| 野々村 |
今回は分析的に聴く時間がなさそうなので、とりあえず「趣味」だけで押してみることにします :-)
工藤 ただ、僕が同じフォーレでも夜想曲集は退屈で室内楽は素晴らしいと感じている理由を考えると、そこにはやはり“音色”とか“響き”という要因が大きな位置を占めるので、
たぶんその通りなのでしょうが、私にとっては、夜想曲集は「素晴らしい」とは言えなくても楽しく聴けるのに対して、室内楽はしばしば「鬱陶しい」んですよね。『レクイエム』でも1893年版を、特にヘレヴェッへのような淡い色調の演奏を好んでいる点と共通するものがありそう。
浮月斎 私の場合は結果的に、水戸黄門の印篭と同じで、フォーレの意図したとおりに自然な高揚感を持ってゆけない演奏はどうしても物足りない。
工藤 これには全く同感です。
私の場合は、それが「鬱陶しい」ので、そういう「高揚感」を除去して、しかも退屈に感じさせないような演奏を望んでいたわけです。
工藤 この演奏は“アナリーゼ的アプローチ”を取っているというよりは、“アナリーゼの段階で留まっている”というのが僕の率直な感想です。ただ、アナリーゼ自体はしっかりとしているので、独特の見通しの良さがアデル盤の美質として感じられるのでしょうね。
というわけで、アデール盤のアプローチをより積極的に評価したくなるわけです。「高揚しない」のも積極的な表現なのではないかと。
浮月斎 アンサンブルの調和性は勿論ですが、アデルのピアノが程よくリードしているところにあるとは思いました。が、やはり「程よく」なんです。アデル自身は、何となく知的にセーブする傾向に聞こえてしまうのですが。
工藤 僕はそれを“好ましい”と感じました。でも、ギレリスの持ついても立ってもいられないような昂奮の方に、僕はより強く惹かれるのも事実です。
私の場合は、シューベルトまではそういう演奏も悪くないと感じますが、シューマン以降では、そういうのは積極的に嫌いなんですよ。基本的に「ロマン派嫌い」なのは間違いなくて、「セーブ」してくれると嬉しい。アデールは近現代弾きだから、そういう志向の持ち主なのかもしれない。
工藤 僕がティッサン=ヴァランタン盤に非常に感心したのは、このアーティキュレーションの絶妙さですね。
私が参照しているのは、ここでは評判の良くないユボー盤とコラール盤だけなので、これを是非入手したいところですが、なかなか見つからないんです。DOMUS盤はどこにでもあるけど。
工藤 私的には、四重奏曲ではヴァイオリンよりはもっとヴィオラに“ブリブリ”と出てほしいところですね。これは1番でも2番でも同じこと。ですから、野々村さんがおっしゃられた「ピアノ四重奏曲第1番の演奏も優れたものだが、作品が私にとっては今ひとつ。旋律的でユニゾンも多く、これならピアノ三重奏曲としてまとめるべき だったと思う」には賛同できないのです(^^)。
端的に言えば、私は「ヴィブラートのかかった弦楽器のユニゾン」を生理的に受け付けないんですよ。だからオーケストラも嫌い (^ ^;;)
|
| 斉諧生 |
四重奏第1番の演奏について、1回目の投稿と2回目の投稿で評価が一変してしまったので、もう一度、EMI盤とAccord盤だけですが、聴き直してみました。この曲はCharlin盤を架蔵しておりませんので、御了解ください。
Accord盤について、工藤さん御指摘の奏者の力量不足、浮月斎さん御指摘の高揚感の弱さは、成る程、よくわかりました。
つまるところ、
a) コンチェルタンテな魅力・高揚感の十全な表出 と、
b) よくコントロールされた和音・和声の移ろいの美しさ
を両立できている演奏が理想なんでしょうね。
EMI盤は、a) を指向しつつ(それでもイマイチかな)、b) が駄目。それならば、a) が不十分でも、b) がちゃんと出来ているAccord盤を採りたい、というのが、現在の評価です。
|
| 浮月斎 |
工藤 この「ユニゾンの多さ」が曲者なんですね。ピアノと弦楽器とでは発音方式が全く違いますから、当然アーティキュレーションも異なります。
確かに通例の四・五重奏のようにピアノ重視型になりにくい要因であると感じました。だから、四重奏曲におけるアデル盤のバランスの取り方は説得性があるし、魅力も出ているのだと思います。
工藤 ただ、僕が同じフォーレでも夜想曲集は退屈で室内楽は素晴らしいと感じている理由を考えると、そこにはやはり“音色”とか“響き”という要因が大きな位置を占めるので、
確かにそういう側面はあるでしょうね。ただ、夜想曲の問題を敷衍すれば、音色や響きという点は、裏返すとフォーレの音楽の単純性(簡潔性というべきかな)に起因するのではないかと思います。
室内楽も音楽構造自体は、書法の割には簡潔でしょうが、演奏に反映させにくい。そこに音色や響きの要素、バランスが大きくのしかかる。結局、音色的にどう載せるかということになります。私は室内楽だけには、何かその意味で徹底したものが欲しいのは、多感なガキの頃にこれらを擦り込んだせいでしょう。
工藤 フォーレの室内楽作品の特徴として第1楽章再現部に入るところの劇性を指摘しましたが、それは第1楽章展開部冒頭の瞑想的な雰囲気という前置きがあってこその“劇性”なのですよね。
そうですね。そうでないと「力み」がどうしても加わってきて、プロポーションそのものが崩れてしまう。フォーレの場合、このプロポーションの完全維持が音楽構造の簡潔さと同化していることが厄介なので、自然な高揚感、即ちエネルギーの蓄積・爆発ではない高揚を求めることになると考えます。原理的にはブルックナーでも原始霧(でしたっけ?)の描き方が浅いと、トゥッティは力で持っていくしかないのと同じことなのかな。それは違うぞということであれば、どうぞご叱責を...(^^;
浮月斎 私的には、この作品に対するアナリーゼ的アプローチは敢えて望む気がしないのです。
工藤 この演奏は“アナリーゼ的アプローチ”を取っているというよりは、“アナリーゼの段階で留まっている”というのが僕の率直な感想です。
ああ、なるほど、そう言ってしまいますか...(^^;)。私はむしろアナリーゼ的アプローチそのものであることが、自分達のやり方に相応しいものとして、過程的ではなく、目的的にそうしたのではないかと。
工藤 ただ、アナリーゼ自体はしっかりとしているので、独特の見通しの良さがアデル盤の美質として感じられるのでしょうね。
そういうことになりますね。
浮月斎 アデル盤は、高揚への唱導部そのもの−ひたひた感みたいな−が淡いんですね。特に3楽章のような息の長い持続的な緊張から開放への足取りが淡白なんです。
工藤 他のロマン派の室内楽作品みたく、和声進行に従えばある程度緊張→開放といった感覚が表出されるような作品ではありません。
これは私の言葉の問題ですね。通例の緊張→開放というつもりではなく、表象的に抑制されたものが少しずつ溶け出してくる力ではありますが、むしろかなり内向的なものだと考えます。
工藤 ・チェロは高音の張り詰めた音と、ピアノの左手とよくブレンドする中低音がほしい。
これはありますね。但し、ピアノとの関連は考えていませんでしたが。
浮月斎 私は1stの表現力は四・五重奏曲ともに弱いと聴きましたが、
工藤 僕は特に高音域で弱音部を弾く時にこの弱さを痛感しました。キンキンはしていませんが、色がないのです。
「色がない」という点は、多分、私と鈴木さんはそれを「歌」と言っているのではないかと思われます。だとしたら、ほぼ同じことになりますでしょうか。
工藤 ヴィオラと同じ音を奏する時、必然的にチェロの方が高い音を弾くことになるわけですから、ヴィオラの深い響きに艶を失わずに張り詰めたチェロの音が乗ってくると、それだけで緊張感に満ちた響きが創出されるはずです。ここが弱い。
工藤さんのこの意見は、アデル盤に関して言えば、あくまで上に乗ってくるチェロの役割がですか?それともチェロそのものの響きの効果ですか?
工藤 フォーレの室内楽におけるチェロは、低音で和声を支えるという役割はそれほど大事ではなく、高音で和声の響きを彩ることが非常に重要だというのが僕の考えです。
というか、持続的なひたひた的高揚の中でチェロの踏み込みが弱いので、中域の音の力気が弱く、音楽が盛り上がってきずらいのかなということです。和声推移というより、モザイク的に聞こえてくるチェロの効果かな、私が言っていたのは。
浮月斎 アデルのピアノが程よくリードしているところにあるとは思いました。が、やはり「程よく」なんです。アデル自身は、何となく知的にセーブする傾向に聞こえてしまうのですが。
工藤 僕はそれを“好ましい”と感じました。
確かに悪くはありませんが、「好きではない」ですね。但し、それは五重奏曲の方だけです。四重奏曲はあれでいい。
工藤 僕がティッサン=ヴァランタン盤に非常に感心したのは、このアーティキュレーションの絶妙さですね。
工藤さんのおっしゃるとおりなのですが、さらに重要な要素として音色そのものの違いを挙げました。それはアーティキュレーションから産み出されたものではなく、ピアノの音そのもののことなんですね。
工藤 この演奏のようにフォーレの“息の長さ”が自然に表出されると、ただの分散和音に聴こえるフレーズにも多種多様なニュアンスが感じられてきます。そういう意味では、お二人の感じ方に差異が出ても違和感はありません。
なるほど、なるほど。聴けているものは同じでも捉え方だけの問題なんですね。
工藤 僕は“艶のない”という点では浮月斎さんと同じですが、“澄明な明るさ”というよりはむしろ、濃い陰影が柔らかな布に包まれたような雰囲気を感じました。
言い方が難しいのですが、ポンと鳴る音そのものの陰翳を「乾いた皓光とくすんだ影の対比」だと感じているのです。澄明な明るさとは「乾いた皓光」のような音色に惹かれるからですが、裏を返せば影の彫りが深くなりすぎないことにも起因しているのであって、影が濃くならないという点で、言わんとしていることは似ているのかもしれません。
浮月斎 アデル盤はそういう意味では、ティッサン=ヴァランタン盤に近いよさを持っていると思うのです。
工藤 ということで、僕はアデル盤にはもっとストレートな明るさを感じます。
この場合、ストレートという意味は?
私の場合、不満と言えるものはほぼ五重奏曲だけです。結局、私的に四重奏曲より五重奏曲の方が思い入れが強いからということなんでしょうね。
野々村 「高揚しない」のも積極的な表現なのではないかと。
そうかもしれません。アナリーゼは過程ではなく目的だと上述したのもそういう気がするからです。
野々村 アデールは近現代弾きだから、そういう志向の持ち主なのかもしれない。
この演奏を聴く限り、結果的にはそういえるでしょうね。拡散しますが、HMのルクーを聴いても、アデルのピアノの性向はほぼ同じと見られます。こちらでは音楽がもっと甘美なだけに、一律に比較できませんが。なお、チェロは同じ人のようですね。
斉諧生 つまるところ、
a) コンチェルタンテな魅力・高揚感の十全な表出 と、
b) よくコントロールされた和音・和声の移ろいの美しさ
を両立できている演奏が理想なんでしょうね。
私の場合、a) のコンチェルタンテな魅力は、それほどでもないのです。また、高揚感の十全な表出は、或る意味でピアノが主体でしかありません。やはり聴き方が結構違いますね。
斉諧生 それならば、a) が不十分でも、b) がちゃんと出来ているAccord盤を採りたい、というのが、現在の評価です。
なるほど。とすると、やはり私はa) の評価基準を大切にしていないところが、斉諧生さんとの大きな違いになりましょうか。
|
| 鈴木 |
フォーレのピアノ五重奏曲の方、cpo盤がかなりの演奏です(Auryn Q & Peter Orth)。小生は、ヴィア・ノヴァの演奏とティッサン=パランタン盤が今回の聴取でも良かったですが、現代的なアンサンブルとしては、cpo盤が一番かも。特にアンサンブル・アデルで聞けなかった弦の表情が、なかなか聞かせます。
crdにナッシュ・アンサンブルのピアノ四重奏曲集がありますが、ナッシュ・アンサンブルって、ドビュッシーに感心したことがあるのですが、うまいアンサンブルですねぇ。音が凝縮してエネルギッシュな分、ちょっとフォーレには違和感がありましたが、それにしては、うまい。今後、小生にとって要注意のアンサンブルです。ナッシュ・アンサンブルに五重奏が出ていたかどうか、確認できていません。
工藤 ただ、僕が同じフォーレでも夜想曲集は退屈で室内楽は素晴らしいと感じている理由を考えると、そこにはやはり“音色”とか“響き”という要因が大きな位置を占めるので、
浮月斎 確かにそういう側面はあるでしょうね。
小生もフォーレの室内楽は大好きで、期待通りの音楽が聞けるという感じですね。ドビュッシーよりもモネの絵画を連想させてくれますね。室内楽によってはスーラなんかを連想させてくれますが、「完全な闇がない」世界というか、ワーグナーやブルックナー、マーラーとは全く異なる世界の表象の仕方だと思います。
そのためには、演奏者の音色やディナーミクがもの凄く重要で、アンサンブル・アデルとヴィア・ノヴァの振幅の中で、さまざまな演奏が聴ける楽しみは大きいですね。
浮月斎 そこに音色や響きの要素、バランスが大きくのしかかる。結局、音色的にどう載せるかということになります。私は室内楽だけには、何かその意味で徹底したものが欲しいのは、多感なガキの頃にこれらを擦り込んだせいでしょう。
(爆)
小生は最近刷り込んだわけですが(^ ^)、浮月斎さんの仰るとおりだと思います。ただ、バランスが取れすぎた演奏はあまり面白く感じないと言うのは、聞き手の問題かな?
浮月斎 原理的にはブルックナーでも原始霧(でしたっけ?)の描き方が浅いと、トゥッティは力で持っていくしかないのと同じことなのかな。それは違うぞということであれば、どうぞご叱責を...(^^;
これも、その通りだと思います。ただ、ブルックナーのスコアを目の前にすると、これが本当に音楽になるのかという、恐怖心が先に立つとの朝比奈さんの言葉がありますが、ブルックナーでも構築的な演奏と、主情的な演奏があるのですが、自分がよりどちらにコミットしているかによって、演奏の好悪は分かれると思います。ただ、フォーレはよほど演奏がへたでないとそのことが際だたない。
浮月斎 アデル盤は、高揚への唱導部そのもの−ひたひた感みたいな−が淡いんですね。特に3楽章のような息の長い持続的な緊張から開放への足取りが淡白なんです。
これは、アデル盤を聞いていての小生の贅沢な不満を言い得ていただいているようです。非常に優れた演奏なのですが、「何かが足りない」部分なのかなぁ。最近聞いたアウリンQとPeter Orthのcpo盤はその辺りで、小生の好みにピッタリはまっています。各楽器の音の出し方と言いましょうか。
以前、アデル盤のピアノの音が骨太でしっかりしているのが不満だ、というようなことを書いたのですが、指のつま先で弾いているのか、指先の腹で弾いているのかの、本当はどうだか分かりませんが、その感覚の違いのようなものだと思います。
フォーレの室内楽では、つま先で弾いたような質感が欲しいと言うのが、小生の思いです。力強さや柔らかく包み込む音色とは別の感覚ですね。
浮月斎 私は1stの表現力は四・五重奏曲ともに弱いと聴きましたが、
工藤 僕は特に高音域で弱音部を弾く時にこの弱さを痛感しました。キンキンはしていませんが、色がないのです。
浮月斎 「色がない」という点は、多分、私と鈴木さんはそれを「歌」と言っているのではないかと思われます。だとしたら、ほぼ同じことになりますでしょうか。
同じだと思います。フォーレの室内楽の場合、「色」が「歌」を決定づけて行くように思います。楽譜を几帳面に再現しただけではフォーレらしさはまず出ないので、第1ヴァイオリンの音色の付け方が聴感上の良否を決定する場合の最大要因かも知れません。その点、cpo盤はほぼ理想に近いです。ピアノの音色を含めて。
浮月斎 確かに悪くはありませんが、「好きではない」ですね。但し、それは五重奏曲の方だけです。四重奏曲はあれでいい。
四重奏曲にも小生不満があります。非常に優等性的ないい演奏なのですが、それ以上のものは聞こえない、というか表現意欲が抑制されて聞こえてしまうんです。贅沢言えば、もっとのめり込んだ演奏も可能なはずで、「音楽の魔」が希薄なんです。聞いている人間を虜にしてしまうと言うような。
工藤 ということで、僕はアデル盤にはもっとストレートな明るさを感じます。
浮月斎 この場合、ストレートという意味は?私の場合、不満と言えるものはほぼ五重奏曲だけです。結局、私的に四重奏曲より五重奏曲の方が思い入れが強いからということなんでしょうね。
五重奏曲第3楽章をどのように演奏するかでしょうね。フォーレの音楽は多分に聞き手の心象風景に作用する音楽ですので(多分、それを目的に作曲されている)、あっけらかんとした表現では踏ん切りの悪さが残ると思います。
野々村 「高揚しない」のも積極的な表現なのではないかと。
浮月斎 そうかもしれません。アナリーゼは過程ではなく目的だと上述したのもそういう気がするからです。
それが中途半端だったら、ちょっとつらい(^ ^)。
だったら弦楽の方はもっと冷たい表現が可能で、小生の評価も少しは変わるかも知れません。でも、もし冷たい演奏が可能で、それが実現されたとて、それはそれで面白いんですが、「高揚する」ロマン派の音楽を「高揚しない」音楽として演奏することの面白さは分かりますが(ブーレーズの「運命」は古典派ですが、そのまんまこの言葉が当てはまりますね^ ^)、聞き手には一過性の表現としてしか聞こえない。
ロマン派の音楽は、徹底してロマン派の音楽として演奏すべきである、というのが最近の小生の聞き手としての方向です。でも、さまざまな振幅を理解する必要はありますが。また、アナリーゼは演奏の本来の目的ではないでしょう。
最近つらつらと考えるのですが、まずフォーレらしさとは何だろうという部分ですね。聞き手はそこからスターとしますので、アナリーゼがしっかりした演奏=優れた表現としては聞こえない、と感じます。
でも、アデル盤を否定する気は毛頭ありません。ここ数日は毎日のように聞いていましたので、そのクセや弱点は多少は理解しています。その上で、フォーレに何が必要か?と言う部分で、疑義を持った次第です。
|
| 浮月斎 |
鈴木 「完全な闇がない」世界というか、ワーグナーやブルックナー、マーラーとは全く異なる世界の表象の仕方だと思います。
宗教曲の世界でいけば、フォーレもグノーやサン=サーンスらとそれほど色合いが違うものではないのですけれどね。
鈴木 そのためには、演奏者の音色やディナーミクがもの凄く重要で、アンサンブル・アデルとヴィア・ノヴァの振幅の中で、さまざまな演奏が聴ける楽しみは大きいですね。
ははぁ、鈴木さんはこのふたつを両端に置いているんでしょうか。
浮月斎 多感なガキの頃にこれらを擦り込んだせいでしょう。
鈴木 (爆)
小生は最近刷り込んだわけですが(^ ^)、浮月斎さんの仰るとおりだと思います。ただ、バランスが取れすぎた演奏はあまり面白く感じないと言うのは、聞き手の問題かな?
結局、聞き手がどこまで曲に踏み込んで浸れるか、という気概を起こすものが私の場合、フォーレ、ショーソン、ルクーあたりなのでしょうね。だから、極端な演奏を比較して各々の妙味を得るのは好きなのですが、こざっぱりした佳演を聴いても、あとあとに残っていかないように思っています。
鈴木 ただ、フォーレはよほど演奏がへたでないとそのことが際だたない。
鈴木さんのおっしゃる意味はよくわかります。ただ、それはそこそこ鳴らすということであって、私はむしろ、よほどうまくないと感心すらできないのがフォーレではないかと感じています。
鈴木 最近聞いたアウリンQとPeter Orthのcpo盤はその辺りで、小生の好みにピッタリはまっています。各楽器の音の出し方と言いましょうか。(中略) フォーレの室内楽では、つま先で弾いたような質感が欲しいと言うのが、小生の思いです。力強さや柔らかく包み込む音色とは別の感覚ですね。
cpo盤も聴いてみませんと駄目ですね。これには「つま先で弾いたような質感」はあるのですか?ちょっと完全に理解できていないのですが、ここでの鈴木さんの表現は、硬質透明なタッチというのと意味は違うのでしょうか?
鈴木 四重奏曲にも小生不満があります。非常に優等性的ないい演奏なのですが、それ以上のものは聞こえない、というか表現意欲が抑制されて聞こえてしまうんです。
鈴木さんの不満は、以前私も述べたものと同じで、物足りないものはやはりあります。ただ、アデル盤では彼らの性分から考えると、私はこれでもいいだろうと思っています。むしろこれ以上特に求めないという程度なのでしょう。鈴木さんが「表現意欲が抑制」と感じる不満はソロですか、ユニゾンですか、それとももっと別な視点ですか?
鈴木 贅沢言えば、もっとのめり込んだ演奏も可能なはずで、「音楽の魔」が希薄なんです。聞いている人間を虜にしてしまうと言うような。
こういう具合いですと、工藤さんが引用しているボディ・ビルダー的演奏の方がそうした魅力がありそうかもしれませんね。
鈴木 だったら弦楽の方はもっと冷たい表現が可能で、小生の評価も少しは変わるかも知れません。でも、もし冷たい演奏が可能で、それが実現されたとて、それはそれで面白いんですが、
そういう演奏も一度は聴いてみたいですが、ただそうなると、完全にフォーレの質感からは乖離するでしょうね。色が完全に抜けていくことと思います。フォーレの質感自体が、音の傾向としてはやはり本性的に明るさを持っているものと思いますから...。
鈴木 ロマン派の音楽は、徹底してロマン派の音楽として演奏すべきである、というのが最近の小生の聞き手としての方向です。でも、さまざまな振幅を理解する必要はありますが。
さまざまな振幅を理解する、というのは大賛成ですが、徹底してロマン派の音楽として演奏すべきという場合、例えばシューマンのそれとフォーレのそれとを同一軌道上で語ることは出来ませんよね?私の場合は、ロマン派の音楽全体に対してそういう要求を持っているのでもないのです。むしろ、濃い口のロマン派なら、淡々とやってもらう方が好きです。ここで言いたいところは、フォーレの生命線は濃くはないが薄くもない、この微妙なラインだろうと考える程度です。それを超えた表現力までは要らないが、そのフレームの中で腐乱しない程度に(^^;)濃くやってほしいと。だから歌曲と同質の「歌」は欲しい要件ですね。
鈴木 また、アナリーゼは演奏の本来の目的ではないでしょう。
「本来の」目的ではないでしょうね。ただ、アンサンブル・アデルの特質を自分たちが見極めた結果、そういう付加を求めず、クリアでよくアナリーゼされたフォーレ像を描こうとしたのが目的では?ということです。
鈴木 フォーレに何が必要か?と言う部分で、疑義を持った次第です。
これ、難しい話ですが、私の場合でいけば、臆面もなく濃さを求めてはいても、決して濃厚な叙情や情念ではなくて、やっぱりフォーレの歌曲の濃さを超えない程度の話です。清澄さの中にある詩情の深さみたいな。
で、それが正しいか否かは測る由もありませんが、そういう聴き方を自分では納得して認めている訳です。むしろ、だからフォーレを聴き続けられているのかもしれません。
|
| 鈴木 |
浮月斎 ははぁ、鈴木さんはこのふたつを両端に置いているんでしょうか
他に古い演奏はあまり聴いていないので、振幅は他にどうなのか想像できませんが、小生にはそうですね。ただ、ベートーヴェンやブルマラなら、その振幅の両端がたいてい好きになるのですが、フォーレの場合、好きな演奏は、ちょっと異なるかも知れませんし、前2者の振幅はある部分での振幅でしかすぎないのかも知れません。
浮月斎 鈴木さんのおっしゃる意味はよくわかります。ただ、それはそこそこ鳴らすということであって、私はむしろ、よほどうまくないと感心すらできないのがフォーレではないかと感じています。
そうですね。へたくそなフォーレの室内楽は、幸い、まだ聞いたことがないので分かりませんが、なぜ、アルバン・ベルクとかイタリアにはフォーレないんですかね。あ、もしあれば是非ご教示ください。特に、イタリアあたり探してみたいなぁ。
浮月斎 cpo盤も聴いてみませんと駄目ですね。これには「つま先で弾いたような質感」はあるのですか?ちょっと完全に理解できていないのですが、ここでの鈴木さんの表現は、硬質透明なタッチというのと意味は違うのでしょうか?
浮月斎さんの言葉に、「軽やか」という言葉を付け足せば、いいのでしょうか。ただ、「硬質」とは少し違うんですよね。
浮月斎 鈴木さんの不満は、以前私も述べたものと同じで、物足りないものはやはりあります。ただ、アデル盤では彼らの性分から考えると、私はこれでもいいだろうと思っています。むしろこれ以上特に求めないという程度なのでしょう。鈴木さんが「表現意欲が抑制」と感じる不満はソロですか、ユニゾンですか、それとももっと別な視点ですか?
多くは、音色です。通俗的なフォーレの聞き手のようですが(そのまんまか^ ^)、うつろうような色の感覚がほしいです。でも、アデルの演奏は小生も、これでいいと思っています。また、全く色づけのない演奏があれば、それも聞いてみたいですね。きっと別の魅力が発見できるでしょう。
浮月斎 さまざまな振幅を理解する、というのは大賛成ですが、徹底してロマン派の音楽として演奏すべきという場合、例えばシューマンのそれとフォーレのそれとを同一軌道上で語ることは出来ませんよね?
それは、その通りですよ。シューマンとフォーレでは全く違う指向を持つ音楽ですから。ただ、最近、あまりそれを意識させない演奏の方が多くて、ノスタルジーを含めて、もっと何とかならないかと。
浮月斎 私の場合は、ロマン派の音楽全体に対してそういう要求を持っているのでもないのです。むしろ、濃い口のロマン派なら、淡々とやってもらう方が好きです。ここで言いたいところは、フォーレの生命線は濃くはないが薄くもない、この微妙なラインだろうと考える程度です。それを超えた表現力までは要らないが、そのフレームの中で腐乱しない程度に(^^;)濃くやってほしいと。だから歌曲と同質の「歌」は欲しい要件ですね。
その好みはよく理解できます(^ ^)。小生は、”腐乱”しててもいいから、とにかく徹底した低回趣味の、効果重視のフォーレもも聴いてみたいと言うところでしょうか。みんな、そこそこの演奏ならどれ聞いても同じですから。
|
| 工藤 |
工藤 ヴィオラと同じ音を奏する時、必然的にチェロの方が高い音を弾くことになるわけですから、ヴィオラの深い響きに艶を失わずに張り詰めたチェロの音が乗ってくると、それだけで緊張感に満ちた響きが創出されるはずです。ここが弱い。
浮月斎 工藤さんのこの意見は、アデル盤に関して言えば、あくまで上に乗ってくるチェロの役割がですか?それともチェロそのものの響きの効果ですか?
「上に乗ってくるチェロの役割」です。「チェロそのもの」が問題になるような部分は、フォーレの室内楽に関してはそれほどないと思います。
工藤 これはピアノ、弦楽ともにアーティキュレーションがやや短めであることも関係しているような気がします。
浮月斎 ピアノは特にそれで問題を感じませんね、四重奏曲では。というか、バイオリンのヴィブラート浅すぎませんか?
振幅の大きなヴィブラートは煩わしいし、フランスの流儀ではないとも思いますが、この録音に関しては確かに振幅の大小ではなく“浅い”という印象を受けますね。
工藤 僕がティッサン=ヴァランタン盤に非常に感心したのは、このアーティキュレーションの絶妙さですね。
浮月斎 工藤さんのおっしゃるとおりなのですが、さらに重要な要素として音色そのものの違いを挙げました。それはアーティキュレーションから産み出されたものではなく、ピアノの音そのもののことなんですね。
なるほど。僕自身はあまり「ピアノの音」に対する執着がないので、大分聴き方も異なるのでしょうね。
工藤 ということで、僕はアデル盤にはもっとストレートな明るさを感じます。
浮月斎 この場合、ストレートという意味は?
極端な言い方をすれば、“陰影のない”ということになりましょうか。フォーレの後期作品についてよく言われる“晦渋さ”というものがあまり感じられない。ということで、決して否定的な意味ばかりではありませんが、それゆえに物足りなさを感じることも事実です。
野々村 アデールは近現代弾きだから、そういう志向の持ち主なのかもしれない。
浮月斎 この演奏を聴く限り、結果的にはそういえるでしょうね。拡散しますが、HMのルクーを聴いても、アデルのピアノの性向はほぼ同じと見られます。こちらでは音楽がもっと甘美なだけに、一律に比較できませんが。
おっしゃられる通り、ルクーを聴いてみるとより一層アデルの性質がよく分かりますね。フォーレに比べて非常に“一本気で激情型”の音楽ですが、その差異をきちんと踏まえていながらも、どこか醒めた音楽をしている。これは良いですね。特に、弦楽器がイってしまっているので際立っています(^^;。
浮月斎 なお、チェロは同じ人のようですね。
そのようですね。音色についてはそれほど印象は違わないのですが、ルクーの方がより素直に音が前に出てきていますね。録音の影響もあるのでしょうが、きっと曲との相性があるのでしょうね。
斉諧生 つまるところ、
a) コンチェルタンテな魅力・高揚感の十全な表出 と、
b) よくコントロールされた和音・和声の移ろいの美しさ
を両立できている演奏が理想なんでしょうね。
浮月斎 私の場合、a) のコンチェルタンテな魅力は、それほどでもないのです。
これは僕も同じです。あまりピアノが好きではないからかもしれません(^^)。
浮月斎 また、高揚感の十全な表出は、或る意味でピアノが主体でしかありません。
これは逆ですね。僕は弦楽器が主体です。皆さんそれぞれに聴き方が違って面白いですね。
鈴木 最近聞いたアウリンQとPeter Orthのcpo盤はその辺りで、小生の好みにピッタリはまっています。各楽器の音の出し方と言いましょうか。
アデル盤に比べると、響きが平均的によくまとまっているように思いました。特に「弦楽器による高揚感の表出」はなかなかですね。でも、ちょっと音の質感が僕には荒っぽいようにも感じられましたが。
鈴木 フォーレの室内楽では、つま先で弾いたような質感が欲しいと言うのが、小生の思いです。力強さや柔らかく包み込む音色とは別の感覚ですね。
確かに「柔らかく包み込む音色」とは違う感じですが、「つま先で弾いたような質感」というのともまた違うような…。ただいずれにしても、この2枚を聴き比べると鈴木さんの好みというのは結構はっきりと分かるような気がします。
鈴木 楽譜を几帳面に再現しただけではフォーレらしさはまず出ないので、第1ヴァイオリンの音色の付け方が聴感上の良否を決定する場合の最大要因かも知れません。その点、cpo盤はほぼ理想に近いです。ピアノの音色を含めて。
僕の場合、フォーレだとヴィオラが決定的なのです。これはルクーやショーソンでもあまり変わりませんが。cpo盤は悪くはないですが、“理想”とまでは言いきれないかなぁ。ピアノは、少し野暮ったくないですか?アデルの方がもっと格好良いように感じられて、僕は好きですが。
浮月斎 鈴木さんのおっしゃる意味はよくわかります。ただ、それはそこそこ鳴らすということであって、私はむしろ、よほどうまくないと感心すらできないのがフォーレではないかと感じています。
同感ですね。ただ、その“巧さ”の質が問題でしょうね。アルバン・ベルクQのように大ホールで演奏することを強く意識した巧さがあっても、フォーレには何の役にも立たないでしょうから。
鈴木 贅沢言えば、もっとのめり込んだ演奏も可能なはずで、「音楽の魔」が希薄なんです。聞いている人間を虜にしてしまうと言うような。
浮月斎 こういう具合いですと、工藤さんが引用しているボディ・ビルダー的演奏の方がそうした魅力がありそうかもしれませんね。
どうでしょうかねぇ?弾いている方がイってしまっている演奏というのもあります。ロンとパスキエ・トリオの演奏です(^^)。でも、ここまでのめり込まれると、聴いている方は逆に醒めてしまうというか…。僕はただひたすらに響きの美しさを丁寧に示してくれればそれで良いという考えですね。
鈴木 だったら弦楽の方はもっと冷たい表現が可能で、小生の評価も少しは変わるかも知れません。でも、もし冷たい演奏が可能で、それが実現されたとて、それはそれで面白いんですが、
浮月斎 そういう演奏も一度は聴いてみたいですが、ただそうなると、完全にフォーレの質感からは乖離するでしょうね。色が完全に抜けていくことと思います。フォーレの質感自体が、音の傾向としてはやはり本性的に明るさを持っているものと思いますから...。
鈴木さんのおっしゃる“冷たい表現”では、僕のいう響きの美しさは感じられないのではないかと思います。やはり“移ろう色合い”がなければ、フォーレの室内楽の魅力というものは皆無に近くなるのではないかと。
鈴木 また、アナリーゼは演奏の本来の目的ではないでしょう。
浮月斎 「本来の」目的ではないでしょうね。ただ、アンサンブル・アデルの特質を自分たちが見極めた結果、そういう付加を求めず、クリアでよくアナリーゼされたフォーレ像を描こうとしたのが目的では?ということです。
この団体の個性がよく出ている、とはいうことができるでしょうね。
鈴木 そうですね。へたくそなフォーレの室内楽は、幸い、まだ聞いたことがないので分かりませんが、なぜ、アルバン・ベルクとかイタリアにはフォーレないんですかね。あ、もしあれば是非ご教示ください。特に、イタリアあたり探してみたいなぁ。
フォーレの室内楽は、テクニック的には難しくありませんからね。仮にもプロならば、音大生でも下手くそにはなり得ないと思います(^^)。ただ、フランス以外の常設弦楽四重奏団の方から積極的に録音したくなるような曲ではないとも思います。それに、アルバン・ベルクQやイタリアQが共演したピアニストの顔を思い浮かべると…(^^;;;。
鈴木 小生は、”腐乱”しててもいいから、とにかく徹底した低回趣味の、効果重視のフォーレもも聴いてみたいと言うところでしょうか。
“腐乱”するには、曲の品が良すぎる、といったところでしょうか(^^)。効果重視ということであれば、例のギレリス・コーガン・バルシャイ・ロストロの四重奏曲は悪くないと思いますよ。
さて、最近他にいくつか若い団体の近代フランス室内楽を聴いてみました。
- ショーソン&ルクー:ピアノ四重奏曲, Quatuor Gabriel (Lyrinx)
- フォーレ:ピアノ四重奏曲第1番、五重奏曲第1番, Roge & Quatuor Ysaye (DECCA)
これに、今回話題になったアデル盤やcpo盤も合わせて聴いてみると、こうした若い世代の演奏には共通した“のめり込まなさ”とでもいうようなものがありますね。どこか醒めた冷たさを感じさせる。曲との距離を保っているとでもいうのでしょうか。ロン&パスキエ・トリオ盤の対極に位置するような感じですね。ただ、アデル盤では弦楽器の力量に起因するであろう和声の色のなさが、やはり若干の不満として残ったような感じがします。
こうした醒めた色彩感というのも、なかなかに格好良いものです。曲そのものが本来持っている美しさは、このような新しい(?)演奏スタイルでこそ明らかになるとも思います。でも、ユボー盤のように力づくで心を掻き乱すようなタイプの演奏を求めたくなる瞬間も、ないと言えば嘘になるでしょうね。
|