No.19 : Horenstein conducts Bruckner #8


BBC LEGENDS : BBCL 4017-2


Bruckner : Symphony No. 9 and No. 8
(BBC LEGENDS : BBCL 4017-2 ; 2CDs)
  1. Bruckner : Symphony No. 9 in d minor
  2. Bruckner : Symphony No. 8 in c minor
BBC Symphony Orchestra ( No. 9 )
London Symphony Orchestra ( No. 8 )
Jascha Horenstein (dir)






発言者 : 斉諧生(モデレータ)、佐々木、野々村、大黒、鈴木



斉諧生 今回は、ホーレンシュタインの演奏を論じつつ、
    いわゆる「ブルックナー・サウンド」とは何か?
    ブルックナーの名演の条件は?
という問題も考えていければ、と思っています。
また、今回の課題盤は9番もありますが、提案した時点での私の考えは、8番だけのつもりでした。モデレータの務めを思うと、9番もというのは、正直なところを申しますと、荷が重いです。それに9番は少々苦手でして。また、時間的にも厳しいですので、議論としては8番だけにとどめたいと思います。

私自身はブルックナーが大好きです。また、「ブルックナー・サウンド」の存在を信じております。「いわゆる」やカギカッコを付けておりますように、これが普遍的な認識だとは思いませんし、また、必ずしも「サウンド」だけの問題でもないと考えています。
今回、課題盤の他に、ケーゲル、ギーレン、チェリビダッケ(EMI盤)を聴き直してみて、「ブルックナー・サウンド」あるいは「ブルックナーの名演」の条件を、いくつかのポイントに整理してみました。

第一の条件は、合奏体としての音程がよいこと(和音がきれいなこと)。ブルックナーのオーケストレーションは、かなり分厚く和音を書き込んでいますから、音程が悪いと聴いていて実に耳障りです。特に金管は、フルパワーで強奏したときになお、透明感のある和音が出ないといけません。

第二の条件は、オーケストラの響きを殺さないこと。特に金管やティンパニを抑えないこと。たしかコンヴィチュニーのLPがそうだったと思いますが、弦合奏主体のブルックナーは面白くありません。猛然と(しかし綺麗な和音で)咆哮する金管や、ズバリと打ち込まれるティンパニに、生理的といっていいかもしれない快感を感じるのがブルックナーの醍醐味だと思います。

第三は、テンポの緩急を心得ていること。「緩」は「緩めるところでは緩めること」をいい、「急」は「決して急がないこと」を意味します(冗談みたいですが…)。ブルックナー自身は、アッチェランドやストリンジェンドの指定を書いていますが、これに従うと、音楽が貧弱になる感じがします。他の指定はいくら大事にしてもしすぎることはありませんが、この2つだけは無視すべきです。

第四は、ブルックナーがあちこちにちりばめた、ちょっとした対位法や装飾句、強弱の指定を大事に演奏すること。旋律を轟々と鳴らすだけがブルックナーの音楽ではありません。

ホーレンシュタインの演奏は、だいたいにおいて、これらの条件をよく満たしており、合格点以上のブルックナー演奏だと思いました。CDとしては、ライヴ的な傷や録音の問題がありますので、あまり高い位置には来ないと思いますが、現場では凄かったろうと思います。最後の音が鳴りやまないうちに拍手大喝采が起こったのは、よく理解できます。

以下、4つの条件を個別に見てみます。

第一については、まずまず、よい線をいっていると思います。
弦合奏も美しいです。スケルツォのトリオやアダージョ全体、あるいは(話が細かくなりますが)フィナーレの247小節(ノヴァーク版231小節)以降など。残念なのは、ライヴの制約でしょうが、第3楽章の後半以降、トロンボーンの音色に濁り(ビリつき)が発生すること。惜しかったな、と思います。また、良いといっても、ケーゲルやチェリビダッケほどではありません。例えば、アダージョの15小節・33小節(ノヴァーク版同じ)、ff で入ってくるコントラバスなど、あまりいい音程とは言えません。

第二については、一聴してわかるとおりで、全く問題ありません。
第1楽章23小節(ノヴァーク版同じ。最初に ff が鳴るところ)からして、ヴァイオリンとヴィオラが猛然と刻んだ上に金管が載ってきて、ティンパニが炸裂します。これでツカミはOK、って感じですね。フィナーレの冒頭も、いいですね。16小節(ノヴァーク版同じ)のティンパニの前打音がくっきりすれば、なお良かったろうと残念ですが…。

第三についても、変なアッチェランドをかけるところは、ほとんどありませんし、何より、全体に、重くしてほしいところ・リタルダンドしてほしいところが、ちゃんと、そうなっています。フィナーレ482小節(ノヴァーク版462小節)のリタルダンドなどが、好例です。ここではクレッシェンドの指定も生かして、雄大な表現になっています。中でも、思わずハッとしたのは、スケルツォ主部52小節(ノヴァーク版同じ、ティンパニが入って4小節目)の最後の1拍(八分音符2つ)を、グッと重くするところ。こういう表現に、ブルックナー・ファンは随喜の涙を流すものです。

「招き猫」の副管理人 waiwai さんの Webpage に「ブルックナーの交響曲、重箱の隅つつきます。」というコーナーがありますが、彼が挙げる聴きどころのポイントは、みんな「決して走ることなく、むしろ rit かけるぐらいの気持ちで丁寧に吹くこと」なんですね。8番については、次のURLを参照してください。

http://home.age.ne.jp/x/waiwai/misterioso/8.htm

ちょっと首を捻ったのは、第1楽章231小節・241小節(ノヴァーク版同じ)で "bewegter" 指定に反応してテンポを上げ、すぐあとの "breit" 指定で戻すところ。他の指揮者でも聴いたことがあるような気もするんですが、他ではせっかく一貫しているのに、ここだけ落ち着かない動かし方なのが腑に落ちません。

第四についても、まずまず、よくやっていると言えるでしょう。
これは、ことの性質上、話が細かくなるのですが、例えば、

  • スケルツォのトリオの終結でのフルートとホルンの応答の美しさ。
  • アダージョ103〜107小節(ノヴァーク版同じ)のヴァイオリン・ソロ。
  • アダージョ263・264小節(ノヴァーク版253・254小節)の弦合奏に付けられた fp
  • フィナーレ211〜217小節(ノヴァーク版にない部分)でのヴァイオリンの旋律美。
といったあたりです。

もう一つ、大事な条件がありました。「ブルックナーへの思い入れがあること」です。
ちょっと抽象的ですが、例えば、

  • 第1楽章140〜167小節(ノヴァーク版同じ、ホルン・オーボエ・ワーグナーチューバ合奏の応答)や、アダージョ終結での静謐感。
  • アダージョ180〜184小節(ノヴァーク版同じ)のラレンタンド+ディミヌエンド。
等に、私は「それ」を感じます。
ただ、一つだけ、不可解な解釈があります。

スケルツォ主部103〜106小節(ノヴァーク版同じ)のトロンボーン三重奏を、ゲシュトップのような音色にしていること。ダカーポでも同様ですので、楽員のミスではなく、指揮者の指示によるものだと思います。
短い楽句ですが、和音の透明感を損なう、重大な解釈だけに、疑問が残ります。ここだけ、マーラーが闖入してきたみたいな響きなのです。
はたしてホーレンシュタインは、本当に「ブルックナー・サウンド」を理解していたのでしょうか?

また、楽譜の問題について、気がついたことを補足しておきます。
ホーレンシュタインはハース版を使用していますが、少なくとも2箇所で改変があります。スケルツォ主部の69〜87小節(ノヴァーク版でも同じ)で、チェロやヴィオラをピツィカートにしているのは改訂版の援用です。ノヴァーク版を使用した宇野功芳盤が同じ処理。
アダージョの253小節(ノヴァーク版243小節、シンバルが2回目に鳴るところ)で、ヴァイオリンの音をハープが鳴りやむまで延ばして、休符なしに低音の fff 指定の楽節につなぐのは、ノヴァーク版です。ハース版では、ヴァイオリンは二分音符+八分音符で、八分休符2つが記入されています。ギーレン盤もハース版ですが、ホーレンシュタイン盤と同じことをしています。

佐々木 ブルックナーをじっくり聴いたのは久しぶりなのですが、この課題盤は、たいへん面白く聴けました。ホーレンシュタインの恣意的なコントロールがかなり効いていて、きわめてケレン味のある破天荒な演奏といえると思います。

この曲でいたるところで築かれる、クライマックスの強奏とその前後の弱音部分の対比が強調され、たいへん鮮やかです。聴いていると、ダイナミクスやテンポの変化でぐっと引き込まれていく感じがします。
したがって、新しく主題が出てくるところなど、雰囲気ががらっと変わるので、私のように曲の構成をよく知らなくても、たいへん聴きやすく、曲のエッジが非常に明確でもったりしたところのない演奏という印象を受けます。

中でも、良し悪しは別にしてインパクトが強かったのはスケルツォでヴァイオリンの動きはかなりアクが強く、鮮烈なトレモロやピッチカート。これほど耳を奪われる演奏もそうないのではないかと思いました。
主部の終わりのクライマックスの見栄の切り方など、ものすごいし、トリオは、「野人が田舎を夢見る」というにはかなりキツイ演奏だけれど、やはり破天荒に面白く普段なにげなく聴いていたところが、あちこちで、こんなに魅力あるものかと思い、とにかく楽しませてもらいました。

また、いわゆる「ブルックナーサウンド」というのは私にはよく分かりませんが、弦合奏の音色、金管の咆哮などなかなか聴き応えのあるものと思いました。

野々村 私がホーレンシュタインのブルックナー演奏に惹かれるのは、今回の課題盤である交響曲第8番に関して言えば、作品自体はあまり好きではないからかもしれない。もちろん、9番は傑作だと思うし、7番の端正な佇まいにも好感を持っているが、この8番の大仰な身振りにはどうにも共感できない。

この作品が好きな人にとって、シューリヒトのソフトフォーカスなパノラマ写真や、ケーゲルのハイヴィジョンカメラを用いたドキュメンタリーが愛聴盤になることは、よくわかる。だが、そこにある種の空虚を感じてしまう耳にとって、このホーレンシュタインの解釈は実にしっくり来る。

表面的な音響現象だけ見れば、この発言は矛盾に満ちていると思われるかもしれない。質実剛健を地で行くシューリヒトや、譜面を正確に音楽化して一点の曇りもないケーゲルに対して、ここでホーレンシュタインが聞かせているのは、大仰さに更に輪をかけた、ケレンに満ちた音楽なのだから。

だが、過剰さはあるレベルを越えると逆向きに作用し始める。細部の仕掛けにいちいち反応して、いびつな大伽藍を描いた(それはそれで面白いわけだが)かに見えて、むしろ聴き手の意識を静謐な歌へと向かわせる。それ以外の部分を盛大にキッチュ化した結果、アダージョ楽章など、通常の解釈では影が薄くなりがちな部分の美しさが際立ってくる。

このような特質は、マーラー作品では馴染み深いものである。卓越したマーラー指揮者だったホーレンシュタインならではの解釈と言えよう。そしてこれは、マーラーとブルックナーに限った話ではなく、後期ロマン派の音楽全般に適用できるアプローチで、彼はワグナーやR.シュトラウスはもちろん、初期シェーンベルクにも優れた録音を残している。

なお、フルトヴェングラー(私が聴いたのは1949年の録音)も、最も強調しているポイントは実はホーレンシュタインと同じなのではないだろうか。ただ、彼の場合は、音響の派手な部分を極力抑制して演奏するという「正攻法」の行き方を取ったため、ブルックナー好きからは嫌われたのだろう。

鈴木 このところ、ブルックナーの交響曲第8番を、ホーレンシュタインとテンシュテットで聞き比べる羽目に陥った。けっして嫌いな曲ではないし、むしろ好きな曲だが、やはり長いのが玉に瑕で、まだ何回も聞き比べられてはいない。
小生、元々ホーレンシュタインは好きな指揮者だが、判官贔屓のようなところがないでもない。VOXBOXのCDは眼中になかったが、カプリコーンのマーラー交響曲第3番や、CDになってからもM&A盤など結構追いかけた。ただ、自分がのめり込む指揮者かというと、案外そうでもない。「あ、こんなことやってらぁ」と客体化して面白がることはあっても、マーラーにしてもブルックナーにしても、自分のファースト・チョイスにはなりにくい。これは、小生が現在はドイツの伝統様式が好きで、ピラミッドバランス型のオーケストラのに響きが好きだからでもある。

今回のブルックナー交響曲第8番にしても、幾分ハイ上がりのCD化のせいもあるが、ゆったりしたテンポであったとしも、”軽め”のブルックナーであることは否めない。たとえば、ティンパニーなどを聞いていると、けっこうケレン味たっぷりに叩かせていて芝居臭く、自然な叩かせ方ではない。

また、コントラバスの音が弱く、どこかひ弱なブルックナーに聞こえる。例えば20小節目から21小節目のえぐるようなコントラバスが聞こえない。さらに、テンポの動かし方が恣意的で、もっと溜めてほしいと思う箇所も少なくない。40小節目で2回目のクライマックスを築くのだが、あまりに自然に早すぎて(^ ^)、「もっと溜めてよ」と言いたくなる。103小節目の下降する音型もスケールが小さい。それほど早くはないのだが、小生の趣味だからか「もっと、ゆっくり深くやってよ」言いたくなってしまう。これは125小節の盛り上げどころでも言える。逆に14小節目からは、もう少し自然に早くても、なんて勝手なことを考えてしまう。

さらに、181小節目当たりから、オーケストラの表現に表情がなくどこかのっぺりとスコアを再現しているような印象。第1楽章を最後まで聞くとどこか軽めのフィナーレに、「あ、そうか」と納得するのだが、ホーレンシュタインは内声部の充実を図る指揮者ではないことがわかる。そのため全体としては決して面白くないわけではないのだが、どこかフラストレーションを残したまま終わってしまったという印象か。これは、低域が充分録音されていないと言うこともあるが、実はマーラー交響曲第3番を初めて聞いたときからのホーレンシュタインの演奏の特徴でもあると感じる。

第2楽章「スケルツォ」はなかなか面白い。トリオ以降、少しテンポは早めの印象はあるが、なかなか納得できる。練習番号Eからの弦楽器の表情も、あまりいやらしくならず、自然な情感かな。繰り返し前のテンポではハープは弾き切れないと思うが、やっぱり弾き切れていない(^ ^ ;。

第3楽章冒頭に録音の傷があって残念だが、恐らくホーレンシュタインの最も得意とする楽章だろう。18小節目からの情感はなるほどと思う。これは第3楽章全体に言えることで、ホーレンシュタインの表現したかった音楽が集約されている。元々、構築性の強い指揮をする人ではないので、より人間くさい演奏をしながら、構築感を失わないテンシュテットに比べて、多少喰いたらない部分はあるが、緩徐楽章が得意なホーレンシュタインの良い面が聞ける。ただ、主旋律の受け渡しは明確だが、もう少し内声部を際だたせてもとは思う。142小節目(練習番号K)からの第1ヴァイオリンの泣き方はいいですねぇ(^ ^)。169小節からも素敵だな(^ ^ ;。以後も音楽が生きている。

練習記号Pからのいわゆるブルックナー・トーンも嫌みではなく、そこはかとない続く音楽にきれいに繋がっている。録音の傷がこの辺りでもあるのが非常に残念。
第3楽章は録音の傷はあるが、納得のホーレンシュタイン節。小生は、交響曲第8番のフィナーレが大好きだ。最初の猫ダマシから惻々とした弦楽による情感、他の楽章の回帰など、ブルックナーのフィナーレでは質の問題を除いて最も好きだと言える。

ホーレンシュタイン盤のフィナーレは少し早めのテンポで始まる。16小節目のティンパニーは、恐らくホーレンシュタインならではの芝居っ気たっぷりの音。これがあるから、全体の演奏が不満足でもホーレンシュタインはやめられない(^ ^ ;。
練習記号Dからの部分をたっぷりとやってくれると、小生それだけで満足してしまう(^ ^)。以降の強奏する部分はあるが、惻々とした演奏は好きだ。ホーレンシュタインは、弦楽器主体のフレーズはたっぷりと弾かせているところが、ファンには堪らない魅力だし、そのアゴーギグは退屈させるところがない。しかし、面白いのは面白いし、退屈はしないのだが、どこか物足りない面もある。かなりレベルは高いのだが、音の万華鏡を聞いているようでもっと軋轢に富んだ演奏や、さらに構築性の強い演奏も可能だと思う。

長くなってしまった。フィナーレでもっと書きたいことがあったのだが、それは次の機会に。随所にホーレンシュタインの個性は聞けるし、ライヴとしては一級品だと思うが(それは最後の熱狂的なブラヴォ〜!で分かる)、録音では聞いた後、あまり余韻が残らない演奏ではある。

大黒 まず、わたしにとってホーレンシュタインは大好きな指揮者の一人です。特に、マーラー1、3、6、9、新世界がいいですね。

このブルックナーも興味深く拝聴しましたが、結論として、良い演奏の部類に入ると思うものの、個人的にはもう少し濃い味の方が好きですね。マーラーは大編成オケを使うにしても、わりに室内楽的な音楽作りの側面があると思いますが、ブルックナーはサウンドが比較的厚く重畳していますから、しっかりした技量を有するオケで、各パートを生かした上でたっぷり歌わせた演奏をしてほしいものです。

ライブの傷はいたしかたのないところで、またこのCDの録音も良くないため(低音系の聞こえがわるい)、スポイルされている面も多くあるとは思います。でも、全体的にフレージングの息が短く、ややあっさり流しているように感じます(それでも最近の並の指揮者よりはよっぽどいいが...)。

デュナーミク、テンポの変化はもっと大振りでよいと思います。アダージョは比較的秀逸と思いますが、フィナーレ冒頭などはもっと迫力がほしいですね。ここは怪獣映画の音楽のように派手にやってほしいものです(私は、ここを聴くとウルトラマンシリーズ/怪獣登場のシーンを思い出してしまいます)。

やっぱり、私にとってのベスト盤はチェリビダッケ/MPO/LIVE(AUDIOR盤)ですね。これは聴くのも大変ですが、聴き通したあとの充実感、手ごたえはずっしりです(所要時間、アダージョ33:16、フィナーレ31:12)。やっぱりこのチェリの超濃密な世界にはまると、もう抜けだせない。

斉諧生 皆さんの第一印象を、粗っぽくまとめると、野々村さんと佐々木@CD三昧日記さんが「ケレンたっぷり」、鈴木さんと大黒さんが「もっと濃く」と正反対になりましたが、これは日頃何を聴いているかの違いでしょうねえ。(^o^)

テンポの緩急というか、「タメ」@鈴木さん ないし 「見得の切り方」@佐々木さんについては、クナを聴き慣れていると「もっと濃く」になるし、シューリヒトあたりから聴いていくと「ケレンたっぷり」になりますね。このあたりから、議論を始めましょうか?

野々村 通常の解釈では影が薄くなりがちな部分の美しさが際立ってくる
大黒 デュナーミク、テンポの変化はもっと大振りでよいと思います
もう少し具体的に御指摘いただくと、互いに興味深いかもしれません。

鈴木 フィナーレでもっと書きたいことがあった
ぜひぜひ詳しくお願いします。

今日、クナを聴いていて思ったのですが、金管やティンパニの鳴らしっぷりは、ホーレンシュタインの方が、実に盛大ですね。クナ盤の第4楽章の冒頭が、あんなに弦合奏中心の音響だったとは思っていませんでした。中でも、第1楽章の終わり近く、全強奏からホルンとトランペットのリズムが残るところで爆裂するティンパニ(386小節、ノヴァーク版同じ)は、「ケレン」と言われても仕方ないような。(^^) クナ盤はかなり弱く叩いています。改訂版の指定なんでしょうか?

アダージョのクライマックスで、シンバルが2回目に鳴るときに、前打音を叩いているのも、奏者のミスでなければ、同類でしょうね。「新世界」でも、金管の鳴らしっぷりは派手派手でしたし、「オランダ人」序曲では金管の音を書き加えているのでは?
そのあたりが

野々村 盛大にキッチュ化
という部分なんでしょうか。
「キッチュ化」は、「カリカチュア化」とは違う意味ですね?ちょっと御解説いただければ有り難いです。

野々村 シューリヒトのソフトフォーカスなパノラマ写真
今日、久しぶりに聴き直して思ったんですが、シューリヒトの演奏が、いちばん解像度が低いんですね。特に、弦合奏の内声と、他の声部と重なるときの木管が、聴こえづらいように思いました。ムジークフェラインの残響に埋もれたのかな?

逆に、クナッパーツブッシュの演奏が、あれほど透明度が高かったとは、思ってもいませんでした(Westminster盤)。もっとも、ミュンヘン・フィルの弱さも、よく見えてしまいますが。ウィーン・フィルで8番も録音してほしかったところです。

大黒 私にとってのベスト盤はチェリビダッケ/MPO/LIVE(AUDIOR盤)
これは、EMIから出たのとは別な日の演奏なんでしょうか?

大黒 やっぱりこのチェリの超濃密な世界にはまると、もう抜けだせない。
今のところ、はまらずにすんでいます。(^^; 凄いなぁとは思うんですが―とても人間業とは思えない―、どうも胸が弾まないんです。

現時点で私のベスト3はクナとシューリヒトとケーゲル、この中での順位付けは難しいです。

大黒 大黒 私にとってのベスト盤はチェリビダッケ/MPO/LIVE(AUDIOR盤)
斉諧生 これは、EMIから出たのとは別な日の演奏なんでしょうか?
AUDIOR盤はEMIから出た正規盤(1993、ミュンヘン、ガスタイク)とは別演奏です。EMI盤に収載されているチェリ・ディスコグラフィーによりますと、Apr23. 1994 Lisbon、LIVE だそうです。

鈴木 斉諧生 今回、課題盤の他に、ケーゲル、ギーレン、チェリビダッケ(EMI盤)を聴き直してみて、「ブルックナー・サウンド」あるいは「ブルックナーの名演」の条件を、いくつかのポイントに整理してみました。
朝比奈やヨッフムは入らないんですか?(^ ^ ;。あ、単なるチャチャです(^ ^ ;;;;。

斉諧生 第二の条件は、オーケストラの響きを殺さないこと。特に金管やティンパニを抑えないこと。たしかコンヴィチュニーのLPがそうだったと思いますが、弦合奏主体のブルックナーは面白くありません。猛然と(しかし綺麗な和音で)咆哮する金管や、ズバリと打ち込まれるティンパニに、生理的といっていいかもしれない快感を感じるのがブルックナーの醍醐味だと思います。
弦楽主体のブルックナーは魅力的で小生好きですが。*特に金管やティンパニを抑えないこと*これは大賛成です。最近、優しいブルックナーが増えすぎました。テンシュテットはいかがですか?小生、あのブラスと太鼓の解放の仕方が好きです。

斉諧生 ホーレンシュタインの演奏は、だいたいにおいて、これらの条件をよく満たしており、合格点以上のブルックナー演奏だと思いました。
小生は50点(辛いかなぁ)。内声部の充実のない、メロディ主体のブルックナーですので、弦楽での緩徐部分は大好きですが、ちょっとプカプカドンドンのような気がします。パンツのゴムが緩いというか...。それが、ホーレンシュタインのある種の魅力でもあるんですけどね(^ ^ ;。

斉諧生 CDとしては、ライヴ的な傷や録音の問題がありますので、あまり高い位置には来ないと思いますが、現場では凄かったろうと思います。最後の音が鳴りやまないうちに拍手大喝采が起こったのは、よく理解できます。
録音に関しては、本当に残念です。これが聞けただけで、満足すべきなのかもしれません。

斉諧生 はたしてホーレンシュタインは、本当に「ブルックナー・サウンド」を理解していたのでしょうか?
多分、理解していなかったと思います。自分の方法論に強引に楽曲を近づけて演奏する、というのがホーレンシュタインのスタイルですが、それは、細部を積み上げて、各フレーズを大切にして、内声部を充実させて、本来のブルックナー・サウンドを形作る、ということとは、違うような気がします。

佐々木 したがって、新しく主題が出てくるところなど、雰囲気ががらっと変わるので、私のように曲の構成をよく知らなくても、たいへん聴きやすく、 曲のエッジが非常に明確でもったりしたところのない演奏という印象を受けます。
エッジが利いていると言うことでは、その通りですね。ホーレンシュタインの演奏は、退屈とは無縁ですね。でも、本来のブルックナーの演奏とは、多少あくびをかみ殺しながら何回も聞くうちに、理解できてゆくものなのかもしれません。朝比奈盤をどれでも良いから何回も聞いた後に、クナ盤を聞くと啓示を得たように理解できる部分かも知れません。

野々村 表面的な音響現象だけ見れば、この発言は矛盾に満ちていると思われるかもしれない。質実剛健を地で行くシューリヒトや、譜面を正確に音楽化して一点の曇りもないケーゲルに対して、ここでホーレンシュタインが聞かせているのは、大仰さに更に輪をかけた、ケレンに満ちた音楽なのだから。
シューリヒト盤、小生無論好きですが、やっぱり、まず朝比奈盤とヨッフム盤ですよ。その上で是非クナを、Westminster盤で良いから・・・。

野々村 このような特質は、マーラー作品では馴染み深いものである。卓越したマーラー指揮者だったホーレンシュタインならではの解釈と言えよう。
その通りです。マーラーの響きでブルックナーを形作った演奏と言えます。このあたり、テンシュテットにも共通項があるのですが。ホーレンシュタイン盤は非常に人間くさいブルックナーであるわけですが、ただ、金管の咆哮があってもそれを超克できてはいないですね。

ブルックナーの交響曲では、前後の脈略がなく、金管の強奏が頻繁に出てきますが、そこに不必要な表情を付けちゃうと、音楽がグニャグニャになってしまうと思うんです。そこはそれ、思いっきりのよさがないと。また、全ての声部を等価に(これは本当は不可能ですが)扱うことに躊躇しない演奏が、ブルックナー・サウンドに近づけると思います。
それと、度重なるクライマックスの扱いですね。各楽章の1発目のクライマックスをしっかり築かないと、サラサラした印象になってしまいます。”出し惜しみ”をしないことです。そのクライマックスのアルプス山脈のような稜線がしっかり描けて、はじめてブルックナーの音楽たりうると思います。

野々村 なお、フルトヴェングラー(私が聴いたのは1949年の録音)も、最も強調しているポイントは実はホーレンシュタインと同じなのではないだろうか。ただ、彼の場合は、音響の派手な部分を極力抑制して演奏するという「正攻法」の行き方を取ったため、ブルックナー好きからは嫌われたのだろう。
慧眼です。ブルックナー受容史の中で、好き嫌いは別にして本来フルヴェンははずせない演奏なんですよね。ただ、フルヴェン独特のアゴーギグやフレージング、アッチェランドをかけるなど、クナの63年Westminster盤が出てから、変に聞こえてしまう、と言うことはあります(^ ^ ;。クナ自体、それ以前の演奏はいろいろやっていますので、63年のクナ盤が、使っている版がシャルク版であったとしても、ブルックナー演奏にはメルクマールであったと思います。ただ、フルヴェン49年盤とクナの63年盤の振幅を聞くことが、面白いし、大切なことだと思います。
小生は、クナのWestminster盤も大大大好きですが、63年ライヴは、全てのブル#8演奏に冠絶していると言い続けています。あるBBSのスレッドでは、「それは、想像力を働かせて聞いた幻想だ」と一蹴されてしまいましたが(^ ^ ;。小生の考え方は、変わりません。

大黒 やっぱり、私にとってのベスト盤はチェリビダッケ/MPO/LIVE(AUDIOR盤)ですね。これは聴くのも大変ですが、聴き通したあとの充実感、手ごたえはずっしりです。
小生、AUDIOR盤もMETEOR盤も持っていますが、どこかこそばゆいんですよね(^ ^)。チェリの晩年の演奏。ムズムズしてきて、途中でストップを押してしまうんです(^ ^)。どこか、あまりの遅さにいらついてくると言う部分がなきにしもあらずです。チェリはやはり、ライヴで体験を共有すべきなのかも知れません :-P。

斉諧生 皆さんの第一印象を、粗っぽくまとめると、野々村さんと佐々木@CD三昧日記さんが「ケレンたっぷり」、鈴木さんと大黒さんが「もっと濃く」と正反対になりましたが、これは日頃何を聴いているかの違いでしょうねえ。(^o^)
いえいえ、ケレンはたっぷりだと思いますよ(^ ^)。
結局、ブルックナーのマーラー的演奏。いわゆる本来のブルックナー・サウンドではないと言う意味で・・・。その上で、内声部の充実がない、スポイルされちゃった低域、各フレーズの解決が、ちょっと味付けの仕方がブルックナーとは違うというのが小生の意味です。

大黒 斉諧生 はたしてホーレンシュタインは、本当に「ブルックナー・サウンド」を理解していたのでしょうか?
鈴木 多分、理解していなかったと思います。自分の方法論に強引に楽曲を近づけて演奏する、というのがホーレンシュタインのスタイルですが、それは、細部を積み上げて、各フレーズを大切にして、内声部を充実させて、本来のブルックナー・サウンドを形作る、ということとは、違うような気がします。
そうですね、理解の有無はともかく、ホーレンの音楽作りが真にブルックナー的かと言われると、わたしはやはり否と言わざるを得ません(何をもってブルックナー的とするかという問題はありますが)。斉諧生さんが最初に挙げられたブルックナー名演の5つの条件について、わたしも大賛成です。

内声部の充実という点では、朝比奈の利点があるのかもしれません。ただ、朝比奈のブルックナー実演は大フィルの金管がどうにも下手で、アレレ、でしたが...。ホーレンに関しては、マーラーに対するアプローチをブルックナーに応用したという印象ですね。もっと各パートをモリモリと重畳した豊穣なサウンドで、かつ息の長ーい演奏がほしいという気がします。
ホーレン、好きなんですが、彼のブルックナーに対する適性にはやはり疑問符がつきます。

斉諧生 ごく単純に言うと、私にとって、ブルックナー演奏というものは、的の真ん中に理想型があって、いろいろの実演やCDは、その周りのいろいろなポイントに当たっている、というイメージなのです(「的の中心」=真正な「ブルックナー・サウンド」)。
で、更にイメージを申し上げると、的の中心からの隔たりの小さい人が、クナ、ケーゲル、シューリヒト等々であるわけですが、その方位は様々…という構図。

「的の中心」が実在するのか、それとも、私が勝手に自分の中で思いこんでいるのか…というのが、今回の議論に際しての問題意識です。

それと、最初に「5つの条件」を挙げまして、大黒さんからは御賛同いただいているのに、こういうことを言うのもなんですが、一つ漏らしていることを思い出しました。
「リズム」あるいは「流れ」の問題です。これが重かったり停滞したりすると、「ブルックナー・サウンド」としては×印が付くと思います。





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