象
成る程成る程であります。

ただ、私自身について言えば、ホーレンシュタインのバランスでも、「ブルックナー・サウンド」の許容範囲に入っているのだと思います。今後、もう少し他の指揮者の演奏も参照していく予定です。フルトヴェングラー、テンシュテット、ジュリーニ、マタチッチ…。
「ブルックナー・サウンド」について、鈴木さん・大黒さんの御意見をもう少しお聞かせ願えませんか?

鈴木 ブルックナーにはどんな響きが美しいか? と言う議論
大黒 何をもってブルックナー的とするかという問題
を、考えてみたいというのが、私にとって今回の問題意識ですので。また、

野々村 「ブルックナー・サウンド」の実体が掴めたような気がします
とのことですが、野々村さんなら、どのように表現されますか?

あと、ちょっとレプライに困っているのが、野々村さん御指摘の「予言的な側面」についてです。なにぶん、トーンクラスター音楽がわかっていないものですから。どなたか、よろしくお願いいたします。<(_ _)>

野々村 斉諧生 「ブルックナー・サウンド」の実体が掴めたような気がしますとのことですが、野々村さんなら、どのように表現されますか?
「ブルックナー・サウンド」については長くなるので後ほどということにして、

斉諧生 あと、ちょっとレプライに困っているのが、野々村さん御指摘の「予言的な側面」についてです。なにぶん、トーンクラスター音楽がわかっていないものですから。
ACCORDのシェルシ(Anahit, Uaxuctum etc.; 200612), WERGOのリゲティ(Lontano, San Francisco Polyphony etc.; WER 60163-50), EMIの廉価盤のペンデレツキ(Threnody for the Victims of Hiroshima, De Natura Sonoris No.1 etc.; CDM 6 65077 2)の3枚くらい買えば、とりあえずは「わかる」と思います。

私のこのようなブルックナー観は、八村義夫『ラ・フォリア』(草思社, 1986) 所収の論考「ブルックナーのレアリザシオン」(オリジナルは、『音楽芸術』1967.11月号)の影響が強いことを告白しておきましょう。

斉諧生 聴き比べが捗っておりませんが、今日は、ようやくジュリーニを聴きました。私には駄目でした。
まず、リズムが粘っこいこと。弦を歌わせすぎるのでしょうか? 遅いだけなら構わないんですが、こういうもっさりしたのは、ちょっと…。それでいて、音楽の呼吸は短いように思います。

これと関係あるかもしれませんが、弦の音色が湿潤にすぎて、ブルックナーの晴朗な音楽が損なわれているように感じました。むしろ、マーラーの緩徐楽章を思わせる音です。金管のうち、ホルンは実に気持ちよさそうに吹き上げていて、これは聴き応えがありました。こういうところに耳が向くのはフォルカー氏の影響ですね…。(^^;;; ところが、トランペットの音程の収まりが悪いのか、全体としてはあまりきれいな響きにならないのが、非常に気に障りました。
それに、ブルックナー特有の弱奏→強奏の切り換えの部分で、響きが全然変わらないのも、私としては気に入らない。いわゆるオルガンの音栓の操作に喩えられる対応が、ないわけです。また、独奏ヴァイオリンや、木管のちょっとした対位法に鈍感なのも、せっかく美しい音楽があるのに…と欲求不満でした。

総じて、いわゆる「ブルックナー・サウンド」とは正反対の響き、音楽だと言えると思います。直前に聴いた(見た)マタチッチ&N響の演奏が素晴らしかっただけに、何とも辛い八十数分間でした。


さて、当初の論点としては、このホーレンシュタインの演奏の良否の問題、また、ブルックナー・サウンドとは何か・ブルックナーの名演の条件は何か、という2つのポイントがありました。

前者については、ほぼ議論が収束したと思います。
概ね、メリハリ明快・ケレン味たっぷりで聴き応えのある演奏という肯定的評価に一致しつつ、鈴木さんが「パンツのゴムが緩い」と喝破された、響きの薄さ・音楽の底の浅さ、また、ホーレンシュタイン自身のマーラー演奏との類似性が指摘されました。

議論する中で、私自身は、

鈴木 細部を積み上げて、各フレーズを大切にして、内声部を充実させて、本来のブルックナー・サウンドを形作る
という御意見に、強く影響を受けました。また、

野々村 内声を豊かに膨らまさずに、金管とヴァイオリンとティンパニばかりが目立つようなオーケストラのバランスは、「悪趣味」以外の何物でもない。しかし、そういう「悪趣味」をふんだんに含んだ、「緊密な古典的統一」の正反対の音楽が存在できる
という視点に、驚かされると同時に考えさせられています。これまで私には、ブルックナーの音楽が多様な解釈を許容する多面性を持つ…という観点が乏しかったですから。

後者の「ブルックナー・サウンド」とは?という論点については、「ブルックナー・サウンド」支持論者が、ソレが何であるかをずばり説明できないままに、そのまわりをぐるぐる回っている趣があり、懐疑論者の疑問に十分答えきれないまま、議論が発展しなかったと、率直に反省しています。

支持論者の中にも意見の相違があり、このあたりを追求すれば、ひょっとしたら「ブルックナー・サウンド」は蜃気楼あるいは一部評論家の作った砂上の楼閣のごとき正体を顕わしてしまうのかもしれません。
しかし、私としては、現状は「群盲象を撫で」ているにすぎず、実体としての「ブルックナー・サウンド」が存在する、との思いを捨てきれません。

鈴木 ブルックナーの交響曲では、前後の脈略がなく、金管の強奏が頻繁に出てきますが、そこに不必要な表情を付けちゃうと、音楽がグニャグニャになってしまうと思うんです。そこはそれ、思いっきりのよさがないと。表情に拘泥しては行けない”壮麗な音”という表現のつもりです。
こうしたお言葉を手がかりに、今後も、私にとってのブルックナーの音楽の本質が何なのか、クナ・シューリヒト・ケーゲルに存在し、ホーレンシュタインに片鱗があり、ジュリーニには欠落していると感じられたものは何なのか、考え続けていきたいと思います。

野々村 進行しない和声、声部が埋もれてマスと化した中音域、弦のトレモロや金管の不協和音で裁断されていく時間、そして不意に訪れる全休止。これらはトーンクラスター音楽の特徴そのものである。この予言的な側面を、私はかつてシューリヒトやケーゲルの録音の彼方に聴き、それを最も直截に音にしたホーレンシュタイン盤に出会って狂喜した (略)
これは、私にとってあまりに衝撃的な御意見で、いまだにまったく消化できていないのですが、

野々村 このような側面が8番よりもさらに明示的に表れているのが9番で、斉諧生さんが馴染めないものを感じ、クナのような指揮者には全面改訂版を選ばせ、私にとっては世紀の傑作と感じられる、とまあそういうことなのでしょう。
という、9番をも包含した捉え方には、非常な魅力も感じております。これも、私にとっては、非常に重要な問題になりました。今後、9番を聴く上での問題意識として忘れることはないと思います。

皆さんの御投稿を、非常に粗雑に要約して申し訳ないのですが、私は今回の議論をこのように総括しています。

鈴木 斉諧生 ようやくジュリーニを聴きました。私には駄目でした。
ジュリーニのDG盤は第9番が圧倒的で、第8番は美しい演奏ですが、圧倒的なものは感じないですね。これは第7番にも言えます。第9番の演奏が、恐るべき”遅さ”と緊張感を持続しているのにたいして、第8番はそれほどスケールが大きくありません。これは、録音の違いにもよると思います。第8番は低域がスポイルされていますので、厚みが出ていませんね。ただ、CDではまともな第8番の演奏がジュリーニ盤しかなかった時代が何年かあり、小生も随分と聞いたものです(^ ^ ;。

斉諧生 まず、リズムが粘っこいこと。弦を歌わせすぎるのでしょうか? 遅いだけなら構わないんですが、こういうもっさりしたのは、ちょっと…。それでいて、音楽の呼吸は短いように思います。
ジュリーニ楽曲の捉え方の問題はあると思います。これは斉諧生さんが仰られるように、呼吸がただ粘っこいだけで伝わってこない恨みはあります。

斉諧生 ところが、トランペットの音程の収まりが悪いのか、全体としてはあまりきれいな響きにならないのが、非常に気に障りました。
これも録音のせいのような気がします。ただ、確かにトランペットの音程は悪いですね(^ ^ ;;;;。

斉諧生 それに、ブルックナー特有の弱奏→強奏の切り換えの部分で、響きが全然変わらないのも、私としては気に入らない。いわゆるオルガンの音栓の操作に喩えられる対応が、ないわけです。
これは、ブルックナーを聞くひとの嗜好でもありますので、あまり深入りはしませんが、そこに拘泥しすぎても、とは思いますが・・・。

斉諧生 また、独奏ヴァイオリンや、木管のちょっとした対位法に鈍感なのも、せっかく美しい音楽があるのに…と欲求不満でした。
小生は低域がなく、浅めのパースペクティブの録音に、聞き直してみて不満が大きいですが、これはこれで美しい演奏だと思います。昔、ジュリーニのブラ#2で浮月斎さんと意見交換したのですが、金魚鉢の向こうで結晶化して響く第8番とでも言いましょうか(^ ^ ;;;;。

斉諧生 総じて、いわゆる「ブルックナー・サウンド」とは正反対の響き、音楽だと言えると思います。
ずるずると引きずった演奏ではありますが(特にスケルツォ)、小生にとっては、これも「ブルックナー・サウンド」とは感じますが。

斉諧生 直前に聴いた(見た)マタチッチ&N響の演奏が素晴らしかっただけに、何とも辛い八十数分間でした。
それはご愁傷さま(^ ^ ;。

斉諧生 しかし、私としては、現状は「群盲象を撫で」ているにすぎず、実体としての「ブルックナー・サウンド」が存在する、との思いを捨てきれません。
それを、かなり物理的な音の強大さを伴い演奏させてしまうスコアですよね。本当のオルガントーンとは異なるのですが、オルガンの壮大な強奏を、管弦楽で再現したいという、ブルックナーの自然な欲求があったのではと。それを実現させるのが金管奏者ですが、感情を込めてはいけないんではないかと。オルガンの場合は、鍵盤とペダルを押せば、『ビャ〜〜!!!』と音が出ますが、そのあたりの音響の物理的快感と言いましょうか。

だから、オーケストラのスコアであるブルックナーの交響曲をオルガンに翻案して演奏して失敗するのは、ブルックナーは、オルガンでの奏法をオーケストラに当てはめたのではなく、オルガンで演奏された『音響』を『イメージ』として再現したことを、理解できていない結果ではないかと。
これは、緩徐部分では音色にこだわりすぎて、本来、フルストップで演奏すべきところを、変に音色をつけすぎて失敗していることの、裏返しかも知れません。ただ、ブルックナートーンという場合、分厚い弦5部での緩徐部分も入るんではないかと・・・。

斉諧生 表情に拘泥しては行けない”壮麗な音”という表現のつもりです。
で、こういう表現になってしまっているのですね(^^;。

斉諧生 こうしたお言葉を手がかりに、今後も、私にとってのブルックナーの音楽の本質が何なのか、クナ・シューリヒト・ケーゲルに存在し、ホーレンシュタインに片鱗があり、ジュリーニには欠落していると感じられたものは何なのか、考え続けていきたいと思います。
ジュリーニでおもしろいのは、小生実は第8番の演奏にはそれほど肩入れしていないですが、第9番の緊張の持続は、ものすごいものがあります。これは、録音ディレクターの音の取り方もありますが、第8番では、本来重いピラミッド・バランスでなければならないところが、軽くなってしまっているからですが。

それと、ジュリーニの第8番と第9番へのスタンスの違いでしょうか。ジュリーニは、とにかく各作曲家の最終交響曲に、ものすごいこだわりを持っているようですから(^^)。ただ、ジュリーの第8番も、非常に美しい演奏ではあります。

斉諧生 これは、私にとってあまりに衝撃的な御意見で、いまだにまったく消化できていないのですが、
これは逆に言うと、ホーレンシュタインは情感は豊かですが、ブルックナーの交響曲を有機的につなぐことをしていない、というか、そもそもホーレンシュタインの個性なのですが、ホーレンシュタインは元々そういうことには興味がなくて、情動的な部分を拡大してゆくということが、ブルックナーでは野々村さんがおっしゃるようなブツ切れの音楽として再現したと言うことになるのでしょうか。

われわれ、ブルックナー聞きは、むしろ有機的につないでゆくブルックナーの方が馴染んでいる、と言うことになると思います。『指揮者が、ブルックナーのスコアを再構築して音響として再現する』演奏ではないだけに、マーラー的な演奏として小生はそのおもしろさと情緒的な面でOK、ブルックナー演奏の再構築としてはNOのような気がします。いわゆる、造形的な厳しさが不足していると感じます。

野々村 このような側面が8番よりもさらに明示的に表れているのが9番で、斉諧生さんが馴染めないものを感じ、クナのような指揮者には全面改訂版を選ばせ、私にとっては世紀の傑作と感じられる、とまあそういうことなのでしょう。
すなわち、ブルックナーはかなり多面的な演奏が可能で、小生などは、古典としてのスタンスでブルックナーを聞いていますが、野々村さんは、次の展開とブルックナーの現代での演奏の可能性を示唆されているのでしょうか。

本当にもし機会があれば、音は悪いですが、クナの1963年のミュンヘン・フィルとのライヴ盤を聞かれてみれば(特に最終楽章)、交響曲第8番の一面での真実がご理解いただけるのではないかと思います。また、最終楽章の大幅なカットで評判の悪い、クレンペラーのスタジオ録音の第1楽章から第3楽章まで。このあたりを、スコアと首っ引きで聞くとおもしろい結果が出せるかも知れません。

野々村 では、「ブルックナー・サウンド」について。お待たせしてしまったのには、否定的な書き方になるので気が進まなかったという面もあります。

私はブルックナーの音楽を、さまざまな矛盾を内部に抱えた調性音楽だと捉えています。その矛盾は彼の先見性の賜である一方で、彼の書法の未熟さのせいでもあった。このあたりの事情はムソルグスキーと似ているものの、総じてムソルグスキーほど革新的なヴィジョンは持っていなかった(あくまで私見ですが)。

で、調性音楽の方にベクトルを向けるか、矛盾の方に向けるかで、解釈の方向性が大きく分かれる。図式的には、前者の究極の姿がチェリビダッケで、後者の代表がホーレンシュタイン(こちらは色々な意味で「究極」とは思えない)ということになる。議論で言われていた「ブルックナー・サウンド」は、基本的には前者の方向性の産物でしょう。ただ、チェリビダッケのように、矛盾の産物である刺激的な音響を注意深く取り除いて(もちろん中庸なサウンドにするという意味ではない)、なおかつ緊張が切れないようにオーケストラをコントロールすることは、他の指揮者にはできなかった。そこで妥協案として、刺激的なパーツを強調して緊張感を持続させる一方で、大きな音響ブロックごとに和声的にオトシマエを付ける、という処理を行った結果生まれてくるのが「ブルックナー・サウンド」だと理解しました。

「ブルックナー・サウンド」を要素に分解した時の特徴としては、以前斉諧生さんが挙げられた内容で異存はありません。ゆっくりしたテンポで残響を利用するのが、オトシマエの賢い付け方だし、大域構造とは無関係なミクロな対位法は、金管の強奏と並ぶ美味しいオカズでしょう。そして、このあたりを巧く按配していくと、「的は1つ」なのかもしれない。ただ、それは私には「理想の姿」ではなく、「最善の妥協案」にすぎないということです。

演奏で言えば、クナやヨッフムは、その「妥協案」を「理想の姿」と信じているように感じらるので、私にとっては全く面白くない。一方シューリヒトやケーゲルは、作品を俯瞰した結果、中間地点に立っている(シューリヒトは調性寄り、ケーゲルは矛盾寄り)ので、彼方に原初の混沌が見渡せて楽しめるわけです。チェリやホーレンシュタインも「ブルックナー・サウンド」に含める議論がありましたが、その広い許容範囲から外れるような演奏は単に何もわかっていないだけで、わざわざ議論することもないのでは。

斉諧生 野々村さん、「ブルックナー・サウンド」考、ありがとうございました。

野々村 否定的な書き方になるので気が進まなかったという面もあります。
いえいえ、じゅうぶん客観的・中立的な書き方だと感じました。とても勉強になります。

野々村 さまざまな矛盾を内部に抱えた調性音楽だと捉えています。(略) 総じてムソルグスキーほど革新的なヴィジョンは持っていなかった。
クライスラーのバイオに、ウィーンのアカデミーでブルックナーに和声学と音楽理論を学んだことが出てきます。彼の回想録では、子どものこととて、鈍くさいお爺さんにしか思わず、悪戯ばかりしていた、惜しいことをした…とあったように記憶しています。ひょっとしたらブルックナー本人には、まるで自覚がなかったのかも。

野々村 チェリビダッケのように、矛盾の産物である刺激的な音響を注意深く取り除いて(略)、なおかつ緊張が切れないようにオーケストラをコントロールする
チェリについては、前に「元々の曲ではタガが外れかかっている「古典的統一」を、彼ならではの秘術を尽くして回復させた演奏」とも書いていらっしゃいましたね。成る程。

野々村 刺激的なパーツを強調して緊張感を持続させる一方で、大きな音響ブロックごとに和声的にオトシマエを付ける、という処理を行った結果生まれてくるのが「ブルックナー・サウンド」だと理解しました。
見事な総括ですね、ぐぅの音も出ません。(^^;;;





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