| 野々村 |
野々村 松平頼暁さんが『現代音楽のパサージュ』(青土社)で書いていますが、現代音楽で「特殊奏法」と総称されているもので、19世紀までの音楽に現れていないものは殆んどないそうですね。
鈴木 松平頼暁さんのご意見はその通りでしょうね。ただ、電子楽器の音響の新鮮さは1960年頃まではあったように思いますが。だからこそ、その後の作曲家は困っているのでしょうね。
電子楽器が、『ミイラになるまで』にはあってウェーベルンにはない唯一の音響だ、ということは前に書いたと思いますが、「電子音」が新鮮だったのは、確かにそのくらいまででしょうね。「電子楽器」はもう少し後、1970年代前半まで----要は、プログレ全盛期まで----は一応新鮮さを保っていたと思います。ただ、この時点で「現代音楽」は完全に時代から乗り遅れてしまい、コンピュータの進歩から見たら過去の遺物のような音響を今頃になって嬉々として使っているという、なんとも情けない状況に陥ってしまいました。
鈴木 だから、精神性の問題だと思うんです。ウェーベルンは西洋古典音楽の一種の到達点だと言う意識が小生には強いのかも知れません。
私もウェーベルンは大好きですが、彼だけが到達点とは思いません。バルトーク、ウェーベルン、ベルクはほぼ同年代に属していますが、それぞれがそれぞれに「到達点」なのだと思います。そして、その「音楽史」自体を背負い込もうとしたのが、ストラヴィンスキーという特異な存在だったのでしょう。
「精神性」というのも微妙で、オープンリールをハサミで切り貼りして1年がかりで作っていた頃の電子音楽は面白かったけど、パソコン上で数日で作れてしまうような最近の電子音楽はダメだ、というような話になってしまうと、それは何か違うような気がするんですよね。
鈴木 でも、ビブラートのかからない無調の音はウェーベルンの当時は、かなり新奇だったように思いますが。
このあたりは工藤さんにお伺いしたいのですが、微分音の範疇を越えて音程の揺れを伴うようなヴィブラートが多用されるようになったのは、実は第2次世界大戦後だという話を聞いたことがあるのですが....
鈴木 それに第一、ルネサンス・ポリフォニーなんてだれも手をつけていなかったんでは。
一般音楽ファンのレベルで中世・ルネサンス音楽に関心が向けられるようになったのは確かに第2次世界大戦以降のことですが、進歩的な作曲家の間ではそれよりかなり前から関心は高まっていました。端緒はドビュッシーまで遡るでしょう。バルトークの「夜の音楽」なんて、ルネサンス・ポリフォニーの知識なしには書けないでしょう。
鈴木 ライナーに書いてありますよ、「最初のラジオドラマ・ヴァージョンに近い形で録音を行った」と。でも、音としての作品は「ラジオドラマ」そのもののように聞こえますが。
この作品が「ラジオドラマ形式」を持っているという意味ならば、それはそうですね。しかし、以下で浮月斎さんと議論しているように、「ドラマの進行に音楽が奉仕する」というあり方ではないわけで、それを「ラジオドラマ」と呼ぶことには抵抗があります。
鈴木 小生、ライナーノートの*近代芸術のあり方*に対する嘲笑か冷笑かは分かりませんが、そのことに対して少し反発しています。
これは、大友氏のソロ活動は、ターンテーブルやサンプリングコラージュという、「他人の作品を利用して自分の音楽を作る」というものであることが前提になっているわけです。
鈴木 ここで展開されている「音」によるドラマは、*近代芸術のあり方*を超克出来ていません。「演奏者」と「聴衆」という図式のフレームの中では、恐らく、*近代芸術のあり方*へのちょっとしたパロディにしかならないと思うんです。
この点が、鈴木さんと私の最大の相違点のようですね。ダダイズムに関する議論でくり返し書きましたが、「演奏者」と「聴衆」というフレームを壊す系統の「近代芸術のあり方の超克」は、価値基準を「才能」や「技術」から「権威」や「弁舌」にシフトさせてしまうというネガティブな結果しかもたらさなかったと思います。大友氏が目指しているのは、「作曲」や「演奏」を長期間にわたる秘儀的な技術の習得から解放して、音楽的感受性と意欲のある人なら誰でも「聴かせる側」に回れるようにすることで、サンプリングや共同作曲がそれを可能にする、と考えているのではないでしょうか。
鈴木 「ミイラ」と関係ない話になって恐縮ですが、小生、形式を問わず近代芸術家の原型は、ベートーヴェンではないかと思います。
「ベートーヴェンの時代の芸術家たち」という方がしっくり来ますが。市民革命の結果、芸術を享受する対象が大きく広がり、殿様の機嫌に左右されない主体的な活動が可能になった、ということなのでしょう。市場が右肩上がりに拡大しているうちは、それが幻想だということに芸術家たちは気付かずに済んで幸せだった。
鈴木 その後、セザンヌとゴッホによって決定的な近代芸術家の肖像が完成されていったような・・・
ブーレーズ言うところの「マラルメ−セザンヌ−ドビュッシーの三幅対」は、20世紀芸術の一つのモデルとして、前衛の時代までは機能したと思います。
鈴木 でも、結局は算術に強い経済型芸術家がその時々の主流を占めましたが。
ゴッホはむしろ、「どんな危険な芸術でも、作家が死ねば安全な商売のネタになる」という*芸術経済学*の格好の例として機能したのでは?
鈴木 前にも書きましたが、赤瀬川原平の「芸術形式トマソン」が、もっとも、その無名性の芸術を押し進めたものなんですけどね。*どこでも芸術*の発見の過程が芸術行為です。
野々村 大友氏が言いたいのは、そういうこととは全然違うと思うのですが。「個人による創造」にこだわらずに、みんなで知恵を出し合って凄えものができればそれでいいじゃん、ということなのでは?
鈴木 *近代芸術のあり方*を云々する以上、実は避けては通れない道筋のひとつがトマソンです。そもそも「みんなで知恵を出し合って凄えものができればそれでいいじゃん」と言う考え方と同じ発想です。
いやいや、やはり全然違うでしょう。大友氏は「凄えもの=普遍的な価値を持つ(芸術)作品」が存在するということは否定していないのだから。音楽の世界で「超芸術トマソン」に相当する活動を挙げるとしたら、「幻の廃盤解放同盟」みたいなものになるのでは?
鈴木 *芸術家の高潔さ*を云々する腐ったジャーナリストは大勢いますよ。そいつら悪い意味でのスノッブとしか言いようがない場合が多いですが。
いくら高潔でも、作品がつまらなくてはどうしようもないことぐらいは彼らだって本当はわかっているはずで、それを知りながら詐欺の共犯をやっているような連中が「腐って」いるのは自明でしょう。
野々村 常に単純なテクストでない限りは、ボソボソ言うバックグラウンドノイズにしかならないのかなあ、と感じていたところに、この素朴な手法の強烈なインパクトに、私はコロンブスの卵を感じたわけです。
鈴木 映像が氾濫している時代に、ラジオドラマの手法が新鮮なのかも知れません。
しつこいですが、私にとっては、「ラジオドラマ様式」を用いたからといって、その音楽行為が「ラジオドラマ」になってしまうわけではない、という発見が印象的だったんです。
野々村 「現代音楽」で伝統的に用いられてきたテクストは、マラルメとかカルヴィーノとかe.e.カミングスとか、読み手の想像力に依存したものばかりだったんです。そういう関係性はそれはそれで面白いんだけど、それとは全然違うこういう手があったのか、という新鮮な驚きが、私のこの作品への高い評価の根底にあるのです。
鈴木 ???「吐き気がする」「胃が痛い」と言う言葉は、自殺者の状況を想像させるにあまりあるものがありますが。
いやいや、非常に具体的で、「自由な想像」の余地がないということ。フランス象徴派の詩や自動書記みたいなテクストとは対照的ですよね。
鈴木 テキストは、読み手の想像力に依存してはいけないんですか?
少なくとも「現代音楽」の世界では、具体的なテクストには調性を用いた表現的な音楽、抽象的なテキストにはセリー音楽や偶然性の音楽、という組み合わせが普通でした。もちろんノーノみたいな例外もあるわけですが、彼のセリー音楽は極めて表現的ですからね。それだけの話で、価値判断を伴うステートメントではありません。
野々村 ここで聴かれる音楽自体は、実はドラマ性とは無縁な、音響イメージだけがゆるやかに浮遊する、典型的な即興音楽ですよね。ところが、それが方向性の明確なテクストと出会うと、突如雄弁にドラマを語り始める。私には、この化学反応が何より面白かったのです。
鈴木 ウ〜ン、そうかなあ。小生がそもそも「ミイラ」を*雄弁なドラマ*として捉えられなかったのが問題かも知れません (^ ^ ;。面白いのは面白いんだけど、テキストの朗読と音楽がうまく融合されすぎてたからかも知れません。
誤解されているような気がしますが、音楽の力で貧弱なテクストが俄然ドラマティックになった、という意味ではないんです。テクスト自体に力はなくても、その朗読が加わったことで、本来はドラマ性とは無縁な性格の音楽がドラマティックに聴こえ始めるのが面白い、ということ。
野々村 大友氏は、このあたりの事情には十分に自覚的で、それが彼の映画音楽作曲家としての資質に表れているのでしょう。
鈴木 映像やテキストにインスパイアされると言うことですね。
そういう意味ではありません。インパクトの高い映画音楽では、抽象的な音楽に映像が初めて「意味」を与えるような構造が存在しており、映像の進行を単になぞるようなものでは駄目だ、ということを大友氏は理解している、という意味です。彼が映画音楽で用いるのは、もっと耳に心地好いタイプの音楽ですが、基本は『ミイラになるまで』と同じです。
鈴木 大友氏のソロなどはあるんでしょうか?
単なるリーダーアルバムではなく、ソロアルバムという意味だったら、
サンプリングコラージュ系:
- The Night before the death of the sampling virus (EXTREME, XCD 024)
- Monogatari: Amino Argot (with Carl Stone; TRIGRAM, TR-P908)
ターンテーブル系:
- Vinyl Tranquilizer (Sonic Factory, NAIM01CD)
- Sound Factory (gentle giant records, GG021CD)
が現在CDで入手できます。初期作品のカセットリリースなどもありますが、詳細は下記URLの大友ディスコグラフィーを参照して下さい。
http://www2.gol.com/users/miyuki/yotomo/yotomodisco.html
上記の作品の大半は、このHPの通販でも扱っているはずです。なお、上記4枚の中での私のお薦めは、各々の1番目。
浮月斎 結論としては、高く評価できるけれど、まだまだ深められる余地も多大にありそうで(特に朗読)、その辺が強く要望と不可分となって文句となったと捉えていただければ幸甚です。
それはよくわかります。朗読を含む即興という音楽形態は、90年代になってリバイバルしつつあるように見え、この作品もまだまだ発展途上ではあるものの、ネオ・ダダの焼き直しには留まっていないので高く評価したいというのが、そういう意味での私の「結論」です。
浮月斎 ラジオドラマのフォームに立っているからよくないということではないのです。むしろ、この音楽との協働作業の面白さが更に引き立つには、構造的に今一つ乗り越えねばならない何かがあって、そこが朗読なのではないかと思った訳です。といって、あまり彼方に行ってしまえば、作品の中身がまるでわからなくなるし、難しいところですが。
ふと思ったのは、この作品のミックスはヘッドフォンで聴くことを前提にしたものなのではなかろうか?ということです。いかがでしょうか?
野々村 20世紀オペラには立派なテクストを持ったものはいくらでもあります。
浮月斎 とはいえ、立派なテクストを持つオペラだから楽しめるということも私にはありません。まぁ、これは趣味の問題以外の何ものでもありませんが。
もちろん私も、「立派なテクストを持つオペラはいいオペラ」なんて正気を疑われるような発言をしたいわけではありません :-)
野々村 この種の実験は「前衛音楽」ではそれなりに行われていまして、私見ではあまり成果は挙がっていないと思います。浮遊させるんだったら言語よりも電子音の方がよほど有効で、言葉が聞き取りにくくなるデメリットを補うほどの効果はなかったような。
浮月斎 私見で申し述べたのは、音的な方向性の模索ということと別の話です。(中略)録音ではなく、空間性という意味での「語り」の実験ですか、それは?
ライブで言えば、PAを会場のあちこちに配置して、朗読はマイクで拾って調整卓上の操作で内容に応じてさまざまな方向から聞こえてくるように定位させる、というような試みのことかと思ったのですが、誤解だったようです。
浮月斎 敢えて誤解を怖れずに言うと、「劇場性」とでもいう次元の話です。
もちろん、それはそれで面白いのですが、それは「今一つ乗り越える」というような次元の話ではなくて、別な方向性ではないでしょうか?むしろ、「劇場性」が加わってくると、シアターピースという既成のフォーマットに近づいてしまうような気がするんですよ。
『ミイラになるまで』の現行フォーマットは、音楽とはスピーカーから聴こえてくるものだ、というライブハウス的な音響が前提になっていて、そこが「現代音楽」とは全然違うことも、私にとっては面白いのですが。
野々村 非常に単純なテクストでない限りは、ボソボソ言うバックグラウンドノイズにしかならないのかなあ、と感じていたところに、この素朴な手法の強烈なインパクトに、私はコロンブスの卵を感じたわけです。
浮月斎 それは同感です。が、折角ここまで来たんだから、もう一歩踏み込みが欲しいという話なのです。
少なくともヘッドフォンで聴くと、明確に定位した音楽と、頭の中でぼんやり響く朗読という明確な対比があり、これはこれで完成されたスタイルだと思うのですが。むしろ朗読を定位させ、あまつさえ音像を動かしてしまうと、朗読が「演奏」の一部になってしまって、現行フォーマットの持つ効果は薄くなりそうな気がします。
浮月斎 協働イマジネーションというか共有イマジネーションというか、朗読+音楽という陳腐な設定ながら、中身はかなりユニックな核心を突いているということは私も評価しています。
揚げ足取りかもしれませんが、設定自体が「陳腐」かどうかを論じてもしかたないと思うのですが。「グランドピアノを壊す」というたぐいのイヴェントなら、2回目以降は「陳腐」ですが、弦楽四重奏は陳腐だがコントラバス四重奏なら新しい、というものでもないでしょう。
野々村 たとえ演技性が剥奪されていても、歴然とした違いは出ると思うのですが。例えば佐野史郎の代わりに山瀬まみが朗読したら、もう全然違うでしょ?むしろ、演技性が加味された方が、両者の違いは小さくなると思われます。即興音楽で重要なのは、イデアではなくて場なのです。
浮月斎 これはどうでしょう、難しいなぁ。朗読と音楽を分離・対峙する従来式のやり方なら、全然違うのが当然ですが、この試みが真に生きるとすれば、変わらないんじゃないかなぁ。(中略)もし違っているとしたら、それはこの録音の自家撞着になってしまいます。
これは本当に難しいところですが、この作品を論じるにあたって最も重要な部分でしょうね。この作品における朗読は、「純粋なロゴス」なのか「肉体的な行為」なのか、ということです。
で、私は、やはり純粋なロゴスだとは思わないわけです。もしそうならば、別に朗読を行う必要はなく、聴き手にテクストを配って、各セクションの冒頭でそれが何日目に相当するかを告げるだけで良い----これではまるで交響詩ですが----はずです。でも、そんなことはない。感情表現を排した朗読は、これは自殺日記の紹介であって自殺者のリアルタイムの独白ではない、という状況を明示するための方法論ではあっても、朗読という行為自体の肉体性まで否定しているわけではないと思います。
本当は、一面的には議論できないんですけどね。「典型的な即興音楽」とは言っても、雨漏りの音を始め、テクストの進行に沿った描写的な音響も、実際にはけっこう出てきていますから。
野々村 ここで聴かれる音楽自体は、実はドラマ性とは無縁な、音響イメージだけがゆるやかに浮遊する、典型的な即興音楽ですよね。ところが、それが方向性の明確なテクストと出会うと、突如雄弁にドラマを語り始める。私には、この化学反応が何より面白かったのです。
浮月斎 あっ、そういう言い方がとてもわかりよいですね。しかしやはりテクストと不可分の音楽的場を形成している訳ですから、化学反応を想定すべく、その音たちの図面引きの行為の方がここでは高く評価されるべきでは?とは思っていますが、如何ですか?
ええ、もちろんそういうつもりです。この化学反応は、幸運な偶然の産物とは思えませんからね。
鈴木 「この録音が、断食自殺者への伴奏以上のものであることを願って」という意図は分かりますが、それを願う方が演奏者の傲慢さだなあと感じてしまうのであります (^ ^)。
浮月斎 難しいですね。ラジオ・ドラマの新しい手法なのか、それを超克しようとしたものなのか、最初からずっと私もそれに拘泥していた訳ですが、まぁどっちでもいいやという感じになってきました。
「超克」というよりは、形式はそっくり頂きながら、テクストのドラマを音楽が盛り立てるという「ラジオ・ドラマ」の内実はひっくり返すという、いわば新古典主義的なアプローチなのではないかと。
浮月斎 ただ、正直、ラジオドラマの新しい手法というなら、朗読の役割に物足りなさを覚えるし、超克しようというにしても朗読の位置づけが構造的に解決されていないのではないか、ということを問題にしてきたつもりです。
上記のような解釈ならばいかがでしょう?
浮月斎 こういう環境に朗読を置いて朗読が得られる真の効果とは何かを考えると、可能性はまだかなりありそうだとぼんやり思っているのです。
同感です。この作品は一つの立派な回答ではありますが、決して終着駅ではないでしょうね。
工藤 「ふうん」というのが僕の感想。これは、最初にこのディスクで聴いたときも、後で文庫で読み直したときも変わりませんでした。野々村さんのように、“「結構面白く」なった”とも思いませんでした。ただ、全体に淡々と流れて行く感じが、音楽の素材としては扱いやすかったのかもしれないとは思いますけど。
私の「面白くなった」も、あくまで素材としての面白さですけどね。
工藤 僕は、先に朗読部分を録音して、後から他のパートを重ねたのではないかと思っていました。
あ、朗読だけについては、たぶんそうでしょうね。録音に始めから終わりまで付き合えるほど、当時の佐野史郎がヒマとも思えないし。そういう意味では、朗読の録音には改善の余地はあると言えますが、「天の声」として聞いている分には、朗読のハム音は、レコードのスクラッチノイズみたいなもので、私は全然気になりませんでした。
工藤 というのも、音楽は朗読をきちんと踏まえているような気がしたのに対して、朗読が音楽から刺激を受けているような感じに乏しかったものですから。
そうですね。そういうあたりも、最初に劇伴を録音してから、それをプレイバックしつつセリフを入れていくラジオドラマの収録方法とは、みごとに語りと音楽の関係が逆転していますね。
野々村 このヴァージョンからは、朗読からドラマ性を剥奪して、音楽の方だけでドラマを作ってしまおうという意図が感じられ、
工藤 という風に考えると納得もいきますね。ただ、「言葉と音楽の関係性」というには朗読側からの働き掛けが少ないという感想を持ちました。
この「朗読側からの働き掛け」があれば、浮月斎さんの不満は解消されるのではないでしょうか。そりゃ、あるに越したことはないでしょう。ただ、こういう音楽がバックで鳴っていても、なおかつドラマ性を排した朗読ができるのはかなり稀有な才能で、朗読先録りは現実的な解決法でしょうね。
工藤 おそらく、いや間違いなく邪道なのかもしれませんが、僕は歌曲はある種の器楽曲と同じように聴いてしまいます。発音が気になるのは言葉が分からないからではなく、よくできた歌曲ほど言語の響きに鋭敏であるからです。
私もそうですね。シノプシスさえ知っていれば、言葉が分からなくても、新ウィーン楽派あたりまでならどこで何を歌っているのか大体分かるし。
工藤 それに対して「ミイラ」の場合は、言葉と音楽は明らかに違う立場におかれているように思えるのです。だからこそ面白いと思うのですね。逆に、ラジオドラマだと、今度は音楽は言葉の作用を強めるためのものとなってしまう。そういう意味で、「ミイラ」は言葉と音楽とが非常によい独立関係を保っているように思えます。
「ラジオドラマ問題」のまとめを、工藤さんに代弁して頂きました。
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