No.16 : Prégardien & Staier Schubert's Winterreise


TELDEC 0630-18824-2 Schubert : Winterreise
(TELDEC 0630-18824-2)

Schubert : Winterreise op.89 D 911

Christoph Prégardien (tn)
Andreas Staier (fortepiano)





発言者 : 佐々木(モデレータ)、野々村、斉諧生、浮月斎(中途参加のみ)



佐々木 今回の課題盤、プリュガルディエン、シュタイアーのシューベルト「冬の旅」に入ります。
この盤の特色は声とピアノが対等のアンサンブルとなっている点でしょう。特に、シュタイアーのフォルテピアノは伴奏の域を超えた、たいへん存在感のあるもので、きめ細かい表情づけ、自由なアゴーギク、タッチの変化など、シュタイアーが全体の流れを引っ張って、また、そこにプリュガルディエンの柔らかい声がぴったりと寄り添っているあたり、素晴らしいものです。

たとえば、1曲目の、間奏が終わって「Will dich im Traum nicht storem...(安らかな眠りの妨げになろうから・・・)」とテノールが入ってくるあたり(Track1-4:20)でテンポを落すあたり、もしくは、10曲目、ピアノの前奏がディミニュエンドし、フォルテピアノの余韻が消えてから、テノールが入ってくるあたり、(Track10-0:20)などの、かなり自由にテンポを動かしながらもぴったりと息が合っているところなど、たいへん聴き応えがあります。

また、これだけ自由に表現力のある伴奏ながら、フォルテピアノの音量と、幾分地味な音色ゆえ、プリュガルディエンの美声がきれいに生きていることが、もう一つの美点で、基本の音量がそんなに大きくないので余裕をもって歌われており、比較的明るい色合いに聴こえることも私にはたいへん好ましく思われます。

「冬の旅」のように暗く重い曲集は、たまに取り出して、かしこまって聴くものだと今まで思っておりましたが、この演奏できくと、重苦しさは感じませんしピアノパートの巧みさで、何回でも聴きたくなるくらい。たいへん素晴らしい盤と思います。

斉諧生 彼の歌唱は、フィッシャー・ディースカウ流の「高血圧」型(^^;、瞬発型歌唱から、ヒュッシュやホッターに見られる自然な旋律を生かした歌唱への回帰であると思います。

実は、「冬の旅」をまともに聴くのは生まれて初めてなので、昨日・今日が聴体験のすべてと言っていいわけなのですが、ヒュッシュ、フィッシャー・ディースカウ(55年盤)、シュライヤー(85年盤)、プレガルディエン、ホッター (54年盤、第20曲以降のみ)、再度ヒュッシュ(第20曲以降のみ)という順で聴きました。

一番驚いたのはフィッシャー・ディースカウ盤で、まぁ彼の歌は皆そうでしょうが、大袈裟に言えば、単語一つひとつに*濃い*表情が付与されているのですね。
加えて若々しい美声の頃、圧倒的といえば圧倒的なのですが、細部に振り回されて、シューベルトの音楽の情趣が吹き飛ぶ感があります。シュライヤーは、フィッシャー・ディースカウほどではありませんが、ポイントポイントでは単語に対する濃厚な味付けを示します。同じ歌唱観を共有する世代だと思います。

プレガルディエンでは、ヒュッシュやホッターよりは起伏がありますが、フィッシャー・ディースカウやシュライヤーより、よほど淡々としたものです。彼がバロックからモーツァルトを歌ってきたことから来る様式感なのでしょうね。

シュタイアーのフォルテピアノは予想よりもピアノに近い音色で(モーツァルト頃のフォルテピアノよりよほど機構が進歩しているのでしょうか)、聴きよいものですが、ところどころ和音をアルペジオに開くのも、あるいは歴史的な奏法への配慮なのでしょうか?

論点をもう一つ。
以前御案内したI教授の「冬の旅」論で、疑問に思ったのが、第24曲の終結についての考察。
「《冬の旅》の結末は若者の世界認識の深まりと世界への回帰、新たな前進への意思をさし示しながらも、それを明示せず、含み味としたまま終わっている、ということになります」というのです。
これは喜多尾道冬氏も『シューベルト』(朝日選書)で
「ここには人間性の最後のよりどころとして、歌の持つ力が認識されている。歌は対話のヴァリエーションである。(略)どんなに厳しい境遇におかれようと、「歌」を失うことがなければ、この世は生きるに値する。若者と老人をつなぐ最後の絆は「歌」である」と書いています。
しかし、音楽を聴くかぎり、若者の呼びかけに辻音楽師が応えた形跡は無く、やはり荒涼たる孤独の中に終結すると聴くべきではないでしょうか。
両者ともテクスト*だけ*の深読みか、どこか聞こえのいいことを言い立てて受けを狙う言説ではないでしょうか。
その観点からすると、プレガルディエンがピアノのまま歌い収めているのは好ましく(ホッター盤が同様)、フィッシャー・ディースカウやシュライヤーのようにクレッシェンドして終わるのは疑問です。

野々村 シューベルトのリートはクラシックを聴き始めた頃からずっと好きだったが、この機会にさまざまな録音を購入して、理解を深められたのは幸いだったと思う。さて、『冬の旅』の演奏史をたどると、まずはヒッシュの録音ということになるだろう。決して声を張り上げず、ドラマティックな展開は精緻に書き込まれたピアノパートに任せて、細かな感情の襞を半ば語るように歌いあげていく。ホッターの演奏様式もこの路線である。「新時代の演奏様式」として、これに対抗する形で登場したのが、ディースカウということになる。オペラティックに朗々と歌って、ピアノパートは伴奏に留まる。

今回の課題盤のプレガルディエン&シュタイアー盤は、大筋ではヒッシュの系譜に属すると見て良いだろう。歌唱はよく通る澄んだ声質だが、感情表現としてはむしろ抑制されており、その分フォルテピアノがルバートやリタルダンドを駆使して活躍する。プレガルディエンの歌唱は素晴らしいの一言で、フォルテでの美声には惚れ惚れする。ディースカウのような作為的な表現もなく、シューベルトの世界に自然に入っていける。しかし、シュタイアーのフォルテピアノは、必ずしも私好みではない。そもそも、シューベルト演奏にフォルテピアノを使うこと自体私は疑問視している。ベートーヴェン中期作品のように、フォルテピアノの使用で新しい音楽像が提示できるとは感じられないからだ。もし、独唱者の声がもっと枯れていれば、かそけき響きが寄り添うのにも味があるが、この録音のように独唱とバランスを取るためにガンガン叩くのであれば、現代ピアノを中音量で弾く方が余程美しい。この楽器に特有の、プリペアド・ピアノのようなペダル効果は面白いが、音楽の性格に即応した面白さではなく、物珍しさの部類だと思われる。

私がこの演奏を手放しでは褒められないのは、スゼー&ボールドウィン盤を聴いてしまったからでもある。スゼーの歌唱はヒッシュ系のしわがれ声だが、ボールドウィンのピアノの美しさは比類がない。各声部の動きがくっきりと見通せて、何ら激するところなく深遠なドラマを紡ぎ出す。これと比べると、常套的なテンポチェンジで感情表現を行おうとするシュタイアーのスタンスは陳腐だし、何より*ピアニスティック*で、これでは何のためにフォルテピアノを使っているのかわからない。歌唱は◎だが、フォルテピアノは◇で、総合では○程度というのが、今回の課題盤への私の評価である。

斉諧生 御両所の最初の投稿を拝見して、とりあえず思ったことを書きます。

佐々木 たとえば、1曲目の、間奏が終わって「Will dich im Traum nicht storem... (安らかな眠りの妨げになろうから・・・)」とテノールが入ってくるあたり(Track1-4:20)でテンポを落すあたり、
ここは、聴かせどころみたいですね。私が聴いた盤では、すべてリタルダンドしています。どこからどれだけのリタルダンドをするか、次にどのテンポで入るか、という部分ではそれぞれ工夫があるようです。
第1曲でのテンポの取り方では、何度か出てくる"gute Nacht"という歌詞に付された微妙な揺れが、美しいと思いました。ここも聴かせどころのようで、ヒュッシュも、ちょっとアクセントを置くような歌い方です。ただし、プレガルディエンのようには美しくありません。

一方、フィッシャー・ディースカウとシュライヤーはインテンポ。シュライヤーは、けっこうテンポを動かしているのに、ここだけは、さわっていません。こういうところにも、プレガルディエンのヒュッシュ回帰を窺うことができるのではないでしょうか。

野々村 この録音のように独唱とバランスを取るためにガンガン叩くのであれば、
あ、そうなのですか。これがフォルテピアノという楽器なのだと思って聴いていました。(^^; 第1曲の前奏等の"fp>"は、ちょっと乱暴に感じました。

野々村 この楽器に特有の、プリペアド・ピアノのようなペダル効果は面白いが、音楽の性格に即応した面白さではなく、物珍しさの部類だと思われる。
手厳しいですね。(^^) 第21曲など、コラール風の曲調を活かした効果だと思いましたが?

野々村 常套的なテンポチェンジで感情表現を行おうとするシュタイアーのスタンス
これは、ちょっと聴き分けられませんでした。むしろ気になったのは、頻繁に和音をアルペジオに開くこと。…あ、そうか。これもテンポ変動を伴う処理なわけですね。
ただ、第1曲の後奏でモティーフが浮かび上がってくるのは、シュタイアーだけだったので、「楽譜の読みの鋭い人」という第一印象だったわけです。

歌唱については意見が一致するようですね。問題はシュタイアーのフォルテピアノについてでしょうか。

佐々木 とりあえず、一巡したところをまとめて、私なりのコメントをつけてみました。

(1)まず、全体のスタイルとして、
  • F=ディースカウのように「オペラティック」(野々村)
  • 「単語一つひとつに*濃い*表情が付与」(斉諧生)
という一世を風靡した流れに対して、今回のプリュガルディエン盤の演奏は、むしろ、昔のヒッシュ、ホッター路線に近いものであること。
また、プリュガルディエンの美声については、概ね好意的な意見と見受けられます。

(2)次に、シュタイアーの伴奏について、ここでは、大胆なテンポの変化や強弱を使用してかなりアグレッシブな表現を行っている訳ですが、
野々村さんから、「フォルテピアノを使う意義?」「表現が陳腐」という意見が出されています。
まず、フォルテピアノを使う意義については、シューベルトが聴いていた楽器に近いものを使う、という意味は、少なくともあると思うのですが、如何なものでしょうか?

それに、今回のシュタイアーのような、アグレッシブな(or 陳腐な)表現はモダンのピアノでは声とのバランスが崩れてとても出来ないでしょうから、ここで伴奏がフォルテピアノなのは、私としては自然な気がいたします。
さらに、表現が陳腐、という評価に対してですが、今日、スゼー、ボールドウィン盤(Ph 438 511-2)を聴いて野々村さんのおっしゃる事がだいたい分かりました。確かに、このボールドウィンの伴奏は、シュタイアーのようなあざとさは全く無い上に、シューベルトの心象世界をまざまざと浮かび出す、凄みを秘めたもので、これと比較したときに、「常套的」「陳腐」という言葉が出てくるのは、確かにおっしゃる通りだと思いました。

ただ、このボールドウィンの素晴らしいピアノは、スゼーの、これも弱音主体の素晴らしい歌唱と一体となって鬼気迫る効果を上げている訳で、今回のプリュガルディエンの若々しい美声と、シュタイアーの手の込んだ表現の組み合わせにはやはり個人的には捨て難いものを感じています。

(3)さらに、斉諧生さんが提起された、第24曲の歌の終わり方
F=ディースカウなどは、盛大にクレッシェンドして曲を閉じていますが、これはプリュガルディエンのように、ピアノのまま終える方が、適切ではないかという御意見についてですが、これについては、私も今回聴き比べて、同様の感想を持ちました。

斉諧生さんのおっしゃる通り、問題は、伴奏の方という事になりそうですが、ほかの点も含め、皆さんの御意見うかがえればと思います。

野々村 とりあえず佐々木さんの問題提起へのレプライのみ。

佐々木 まず、フォルテピアノを使う意義については、シューベルトが聴いていた楽器に近いものを使う、という意味は、少なくともあると思うのですが、如何なものでしょうか?
それはそうなのですが、そういう「原典主義」なら、演奏様式も当時のものを再現しないと意味がないと思います。シュタイアーのスタイルは、「19世紀的」という慣用表現がぴったりなテンポの揺らし方で、シューベルトの時代のものではないと思います。

佐々木 それに、今回のシュタイアーのような、アグレッシブな表現はモダンのピアノでは声とのバランスが崩れてとても出来ないでしょうから、ここで伴奏がフォルテピアノなのは、私としては自然な気がいたします。
佐々木さんがおっしゃるところの「アグレッシブ」というのは、「19世紀的」とは別な次元の、「ガンガン叩いている」ことを指すのだと思いますが、これは「シュタイアーの求めた表現」ではなくて、プレガルディエンの声量にフォルテピアノで対抗しようとして「ああなってしまった」だけだと私は聴きました。

ただ、こういう感想になったのは、私がフォルテピアノ伴奏の『冬の旅』の対照盤として聴いたのが、ヘフリガー&デーラーという、「すっかり枯れた歌唱にフォルテピアノのかそけき響きが淡々と寄り添って独特の味を出している」録音だったせいもありそう。他のフォルテピアノ伴奏録音を聴くべきかも。
また、シュタイアーのフォルテピアノ演奏のスタイルも、この録音だけでは判断できないので、彼がシューベルトのソナタを弾いた録音を買ってみるつもりです。

佐々木 ただ、このボールドウィンの素晴らしいピアノは、スゼーの、これも弱音主体の素晴らしい歌唱と一体となって鬼気迫る効果を上げている訳で、今回のプリュガルディエンの若々しい美声と、シュタイアーの手の込んだ表現の組み合わせにはやはり個人的には捨て難いものを感じています。
確かに、ボールドウィンの表現はスゼーあってこそのものなのかもしれませんが(ドビュッシーやプーランクの歌曲ではさらに見事)、『冬の旅』に関しては、前回は言及しなかったシュライアー&シフ盤と対照しても、ピアノパートに期待されているのはこういう表現ではないのでは?という疑念を捨てられません。
「歌唱とピアノが一体化し過ぎており、対峙するものがなく物足りない」という趣旨のI教授の感想は、趣味の問題を抜きにしても全く理解不能。
私が言いたいのは、「このスタイルはシューベルトには合っていない」ということだけです。この組み合わせなら、ヴォルフを聴いてみたい。

佐々木 F=ディースカウなどは、盛大にクレッシェンドして曲を閉じていますが、これはプリュガルディエンのように、ピアノのまま終える方が、適切ではないかという御意見についてですが、これについては、私も今回聴き比べて、同様の感想を持ちました。
私もそう思います。手回しオルガンの鄙びた響きに引き込まれていくイメージは、ああいう大時代的な感傷とは別物でしょう。
またまたI教授への疑問ですが、そもそもこの詩集のタイトルは『遍歴ホルン吹きの遺稿詩集』なんですよね。古典音楽に特有の楽器であるホルン奏者が、誰にも相手にされない手回しオルガン奏者の老人に共感する、という内容の「遺稿詩集の最後の詩」に「希望」を読み取ろうとするのは、音楽抜きでも無理でしょう。

佐々木 佐々木 まず、フォルテピアノを使う意義については、シューベルトが聴いていた楽器に近いものを使う、という意味は、少なくともあると思うのですが、如何なものでしょうか?
野々村 それはそうなのですが、そういう「原典主義」なら、演奏様式も当時のものを再現しないと意味がないと思います。シュタイアーのスタイルは、「19世紀的」という慣用表現がぴったりなテンポの揺らし方で、シューベルトの時代のものではないと思います。
D.845のイ短調のソナタ(WPCS-4928)のライナーに、シュタイアーへのインタビューの和訳が載っておりますが、
「彼がフォルテピアノで弾いたシューベルトにおける 特徴的な強弱の変化や、テンポの変動は、当時の楽器の響きと関連があるのでは?」というような質問をギュルケがしておりまして、シュタイアーは、
「テンポの変化が、モダンピアノでは自己主張の強い表現になってしまう」「フォルテピアノではアクションが軽いので本当の意味で「戯れる」ことができる」「楽器の限界を感じながら演奏することの重要さ」などというコメントをしています。
また、「シューベルトが拍を厳格にまもって演奏したと言われていますが」と自ら言う一方で、「当時一般的には、楽譜に書き記されていた指示は、演奏の際に自由に捉えられていました。今日の習慣よりもかなり自由なテンポの揺れが認められていたのです」とも言っています。
このあたりを読む限り、シュタイアーが、この楽器の響きゆえにこういう表現を行っていることは確かなように思えます。
「原典主義」かどうかについては、恥かしながらシューベルトの頃の演奏様式についての知識がありませんので、それを再現することが可能かも含め、コメントできません。m(_ _)m

ちなみに、D.845や、最後の三大ソナタの録音は、すべて冬の旅と同じ楽器で弾いているようです。ソナタの録音に比べ、冬の旅では、より一層ロマンティックな表現にきこえますし、確かに、プリュガルディエンに触発されて、よりああいう演奏になった面もあるとは思います。
同じコンビのシューマン「詩人の恋」(DHM)などと比べても、この「冬の旅」では、シュタイアーは、より奔放ですね。

佐々木 それに、今回のシュタイアーのような、アグレッシブな表現はモダンのピアノでは声とのバランスが崩れてとても出来ないでしょうから、ここで伴奏がフォルテピアノなのは、私としては自然な気がいたします。
野々村 佐々木さんがおっしゃるところの「アグレッシブ」というのは、「19世紀的」とは別な次元の、「ガンガン叩いている」ことを指すのだと思いますが、これは「シュタイアーの求めた表現」ではなくて、プレガルディエンの声量にフォルテピアノで対抗しようとして「ああなってしまった」だけだと私は聴きました。
私が*アグレッシブ*といったのは、「ガンガン叩いている」だけではなくて、絶妙な深い間合いや、弱音側も含んでのつもりです。
フォルテピアノの演奏を数多く聴いている訳ではないのですが、先般聴いたトゥイヤ・ハッキラのモーツァルトのソナタ(FINLANDIA)なども、非常に表現意欲に満ち、フォルテは大変激しいものでした。これはたいへん気に入りました。(^_^;)
なものですから、当時の演奏が一体どんなものだったのかはさておき、斉諧生さんのおっしゃっておられた「これがフォルテピアノというもの」に近いイメエジを、私自身持っておりました。

野々村 ただ、こういう感想になったのは、私がフォルテピアノ伴奏の『冬の旅』の対照盤として聴いたのが、ヘフリガー&デーラーという、「すっかり枯れた歌唱にフォルテピアノのかそけき響きが淡々と寄り添って独特の味を出している」録音だったせいもありそう。他のフォルテピアノ伴奏録音を聴くべきかも。
また、シュタイアーのフォルテピアノ演奏のスタイルも、この録音だけでは判断できないので、彼がシューベルトのソナタを弾いた録音を買ってみるつもりです。

シュタイアーのソナタ録音のほうは、最初あまり気に入らなくてずっとしまってあったのですが、聴き直してみました。この冬の旅よりはおとなしいですが、基本路線はやはり似ているように思います。

佐々木 ただ、このボールドウィンの素晴らしいピアノは、スゼーの、これも弱音主体の素晴らしい歌唱と一体となって鬼気迫る効果を上げている訳で、今回のプリュガルディエンの若々しい美声と、シュタイアーの手の込んだ表現の組み合わせにはやはり個人的には捨て難いものを感じています。
野々村 確かに、ボールドウィンの表現はスゼーあってこそのものなのかもしれませんが(ドビュッシーやプーランクの歌曲ではさらに見事)、『冬の旅』に関しては、前回は言及しなかったシュライアー&シフ盤と対照しても、ピアノパートに期待されているのはこういう表現ではないのでは?という疑念を捨てられません。
シュライアー&シフは聴いておりませんが、ボールドウィンの伴奏はおっしゃる通り素晴らしいですね。しかし、この路線以外は誤りというものでもなかろうと。。。(^^)

野々村 私が言いたいのは、「このスタイルはシューベルトには合っていない」ということだけです。
私は、シュタイアーの弾いたシューベルトのソナタを昔聴いたとき、まさしくそう思いました。(^_^;) ただ、今回の「冬の旅」では、その少し先にいったような気がするのですが。





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