| 鈴木 |
野々村 「電子楽器」はもう少し後、1970年代前半まで----要は、プログレ全盛期まで----は一応新鮮さを保っていたと思います。
1970年初頭というと、シンセサイザーの出始めですね。ロックではエマーソン、レイク&パーマーがメジャーでは最初だったかな。ピンク・フロイドやキング・クリムゾンは、シンセサイザーを使い出すのは少し遅かったような。無論、一番最初のシンセサイザーで作った音楽であることを標榜したのはワルター(現ウェンディ)・カーロスであり、飛躍的に完成度を高めたのは冨田勲大先生ですが(最初の頃は面白かったなあ ^ ^)。ジャーマンプログレでは、シンセサイザーが使われ始めるのは早かったですが、高価だったため、みなあまり買えなかったという話もあります。自作してたミュージシャンも結構いましたね。ただ、外国ではムーグ社やアープ社などは、無料で貸し出しも行っていたようですが(国内ではローランドやコルグが貸してくれましたね)。
それまで、かなり特殊な電子楽器であった、リング・モジュレーターやフィルター、ノイズ・ジェネレーターがシンセサイザーに組み込まれることにより、あっという間にその最も電子音らしい音は一般化してしまいました。さらに、それまでアナログだったシンセサイザーが、プロフェット5というデジタルシンセサイザーが出るに及んで、マニピュレーターの音のイメージを紡ぎ出すと言うより、デジタルシンセサイザーにプリ入力されているサンプリングの音をミュージシャンが使うようになって、いっきに新鮮みをなくしてしまったような気がします。最近の電子音楽で聞ける音は、20年以上前から聞くことは出来たわけです。いまだにサンプル&ホールド(ランダムに音階を創り出す一部のシンセサイザーについている機能)を使ったような音を聞きますね (^ ^ ;。
野々村 私もウェーベルンは大好きですが、彼だけが到達点とは思いません。バルトーク、ウェーベルン、ベルクはほぼ同年代に属していますが、それぞれがそれぞれに「到達点」なのだと思います。
そうですね。到達点のひとつと書くべきでした。
野々村 「精神性」というのも微妙で、オープンリールをハサミで切り貼りして1年がかりで作っていた頃の電子音楽は面白かったけど、パソコン上で数日で作れてしまうような最近の電子音楽はダメだ、というような話になってしまうと、それは何か違うような気がするんですよね。
それは明らかに違いますよ (^ ^)。あっという間に出来たって、いいものはいいんですから。逆に時間をかけてこねくり回しすぎて、つまらなくなってしまった作品もありますよね。古典で言えば、モーツァルトなんてほとんど書き直しをしなかったそうな。だから、瞬間芸術たるフリーインプロピゼーションも成立するわけで。
野々村 この作品が「ラジオドラマ形式」を持っているという意味ならば、それはそうですね。しかし、以下で浮月斎さんと議論しているように、「ドラマの進行に音楽が奉仕する」というあり方ではないわけで、それを「ラジオドラマ」と呼ぶことには抵抗があります。
そうかなあ、小生ラジオドラマという呼び方が好きだけど。これは、育ってきた環境の中にラジオがどの程度、メディアとして茶の間に君臨してきたかを経験してきたことによるのでしょう。(小生、小学校1年生まで、自宅にテレビがなかった ^ ^。そのころのテレビはモノクロで一般サラリーマンの3ヶ月分の給料でした=親父の話)ただ、表現の形式としての*ラジオ・ドラマ*でどこが悪いんだろうと、小生首をひねっています。「ドラマの進行に音楽が奉仕する」とは小生元々思っていないわけで、「音楽の進行にドラマが奉仕する」ことだって、アリだとおもいますが。
野々村 これは、大友氏のソロ活動は、ターンテーブルやサンプリングコラージュという、「他人の作品を利用して自分の音楽を作る」というものであることが前提になっているわけです。
ここでやっと分かりました (^ ^)。小生大友氏を楽器を使って演奏する方だとばかり思っていたのですが、ターンテーブルやサンプリングコラージュ方面の方だったのですね (^ ^ ;。それなら、使う材料ももともとオリジナルではない「匿名性」なわけで、大友氏の立脚点が理解できました。「ミイラ」がさまざまな奏者によるライヴなわけで、てっきりその中の一人だと。
鈴木 ここで展開されている「音」によるドラマは、*近代芸術のあり方*を超克出来ていません。「演奏者」と「聴衆」という図式のフレームの中では、恐らく、*近代芸術のあり方*へのちょっとしたパロディにしかならないと思うんです。
野々村 この点が、鈴木さんと私の最大の相違点のようですね。(中略) 大友氏が目指しているのは、「作曲」や「演奏」を長期間にわたる秘儀的な技術の習得から解放して、音楽的感受性と意欲のある人なら誰でも「聴かせる側」に回れるようにすることで、サンプリングや共同作曲がそれを可能にする、と考えているのではないでしょうか。
それなら、野々村さんと小生の言っていることは、実は同じです (^ ^ ;。「音楽的感受性と意欲のある人なら誰でも『聴かせる側』に回れるようにすることで、サンプリングや共同作曲がそれを可能にする」という考え方は、まさしく、*近代芸術の超克*(この表現、大げさであまり好きじゃないけど)の根本です。でも、*技術の習得*(*秘儀的な*ってどういうことでしょう?技術の習得が秘儀的だってんならお笑いですが、免許皆伝の話ですか?)はサウンドコラージュやサンプリングにも必要ですよね。大友氏は、リミックスの*秘儀的な技術の習得者*だったりして (^ ^ ;。
野々村 いやいや、やはり全然違うでしょう。大友氏は「凄えもの=普遍的な価値を持つ(芸術)作品」が存在するということは否定していないのだから。音楽の世界で「超芸術トマソン」に相当する活動を挙げるとしたら、「幻の廃盤解放同盟」みたいなものになるのでは?
(爆)
「凄えもの=普遍的な価値を持つ(芸術)作品」と、「そんなもの相対的なもんでしかないんでないの?どこでも誰でも芸術の提唱」ということでは、異なるような気もしますが、それならば「そもそも芸術って何?」「普遍的で凄いものって何なの?」という、極めて荷の重い話になってしまいまいますね。
これは芸術の否定とか、だれでも作れるものが素晴らしいという議論ではなく、何でもありの現在「本当に優れたものがわからない」時代になっているからこそ、出てくる疑問だと思います。「タンゴなんて、ダンス音楽じゃねえか。どこか普遍的なんだ」と斜にかまえてても、いきなりピアソラの音楽に脳天ハンマーを喰らうようなもんです。また、「クナの音楽なんて、とろとろしたドイツの奇形的指揮者のアナクロの極地じゃないか」と思っていたら、その「エロイカ」にとめどなく涙が流れてしまう言うような。
野々村 ゴッホはむしろ、「どんな危険な芸術でも、作家が死ねば安全な商売のネタになる」という*芸術経済学*の格好の例として機能したのでは?
まあ、その作家の生前に話を限定しましょ (^ ^)。ただ、芸術家像というのは、そのご本人以外の人たちが、「芸術家はこうあるべきだ」とか「芸術家はこうあって欲しい」という内実が分からない人のイメージであるという意味です。例えば「皇后陛下はウンコをしない」と戦前本当にそう思っていたいたひとたちがいたそうな。「芸術家はたとえ貧しくとも、自分の理想とする芸術作品を作る高貴な人たちだ」というイメージ。
鈴木 ???「吐き気がする」「胃が痛い」と言う言葉は、自殺者の状況を想像させるにあまりあるものがありますが。
野々村 いやいや、非常に具体的で、「自由な想像」の余地がないということ。フランス象徴派の詩や自動書記みたいなテクストとは対照的ですよね。
「自由な想像」というものではなく、非常に即物的な想像というか。「腹が痛い」と言われれば、だれでもその痛みを想像しますよね、「吐き気がする」と言われれば、あまり気分のいい想像は働きません (^ ^) という意味での想像です。
鈴木 映像やテキストにインスパイアされると言うことですね。
野々村 そういう意味ではありません。インパクトの高い映画音楽では、抽象的な音楽に映像が初めて「意味」を与えるような構造が存在しており、映像の進行を単になぞるようなものでは駄目だ、ということを大友氏は理解している、という意味です。
さまざまなものにインスパイアされると言うことは、本来野々村さんがお書きになっている意味だと小生思っているのですが・・・。優れた映画音楽は、そのようなものだと*映画音楽ファン*の小生は、理解していますが。
野々村 ふと思ったのは、この作品のミックスはヘッドフォンで聴くことを前提にしたものなのではなかろうか?ということです。いかがでしょうか?
浮月斎 ご指摘のとおりかもしれません。2度目はヘッドホンで聴きましたが、朗読の不満はスピーカOUT時よりは和らぎましたから。ヘッドホンで聴くと、朗読と音楽のミックスによる立体感がよりよく出ていますし。
小生は、むしろスピーカーで聞くことを前提とした音づくりのように感じました。ただ、音場感の再生に優れたスピーカーでないと、ちょっとつらいかな。さっきまで、スワンで再モニターしていたのですが、STAXでモニターしたときよりも、自然な感触でした。
野々村 『ミイラになるまで』の現行フォーマットは、音楽とはスピーカーから聴こえてくるものだ、というライブハウス的な音響が前提になっていて、そこが「現代音楽」とは全然違うことも、私にとっては面白いのですが。
浮月斎 で、白状しなければならないことは、私はこういう性質をすっかり忘れていたということなんですね。だから、音的「場」とか「空間」というものをもう少し違う次元で聴いてあげれば許容範囲はもう少し広かったのかも。
これは、浮月斎さんの書かれているようなところですが、元々閉鎖的な空間の中で作られた*音*だということを元々小生は想定していたからかも知れませんが(コンサートホールとライヴハウスはどちらも閉じてますが、閉鎖性はライヴハウスの方がかなり上ですね)。また、ここでの録音形態が話題になりましたが、小生は佐野史郎の朗読を流したアンプ=スピーカーの音を直接拾っているということで、朗読前録りではなく、同時進行ではないかと思っていました。
浮月斎 またそれは「劇場性」という次元とも絡んでいて、凡そ「劇場性」というのも「シアター」云々ということではなく、「ミイラ」全体に流れる*本然的な悲喜劇性の表象*ということなのです。
即物的なイメージを喚起させると言うことでは、浮月斎さんのおっしゃられる通りだと思います。
野々村 少なくともヘッドフォンで聴くと、明確に定位した音楽と、頭の中でぼんやり響く朗読という明確な対比があり、これはこれで完成されたスタイルだと思うのですが。
浮月斎 確かにそうですね。しかし、そういう風に必ずしも聴けなかったのは、我々にはこのテクストが日本語であり、意味と流れを追いかけたいという自然な欲求が働くからでしょうか。
これは前述の通り、小生はスピーカーでモニターした方がと感じましたが、浮月斎さんの言われるように、もしこれが英語やドイツ語やフランス語なら、印象は随分と変わるでしょうね。*未知の外国語*なら退屈というより、その方がムード的に聞けてしまったりして。恐らく「ミイラ」に否定的なみなさんも評価が多少変わると思います。ピンク・フロイドの麻薬礼賛の歌を、なんだか高尚な哲学的な訳詞にしてしまうんだからねぇ、日本は。
野々村 「超克」というよりは、形式はそっくり頂きながら、テクストのドラマを音楽が盛り立てるという「ラジオ・ドラマ」の内実はひっくり返すという、いわば新古典主義的なアプローチなのではないかと。
浮月斎 それが相応しい解釈かもしれません。「まぁどっちでもいいや」と書いたのは、実は、新手法的古典であっても、新古典主義的アプローチであっても、結果的には意識に働きかける新鮮味は変わらずにあると思ったからなんです。「脳天にハンマー」レベルを求めすぎたかな。
それは、野々村さん、うがちすぎのような気もしますが (^ ^ ;。浮月斎さんの印象の方に、小生近いです。
野々村 「天の声」として聞いている分には、朗読のハム音は、レコードのスクラッチノイズみたいなもので、私は全然気になりませんでした。
浮月斎 すごく単純な話ながら一番大事なことかもしれません、私には。そういう聴き方が私はできにくくて、やはり聴取多様経験の幅の違いというものもあるんだろうなと思った次第。
最後まで佐野史郎の朗読で言葉が明晰に聞こえるんだから、しつこいようですが(^ ^) *表現形式としてのラジオ・ドラマ*という見方は悪くないと思います。だから*聴取多様経験の幅の違い*は全く気にする必要はない。むしろ、この表現形式を取るんだったら、なにか別のテキストで、このスレッドの最初の方で斉諧生さんが書かれていたような、多少生理的に不安感や嫌悪感を催す*即物的なイメージの喚起*ではない作品を期待したいと思います。
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| 野々村 |
鈴木 1970年初頭というと、シンセサイザーの出始めですね。ロックではエマーソン、レイク&パーマーがメジャーでは最初だったかな。ピンク・フロイドやキング・クリムゾンは、シンセサイザーを使い出すのは少し遅かったような。
電子楽器以前に、リング変調器やワウワウペダルに繋いでサイケデリック、という流行があったから、そちらで一仕事を成し遂げたバンドは、むしろシンセの導入が遅れたのでしょうね。
鈴木 無論、一番最初のシンセサイザーで作った音楽であることを標榜したのはワルター(現ウェンディ)・カーロスであり、飛躍的に完成度を高めたのは冨田勲大先生ですが(最初の頃は面白かったなあ ^ ^)。
商用シンセサイザーについて言えばそうですね。アナログシンセの実験段階まで視野に入れれば、バビットらアメリカの電子音楽屋たちが使ったのが最初でしょう。
鈴木 ジャーマンプログレでは、シンセサイザーが使われ始めるのは早かったですが、高価だったため、みなあまり買えなかったという話もあります。自作してたミュージシャンも結構いましたね。
現在でも、ノイズミュージシャンは自作が主流です。「新奇な音響」を聴かせたいのであれば、商用楽器ではダメに決まっているというか。
鈴木 それまで、かなり特殊な電子楽器であった、リング・モジュレーターやフィルター、ノイズ・ジェネレーターがシンセサイザーに組み込まれることにより、あっという間にその最も電子音らしい音は一般化してしまいました。
ここでまずかったのは、電気楽器の増幅過程にそういう装置を入れた時はかなり多彩な音色が得られたのに、当時の音色のパレットの狭いシンセに組み込むと、みんな同じ音になってしまったことですね。
鈴木 さらに、それまでアナログだったシンセサイザーが、プロフェット5というデジタルシンセサイザーが出るに及んで、マニピュレーターの音のイメージを紡ぎ出すと言うより、デジタルシンセサイザーにプリ入力されているサンプリングの音をミュージシャンが使うようになって、いっきに新鮮みをなくしてしまったような気がします。
なるほど、IRCAMサウンドの作品がどれを聴いても同じなのと似たようなことが、こちらの世界ではその10年以上前に起こったわけですね。
鈴木 最近の電子音楽で聞ける音は、20年以上前から聞くことは出来たわけです。いまだにサンプル&ホールド(ランダムに音階を創り出す一部のシンセサイザーについている機能)を使ったような音を聞きますね (^ ^ ;。
そうなんですよ、ワークステーションでリアルタイム音響合成なんて大層に見せかけても、センスのある器楽奏者がサンプラーを併用した時よりはるかにつまらないサウンドしか出てこないんですよ。
鈴木 そうかなあ、小生ラジオドラマという呼び方が好きだけど、(中略)「ドラマの進行に音楽が奉仕する」とは小生元々思っていないわけで、「音楽の進行にドラマが奉仕する」ことだって、アリだとおもいますが。
そういうのもアリということなら、「ラジオドラマ」という言葉で全然構わないのですが、少なくとも大友氏は、そういう語感でこの言葉を使ってはいないのでは?
鈴木 それなら、野々村さんと小生の言っていることは、実は同じです (^ ^ ;。
もともと、平行線ではないとは思っていました。ただやはり、「同じ」というよりは「近い」で、ちょうど内ゲバが激化するくらいの近さ (^_^;;)
鈴木 「音楽的感受性と意欲のある人なら誰でも『聴かせる側』 に回れるようにすることで、サンプリングや共同作曲がそれを可能にする」という考え方は、まさしく、*近代芸術の超克*(この表現、大げさであまり好きじゃないけど)の根本です。
そこだけ比べると同じだけど、「それだけ取り出すと全然面白くないけど、能書きや学芸員のトークが付けば面白いような気がしてくるものも芸術に含めましょう」と、「インパクトの強さでは従来の芸術と遜色はないけど、*近代芸術*では認められないような創作プロセスを持ったものも芸術に含めましょう」は、やはり「同じ」ではないのでは?(しつこい)
鈴木 *秘儀的な*ってどういうことでしょう?技術の習得が秘儀的だってんならお笑いですが、免許皆伝の話ですか?
とは言っても、鍵盤楽器や弦楽器や管楽器では、「独学の名プレイヤー」なんてのは、ジャズやロックでも初期の、クラシカルな意味での*技術*があまり要求されなかった時代にしか存在しなかったと思うのですが。
鈴木 でも、*技術の習得*はサウンドコラージュやサンプリングにも必要ですよね。
それは、技術と言うよりはセンスでは?どんなレコードを用意し、どういうフレーズを狙って切り出すかという。そこで要求される音楽性とは無関係な純粋な「技術」は、自転車の乗り方を覚える程度のものだと思います。
ただ、これは現在がこの種の音楽の草創期だからで、やがてどこの音大にもターンテーブル科が設立されて、5台のターンテーブルを同時に操作して、任意のレコードから任意のフレーズを誤差0.1秒で切り出せないと仕事が来ない、なんて時代が来たりして (^ ^)
鈴木 それならば「そもそも芸術って何?」「普遍的で凄いものって何なの?」という、極めて荷の重い話になってしまいまいますね。
そこで、聴き手との「双方向の関係」が重要になってくる、というのが大友ライナーの主張なのでは?その問いの答えは考えてわかるものではなく、他人に向けて何かやらないことには始まらないんだよという。
ただ、それを「ディスク売り上げ」や「観客動員数」で定量化できると思い込んでしまうと、今度は「メジャーポピュラー音楽」の病理に絡め取られてしまうので、そこは注意が必要です。
鈴木 これは芸術の否定とか、だれでも作れるものが素晴らしいという議論ではなく、何でもありの現在「本当に優れたものがわからない」時代になっているからこそ、出てくる疑問だと思います。
というか、それが世のあるべき姿では?凄えものは凄えのであって、それが*芸術*かどうかなんてのは、そもそもどうでもいいわけで。
鈴木 例えば「皇后陛下はウンコをしない」と戦前本当にそう思っていたいたひとたちがいたそうな。
戦後になっても、皇后-->吉永小百合になっただけでは?ただ、その種の「偶像化系ファン」というのは、いつの間にか日本からはいなくなって、現在では、好きなアイドルの裏ビデオが流出したと聞けば喜んで大枚をはたくようなファンばかりになったような気がする。
そういう意味でも、「クラシックファン」というのはとてつもなく時代から取り残されていると感じる。
鈴木 ただ、芸術家像というのは、そのご本人以外の人たちが、「芸術家はこうあるべきだ」とか「芸術家はこうあって欲しい」という内実が分からない人のイメージであるという意味です。(中略)「芸術家はたとえ貧しくとも、自分の理想とする芸術作品を作る高貴な人たちだ」というイメージ。
「芸術家は自分の理想とする芸術作品を作る人だ」という定義は、別に間違っていないと思いますが。「貧しくとも」「高貴な人」という付随的なステートメントが的外れなだけで。
「貧しさ」は「自分の作りたいものを作るかどうか」とは必ずしも関係なくて、「金銭に対する執着のなさ」で決まるのだと思います。モーツァルトが堅実な妻と結婚してストラヴィンスキー並みに自作から得られる収入をきっちり回収していれば、ストラヴィンスキーをはるかに上回る金持ちになっていたことは間違いないわけでして。「高貴な人」というのも、「創作衝動に忠実=高貴」と定義すれば全く問題ないわけで、それを「教え子と不倫してはいけない」とか「息子の嫁に手を出してはいけない」とかいう道徳律とごっちゃにするからおかしくなるだけでしょう。
野々村 音楽の力で貧弱なテクストが俄然ドラマティックになった、という意味ではないんです。テクスト自体に力はなくても、その朗読が加わったことで、本来はドラマ性とは無縁な性格の音楽がドラマティックに聴こえ始めるのが面白い、ということ。
鈴木 ドラマティックに聞こえる=*ドラマ性の獲得*でいいんでしょうか?
「ドラマティックに聞こえる」という言葉がよくなかったみたいですね。初期の議論で使った用語に戻って、「ディスコースを獲得する」と言うべきでした。
鈴木 また、ここでの録音形態が話題になりましたが、小生は佐野史郎の朗読を流したアンプ=スピーカーの音を直接拾っているということで、朗読前録りではなく、同時進行ではないかと思っていました。
議論も済んだことだし、大友氏(あるいはこのディスクの演奏者の一人)にメイルで聞いてみましょうか?
鈴木 浮月斎さんの言われるように、もしこれが英語やドイツ語やフランス語なら、印象は随分と変わるでしょうね。
このディスクは、一応海外でも売られているので、そちらでの反応が興味深いですね。大友氏はThe Wire誌でもしばしば紹介されて、海外公演も多い国際的なアンダーグラウンドミュージシャンですから。
鈴木 *未知の外国語*なら退屈というより、その方がムード的に聞けてしまったりして。
議論の初期に挙げたベリオやB.A.ツィンマーマンの作品では、多言語だったり同時多発だったりして、「ナレーションの意味が聞き取れない」という状態が意図的に作り出されています。
鈴木 むしろ、この表現形式を取るんだったら、なにか別のテキストで、このスレッドの最初の方で斉諧生さんが書かれていたような、多少生理的に不安感や嫌悪感を催す*即物的なイメージの喚起*ではない作品を期待したいと思います。
Un drame musical instantaneのように、朗読+アンサンブルという形態のプレイを頻繁に行っているグループとは違って、大友氏の場合は例外的形態だから、自ずと*刺激の強い*テクストになったのでは。
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| 鈴木 |
野々村 そういうのもアリということなら、「ラジオドラマ」という言葉で全然構わないのですが、少なくとも大友氏は、そういう語感でこの言葉を使ってはいないのでは?
これは水掛け論になるから仕方がないですが、大友氏の「ミイラ」の初期作品イメージを聞いてみたいですね。
野々村 もともと、平行線ではないとは思っていました。ただやはり、「同じ」というよりは「近い」で、ちょうど内ゲバが激化するくらいの近さ (^_^;;)。
その辺りの差異を認めることから、恒久平和が訪れる (^-^)。差異を拡大して、その違いを深化することによって内ゲバが生じる。でも、たいがいの人には目くそ鼻くそを笑うの類なんですね、きっと。小生内ゲバが激化した直後のノンポリ大学生でしたが、言っていることの違いが分からなくて・・・(^ ^)。
野々村 とは言っても、鍵盤楽器や弦楽器や管楽器では、「独学の名プレイヤー」なんてのは、ジャズやロックでも初期の、クラシカルな意味での*技術*があまり要求されなかった時代にしか存在しなかったと思うのですが。
独学云々ではなく、技術習得にまつわるロマンティシズムの問題だと思うのです。大リーグボールギブス (^ ^ ;;;;。あるいは、家元制による集金マシーンの美化。技術の習得は「ただひたすら」ですよね。
野々村 それは、技術と言うよりはセンスでは?どんなレコードを用意し、どういうフレーズを狙って切り出すかという。そこで要求される音楽性とは無関係な純粋な「技術」は、自転車の乗り方を覚える程度のものだと思います。
自転車の乗れない人には、それこそ*自転車に乗る*ことが大技術です。
野々村 ただ、これは現在がこの種の音楽の草創期だからで、やがてどこの音大にもターンテーブル科が設立されて、5台のターンテーブルを同時に操作して、任意のレコードから任意のフレーズを誤差0.1秒で切り出せないと仕事が来ない、なんて時代が来たりして (^ ^)。
あり得ますね (^ ^)。どっかのDJがそうやって弟子を量産してたりして。
野々村 ただ、それを「ディスク売り上げ」や「観客動員数」で定量化できると思い込んでしまうと、今度は「メジャーポピュラー音楽」の病理に絡め取られてしまうので、そこは注意が必要です。
病理と言うより、資本主義社会の避けては通れない一面でしょうね。分かりやすいものがもてはやされる。美術やってきた人間だったら、マリー・ローランサンなんて、誰も*芸術*だとは思っていないですから。実は結果=芸術であって、過程=芸術、考え方=芸術ではないんですけどね。ましてや、分かりやすくて誰でも好き=芸術ではないのは言うまでもないですが。
野々村 それが世のあるべき姿では?凄えものは凄えのであって、それが*芸術*かどうかなんてのは、そもそもどうでもいいわけで。
おっしゃられる通りです。そもそも「*芸術*かどうかなんてのは、そもそもどうでもいい」わけです。でもそれじゃあ、芸術評論家は飯が食えない (^ ^ ;。
野々村 そういう意味でも、「クラシックファン」というのはとてつもなく時代から取り残されていると感じる。
*取り残されたい*と暗に感じている人たちの方が多いと思います。
野々村 「芸術家は自分の理想とする芸術作品を作る人だ」という定義は、別に間違っていないと思いますが。「貧しくとも」「高貴な人」という付随的なステートメントが的外れなだけで。
そこが小生の言いたいことの一つで、付随的な接頭語や形容詞をつけることによって、意味が全く変わって陳腐化して行くんですよね。
野々村 「貧しさ」は「自分の作りたいものを作るかどうか」とは必ずしも関係なくて、「金銭に対する執着のなさ」で決まるのだと思います。
「金銭に対する執着のなさ」が貧しさに直結する高貴な芸術家のイメージになったのは、セザンヌやゴッホが一番分かりやすいでしょう。もういっちょ、モンマルトルあたりの安アパートの屋根裏部屋で、自分の描きたい絵を描く*絵描き*のイメージ。うう、おセンチでロマンティックだなぁ。
でも、このスレッドは小生には非常に面白かったです。また機会があればいろんな議論をやりましょう。ちょっと前には、小生嫌がってましたが (^ ^ ;。でも、再勉強しなければいけないテキストも頭に思い浮かんだり、若い頃かぶれていたいろんな芸術論が整理できたりして、どこかで自分なりに落とし前をつけなければいけませんね。
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