| 浮月斎 |
さて、「ミイラ」ですが、私は自身の基調報告では、はっきり言って、非常に評価に悩んでいるところがありまして、文面にそれがストレートに出ています。同じ様相を観点を変えていろいろ検証したいと思ったからなのですが、結局のところ、積極的に評価したい部分と「こんなもんでしょう」的 (^^) ところとフィフティというところですね。
鈴木 「ああ、面白かった」のあとに「あれは、何だったんだろう?」が続くかどうかですね。まだ「ミイラになるまで」から、その部分がつながってこないんです。今のところ、「ああ、面白かった」以上のものが感じられない。
野々村 そのあたりが今後の議論のポイントですが、私にはとにかくもそれ以上のものが感じられたので推薦したわけです。それは、スピリチュアルな部分というよりは、テクニカルな部分の話になるかもしれませんが....
ということからすれば、私はひたすら「この形式上での」コンセプチュアルな部分への関心で書きます。いつも以上に理屈っぽくなっていますが、それは音楽行為そのものより、上述のように、作品の全体構造への興味・感心が主体になっているからです。
野々村 「テクストへの評価」を作品評価に含めるかどうか、というのは難しい問題ですね。もしそうだとすると、19世紀までのオペラは、まともに論じられるようなものではないということにもなりかねない。
これは全くの個人的な話ですが、私ははっきりそう思っています。だから19世紀までに限らず、オペラという形式に対して興味を持つことはほとんどないです。あってもテクストや原作との連関だけ。
野々村 私は専ら、言葉と音楽の関係性を面白いと感じたのですが。
やはり、ここでは「言葉と音楽の関係」の意欲的樹立こそ一番でしょうね。
野々村 少なくとも、ダイエット日記を併読するヴァージョンも聴いてみないと、この試みの全貌は論じられないと思いますが。
もともと失神者も出たほどの「ライブ」でのものということですので、ある意味で、ここに収録されたものだけでも、トータルなこの試みの一面に過ぎないとは思っています。
野々村 これは、予算の問題ではないでしょうか。せいぜい2000枚くらいしか出ないディスクを、公的援助なしで作って流通にも乗せるのは、大変なことだと思います。
それはわかりますが、ミックスにも意味のある創作であることを考慮すれば、ライブ収録のリメイクではない以上、通例のモニタリングでわかるレベルに難があるというのは、やはり許されないことではないでしょうか。
野々村 ダンテに限らず、バッハもベケットも、原作に出てくる固有名詞はイヤミでしかないのですが、この作品では、そういう厭らしさが不思議と中和されていて、そのあたりもプラス評価の材料です。
テクスト自体の話なので、単に趣味の問題ですが、バッハの「捧げもの」など島田の個人的趣味をストレートに推測できてしまうところが、却って私にはつまらないところです。そう書くのなら、もっとテクストの根源的象徴と水脈を一にするようなひねりがほしいんです。
野々村 このヴァージョンからは、朗読からドラマ性を剥奪して、音楽の方だけでドラマを作ってしまおうという意図が感じられ
そうですね。それが明確に聞き取れました。
浮月斎 真にこうした形態から蝉脱するには、音楽よりも「朗読」そのものの在り方を根本的に考え直す必要があるのではないかと思う。朗読という行為が、音楽と組み合うことで、どのような「ナラトロジイ」を形成すべきかという観点がそれだと思われ、これを踏み外すと、音楽ドラマか音楽劇と大差なくなりかねない。
野々村 このあたりを詰め切っていないのは、「即興」という看板のせいなのかもしれません。
ただ、ここでの朗読の「役割」はドラマの字面を直接「声」で追いかけるだけで、音楽そのものとは対置している訳です。だからこそ、
野々村 朗読のあり方を厳密に規定してしまうと、演奏の方も同程度に管理しないわけにはいけなくなり、確定譜面に向かってしまう。むしろ、ナレーターのスタンスが音楽を生成していくという構造が妙味なのでは。
「音楽がドラマを作って言葉を巻き込んでいく」という過程の中だからこそ、朗読の役割が窮めて平凡過ぎはしまいか?ということなのです。それは朗読に演技性を求めたいのではなく、逆にここで朗読のあり方を一元的に規定しているからなんです。朗読そのものに立体性がうすいんです。むしろ朗読がもっと浮動的でもいいんじゃないのかな。「語り」の空間的側面を殺してしまうと、かなり犠牲が大きかったように思います。例えば、単語音節の変成とか、朗読にもテンポの自在性を与えて音楽に対峙させてみるとか、「語りべ」的空間と音を同心円的に配置してみるとか。
鈴木 なんか*気分を出して、さあどうぞ*的にはなかなか面白いが、表現されている*音楽*としては、音楽と言葉のセット売りの物として朗読伴奏の域を出ていないと、感じる。
野々村 これはバランスの問題で、音楽を更に「表現的」なものにすると、朗読もそれに応じたスタイルを取らざるを得なくなって、作品が意図しているコンセプトとは乖離してしまのではないでしょうか。
私は「朗読の表現性への転換」は主張するつもりはありませんが、「ミイラ」では地域性や文化を固定する背景がほとんどないけれど、音楽とのバランスを考えると、朗読にはもっと「場」の試みを統合してもらえたら、もっともっと評価できたと思います。
浮月斎 「ミイラ」はその意味で、耳で聞くには、朗読行為のコンセプトそのものが単調すぎないだろうか。各セクションの冒頭に特に感心しない。
野々村 でも、最初は型通りな音楽が、だんだん相互浸透して面白くなっていくのが「即興」なのでは?最初の一音から最後まで面白くしようとしたら、完全に音楽を確定するしかないわけで。
私が言っているのは冒頭の「朗読」だけの部分のことです。言うなれば、あそこは「ソロ」でしょう?そこの表現可能性はまだかなり残されていると思うんですよ。
野々村 そうそう、言葉のドラマに音楽が彩りを添えるのではなく、音楽がドラマを作って言葉を巻き込んでいく。
おっしゃるとおりです。ここを明快に聞き手に示しているところは積極的評価に値すると思います。
野々村 どこまで大友氏が意図していたのかはわかりませんが、「先が読める」テクストなので、あまり明瞭に聴き取れなくても目的は達成されるのではないでしょうか。
それは違うと思います。この場合、背景の意味や意義はどうであれ、プロットはその部分部分が持つ命題を削ぎ落とすと、音楽でもその命題を代弁できないからです。しつこいようですが、だから原作に想像力が代用できるような、聞き手が踏み込む「あそび」の部分が少ないのが欠点なんですよ。
野々村 理想的な形態としては、全く異なったタイプのナレーターで2つのヴァージョンを作ってカップリングするとか。
なるほど。でも、そのためにも朗読の役割をよく考えないと、声質が違うだけになりかねませんよね。演技性を朗読から剥奪しているのですから。
野々村 46〜48日目あたりのことですか?
そうです。36〜43日目は確かにこの朗読と音楽のもっともスリリングな関係を表現しているところですね。
野々村 終わりに近付くほど、無理に絞り出してなんとか発声しているという雰囲気になってくるし。
逆にその辺が残念です。折角、淡々とやってきた訳ですから、この辺で演技性の色合いが多少つくのが。
野々村 「日記の朗読」であり、断食自殺者がリアルタイムで喋っているのではないわけで。
そうそう、その辺が朗読の役割としては一番難しい次元なんです。
浮月斎 何度も言うが、ドラマであるところに、朗読の演出・表現自体を抑え、それを音楽が乗じて表現するという、意欲的な音楽的表意は「ミイラ」の姿勢として最も評価できるものであろう。
野々村 そう言われて思い返してみると、20世紀に書かれた優れた無調オペラは、おしなべてそういうスタンスで貫かれているのではないでしょうか。
無調オペラについてほとんど知識がないのですが、野々村さんのこの話は、音楽と歌(台詞・歌)という配置についてでしょうか?現代における「言葉」の伴う音楽の方がより「言葉」に対する鋭敏度がずっと高くなってはいませんか?
浮月斎 しかし、原作が「持続性」の中での変化における表出冥利にあるところ、むしろこの原作のフレームの狭さに演奏家自体のイマジネーションはかなり抑制されていやしまいかとも思う。
野々村 そうおっしゃる向きは、大友さんがリーダーをやっていたユニットGround Zeroを聴きましょう!まずは、『Null & Void』(Tzadik)あたりからどうぞ。
是非聴いてみます。ただ、私がここで言いたかったのは、原作のフレーム上、表現のパレットはあまり広大ではなかったかなということです。
鈴木 島田さんのテキストが面白いと感じるか、「なんだい、これ」と感じるかの差のようなものですかね。小生、申し訳ないけど後者です。
まぁ、その点は私も同様なのです。ただ、
野々村 ただ、テクスト自体が優れている必要はないものの、明瞭な意味と方向性を持ったテクストが存在していることは、この音楽的試みにおいては必要条件だと思います。
そうそう、この話にも関説したいのですが、音楽において利活用される場合、確かに「テクスト自体が優れている必要はない」というのは、そのとおりだと思います。ただ、原作を改編せず使用するという場合、そこに見出せるテクストの独歩力が自然に滲み出てくるのもまたひとつの側面である訳で、すぐれたテクストには「意味の浸透力」を音楽と協働できる親和性とともに、口承性や音韻の魔力も引き摺り出してくる、そこに妙味があると思うのです。だから、
工藤 ただ、良い歌曲の場合にはまず例外なく、一つ一つの言葉に対する音楽的直感の鋭さに驚かされます。
というのは、やはり真実でしょうね。
鈴木 *下手に「感情を込めた」朗読をしないのが*常套手段と言えば、芸がなさすぎますね。やりたいことは分かっています (^ ^ ;;;;
言葉は違いますが、私もこの意見にほぼ同じですね。
鈴木 ラジオドラマと言う言葉が出ましたが、これは大友さんも意識していたわけですね。(中略)そのため、ホットメディアとしての作品を作ったわけで、純粋な音響作品としては、言葉が邪魔だったかなという程度の意見です。62日間のドラマとしては、音楽だけでも立派に通用するわけで、ラジオドラマという形態に、少々、ひねくれた言い方をしているだけなのかも知れません。
これを読んで、そういう考え方もありだなと思いました。私は専ら「言葉の表現性」に拘泥し過ぎていて、音の動き、音楽そのものの想像力への喚起はあまり関心を払っていなかったというか。だとしても、62日間のドラマを音楽だけで表現していたら、私はむしろ全然退屈だったろうなと思います。
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| 野々村 |
浮月斎 私は自身の基調報告では、はっきり言って、非常に評価に悩んでいるところがありまして、文面にそれがストレートに出ています。
大切なのは、「音楽が面白い」ことよりも「議論が面白い」ことですから、提案者としては嬉しいですね。いや、私はもちろん、音楽としても面白いと思っているわけですが (^ ^)
浮月斎 同じ様相を観点を変えていろいろ検証したいと思ったからなのですが、結局のところ、積極的に評価したい部分と「こんなもんでしょう」的 (^^)ところとフィフティというところですね。
フォーマットに乗らない「面白いこと」をやろうとすればするほど、「こんなもんでしょう」な部分が増えてしまうのは、しかたないと思うのですが。私は、「本質的に新しい凄いこと」が一つでも含まれているものに対しては、減点法を用いた評価は行いません。
浮月斎さんの主張は、「朗読のあり方を根本的に再考しない限り、このフォーマットではラジオドラマを越えられない」ということなのかもしれませんが....
浮月斎 いつも以上に理屈っぽくなっていますが、それは音楽行為そのものより、 (中略)作品の全体構造への興味・関心が主体になっているからです。
これは、「音楽行為そのものはあまり面白くなかった」ということ?
野々村 「テクストへの評価」を作品評価に含めるかどうか、というのは難しい問題ですね。もしそうだとすると、19世紀までのオペラは、まともに論じられるようなものではないということにもなりかねない。
浮月斎 これは全くの個人的な話ですが、私ははっきりそう思っています。だから19世紀までに限らず、オペラという形式に対して興味を持つことはほとんどないです。あってもテクストや原作との連関だけ。
でも、ベルク『ヴォツェック』(ゲオルク・ビュヒナー)とかヤナーチェク『死者の家から』(ドストエフスキー)とか、ライマン『リア王』(シェークスピア)とかリーム『ハムレットマシーン』(ハイナー・ミュラー)とか(20世紀後半の2作品は、音楽の方にはかなり問題がありますが)、20世紀オペラには、立派なテクストを持ったものはいくらでもあリます。
野々村 これは、予算の問題ではないでしょうか。せいぜい2000枚くらいしか出ないディスクを、公的援助なしで作って流通にも乗せるのは、大変なことだと思います。
浮月斎 それはわかりますが、ミックスにも意味のある創作であることを考慮すれば、ライブ収録のリメイクではない以上、通例のモニタリングでわかるレベルに難があるというのは、やはり許されないことではないでしょうか。
お説ごもっともですが、アンダーグラウンド音楽の世界の基準では、この録音はスタジオ録音としても「かなり良い」の部類なので....サンプラーとかギターアンプとか、ノイズ発生源が音楽信号の出口と切り離せない部分に存在しているので、アコースティック楽器の音をマイクを立てて拾うだけのクラシックとは全然事情が違います。
浮月斎 「音楽がドラマを作って言葉を巻き込んでいく」という過程の中だからこそ、朗読の役割が窮めて平凡過ぎはしまいか?ということなのです。それは朗読に演技性を求めたいのではなく、逆にここで朗読のあり方を一元的に規定しているからなんです。朗読そのものに立体性がうすいんです。むしろ朗読がもっと浮動的でもいいんじゃないのかな。「語り」の空間的側面を殺してしまうと、かなり犠牲が大きかったように思います。例えば、単語音節の変成とか、朗読にもテンポの自在性を与えて音楽に対峙させてみるとか、「語りべ」的空間と音を同心円的に配置してみるとか。
大友氏がどのくらい意識しているのかは知らないけど、この種の実験は「前衛音楽」ではそれなりに行われていまして、私見ではあまり成果は挙がっていないと思います。浮遊させるんだったら言語よりも電子音の方がよほど有効で、言葉が聞き取りにくくなるデメリットを補うほどの効果はなかったような。
非常に単純なテクストでない限りは、ボソボソ言うバックグラウンドノイズにしかならないのかなあ、と感じていたところに、この素朴な手法の強烈なインパクトに、私はコロンブスの卵を感じたわけです。
浮月斎 ミイラ」はその意味で、耳で聞くには、朗読行為のコンセプトそのものが単調すぎないだろうか。各セクションの冒頭に特に感心しない。
野々村 でも、最初は型通りな音楽が、だんだん相互浸透して面白くなっていくのが「即興」なのでは?最初の一音から最後まで面白くしようとしたら、完全に音楽を確定するしかないわけで。
浮月斎 私が言っているのは冒頭の「朗読」だけの部分のことです。言うなれば、あそこは「ソロ」でしょう?そこの表現可能性はまだかなり残されていると思うんですよ。
ああ、なるほど。それはそうかもしれません。ただ、以下で述べるように、私が興味を持って聴いたポイントは浮月斎さんとは微妙にずれているので、それを大した問題とは感じなかったことも確かです。
野々村 どこまで大友氏が意図していたのかはわかりませんが、「先が読める」テクストなので、あまり明瞭に聴き取れなくても目的は達成されるのではないでしょうか。
浮月斎 それは違うと思います。この場合、背景の意味や意義はどうであれ、プロットはその部分部分が持つ命題を削ぎ落とすと、音楽でもその命題を代弁できないからです。
もちろん浮月斎さんのおっしゃる通り、テクストの「命題」すらわからなくなるレベルで聞き取れなくなってはまずいわけですが、少なくともあの即興では、電気的ハーシュノイズなどは使われていないわけで、そういう問題は生じないように管理されていたと思います。私が意図した「あまり聴き取れない」のは、夢の中で舐めていたのは蜜か味噌か、というような次元のお話。
浮月斎 しつこいようですが、だから原作に想像力が代用できるような、聞き手が踏み込む「あそび」の部分が少ないのが欠点なんですよ。
こういうあたりは、もはや完全に趣味の問題になってしまいますが、「現代音楽」で伝統的に用いられてきたテクストは、マラルメとかカルヴィーノとかe.e.カミングスとか、読み手の想像力に依存したものばかりだったんです。そういう関係性はそれはそれで面白いんだけど、それとは全然違うこういう手があったのか、という新鮮な驚きが、私のこの作品への高い評価の根底にあるのです。
野々村 理想的な形態としては、全く異なったタイプのナレーターで2つのヴァージョンを作ってカップリングするとか。
浮月斎 なるほど。でも、そのためにも朗読の役割をよく考えないと、声質が違うだけになりかねませんよね。演技性を朗読から剥奪しているのですから。
たとえ演技性が剥奪されていても、歴然とした違いは出ると思うのですが。例えば佐野史郎の代わりに山瀬まみが朗読したら、もう全然違うでしょ?むしろ、演技性が加味された方が、両者の違いは小さくなると思われます。即興音楽で重要なのは、イデアではなくて場なのです。
野々村 終わりに近付くほど、無理に絞り出してなんとか発声しているという雰囲気になってくるし。
浮月斎 逆にその辺が残念です。折角、淡々とやってきた訳ですから、この辺で演技性の色合いが多少つくのが。
ただ、最後のセクションは朗読ソロですから、そこでの多少の演技はアリかなあとも思いましたが。もっとも、最後のあの部分もあくまで「音楽によるドラマ」で押し通せたらもっと凄かったでしょうけどね。
野々村 「日記の朗読」であり、断食自殺者がリアルタイムで喋っているのではないわけで。
浮月斎 そうそう、その辺が朗読の役割としては一番難しい次元なんです。
で、やはり山瀬まみでは無理、と (^ ^)
浮月斎 度も言うが、ドラマであるところに、朗読の演出・表現自体を抑え、それを音楽が乗じて表現するという、意欲的な音楽的表意は「ミイラ」の姿勢として最も評価できるものであろう。
野々村 そう言われて思い返してみると、20世紀に書かれた優れた無調オペラは、おしなべてそういうスタンスで貫かれているのではないでしょうか。
浮月斎 無調オペラについてほとんど知識がないのですが、野々村さんのこの話は、音楽と歌(台詞・歌)という配置についてでしょうか?
「無調オペラの方が器楽の比重が高い」という単純な話です。
浮月斎 現代における「言葉」の伴う音楽の方がより「言葉」に対する鋭敏度がずっと高くなってはいませんか?
プーランクやショスタコを念頭に置けばそうかもしれませんが、少なくとも無調音楽では、そんなことはないでしょう。むしろ、意味を剥奪してオブジェとして弄ぶ快楽という方が近いのでは。
浮月斎 私がここで言いたかったのは、原作のフレーム上、表現のパレットはあまり広大ではなかったかなということです。
これに関しては、「まあ、こんなものでしょう」と言うしかなさそうですが、でも、クラシックの室内楽でこれよりも広大なパレットを持った作品があるかと訊かれたら、私は言葉に詰まりますが....
野々村 テクスト自体が優れている必要はないものの、明瞭な意味と方向性を持ったテクストが存在していることは、この音楽的試みにおいては必要条件だと思います。
浮月斎 音楽において利活用される場合、確かに「テクスト自体が優れている必要はない」というのは、そのとおりだと思います。
そういう観点で、私は伝統的なオペラも楽しんでいます。
鈴木 62日間のドラマとしては、音楽だけでも立派に通用するわけで、ラジオドラマという形態に、少々、ひねくれた言い方をしているだけなのかも知れません。
浮月斎 これを読んで、そういう考え方もありだなと思いました。私は専ら「言葉の表現性」に拘泥し過ぎていて、音の動き、音楽そのものの想像力への喚起はあまり関心を払っていなかったというか。だとしても、62日間のドラマを音楽だけで表現していたら、私はむしろ全然退屈だったろうなと思います。
ここで聴かれる音楽自体は、実はドラマ性とは無縁な、音響イメージだけがゆるやかに浮遊する、典型的な即興音楽ですよね。ところが、それが方向性の明確なテクストと出会うと、突如雄弁にドラマを語り始める。私には、この化学反応が何より面白かったのです。
大友氏は、このあたりの事情には十分に自覚的で、それが彼の映画音楽作曲家としての資質に表れているのでしょう。
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| 浮月斎 |
結論としては、高く評価できるけれど、まだまだ深められる余地も多大にありそうで(特に朗読)、その辺が強く要望と不可分となって文句となったと捉えていただければ幸甚です。
野々村 大切なのは、「音楽が面白い」ことよりも「議論が面白い」ことですから、提案者としては嬉しいですね。いや、私はもちろん、音楽としても面白いと思っているわけですが (^ ^)。
そうですね。総合的に音楽としては結構楽しめている訳です。
野々村 浮月斎さんの主張は、「朗読のあり方を根本的に再考しない限り、このフォーマットではラジオドラマを越えられない」ということなのかもしれませんが....
ラジオドラマのフォームに立っているからよくないということではないのです。むしろ、この音楽との協働作業の面白さが更に引き立つには、構造的に今一つ乗り越えねばならない何かがあって、そこが朗読なのではないかと思った訳です。といって、あまり彼方に行ってしまえば、作品の中身がまるでわからなくなるし、難しいところですが。
野々村 これは、「音楽行為そのものはあまり面白くなかった」ということ?
いえ、むしろそっちの方は全然面白いのですが、音楽だけ分けて言及しても仕方ないですよね?「ミイラ」における言葉とテクストとの一体化の妙味を考えれば、音楽行為だけ切り離して評定できないという思いに強く駆られます。ここでは、やはり朗読の言葉にはっきりした「意味とプロット」があってこそ、音楽と進行そのものが成立している訳ですから、オペラやオラトリオのように、言葉の意味をマスクして聴いても楽しめる、というような聴き方であれば、何も語るものがなくなってしまうと思うのです。
野々村 20世紀オペラには、立派なテクストを持ったものはいくらでもあります。
とはいえ、立派なテクストを持つオペラだから楽しめるということも私にはありません。まぁ、これは趣味の問題以外の何ものでもありませんが。原作に関しての私のコメントは、このアルバムそのものの価値とは違うところに存する訳ですので、まぁ、別に議論に肉化すべきものではないのはわかっているのですが、ただ言ってみたかっただけです。(^^;)
野々村 お説ごもっともですが、アンダーグラウンド音楽の世界の基準では、この録音はスタジオ録音としても「かなり良い」の部類なので....
アングラでの音の精粗はしようがないと言われると、私はそういう世界はよく知らないから、ああそうですか、としか言えないのですが。
野々村 大友氏がどのくらい意識しているのかは知らないけど、この種の実験は「前衛音楽」ではそれなりに行われていまして、私見ではあまり成果は挙がっていないと思います。浮遊させるんだったら言語よりも電子音の方がよほど有効で、言葉が聞き取りにくくなるデメリットを補うほどの効果はなかったような。
私見で申し述べたのは、音的な方向性の模索ということと別の話です。敢えて誤解を怖れずに言うと、「劇場性」とでもいう次元の話です。録音ではなく、空間性という意味での「語り」の実験ですか、それは?
野々村 非常に単純なテクストでない限りは、ボソボソ言うバックグラウンドノイズにしかならないのかなあ、と感じていたところに、この素朴な手法の強烈なインパクトに、私はコロンブスの卵を感じたわけです。
それは同感です。が、折角ここまで来たんだから、もう一歩踏み込みが欲しいという話なのです。
野々村 「現代音楽」で伝統的に用いられてきたテクストは、マラルメとかカルヴィーノとかe.e.カミングスとか、読み手の想像力に依存したものばかりだったんです。そういう関係性はそれはそれで面白いんだけど、それとは全然違うこういう手があったのか、という新鮮な驚きが、私のこの作品への高い評価の根底にあるのです。
そうですね、協働イマジネーションというか共有イマジネーションというか、朗読+音楽という陳腐な設定ながら、中身はかなりユニックな核心を突いているということは私も評価しています。
野々村 たとえ演技性が剥奪されていても、歴然とした違いは出ると思うのですが。例えば佐野史郎の代わりに山瀬まみが朗読したら、もう全然違うでしょ?むしろ、演技性が加味された方が、両者の違いは小さくなると思われます。即興音楽で重要なのは、イデアではなくて場なのです。
これはどうでしょう、難しいなぁ。朗読と音楽を分離・対峙する従来式のやり方なら、全然違うのが当然ですが、この試みが真に生きるとすれば、変わらないんじゃないかなぁ。
野々村 で、やはり山瀬まみでは無理、と (^ ^)
無理というより、大して違いを得るべき要素はない筈です。もし違っているとしたら、それはこの録音の自家撞着になってしまいます。
野々村 ただ、最後のセクションは朗読ソロですから、そこでの多少の演技はアリかなあとも思いましたが。もっとも、最後のあの部分もあくまで「音楽によるドラマ」で押し通せたらもっと凄かったでしょうけどね。
そうですね。聴き直してみると、むしろ朗読でのその味わいも微笑ましさすら覚えます。(^^)
浮月斎 私がここで言いたかったのは、原作のフレーム上、表現のパレットはあまり広大ではなかったかなということです。
野々村 これに関しては、「まあ、こんなものでしょう」と言うしかなさそうですが、でも、クラシックの室内楽でこれよりも広大なパレットを持った作品があるかと訊かれたら、私は言葉に詰まりますが....
ここで申し上げたのは、物語の内容が場として静的であり、ドラマとして特に跳躍も展開もないのですから、音楽もそれを反映して徒に多種多様な構成をものすことはなかった、というところです。それから、どうも私のために(?)クラシカルと連関してリプライしていただいている部分が多いのですが、私は別段クラシカルと関連付けたり敷衍するつもりはありませんので...。(^^)
野々村 ここで聴かれる音楽自体は、実はドラマ性とは無縁な、音響イメージだけがゆるやかに浮遊する、典型的な即興音楽ですよね。ところが、それが方向性の明確なテクストと出会うと、突如雄弁にドラマを語り始める。私には、この化学反応が何より面白かったのです。
あっ、そういう言い方がとてもわかりよいですね。しかしやはりテクストと不可分の音楽的場を形成している訳ですから、化学反応を想定すべく、その音たちの図面引きの行為の方がここでは高く評価されるべきでは?とは思っていますが、如何ですか?
鈴木 「この録音が、断食自殺者への伴奏以上のものであることを願って」という意図は分かりますが、それを願う方が演奏者の傲慢さだなあと感じてしまうのであります (^ ^)。
難しいですね。ラジオ・ドラマの新しい手法なのか、それを超克しようとしたものなのか、最初からずっと私もそれに拘泥していた訳ですが、まぁどっちでもいいやという感じになってきました。ただ、正直、ラジオドラマの新しい手法というなら、朗読の役割に物足りなさを覚えるし、超克しようというにしても朗読の位置づけが構造的に解決されていないのではないか、ということを問題にしてきたつもりです。
鈴木 よいテキストがあれば、朗読やラジオドラマは、聞き手に映像作品を上回る感動をもたらします。
うーん、鈴木さんのおっしゃることはすごくよくわかるし、朗読そのもののミクロコスモス性はそのとおりです。が、この「ミイラ」ではそれが一切言葉による意味の表象だけに制限され、それを音楽が補うというスタンスになっている訳ですから、ここにそれを求めても仕方ありませんよね?こういう環境に朗読を置いて朗読が得られる真の効果とは何かを考えると、可能性はまだかなりありそうだとぼんやり思っているのです。
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