| 工藤 |
このアルバムに収録されている『ピアノ四重奏曲第1番』と『ピアノ五重奏曲第2番』は、単にそれぞれフォーレの初期と後期の創作を代表する傑作というだけではなく、一般に“室内楽”と呼ばれている分野の中で燦然たる位置を占める大傑作だというのが僕の認識です。室内楽が一番素晴らしい形態だと信じて疑わない僕の立場からすれば、あらゆる音楽の中でも最上位にランクされてもおかしくないと考えています。ですから、演奏の良し悪しにかかわらず、聴いた後は曲に対する感動と畏敬の念を禁じ得ないのです。
さて、この大傑作2曲に取り組んだアンサンブル・アデールの演奏は、一言でいうと“大変良くコントロールされている”と感じられました。演奏者の略歴はライナーにフランス語でのみ記述されており、残念ながら僕にはほとんど理解することができなかったのですが、アンサンブルとしてのまとまりが優れています。スコア上での自分の役割がきちんと把握されているため、全員の足並みがよく整えられており、実にスムーズに音楽が流れていきます。技術的な不満としては、弦楽器の響きに今一つ魅力が足りないこと、特にチェロが弱いことが挙げられます。
この欠点がより強く感じられるのは『五重奏曲』の方でした。特に第1楽章。フォーレの音楽は、その演奏にあたって複雑な和声とリズムの処理が大きなポイントになってきます。この点に関してはアンサンブル・アデールは十分水準をクリアしているのですが、この後期の大傑作の場合、それだけでは単なる“晦渋な”音楽になってしまいます。全体としてどう響きに多様性を持たせつつ、“聴かせる”音楽にするのか?僕は、各パートに散在するとりとめのないメロディを各パートが魅力的に奏しつつも、いかに巧妙に“一つの流れ”へとまとめあげるか、が大事だと考えています。ここで、特にチェロの弱さがこの流れをやや妨げる要因となっています。提示部がこのために今一つ不完全燃焼のまま展開部へと進んでいきます。展開部では、1st Vnの表現力の弱さが残念。特に弱音部が物足りない。再現部以降、とくに結尾部ではフォーレの音楽が持つ推進力と高揚感が実に素直に表出されており、大変好感を持ちました。以降の楽章においても同様な印象です。
これに比べると、『四重奏曲』は欠点の目立たない、佳演となっています。まず弦パートにユニゾンが多いために、自然と音楽が横に流れていきます。加えて、決して汚い音のしない“コントロールされた”アンサンブルは、ともすれば荒っぽく演奏されてしまいがちなこの曲の美質を再認識させてくれます。さらに、『五重奏曲』よりもヴィルトゥオージックなピアノ・パートが実に華麗。中でも第4楽章が印象に残りました。
つまるところ、曲の持つ“聴かせるための”難しさがはっきりと現われたのだということができるでしょう。ここに収録された2曲の演奏頻度の差も納得できます。
とはいえ、特に『五重奏曲』の方にはなかなか注目に値する演奏が出てこないだけに、新しい録音でこれだけの水準に達した演奏が聴けるのはありがたいことだと思います。
|
| 野々村 |
吉田秀和氏が繰り返しプッシュしてきたせいか、フォーレの室内楽、特に後期の室内楽は傑作揃いだというのは日本ではもはや「常識」になっているようだ。だが、オーケストラ嫌い、室内楽・器楽好きの私にもかかわらず、この「常識」には今一つ納得できないものがあった。図書館などで簡単に聴けるユボー絡みのディスクは、いたずらにロマン的で音も汚くて、到底満足できるものではなかったし、大好きなラヴェルのピアノ三重奏曲とよくカップリングされている関係で聴く機会が多かったピアノ三重奏曲も、よく書けてはいるがラヴェルと比べると明らかに見劣りする。特に終楽章が弱い。
さて、今回の課題盤であるアンサンブル・アリス・アデールの録音は、このようなフォーレの室内楽観をかなり改めさせるものだった。このディスクを聴いてはっきりわかったことは、フォーレのピアノ付き室内楽は、ドイツ系のそれ----ブラームスの作品が典型的だが、ピアノが主導権を握って、弦楽パートが分厚い和声で対抗する----とは全く異なった音響バランスを要求している、という事実だった。主役はあくまで弦楽パートであり、ピアノの役割はそれを背後から支えることである。このバランスなら、弦楽パートは抑制の効いた音量で対位法的な細部をじっくり描写することができる。
この美質は、ピアノ五重奏曲第2番で特に発揮されている。さらに、コラール&パレナンQ盤と聴き比べることで、アデール盤の魅力がいっそう明確になった。技術だけ取れば、パレナンQの方に軍配が上がるが、彼らのアンサンブルはあまりに密度が高く、コラールのピアノは添え物と化している。弦楽四重奏の適度な隙間がこの作品演奏のポイントだったわけである。ピアニスト+弦楽四重奏団ではなく、常時この編成で活動しているアンサンブルならではの解釈と言えよう。ピアノ四重奏曲第1番の演奏も優れたものだが、作品が私にとっては今ひとつ。旋律的でユニゾンも多く、これならピアノ三重奏曲としてまとめるべきだったと思う。
むしろ、このアンサンブルの他の録音を聴いてみたいと強く感じた。優れたピアニストと、やや線の細い弦楽四重奏の組み合わせがたまたま作品に適合したのか、それとも作品の性格に応じて演奏様式をコントロールできる、真に「音楽的」な団体なのかを知りたい。
|
| 鈴木 |
試聴一番、op.15から聞き始めたが、非常に気持ちの良い演奏ではある。第1楽章の魅力的なメロディが、なんのてらいもなく流れ出てくる。少しアンサンブルがフォーレにしては分厚いかなと思ったが、気持ちのいい演奏であることは変わらない。第3楽章アダージョも同様のことが言えるが、表現に破綻がない分、優等生的な演奏だとも言える。弦楽器がもうちょっと歌っても良いのではないかと思うが、最近の室内楽合奏団は*歌わない演奏*の方が主流のようなので、これで良いのかもしれない。第4楽章など、抵抗がなくちょっと、サラサラと流れすぎかな?
op.115。op.15に比較して、晩年に近くなった分、和声進行やアンサンブルが老獪というか、晦渋になっている部分もあるが、アンサンブル・アデルの演奏はもう少し、キラキラ輝く部分やフォーレ特有の情感が欲しいなとは思う。ティッサン=ヴァランタン盤で同曲に感動したのは、その部分があったからではないかと思う。同曲は、弦楽四重奏曲のような、深い諦観の境地というより瑞々しさが魅力だが、その瑞々しさが、少し白濁しているような印象を受ける。多分、アデルのピアノの音色が重くてたくましいからだろう。エラートのヴィア・ノヴァ四重奏団とも聞き比べてみたが、アンサンブルは破綻しかける寸前だが、ヴィア・ノヴァ弦楽四重奏団の演奏の方が、メロディを引ききっている快感がある。すこし喧しくなる箇所もあるが、アンサンブル・アデルの優等生的演奏よりも、同曲の魅力は充分聞き取れる。第2楽章など、ヴィア・ノヴァ盤は、明らかにドイツ語で「ムジツィーレン!」と言っているようだ。第3楽章の情念の表出も、明らかにヴィア・ノヴァ盤の方に一日の長がある。
さて、ティッサン=ヴァランタン盤は、こうやって聞き比べてみると、もっともしっとりとした演奏で、ティッサン=ヴァランタンのピアノは派手ではないし、少しポツポツとして聞こえるが、各弦の位置というか各フレーズの起承転結が明確で、むしろ、ヴィア・ノヴァ弦楽四重奏団の後に聞くと、頼りなく感じてしまう。ただ、この曲の持っている一種暗い情念のようなものは、ティッサン=ヴァランタン盤が濃厚で、恐らく何度も聞く録音としては、ヴィア・ノヴァ盤は録音が派手なだけに、ティサン=ヴァランタン盤の方に手が伸びるだろう。肝心のアンサンブル・アデル盤は、第2楽章など他の演奏と聞き比べるとアンサンブルの稚拙さ(旨いへたではなく、音楽の組立方だろう)が目立ってしまう。また、第3楽章のアンダンテ・モデラートも、自然な情感の表出と言うより、少し、とってつけたような印象がある。アンサンブルはサラサラと気持ちいいのだが、それだけで終わってしまうような感じだ。うまいことはうまいアンサンブルだが、表現がまだそこまで追いついていないと感じた。
|
| 浮月斎 |
私は、フォーレのピアノ四、五重奏曲では、どうしてもピアノに耳が行く。五重奏曲ではティッサンバランタン盤を愛聴してきたこともあり、刷り込みもかなり濃いが、この録音の場合、ティッサンバランタンの魅力的なピアノ−特にその整音の素晴らしさ−に支えられたものである。反面、コラール盤はパレナンQのうまさだけで、コラールのピアノがあまりにも没しすぎ、ユボー盤は全体のアンサンブルはよくまとまっているものの、エッジが立ちすぎ、ピアノも魅力薄である。ペルルミュテール盤は、パレナンQも今一つ冴えがないが、意外にピアノそのものに味わいが薄い。
こういう中でのアデル盤の印象を、清潔な音色感とこざっぱりした叙情、そしてピアノと弦楽のバランスがとてもうまくブレンドされていると考える。特別印象には残る演奏ではないが、感傷表現が薄い分、聞き手には却って心地良い筈。しかし、全体的にピアノと弦楽の音色・バランスがよいとはいえ、悪く言えば音の立体的な綾の浮き彫りには乏しく、やや平坦になりかねない。特に五重奏曲はそれを感じる。とはいえ、総合的には評価できる録音。
五重奏曲第2番。まず濃い陰翳から開放された、恬淡とした演奏。よい演奏だとは思うが、後期フォーレの、鏡のように各声部を微細に照応しつつ展開する書法にとっては、アデル盤は個々の楽器の色合いが弱すぎて、音楽の綾、奥行きが十二分に発出するに至らないのが残念。1楽章は楽音の精密さを表意しても、綾の深みに欠ける。3楽章も後半の半音階的上昇に密度が感じられず、フォーレの複雑な書法部分が技術的にクリアされているだけの気もする。4楽章も5分前後からの連続転調とリズム処理が平板。率直に言って、ピアノはよい出来だと思うが、弦楽の方がリードに弱いため、アデルのピアノがもっとリードすべきに思う。
四重奏曲1番。この盤では、こちらの方がよりよく彼らの持ち味が出ている。おそらく、理由としてはピアノ・パートが四重奏曲の方に華があり、アデル自身がリードしきれるからであろうと思われる(つまり五重奏曲は、それだけピアノが全体のリードをとることは難しいということか)。後期に比べればホモフォニックとも思える初期のフォーレの音楽が、音色的バランスに優れたアデル盤が奏効するのも当然であろう。しかし、3楽章の明るい感傷などはやはり踏み込みに物足りなさはあるが、4楽章の粘らず活き活きとした動きはよく、後半部の展開は結構いい味がある(でも1stの音色が弱いような気がするけど)。
|
| 斉諧生 |
まずお断りしなければならないのは、これらの曲に、私は、ほとんど初めて接するということです。もともと三重奏以上の室内楽は苦手なジャンルなのです。
フォーレ晩年の室内楽曲というと、概ね「枯淡」という形容を与えられるのが相場。吉田秀和氏曰く「フォーレの晩年の音楽が、はじめ私に灰色の老人の芸術に見えた云々」。そういう曲は自分にはわからないだろう・詰まらないだろうと、ずっと敬遠してきました。それが誤解であることに気付いたのは、去る4月2日、レジス・パスキエ(Vn)、フィリップ・ミュレール(Vc)、ジョルジュ・プリュデルマシェール(P)によるピアノ三重奏曲に接したときでした。3人が奏でる音楽は、陶酔と官能にむせかえっていたのです。
そんなわけで、対位法的な書法や転調の妙よりも、劇性や陶酔感を重視した聴き方になっていると思います。もう一つは、私は、どうしても弦中心の聴き方になること。ピアノの良し悪しの判断は苦手です。
まず、五重奏曲第2番から。課題盤のAccord盤の最大の長所は、5つの楽器の音が、美しく溶け合っていることだと感じました。ERATO盤は弦の音が濁りますし、EMI盤は弦合奏の和音が決まらない上にピアノの音が全く融合していません。したがって、最も心地よく聴けたのがAccord盤で、これがベストと思います。第2・4楽章終結での極まり方も、よろしいですね。ただ、第1楽章に関しては、ERATO盤の推進力、萌え立つ感じが捨てがたい。アレグロ・モデラートの指定とはいえ、音楽の意味を表出するには、この速さが必要と思われますが、いかがでしょう。もちろん技術的に十全であれば、もっとよかったのですが。Charlin盤は弦が弱すぎて、まるで別な曲。こうした演奏だと「枯淡」に聞こえるかもしれません。とるとすれば、第3楽章の夢見るような雰囲気でしょうか。INA盤のペルルミュテールのピアノの音は好ましいし、弦楽の音はEMI盤の時より好きです。第3楽章の速めのテンポも美しい。ただ、相変わらずパレナンの音程の取り方が気持ち悪いです(特に下行するとき)。Hyperion盤は、あまりとれません。いっそ音楽語法が全然違うCpo盤の方が面白いと思います。
四重奏曲第1番では、Accord盤はやや聴き劣りします。ヴァイオリンが1本少なくなった分、弦がボリュームでピアノに負ける感じです。比較にはERATO盤とEMI盤しか聴いていませんが、弦が十分、ピアノに拮抗できているEMI盤を好ましく思いました。この曲には、こうしたコンチェルタンテなアプローチがふさわしくはないでしょうか。Accord盤のしっとりした美しさを良しとすることも出来ましょうが…。
|
| 工藤 |
最初の報告は出揃いましたね。今回は非常に滑り出しが順調なようで…(^^)。
さて、今回の皆さんの評価は「概ね好意的」とでもいう感じにまとめられるでしょうか?少なくとも「聴くに耐えない」という論調のものはありませんでしたね。ただ、曲に対する評価も含めて細部には相対する意見が多く、なかなか面白い議論になりそうでワクワクしています。
まず、アデール盤の美質を他の演奏と比較して論じていきましょうか。皆さんのご意見を抜き出しますと、
【工藤】
一言でいうと“大変良くコントロールされている”と感じられました。
スコア上での自分の役割がきちんと把握されているため、全員の足並みがよく整えられており、実にスムーズに音楽が流れていきます。
【野々村】
主役はあくまで弦楽パートであり、ピアノの役割はそれを背後から支えることである。このバランスなら、弦楽パートは抑制の効いた音量で対位法的な細部をじっくり描写することができる。
弦楽四重奏の適度な隙間がこの作品演奏のポイントだったわけである。ピアニスト+弦楽四重奏団ではなく、常時この編成で活動しているアンサンブルならではの解釈と言えよう。
【鈴木】
非常に気持ちの良い演奏ではある。
【浮月斎】
こういう中でのアデル盤の印象を、清潔な音色感とこざっぱりした叙情、そしてピアノと弦楽のバランスがとてもうまくブレンドされていると考える。特別印象には残る演奏ではないが、感傷表現が薄い分、聞き手には却って心地良い筈。
【斉諧生】
課題盤のAccord盤の最大の長所は、5つの楽器の音が、美しく溶け合っていることだと感じました。
したがって、最も心地よく聴けたのがAccord盤で、これがベストと思います。
といった感じになります。若干のニュアンスの違いはありますが、皆さんの感想は「清潔で爽やかな演奏」という風にまとめることができるでしょう。
ただ、“なぜ「清潔で爽やか」だと感じられるか”という部分には、5者5様の感じ取り方があるようです。この辺りについてもう少し深く皆さんのご意見を聞きたく思います。
僕は、リズムと和声進行を“理性的”に解きほぐしながら演奏に臨んだ結果が、こうした印象につながるのだと感じています。フォーレの室内楽曲は、作曲年代にかかわらずどの作品でも第1楽章の展開部から再現部に入るところと、各楽章のコーダの2箇所で非常に盛り上がるようになっています。ここをどう処理するのかが演奏の個性を明らかにする一つのポイントでしょうが、弦楽器にやや弱さが見られるアデール盤とティッサン=バランタン盤の2つが非常に落ち着いた、それでいて十分な高揚感を持つ演奏になっています。対照的なのは作品15におけるギレリス・コーガン・バルシャイ・ロストロポーヴィチによる演奏。ボディー・ビルダーのような逞しさを持つ、素晴らしいけれどもフォーレとはどこか違う演奏です。
僕はフォーレ作品の情熱的な抒情に強く惹かれているので、ただ力任せなだけでは不満が残ります。どうしても一本調子になってしまうのです。ユボー盤がこの傾向を持っています。弦楽器が一つの塊となって盛り上がることができる場合、ピアニストもそれを“受けて立つ”ところがあるのでしょうか?曲は違いますが、アルバン・ベルク四重奏団のシューマンのピアノ五重奏曲(ピアニストの名前を失念しました)なんかが極端な例かもしれません(^^)。
こうした部分が、弦楽器の腕っぷしが弱い場合、軽減されるのかもしれません。そもそも、フォーレの室内楽曲は、弦楽器が弾く音の全てはピアノ・パートの中にあります。つまり、ピアノだけでも十分曲になるのだけれども、ピアノでは出すことのできない“持続音”で、対位法的な綾を立体的に描くことが弦楽器の役目のような気がします。そのためには、弦楽器パートが過剰に筋肉質であることは曲の美質を損なうことにもなりかねません。この辺、野々村さんの「主役はあくまで弦楽パートであり、ピアノの役割はそれを背後から支えることである。このバランスなら、弦楽パートは抑制の効いた音量で対位法的な細部をじっくり描写することができる」と正反対のようにも思えますが、結果としては同じことかもしれません。
野々村 弦楽四重奏の適度な隙間がこの作品演奏のポイントだったわけである。
この結論は言葉は違いますが、僕の言っていることとあまり変わらないように思えます。ただ、これは5人ともに共通している意見だと思いますが、ピアニストの技術と音楽性のバランスが優れていることが前提になります。アデールはこの要求を十分に満たしていると思います。
|
| 斉諧生 |
工藤さんが提起された論点とは違うのですが…。
先日、四重奏のスコアを買ってきまして、今日は専らそちらを聴いておりました。
面白かったのは、課題盤のAccord盤と、SP復刻のBiddulph盤が、非常によく似ていて、私には両方とも非常に気に入ったことです。
Biddulph盤の演奏者は、Robert Casadesus(P)、Joseph Calvet(Vn)、Leon Pascal(Va)、Paul Mas(Vc)。1935年録音。
この曲は、野々村さんが「これならピアノ三重奏曲としてまとめるべきだったと思う」と喝破されたように(爆)、例えばブラームスのそれのような曲とは、書法が全然違うようです。
あるいはピアノと弦楽の対立とか、あるいは弦楽器間の絡み合いの妙とかではなく、3つの弦楽器が一体となって和声の移ろいを奏していって、それをピアノがキラキラと彩る、という趣なのだと思います。
そもそも、旋律というよりも、分散和音が延々と続くような曲想ではありませんか?
で、上記の2盤に共通するのは、個々の楽器が自己主張するのではなく、全体の中に溶けこんで、ひとつのフォーレ的ムードを表出するというアプローチ。「ムード」というと言葉が悪いのですが、「雰囲気」と言っても同じようなことです。
課題盤については、「1stの音色が弱いような気がする」(浮月斎)、「特にチェロが弱い」(工藤)、という御指摘もあるのですが、これらは、上記のアプローチのためには、むしろ利点となっていると思います。
EMI盤は、個々の楽器の主張が強くて、そういうムードが成立していませんし、ERATO盤は、ピアノと弦楽の音の溶け合いがイマイチです。
Accord盤のアプローチが、意識的なのか、演奏者の実力の限界なのかは「?」で、その意味では
野々村さん御指摘の
「このアンサンブルの他の録音を聴いてみたい」に、同感です。
|
| 浮月斎 |
とにかく、今回の議論の中で蒙を啓かれたのは、
工藤 フォーレの室内楽曲は、作曲年代にかかわらずどの作品でも第1楽章の展開部から再現部に入るところと、各楽章のコーダの2箇所で非常に盛り上がるようになっています。
感覚的に漠然とそのように感じてきたところへこのように説明されて、なるほど、と思いました。言い方は妙ですが、私の場合は結果的に、水戸黄門の印篭と同じで、フォーレの意図したとおりに自然な高揚感を持ってゆけない演奏はどうしても物足りない。やはりピアノが弦楽パートとどれくらい「同質的に」拮抗できるかがポイントなのでは、と感じました。
工藤 “なぜ「清潔で爽やか」だと感じられるか”という部分には、5者5様の感じ取り方があるようです。
「清潔で爽やか」という印象は、私の場合、工藤さんの指摘どおり「大変良くコントロールされ」「リズムと和声進行を“理性的”に解きほぐしながら」というアンサンブル・アデルの姿勢から受ける印象だと思います。だから、端的に言うとクールな味わいに聞こえてしまいます。私的には、この作品に対するアナリーゼ的アプローチは敢えて望む気がしないのです。「情熱的な抒情」(工藤)「劇性や陶酔感」(斉諧生)がもっと当たり前に顔を出してこないと、フォーレを聴いた気がしない訳です。
斉諧生さんがパスキエの話を書いていましたが、私が彼らのショーソンを聴いてのめり込んだのも、そういう性質を求めているからに違いないのでしょう。
というところから、レスします。
工藤 (五重奏曲)提示部がこのために今一つ不完全燃焼のまま展開部へと進んでいきます。展開部では、1st Vnの表現力の弱さが残念。
アデル盤は、高揚への唱導部そのもの−ひたひた感みたいな−が淡いんですね。特に3楽章のような息の長い持続的な緊張から開放への足取りが淡白なんです。私は1stの表現力は四・五重奏曲ともに弱いと聴きましたが、チェロが弱いという工藤さんの指摘がよくわかりませんでした。聴き直してみると、確かに音楽の勁い情念的な展開になるところは、今一つ音の踏み込みが弱いですね。淡々と鳴っている。
工藤 (四重奏曲)加えて、決して汚い音のしない“コントロールされた”アンサンブルは、ともすれば荒っぽく演奏されてしまいがちなこの曲の美質を再認識させてくれます。
同感です。ピアノのよさが素直に表れているのもよかったと思います。
工藤 つまるところ、曲の持つ“聴かせるための”難しさがはっきりと現われたのだということができるでしょう。
これも言われてみると、確かにそうなんですね。
野々村 弦楽四重奏の適度な隙間がこの作品演奏のポイントだったわけである。
これもまた言われてみるとそのとおりなんですね。
コラール+パレナンQ盤で思うのは、パレナンQの出来すぎというより、あまりにコラールのピアノそのものに魅力を感じないことです。ピアノが入り込む隙間がない、というよりはピアノ自体が埋没しすぎている音の力のなさですね。ああなると、この曲の魅力は半減してしまいます。
野々村 ピアニスト+弦楽四重奏団ではなく、常時この編成で活動しているアンサンブルならではの解釈と言えよう。
そうですね。アンサンブルの調和性は勿論ですが、アデルのピアノが程よくリードしているところにあるとは思いました。が、やはり「程よく」なんです。アデル自身は、何となく知的にセーブする傾向に聞こえてしまうのですが。
鈴木 (四重奏曲)表現に破綻がない分、優等生的な演奏だとも言える。弦楽器がもうちょっと歌っても良いのではないかと思うが
4楽章後半(コーダ導入部?)、バイオリンの清涼かつ甘いソロなんかあっさりしすぎなんですね。四重奏曲の場合、ソロ部になるとどうしても歌が浅い。
鈴木 (五重奏曲)アンサンブル・アデルの演奏はもう少し、キラキラ輝く部分やフォーレ特有の情感が欲しいなとは思う。ティッサン=ヴァランタン盤で同曲に感動したのは、その部分があったからではないかと思う。
「キラキラ輝く部分」というのはティッサン=ヴァランタン盤には私は感じていません。むしろ、非常に清澄な音の佇まいというか、艶のない澄明な明るさと感じています。如何なものでしょう?
鈴木 同曲は、弦楽四重奏曲のような、深い諦観の境地というより瑞々しさが魅力だが、その瑞々しさが、少し白濁しているような印象を受ける。
白濁とは「ティッサン=ヴァランタン盤と比較して」の意味ですか?
これを読んで多少理解できたのは、私がなぜティッサン=ヴァランタン盤が好きかということです。多分、ピアノの音自体が最も明るく清澄な音色だからではないかと思います。つまり、そういうカラーがないと(特にピアノに)この曲の魅力は単なる晦渋でインティメートな情感の作品になってしまいます。アデル盤はそういう意味では、ティッサン=ヴァランタン盤に近いよさを持っていると思うのです。
鈴木 多分、アデルのピアノの音色が重くて逞しいからだろう。
印象としては、アデルのピアノはむしろ抑制された明晰な音に聞こえ、重さはそう感じないですね。
斉諧生 (五重奏曲)Charlin盤は弦が弱すぎて、まるで別な曲。こうした演奏だと「枯淡」に聞こえるかもしれません。
これは珍しく捉え方が理解できませんでした。私にはティッサン=ヴァランタン盤が一番「枯淡」と無縁に聞こえるのです。弦のできはともかくとしても...。
斉諧生 (四重奏曲)で、上記の2盤に共通するのは、個々の楽器が自己主張するのではなく、全体の中に溶けこんで、ひとつのフォーレ的ムードを表出するというアプローチ。
この2回目の投稿では、斉諧生さんのアデル盤の印象は1回目と比べて変わったということなんでしょうか?私は大筋、ここに書かれているような点で、アデル盤を評価したように思います。
斉諧生 あるいはピアノと弦楽の対立とか、あるいは弦楽器間の絡み合いの妙とかではなく、3つの弦楽器が一体となって和声の移ろいを奏していって、それをピアノがキラキラと彩る、という趣なのだと思います。
ただ、それでも個々に魅惑的なソロがあるし、工藤さんもご指摘のように、「『五重奏曲』よりもヴィルトゥオージックなピアノ・パートが実に華麗」という、ピアノの位置づけの方がもっと濃い作品だと私も捉えています。その意味で、バイオリンのソロの弱さはともかく、五重奏曲よりはアンサンブル・アデルのよさは出ていると考えています。
|
| 工藤 |
斉諧生さんと浮月斎さんのご意見に沿ってレスしてみます。
斉諧生 先日、四重奏のスコアを買ってきまして、
議論の本題とははずれますが、四重奏の“スコア”なんて出ていたんですね。僕は演奏譜を持っているので、そのピアノ譜(スコアと同じ)を見ていました。五重奏の方は演奏譜しかないと思います。ただし、僕が買った時には1万2千円位していましたけど(^^;。ちなみに、五重奏曲第1番の方は長らく絶版になっていて、図書館以外では入手困難です。この曲の演奏頻度は、この辺りにも起因しているのでしょうね。
さて、
斉諧生 あるいはピアノと弦楽の対立とか、あるいは弦楽器間の絡み合いの妙とかではなく、3つの弦楽器が一体となって和声の移ろいを奏していって、それをピアノがキラキラと彩る、という趣なのだと思います。
フォーレの室内楽は上記五重奏曲第1番以外は全部演奏したことがあるのですが、とにかく苦労するのがこの“和声の移ろい”なのです。弦楽器とピアノとの調律に違いがあるにもかかわらず、ユニゾンが多い。しかも、和声の進行で曲の流れを作るというよりは、瞬間瞬間の雰囲気を作っているところが、独特です。ところが、これが解決できただけでは曲にならない。音色やリズムに配慮しなければならないのは別にフォーレに限った話ではないのですが、この「ユニゾンの多さ」が曲者なんですね。ピアノと弦楽器とでは発音方式が全く違いますから、当然アーティキュレーションも異なります。また、チェロとヴィオラ、あるいはヴィオラとヴァイオリンが全く同じ音を弾くことが多いのですが、これも楽器による音色の違いに加えて、音色や音量といった演奏者の技量にかかわる要因で簡単に響きの色合いが変わってしまう。
この辺りが、フォーレの室内楽特有の難しさといえるでしょう。では解決策は?
アデル盤は、上記の要因を実に緻密に“コントロール”していることで成果を収めています。これはそれだけで十分評価に値することだと思っています。他にも解決策はいくつかあるでしょう。四重奏曲でのロン・ティボー他盤のように、全員が勝手に(^^)音楽するというのも一つの方法ですね。あるいは、ギレリス・コーガン盤のように、同じ流儀に基づいたソリスティックな奏法でとにかくシンフォニックに響かすというのもなかなか興味深い。
斉諧生 で、上記の2盤に共通するのは、個々の楽器が自己主張するのではなく、全体の中に溶けこんで、ひとつのフォーレ的ムードを表出するというアプローチ。
こう考えると、斉諧生さんのおっしゃるように“全体の中に溶けこんで”といった印象をアデル盤に感じるのは当然だと思います。ただ、僕が同じフォーレでも夜想曲集は退屈で室内楽は素晴らしいと感じている理由を考えると、そこにはやはり“音色”とか“響き”という要因が大きな位置を占めるので、「課題盤については、「1stの音色が弱いような気がする」(浮月斎)、「特にチェロが弱い」(工藤)という御指摘もあるのですが、これらは、上記のアプローチためには、むしろ利点となっていると思います」というのは、やはりネガティヴな評価しかできません。
斉諧生 それが意識的な音づくり・音楽づくりなのか、演奏者の実力の限界なのかは「?」で、
弦楽器の音量や音程を聴く限り、ほぼ間違いなく“実力の限界”だと思います。
浮月斎 言い方は妙ですが、私の場合は結果的に、水戸黄門の印篭と同じで、フォーレの意図したとおりに自然な高揚感を持ってゆけない演奏はどうしても物足りない。
これには全く同感です。フォーレの室内楽作品の特徴として第1楽章再現部に入るところの劇性を指摘しましたが、それは第1楽章展開部冒頭の瞑想的な雰囲気という前置きがあってこその“劇性”なのですよね。浮月斎さんのおっしゃる“自然な高揚感”は、こうした部分の適切な処理も大きな前提になってきます。
浮月斎 私的には、この作品に対するアナリーゼ的アプローチは敢えて望む気がしないのです。
この演奏は“アナリーゼ的アプローチ”を取っているというよりは、“アナリーゼの段階で留まっている”というのが僕の率直な感想です。ただ、アナリーゼ自体はしっかりとしているので、独特の見通しの良さがアデル盤の美質として感じられるのでしょうね。
浮月斎 アデル盤は、高揚への唱導部そのもの−ひたひた感みたいな−が淡いんですね。特に3楽章のような息の長い持続的な緊張から開放への足取りが淡白なんです。
他のロマン派の室内楽作品みたく、和声進行に従えばある程度緊張→開放といった感覚が表出されるような作品ではありません。僕がフォーレの室内楽作品を演奏する弦楽器の音色上のポイントとして考えているのは以下のことです。
- ヴァイオリンは高音(特に弱奏部)でキンキンせず、逆に低音は凄んではいけないがしっかりしていなければならない。
- チェロは高音の張り詰めた音と、ピアノの左手とよくブレンドする中低音がほしい。
- 多少キツめになってもヴィオラは存在を主張してほしい。
浮月斎 私は1stの表現力は四・五重奏曲ともに弱いと聴きましたが、
僕は特に高音域で弱音部を弾く時にこの弱さを痛感しました。キンキンはしていませんが、色がないのです。
浮月斎 チェロが弱いという工藤さんの指摘がよくわかりませんでした。聴き直してみると、確かに音楽の勁い情念的な展開になるところは、今一つ音の踏み込みが弱いですね。淡々と鳴っている。
ヴィオラと同じ音を奏する時、必然的にチェロの方が高い音を弾くことになるわけですから、ヴィオラの深い響きに艶を失わずに張り詰めたチェロの音が乗ってくると、それだけで緊張感に満ちた響きが創出されるはずです。ここが弱い。フォーレの室内楽におけるチェロは、低音で和声を支えるという役割はそれほど大事ではなく、高音で和声の響きを彩ることが非常に重要だというのが僕の考えです。
浮月斎 そうですね。アンサンブルの調和性は勿論ですが、アデルのピアノが程よくリードしているところにあるとは思いました。が、やはり「程よく」なんです。アデル自身は、何となく知的にセーブする傾向に聞こえてしまうのですが。
僕はそれを“好ましい”と感じました。でも、ギレリスの持ついても立ってもいられないような昂奮の方に、僕はより強く惹かれるのも事実です。
実演では、ドゥーカン(Vn)・パスキエ(Va)、ムニエ(Vc)、ポンティネン(Pf)によるピアノ四重奏曲第2番というのが、まさにこの方向。僕のフォーレに求める嗜好というのは、この体験に強く影響されているのでしょう。
鈴木 (四重奏曲)表現に破綻がない分、優等生的な演奏だとも言える。弦楽器がもうちょっと歌っても良いのではないかと思うが
浮月斎 4楽章後半(コーダ導入部?)、バイオリンの清涼かつ甘いソロなんかあっさりしすぎなんですね。四重奏曲の場合、ソロ部になるとどうしても歌が浅い。
これはピアノ、弦楽ともにアーティキュレーションがやや短めであることも関係しているような気がします。
鈴木 (五重奏曲)アンサンブル・アデルの演奏はもう少し、キラキラ輝く部分やフォーレ特有の情感が欲しいなとは思う。ティッサン=ヴァランタン盤で同曲に感動したのは、その部分があったからではないかと思う。
浮月斎 「キラキラ輝く部分」というのはティッサン=ヴァランタン盤には私は感じていません。むしろ、非常に清澄な音の佇まいというか、艶のない澄明な明るさと感じています。如何なものでしょう?
僕がティッサン=ヴァランタン盤に非常に感心したのは、このアーティキュレーションの絶妙さですね。ピアノに影響されてか、弦楽器もアーティキュレーションはしっかりしています。この演奏のようにフォーレの“息の長さ”が自然に表出されると、ただの分散和音に聴こえるフレーズにも多種多様なニュアンスが感じられてきます。そういう意味では、お二人の感じ方に差異が出ても違和感はありません。僕は“艶のない”という点では浮月斎さんと同じですが、“澄明な明るさ”というよりはむしろ、濃い陰影が柔らかな布に包まれたような雰囲気を感じました。
浮月斎 アデル盤はそういう意味では、ティッサン=ヴァランタン盤に近いよさを持っていると思うのです。
ということで、僕はアデル盤にはもっとストレートな明るさを感じます。
浮月斎 その意味で、バイオリンのソロの弱さはともかく、五重奏曲よりはアンサンブル・アデルのよさは出ていると考えています。
私的には、四重奏曲ではヴァイオリンよりはもっとヴィオラに“ブリブリ”と出てほしいところですね。これは1番でも2番でも同じこと。ですから、野々村さんがおっしゃられた「ピアノ四重奏曲第1番の演奏も優れたものだが、作品が私にとっては今ひとつ。旋律的でユニゾンも多く、これならピアノ三重奏曲としてまとめるべきだったと思う」には賛同できないのです(^^)。
|