まとめa:浮月斎 vs. 野々村



浮月斎 もともとの主張を切り替えている心算は全くありません。ただ、相対的な見方の違いにいろいろ気がつきましたので、その自白だけはしておきました。

野々村 ふと思ったのは、この作品のミックスはヘッドフォンで聴くことを前提にしたものなのではなかろうか?ということです。いかがでしょうか?
ご指摘のとおりかもしれません。2度目はヘッドホンで聴きましたが、朗読の不満はスピーカOUT時よりは和らぎましたから。ヘッドホンで聴くと、朗読と音楽のミックスによる立体感がよりよく出ていますし。

野々村 『ミイラになるまで』の現行フォーマットは、音楽とはスピーカーから聴こえてくるものだ、というライブハウス的な音響が前提になっていて、そこが「現代音楽」とは全然違うことも、私にとっては面白いのですが。
で、白状しなければならないことは、私はこういう性質をすっかり忘れていたということなんです。だから、音的「場」とか「空間」というものをもう少し違う次元で聴いてあげれば許容範囲はもう少し広かったのかも。またそれは「劇場性」という次元とも絡んでいて、凡そ「劇場性」というのも「シアター」云々ということではなく、「ミイラ」全体に流れる*本然的な悲喜劇性の表象*ということなのです。

浮月斎 敢えて誤解を怖れずに言うと、「劇場性」とでもいう次元の話です。
野々村 もちろん、それはそれで面白いのですが、それは「今一つ乗り越える」というような次元の話ではなくて、別な方向性ではないでしょうか?むしろ、「劇場性」が加わってくると、シアターピースという既成のフォーマットに近づいてしまうような気がするんですよ。
野々村さんのご意見は尤もなんです。ただ「敢えて誤解を怖れずに」と言ったのは、そういう把捉になってしまう恐れがあるからで、意図は上述のとおりです。

野々村 少なくともヘッドフォンで聴くと、明確に定位した音楽と、頭の中でぼんやり響く朗読という明確な対比があり、これはこれで完成されたスタイルだと思うのですが。
確かにそうですね。しかし、そういう風に必ずしも聴けなかったのは、我々にはこのテクストが日本語であり、意味と流れを追いかけたいという自然な欲求が働くからでしょうか。

野々村 むしろ朗読を定位させ、あまつさえ音像を動かしてしまうと、朗読が「演奏」の一部になってしまって、現行フォーマットの持つ効果は薄くなりそうな気がします。
私が言わんとしてきたことは、むしろ「朗読を全く定位させない」方がよかったのでは?ということなのです。

浮月斎 協働イマジネーションというか共有イマジネーションというか、朗読+音楽という陳腐な設定ながら、中身はかなりユニックな核心を突いているということは私も評価しています。
野々村 揚げ足取りかもしれませんが、設定自体が「陳腐」かどうかを論じてもしかたないと思うのですが。
ここは抉らないで下さい(笑)。「陳腐」というより「通常の」という意味程度のことなので。

野々村 この作品における朗読は、「純粋なロゴス」なのか「肉体的な行為」なのか、ということです。で、私は、やはり純粋なロゴスだとは思わないわけです。
そういう観点ですと、私も大筋同感ですが、これまでの自分の捉え方は「純粋なロゴス」になっているようです。しかし、そのどちらか一方ではないのでしょうね、この作品が意図しているところは。

野々村 感情表現を排した朗読は、これは自殺日記の紹介であって自殺者のリアルタイムの独白ではない、という状況を明示するための方法論ではあっても、朗読という行為自体の肉体性まで否定しているわけではないと思います。
で、結局その「朗読という行為自体の肉体性まで否定しているわけではない」というところのギリギリのラインが示されているのか、そういう手段一般が示されているということなのか、の違いへの拘りだけなのかもしれません。私は、ギリギリのラインを模索してほしかった、というところでしょうか。

野々村 本当は、一面的には議論できないんですけどね。
ま、私自身はかなり勝手な考え方に囚われて聴き込んできただけです。

浮月斎 ラジオ・ドラマの新しい手法なのか、それを超克しようとしたものなのか、最初からずっと私もそれに拘泥していた訳ですが、まぁどっちでもいいやという感じになってきました。
野々村 「超克」というよりは、形式はそっくり頂きながら、テクストのドラマを音楽が盛り立てるという「ラジオ・ドラマ」の内実はひっくり返すという、いわば新古典主義的なアプローチなのではないかと。
それが相応しい解釈かもしれませんね。「まぁどっちでもいいや」と書いたのは、実は、新手法的古典であっても、新古典主義的アプローチであっても、結果的には意識に働きかける新鮮味は変わらずにあると思ったからなんです。「脳天にハンマー」レベルを求めすぎたかな。

野々村 そういう意味では、朗読の録音には改善の余地はあると言えますが、「天の声」として聞いている分には、朗読のハム音は、レコードのスクラッチノイズみたいなもので、私は全然気になりませんでした。
すごく単純な話ながら一番大事なことかもしれません、私には。そういう聴き方が私はできにくくて、やはり聴取多様経験の幅の違いというものもあるんだろうなと思った次第。結局は、どうも音と言葉の「抽象化」への過程の求め方と「完成」の洗練度という点への拘泥にスタートから違いがあったことは取りあえず認めておきたいと考えます。

野々村 野々村 『ミイラになるまで』の現行フォーマットは、音楽とはスピーカーから聴こえてくるものだ、というライブハウス的な音響が前提になっていて、そこが「現代音楽」とは全然違うことも、私にとっては面白いのですが。
浮月斎 で、白状しなければならないことは、私はこういう性質をすっかり忘れていたということなんです。だから、音的「場」とか「空間」というものをもう少し違う次元で聴いてあげれば許容範囲はもう少し広かったのかも。
全く一般的な話になってしまいますが、こういうあたりの感覚がどのように形成されるのかは興味深いですね。果たして「クラシックファン」全般がそういうあたりにセンシティブなのかどうか。

浮月斎 またそれは「劇場性」という次元とも絡んでいて、凡そ「劇場性」というのも「シアター」云々ということではなく、「ミイラ」全体に流れる*本然的な悲喜劇性の表象*ということなのです。
私はまるでそういうフレームでは聴いていなかったんです。「音楽を生成するための枠組」としか感じていなかった。そして結局のところ、*あえて力のないテクストを選ぶ*という戦略が成功したのかなあと。

浮月斎 しかし、そういう風に必ずしも聴けなかったのは、我々にはこのテクストが日本語であり、意味と流れを追いかけたいという自然な欲求が働くからでしょうか。
私も「意味と流れ」は追って聴いているわけですが、この男がどのように死ぬかまで冒頭で予告されてしまうので、ストーリーを追うような聴き方にはならないんです。マルケスの小説みたいに、と言うと褒め過ぎですが。

野々村 感情表現を排した朗読は、これは自殺日記の紹介であって自殺者のリアルタイムの独白ではない、という状況を明示するための方法論ではあっても、朗読という行為自体の肉体性まで否定しているわけではないと思います。
浮月斎 で、結局その「朗読という行為自体の肉体性まで否定しているわけではない」というところのギリギリのラインが示されているのか、そういう手段一般が示されているということなのか、の違いへの拘りだけなのかもしれません。私は、ギリギリのラインを模索してほしかった、というところでしょうか。
一方、私はそもそも朗読パートは「天の声」として聴いているから、ギリギリであるかどうかには全くこだわりを持たなかったわけです。器楽部分のテンションは、結構ギリギリまで行っていると思うけど。

浮月斎 「まぁどっちでもいいや」と書いたのは、実は、新手法的古典であっても、新古典主義的アプローチであっても、結果的には意識に働きかける新鮮味は変わらずにあると思ったからなんです。
ええ、私はそもそも「どっちでもいい」んですけどね :-p

浮月斎 「脳天にハンマー」レベルを求めすぎたかな。
ある音楽様式に対して、聴き手が無意識のうちに仮定している限界が打ち破られた時、「脳天ハンマー」は作動するんじゃないでしょうか。だから、ジャンル分けを拒む音楽にはそもそもこの機構は作動しない。

浮月斎 結局は、どうも音と言葉の「抽象化」への過程の求め方と「完成」の洗練度という点への拘泥にスタートから違いがあったことは取りあえず認めておきたいと考えます。
そうですね。普段の合評会で(優れた)クラシックの録音を論じている時にはあまり感じない趣味の違いのようなものが見えて面白かったです。





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