No.16 : Prégardien & Staier Schubert's Winterreise (2)


浮月斎
途中からすみません。議論はかなり深まったようなので、レスをかけながらの感想を。

まず総合的には、とても心地良く楽しめたというところです。皆さんご指摘のように、テノールとフォルテピアノが「爽快に」一体となっている感が確かにありました。思わずパレーの「幻想」の議論を想起したのですが、「人口に膾炙したロマン主義的アク」のようなものがきれいに払拭され、詩本来の味わいをそのまま出すべく力みなき姿勢に蒙を啓かれました。

演奏では、まずプリュガルディエンの歌唱が実に清涼な情感に溢れ、うまい詩の朗読を聴いた後のような浄福感すら覚えました。従来のリートの風雅とは随分離れていますが、これはこれでよいのではないかと。しかし、シュタイアの伴奏は、彼独特の即興性溢れた名技(特にテンポ)はチェンバロ以来そのままのような気がしますが、ここではそれが少々うるさく感じられます。もう少し静謐な深みがあってもよいように思います。またフォルテピアノである必然性も伴奏そのものにはあまりないとは思いますが、シュタイアの呼吸をうまく伝えるには、モダンピアノではやや濃厚なのであろう気配程度は感じ取れました。

私は残念ながら、フィッシャー=ディースカウ盤とスゼー盤しか聴けていませんが、シューベルトは、詩の扱いについては淡々としていたように思いますので、オペラ紛いの濃さがリートに必要なのか、再考するよい機会となりました。詩本来の様相と歌曲とを比較すれば、詩の内容が素直に捉えられていなければならないと感じるのはやはり自然と思います。ことシューベルトに関してはそういう気がします。名演深解釈にあらずというか...。その意味でも、このプリュガルディエン盤は素晴らしいと思いますが、結局、歌唱はこういう性向のまま、最終的にはピアノ伴奏の追求に行き着くのではないかと感じました。

佐々木 また、これだけ自由に表現力のある伴奏ながら、フォルテピアノの音量と、幾分地味な音色ゆえ、プリュガルディエンの美声がきれいに生きていることが、もう一つの美点で、基本の音量がそんなに大きくないので余裕をもって歌われており、比較的明るい色合いに聴こえることも私にはたいへん好ましく思われます。
フォルテピアノの音色の、やや鄙びた軽やかさがとてもいいですね。しかし、全体的にそれが十二分に活かされていないように思いました。そもそも、チェンバロ時代のシュタイアも使用楽器はあくまで「ピリオド」という謂いを作っているだけで、奔放なパッションを表現していた人でして、そういう点では、ここでもそのフレームの中にあると感じました。彼がピリオド楽器に拘泥する必然性は、フォルテピアノに移行してからは、インマゼール以上にますます疑問ではあります。

野々村 この録音のように独唱とバランスを取るためにガンガン叩くのであれば、現代ピアノを中音量で弾く方が余程美しい。
野々村さんは幾分厳しい表現ですが(^^;)、私も大筋そういう気がしました。

野々村 私がこの演奏を手放しでは褒められないのは、スゼー&ボールドウィン盤を聴いてしまったからでもある。スゼーの歌唱はヒッシュ系のしわがれ声だが、ボールドウィンのピアノの美しさは比類がない。各声部の動きがくっきりと見通せて、何ら激するところなく深遠なドラマを紡ぎ出す。
フィッシャー=ディースカウ盤を聴いてからスゼー盤を聴くと、やや物足りない感すら感じるのですが、プリュガルディエン盤を聴いてからスゼー盤を聴くと、ボールドウィンの抑えつつも湧き出る情感の深さが見事と感じます。これはフォーレの歌曲でも同様ですね。

野々村 この録音のように独唱とバランスを取るためにガンガン叩くのであれば、
斉諧生 あ、そうなのですか。これがフォルテピアノという楽器なのだと思って聴いていました。(^^;
基本的にフォルテピアノは、弦の張力がモダンピアノほど強くありませんので、キーアクションにも影響があり、かなり軽くなってます。よほどタッチに優れた人が弾かないと、強音ではどうしても粗雑なアタックに聞こえてしまうのではないでしょうか。

佐々木 ここでは、大胆なテンポの変化や強弱を使用して
テンポの変化はともかく、強弱については意図的半分、楽器機能半分かと思います。むしろシュタイアはこうした楽器の弱点を逆に曝け出すことで、効果を出そうとしているようですね。

佐々木 ただ、このボールドウィンの素晴らしいピアノは、スゼーの、これも弱音主体の素晴らしい歌唱と一体となって鬼気迫る効果を上げている訳で、今回のプリュガルディエンの若々しい美声と、シュタイアーの手の込んだ表現の組み合わせにはやはり個人的には捨て難いものを感じています。
これは同感です。

野々村 ただ、こういう感想になったのは、私がフォルテピアノ伴奏の『冬の旅』の対照盤として聴いたのが、ヘフリガー&デーラーという、「すっかり枯れた歌唱にフォルテピアノのかそけき響きが淡々と寄り添って独特の味を出している」録音だったせいもありそう。他のフォルテピアノ伴奏録音を聴くべきかも。
勿論この盤は聴いていませんが、デーラーもチェンバリストでして、もともとそれほど音楽の力感はなく平べったい演奏をする人なので、却ってそう聞こえたのではないでしょうか。使用楽器にもよりますが...

野々村 ホルン奏者が、誰にも相手にされない手回しオルガン奏者の老人に共感する、という内容の「遺稿詩集の最後の詩」に「希望」を読み取ろうとするのは、音楽抜きでも無理でしょう。
なるほど、そうかもしれません。絶望とか希望とか、そういう大袈裟な感性はここには関係ないものだと、私も改めて聞き取れました。

佐々木 シュタイアーが、この楽器の響きゆえに こういう表現を行っていることは確かなように思えます。
思うにシュタイアの意図は「この楽器の響きゆえに」ということではなく、あくまで、作品とピリオド楽器の演奏様式ほぼ全般を背景として、たまたまシューベルトの例で述べているに過ぎないように思います。

佐々木 当時の演奏が一体どんなものだったのかはさておき、斉諧生さんのおっしゃっておられた「これがフォルテピアノというもの」に近いイメエジを、私自身持っておりました。
ここではこれでもかなり「なだらかな」クチだと思います。

佐々木 浮月斎 まず総合的には、とても心地良く楽しめたというところです。皆さんご指摘のように、テノールとフォルテピアノが「爽快に」一体となっている感が確かにありました。思わずパレーの「幻想」の議論を想起したのですが、「人口に膾炙したロマン主義的アク」のようなものがきれいに払拭され、詩本来の味わいをそのまま出すべく力みなき姿勢に蒙を啓かれました。
なるほど。流石、見事に言い尽くされておられますねぇ。

浮月斎 しかし、シュタイアの伴奏は、彼独特の即興性溢れた名技(特にテンポ)はチェンバロ以来そのままのような気がしますが、ここではそれが少々うるさく感じられます。もう少し静謐な深みがあってもよいように思います。またフォルテピアノである必然性も伴奏そのものにはあまりないとは思いますが、シュタイアの呼吸をうまく伝えるには、モダンピアノではやや濃厚なのでであろう気配程度は感じ取れました。
この辺は、野々村さんもご指摘の点ですが、私は、既に書いたとおり、この盤に関しては、伴奏にあまり不満を感じませんで。。。
むしろ、シュタイアーの弾いたシューベルトのソナタ、D.845や最後の三曲、水車小屋に比べると、この「冬の旅」の伴奏は、出色かとは思うのですが、

浮月斎 フォルテピアノの音色の、やや鄙びた軽やかさがとてもいいですね。しかし、全体的にそれが十二分に活かされていないように思いました。
浮月斎さんもこうおっしゃるということは、やはり、「フォルテピアノの魅力が充分に生きていない」と言えるのかもしれませんね。

浮月斎 基本的にフォルテピアノは、弦の張力がモダンピアノほど強くありませんので、キーアクションにも影響があり、かなり軽くなってます。よほどタッチに優れた人が弾かないと、強音ではどうしても粗雑なアタックに聞こえてしまうのではないでしょうか。(中略)アルペジオはテンポチェンジのためもあるでしょうが、むしろ楽器的な制約だろうと思います。
なるほど。フォルテピアノの機能的な制約をどう御していくかという問題も大きい訳ですね。この辺も、この録音に限っては、私が却って面白く、巧みに演出していると感じられたのですが・・・

浮月斎 思うにシュタイアの意図は「この楽器の響きゆえに」ということではなく、あくまで、作品とピリオド楽器の演奏様式ほぼ全般を背景として、たまたまシューベルトの例で述べているに過ぎないように思います。
もともと、こういう演奏をする人、ということですね。。。

浮月斎 という訳で、ここではこれでもかなり「なだらかな」クチだと思います。
なんとなく想像は出来るのですが、シュタイアーのチェンバロも、少し入手しましたので、これから聴いてみたいと思います。
余談ですが、私の場合、フォルテピアノの演奏で、鄙びて良い、というものはあまり経験がなかったように思います。フォルテピアノに対する認識が、世間一般に比して、少し片寄っているのかもしれません。

浮月斎 佐々木 この辺は、野々村さんもご指摘の点ですが、私は、既に書いたとおり、この盤に関しては、伴奏にあまり不満を感じませんで。。。
たしかにフォルテがややうるさいのですが、全体的に音の動きが時にうるさくは感じられないだろうかということです。これはシュタイアのタッチの問題であり、フォルテピアノの音そのものに対する問題意識ではありません。

浮月斎 フォルテピアノの音色の、やや鄙びた軽やかさがとてもいいですね。しかし、全体的にそれが十二分に活かされていないように思いました。
佐々木 やはり、「フォルテピアノの魅力が充分に生きていない」と言えるのかもしれませんね。
少々、シュタイアが表現意欲にいきんでいるかなという気がしたからです。フォルテピアノの意欲的表現に挑まんという姿勢を託すべきなら、歌曲伴奏ではなくともと感じた次第でして...。

佐々木 この辺も、この録音に限っては、私が却って面白く、巧みに演出していると感じられたのですが・・・。
そういうところでは、彼は果敢に御しているように思いますので、その点は勿論、佐々木さんがご指摘されたとおりのよさはあると思います。

佐々木 もともと、こういう演奏をする人、ということですね。。。
そうですね。ここにも彼の美点はよく出ていると思います。ただし、彼のイマジネイティブなうまさが、バロックの鍵盤作品で奏効しているからといってシューベルトあたりにも通用するかというと、ちょっと違うのかなと漠然と考えておりますが...。

佐々木 私の場合、フォルテピアノの演奏で、鄙びて良い、というものはあまり経験がなかったように思います。
そうですね、「鄙びて良い」とは私も思っていません。因みに、先に書いた話ですが、モダンピアノのかっちりした音に比べて「やや鄙びた軽やかさ」が香るということです。この盤での楽器については、響きの上ではそれほどモダンピアノと大きくかけ離れたものではないと思われます。

佐々木 フォルテピアノに対する認識が、世間一般に比して、少し片寄っているのかもしれません。
そんなことはないでしょう。(^^;) タンとか小島芳子あたりを私も聴いてみたのですが、正直に申し上げると、フォルテピアノの音はあまり好きにはなれません。C.P.E.Bachなどの室内楽などでは悪くないとは思うのですが...。

斉諧生 エグモント&インマゼール盤を聴きました。フォルテピアノのことは詳しくないのですが、ライナーノートによれば、ここでは18世紀末頃のヴァルターのレプリカを用いているそうです。当然、シューベルトの同時代のものではありませんが、こうした楽器は19世紀に入っても使われ続け、シューベルト自身もそうであったことから、敢えて使ったとあります。

楽器の問題か、奏法の問題か、いずれにせよインマゼールの方が美しく感じました。基本的に弱音主体で、滅多にフォルテを叩きませんし、その時でも、シュタイアーより遙かに美しい響きです。シュタイアーで気になった、和音をアルペジオに開くこともありません。
面白いのは、第24曲「辻音楽師」で、左手の和音が、ビィ〜ンと震え、まるで弦楽器のようです。ライナーノートにも特記されていますが、特殊な機構があって、いかにもハーディ・ガーディ風の音が出るとのことです。


(ライナーノートを引用しておきます)
In 'Die Leierman' one can hear in the left hand part, one of the registers in which a roll of parchment rests lightly against the string to provide a buzzing sound. Many Viennese instruments of this period were provided with several registers operated with pedals to provide the most extraordinary effects of drum, bells, cymbals, etc. This piece provides one highly applicable musical suggestion of the sound of a hurdy gurdy.


さて、それ以上に興味深かったのが、エグモントの歌唱で、実にあっさりしているのです。声量も抑制されており、ほとんど語りかけているような調子、いわばサロンの歌唱なのです。それに比べるとプレガルディエンは小ホールの歌唱、フィッシャー・ディースカウ等は大ホールの歌唱、といったところでしょうか。
楽譜に"stark"(強く、きつく)という指示があるところや、プレガルディエンが声を張って歌い上げるような部分でも、ちょっとフォルテ気味にふくらませるくらいで通り過ぎることが、ほとんどです。もちろん、ここぞと言うところでのフォルティッシモを惜しむわけではありません。
フォルテピアノを伴奏に使ったときは、こういう歌唱でないとバランスが悪くなるということなのでしょうか。いわゆるシューベルティアーデでの歌われ方も、このようなものであったか、と想像を逞しくしたりしておりました。

佐々木 斉諧生 エグモント&インマゼール盤を聴きました。(中略)楽器の問題か、奏法の問題か、いずれにせよインマゼールの方が美しく感じま した。基本的に弱音主体で、滅多にフォルテを叩きませんし、その時でも、シュタイアーより遙かに美しい響きです。シュタイアーで気になった、和音をアルペジオに開くこともありません。(中略)面白いのは、第24曲「辻音楽師」で、左手の和音が、ビィ〜ンと震え、まるで弦楽器のようです。ライナーノートにも特記されていますが、特殊な機構があって、いかにもハーディ・ガーディ風の音が出るとのことです。
俄然聴きたくなりました。時間はかかりそうですが、明日注文をかけます。Channel Classics、やはり侮れませんねぇ。

斉諧生 さて、それ以上に興味深かったのが、エグモントの歌唱で、実にあっさりしているのです。声量も抑制されており、ほとんど語りかけているような調子、いわばサロンの歌唱なのです。それに比べるとプレガルディエンは小ホールの歌唱、フィッシャー・ディースカウ等は大ホールの歌唱、といったところでしょうか。
面白そうですね!こういう歌唱の方が、特にピアノパートの面白さがしっかりときこえてくるのではと思うのですが。というのも、最近、スゼー/ボールドウィンに慣れた耳でF=ディースカウを聴くと、あの、アクセントの強いうたがピアノパートの妙を、殺してしまっているのが気になって仕方がないものですから。

斉諧生 フォルテピアノを伴奏に使ったときは、こういう歌唱でないとバランスが悪くなるということなのでしょうか。
というか、野々村さんが最初におっしゃった事かもしれませんが、モダンのピアノでも、F=ディースカウやシュライアー/リヒテルのような、*がんばった*歌唱は、曲そのものの良さをある意味でスポイルしてしまうようですね。プリュガルディエン/シュタイアーの場合は、歌唱も薄くはないのですが、ピアノも負けずにアクが強いのと、お互いのアンサンブルは緊密なので歌唱がピアノをスポイルする、という弊害はまぬがれているのだと思います。

しかしながら、プリュガルディエン/シュタイアー盤は、たいへん優れた演奏だとは思うのですが、曲そのものの良さを、ストレートに聴かせるといったタイプの演奏でない事も確かなので、特にピアノパートは聴く人によっては、煩わしく感じられるのは仕方のないところかなぁと。
シュタイアーのソロでは、その後ハイドンと、デュセックを1枚づつ聴きましたが、ダイナミクスの幅は広い割に表現は単調で、やはりこの冬の旅の伴奏の方がずっと良いと思いました。

さて、今まで議論いただいた内容を俯瞰いたしますと、プリュガルディエンの歌唱については おしなべて、

  • 張りがある美声
  • 一つ前の世代の様なクドさを排した歌唱
という点で、概ね肯定的な意見であり、一方、シュタイアーのフォルテピアノの伴奏については

  • ルバートやリタルダンドを多様
  • 時にフォルテをガンガン叩く
あたり、評価が割れていて、

  (悪)← 野々村<浮月斎<斉諧生<佐々木 →(良)

という感じの評点のように思います。
この点については、野々村さんは、スゼー/ボールドウィン(1961-62,Philips)を筆頭とするピアノの深い表現と比較しての評価という意味合いが強く、私の場合は、シュタイアーの他のシューベルト録音と比較しての課題盤での印象がまずありますので、これだけ評点が割れたのではないかと思いますが、どこを踏み台にして評価しているかというのは随分大きいのだなとたいへん面白く感じました。
また、フォルテピアノについては、浮月斎さんから御示唆いただきましたが、機構的な制約、音色などについての好みがやはり大きいのかなと思いました。
ただ、伴奏については評価が分かれるものの、課題盤の演奏全体については、○〜◎程度の概ね好意的な評価であったようで、モデレータとしてはホッとしております。

その他、個人的には、野々村さんが筆頭に挙げられた、スゼー/ボールドウィン(1961-62,Philips)盤での、ボールドウィンの激せず深い伴奏を聴けたこと、これと対比して、ピアノパートの良さという点で、F=ディースカウ盤の評価が相対的に(ぐんと)下がったこと、が、今までの議論の中での大きな収穫です。(^_^;)
加えて、斉諧生さんに御指摘戴いた、第24曲の終結の処理についても気にして聴き出してみると、F=ディースカウやシュライアーの歌い方は随分と不自然に思えるようになってまいりました。

野々村 佐々木 ただ、伴奏については評価が分かれるものの、課題盤の演奏全体については、○〜◎程度の概ね好意的な評価であったようで、
私の評価は、◯の上くらいでしょうか。歌唱の魅力は、やはり捨て難いものがあります。

佐々木 その他、個人的には、野々村さんが筆頭に挙げられた、スゼー/ボールドウィン(1961-62,Philips)盤での、ボールドウィンの激せず深い伴奏を聴けたこと、
私が参照していたのは、1976年の録音の方です。こちらも後ほど聴きましたが、あまりにピアノパートばかりが突出しているという印象で、必ずしも気に入りませんでした。

佐々木 これと対比して、ピアノパートの良さという点で、F=ディースカウ盤の評価が相対的に(ぐんと)下がったこと、が、今までの議論の中での大きな収穫です。(^_^;)
彼が再録音のたびにパートナーを代えていたのは、目先を変える営業戦略だけではなかったのかもしれません。

佐々木 野々村 私の評価は、◯の上くらいでしょうか。歌唱の魅力は、やはり捨て難いものがあります。
ですよねぇ。面白いことに、同じコンビの水車小屋や他の盤(DHM)では歌唱も課題盤ほど魅力的には感じられないのですよね。

佐々木 その他、個人的には、野々村さんが筆頭に挙げられた、スゼー/ボールドウィン(1961-62,Philips)盤での、ボールドウィンの激せず深い伴奏を聴けたこと、
野々村 私が参照していたのは、1976年の録音の方です。こちらも後ほど聴きましたが、あまりにピアノパートばかりが突出しているという印象で、必ずしも気に入りませんでした。
あらら、そうでしたか。そちらは未聴です。斉諧生さんがおっしゃっておられた、セラフィム(EMI)盤の事でしょうか?

佐々木 これと対比して、ピアノパートの良さという点で、F=ディースカウ盤の評価が相対的に(ぐんと)下がったこと、が、今までの議論の中での大きな収穫です。(^_^;)
野々村 彼が再録音のたびにパートナーを代えていたのは、目先を変える営業戦略だけではなかったのかもしれません。
おそらくそうなんでしょうね。70年代後半のバレンボイムとの録音以降の、有名ピアニストを伴奏にした盤は私は全然聴いていませんので、そのあたりを聴けばまた印象は変わるかもしれません。

野々村 佐々木 斉諧生さんがおっしゃっておられた、セラフィム(EMI)盤の事でしょうか?
はい、そうです。スゼ−のあの時期の歌唱は、さまざまなフランス近代歌曲全集で聴き慣れているので、気持ち良く聴けましたが。逆に、「声が良く出ている」頃のスゼ−は、どうも好きになれないんですよね。

佐々木 70年代後半のバレンボイムとの録音以降の、有名ピアニストを伴奏にした盤は私は全然聴いていませんので、そのあたりを聴けばまた印象は変わるかもしれません。
私も聴いてはいませんが、その「有名ピアニスト」達への評価が下がるだけのような気がします :-p





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