| 鈴木 |
野々村 「テクストへの評価」を作品評価に含めるかどうか、というのは難しい問題ですね。もしそうだとすると、19世紀までのオペラは、まともに論じられるようなものではないということにもなりかねない。
マクルーハンのメディア論に、ラジオはホットで、テレビはクールという位置づけがありましたね。ラジオドラマは映像がないぶん、聞き手の心象風景に直接働きかけるのだと思います。いわゆる想像力ですね。オペラはもともと、総合芸術(質は別として)だったわけで、現今のCDやFMでオペラの音の部分だけは聞けるのですが、*ただ聞かれるもの*ではなかったと思います。
野々村 それだけが音楽でもないでしょう。無時間的な響きの中で、テクスチュアだけが緩やかに変化していく、という音楽体験が存在し得ることが戦後前衛によって示唆され、それが即興音楽に組み込まれて、ようやく「音楽史」に定着したのではないか、と私は考えています。
これは野々村さんのおっしゃられるとおりですね。即興演奏=無調ではありませんが、非常に多岐に渡った音楽を聞くことが出来ます。心象風景に訴えかけてくる音楽でも、それは様々で、斉諧生さんはたまたまそういう即興演奏ばっかり聞いてきていやんなっちゃったのかも知れませんね (^ ^ ;。
野々村 浮月斎さんも指摘していますが、下手に「感情を込めた」朗読をしないのが、この作品のコンセプトなのでしょう。
これは、聞いていれば分かりますが、*下手に「感情を込めた」朗読をしないのが*常套手段と言えば、芸がなさすぎますね。やりたいことは分かっています(^ ^ ;;;;。
鈴木 耳に聞こえる響きの質に関しては、ヴェーベルン以降のなんかの発展があったのかいな、と意地悪く聞いてしまうが
野々村 ウェーベルンはオンドマルトノもサンプラーの発振音も使っていません、というのはさておき、「新奇な響き」をもって良しとするとする感覚は、前衛の時代までのものではないでしょうか。
小生*新奇な響き*が良いと言っているのではなくて、楽器で演奏される*聞こえる音響*の限界みたいなもんですかね。別に、新しい響きを発見したからって、今はそんなに大した問題ではなくなってしまいました。それを、どう使うかです。ウェーベルンは、周りに*ピーツーポン*(高橋悠治の本にありましたね)を誰もやっていないときに、近代音楽のウェーベルンの到達点として*ピーツーポン*を作曲したわけで、音を作る側のメンタリティの問題だと思います。
鈴木 *言葉*が、なければな、と思う。
野々村 私の友人の音響系ミュージシャンも、そう言っていました。ただ、私は専ら、言葉と音楽の関係性を面白いと感じたのですが。
このレスの最初の方で、ラジオドラマと言う言葉が出ましたが、これは大友さんも意識していたわけですね。そのため、ホットメディアとしての作品を作ったわけで、純粋な音響作品としては、言葉が邪魔だったかなという程度の意見です。62日間のドラマとしては、音楽だけでも立派に通用するわけで、ラジオドラマという形態に、少々、ひねくれた言い方をしているだけなのかも知れません。
鈴木 いわゆる、朗読伴奏としての音楽としては優秀だと思うが、(中略)音楽だけ聞いていると、各演奏者の迫力不足の感は否めない。
野々村 これはバランスの問題で、音楽を更に「表現的」なものにすると、朗読もそれに応じたスタイルを取らざるを得なくなって、作品が意図しているコンセプトとは乖離してしまうのではないでしょうか。
意図はラジオドラマですね。ただ、そうすれば演奏のテキストは存在するわけで、厳密な意味での即興演奏とは言えないと思います。
野々村 確かに、「音楽と言葉のセット売り」ではあるのですが、私にとってはより積極的な意味あいで、平板な原作(文庫で読んで再確認しました)が、音楽の力で初めて「結構面白く」なったという印象です。
そこが、問題 (^ ^)。島田さんのテキストが面白いと感じるか、「なんだい、これ」と感じるかの差のようなものですかね。小生、申し訳ないけど後者です。
鈴木 しかし、そこから導き出されてくるものは、*ああ、面白かった*だけで済んでしまうような気がしてならない。
野々村 大友氏言うところの「近代芸術」ではそれではいけないわけですが、その枠組にこだわらなければ、別にそれでもいいような気がします。
そうですね。近代芸術の発展や、新しい創造ではなく、*なれの果て*が現代の芸術だという認識をもっとシビアに持つ必要があるでしょうね。*無名性の芸術*は、マルセル・デュシャンの『泉』というレディメードの芸術が最初だったのですが、それにも、*マルセル・デュシャン*という商標は付いています。前にも書きましたが、赤瀬川原平の「芸術形式トマソン」が、もっとも、その無名性の芸術を押し進めたものなんですけどね。*どこでも芸術*の発見の過程が芸術行為です。
鈴木 全体としては、面白く聞けたが、音楽云々は語ることがができないということか。
野々村 鈴木さんのニュアンスとは違いますが、音楽だけを切り離して語るべき作品ではないでしょう。ビビンパをよく混ぜずに具だけ先に食べて、辛いと文句を言うようなもので。
(爆)小生、辛いものが好きで、たまにそういう食べ方します (^o^)。
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| 野々村 |
鈴木 マクルーハンのメディア論に、ラジオはホットで、テレビはクールという位置づけがありましたね。ラジオドラマは映像がないぶん、聞き手の心象風景に直接働きかけるのだと思います。いわゆる想像力ですね。
マクルーハンは全然読んでいないのですが、そういう文脈なのですか?テレビがメジャーカルチャーになって、ラジオはカウンターカルチャーというホットな位置を確保した、というようなお話かと思っていました。
鈴木 オペラはもともと、総合芸術(質は別として)だったわけで、現今のCDやFMでオペラの音の部分だけは聞けるのですが、*ただ聞かれるもの*ではなかったと思います。
そういう意味でも、『ミイラになるまで』は、アクションこそ伴わないものの、生演奏を前提にした作品であることは忘れないようにしないと。
鈴木 *下手に「感情を込めた」朗読をしないのが*常套手段と言えば、芸がなさすぎますね。やりたいことは分かっています (^ ^ ;;;;。
では、私も雑駁な議論で行きますが、常套手段だろうと何だろうと、面白ければそれでOKでは (^ ^;;)
野々村 「新奇な響き」をもって良しとするとする感覚は、前衛の時代までのものではないでしょうか。
鈴木 小生*新奇な響き*が良いと言っているのではなくて、楽器で演奏される*聞こえる音響*の限界みたいなもんですかね。
松平頼暁さんが『現代音楽のパサージュ』(青土社)で書いていますが、現代音楽で「特殊奏法」と総称されているもので、19世紀までの音楽に現れていないものは殆んどないそうですね。前衛の時代の「新奇な響き」ですら、「音響自体の新奇さ」ではなく、「音楽要素としての新奇さ」だったのではないでしょうか。すなわち、19世紀までは「ノイズ」として扱われていたものを、音楽の構成要素として捉え直す、という。
鈴木 別に、新しい響きを発見したからって、今はそんなに大した問題ではなくなってしまいました。それを、どう使うかです。
というか、「前衛」は、「新しい響きを発見したら、即座に音楽として囲い込む」ことを繰り返していて、それは決して生産的ではなかったのではないかと私は思っています。「電子音楽」がどうしてすぐにあんなにつまらなくなったかというと....
鈴木 ウェーベルンは、周りに*ピーツーポン*(高橋悠治の本にありましたね)を誰もやっていないときに、近代音楽の到達点として*ピーツーポン*を作曲したわけで、音を作る側のメンタリティの問題だと思います。
あの響きは、無調とルネサンス・ポリフォニーを結合する過程で生じた彼にとっての内的必然で、「新しい響き」なんて意識はなかったのでは。
鈴木 このレスの最初の方で、ラジオドラマと言う言葉が出ましたが、
これは大友さんも意識していたわけですね。そのため、ホットメディアとしての作品を作ったわけで。
ライナーを読む限りは、大友氏の認識は「ラジオドラマ=原作の伴奏」で、それ以上のものを作りたい、ということなのだと思いますが....
鈴木 62日間のドラマとしては、音楽だけでも立派に通用するわけで、
ラジオドラマという形態に、少々、ひねくれた言い方をしているだけなのかも知れません。
ライナーにも「この録音が、断食自殺者への伴奏以上のものであることを願って」と書いてありますが...
鈴木 意図はラジオドラマですね。ただ、そうすれば演奏のテキストは存在するわけで、厳密な意味での即興演奏とは言えないと思います。
上述のように、「意図はラジオドラマ」ではないと思いますが。たとえテクストが存在しても、即興は即興では?「自由即興」ではないだけで。
野々村 確かに、「音楽と言葉のセット売り」ではあるのですが、私にとってはより積極的な意味あいで、平板な原作(文庫で読んで再確認しました)が、音楽の力で初めて「結構面白く」なったという印象です。
鈴木 そこが、問題 (^ ^)。島田さんのテキストが面白いと感じるか、「なんだい、これ」と感じるかの差のようなものですかね。小生、申し訳ないけど後者です。
というか、この音楽を評価する人は、みんな後者なのでは?なにしろ、大友氏をはじめ、演奏者もみんなそうなんだから。
鈴木 近代芸術の発展や、新しい創造ではなく、*なれの果て*が現代の芸術だという認識をもっとシビアに持つ必要があるでしょうね。
ダダイズムは、「芸術」という枠組に厳然と権威が存在した時代には有効だったかもしれないけど、現在では過去の遺物でしょう。たとえ飲み屋のトイレに掛かっていても、グレコやゴッホの絵には人を感動させるものがあるけど、デュシャンのオブジェは美術館以外に置いたら邪魔なだけ :-)
鈴木 前にも書きましたが、赤瀬川原平の「芸術形式トマソン」が、もっとも、その無名性の芸術を押し進めたものなんですけどね。*どこでも芸術*の発見の過程が芸術行為です。
大友氏が言いたいのは、そういうこととは全然違うと思うのですが。「個人による創造」にこだわらずに、みんなで知恵を出し合って凄えものができればそれでいいじゃん、ということなのでは?
事例として適切なのは、シェルシ問題でしょう。彼は、最晩年にようやく高く評価されたわけですが、死の直後に即興演奏の録音を第三者が譜面化するという「作曲」法が暴露されると、「盗作」「偽作」などと騒がれた。その音楽が本当に凄ければ、たとえ作曲者としてクレジットされている人と実際に譜面を書いた人が違っても、それは大した問題ではないはずなのですが、「芸術」の世界では、どうやらそれではいけないらしい。
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| 鈴木 |
鈴木 マクルーハンのメディア論に、ラジオはホットで、テレビはクールという位置づけがありましたね。ラジオドラマは映像がないぶん、聞き手の心象風景に直接働きかけるのだと思います。いわゆる想像力ですね。
野々村 マクルーハンは全然読んでいないのですが、そういう文脈なのですか?テレビがメジャーカルチャーになって、ラジオはカウンターカルチャーというホットな位置を確保した、というようなお話かと思っていました。
そのような文脈です (^ ^)。マクルーハンの頃はテレビがまだ出始めで、メジャーな位置は確立していませんでした。その後のカラーテレビの普及などで、ちょっと今読むと噴飯ものの記載もありますが(マクルーハンの頃はモノクロテレビしかなかった)、その先見性とメディアに対する一種感覚的とも言える直感力は瞠目すべきものがあります。みすず書房(値段が高い!)と竹内書店(絶版?)から訳書が出ています。『グーテンベルクの銀河系』『メディアの理解』(竹内書店版は『人間拡張の原理』)は是非ものです。
野々村 では、私も雑駁な議論で行きますが、常套手段だろうと何だろうと、面白ければそれでOKでは (^ ^;;)。
それなら、森田芳光の映画の囁き調の方が小生好きですが (^ ^ ;。くすぐられているようで・・・(^ ^)。
野々村 松平頼暁さんが『現代音楽のパサージュ』(青土社)で書いていますが、現代音楽で「特殊奏法」と総称されているもので、19世紀までの音楽に現れていないものは殆んどないそうですね。前衛の時代の「新奇な響き」ですら、「音響自体の新奇さ」ではなく、「音楽要素としての新奇さ」だったのではないでしょうか。すなわち、19世紀までは「ノイズ」として扱われていたものを、音楽の構成要素として捉え直す、という
松平頼暁さんのご意見はその通りでしょうね。ただ、電子楽器の音響の新鮮さは1960年頃まではあったように思いますが。だからこそ、その後の作曲家は困っているのでしょうね。
この後の、
野々村 「前衛」は、「新しい響きを発見したら、即座に音楽として囲い込む」ことを繰り返していて、それは決して生産的ではなかったのではないかと私は思っています。
という文章そのものだと思います。
鈴木 ウェーベルンは、周りに*ピーツーポン*(高橋悠治の本にありましたね)を誰もやっていないときに、近代音楽の到達点として*ピーツーポン*を作曲したわけで、音を作る側のメンタリティの問題だと思います。
野々村 あの響きは、無調とルネサンス・ポリフォニーを結合する過程で生じた彼にとっての内的必然で、「新しい響き」なんて意識はなかったのでは。
だから、精神性の問題だと思うんです。ウェーベルンは西洋古典音楽の一種の到達点だと言う意識が小生には強いのかも知れません。でも、ビブラートのかからない無調の音はウェーベルンの当時は、かなり新奇だったように思いますが。それに第一、ルネサンス・ポリフォニーなんてだれも手をつけていなかったんでは。
野々村 ライナーを読む限りは、大友氏の認識は「ラジオドラマ=原作の伴奏」で、それ以上のものを作りたい、ということなのだと思いますが....(中略)ライナーにも「この録音が、断食自殺者への伴奏以上のものであることを願って」と書いてありますが....(中略)上述のように、「意図はラジオドラマ」ではないと思いますが。
ホットメディアと言う言葉の意味は、基本的に、言葉と音で紡ぎ出されて行くドラマに、視覚的な要素を聞き手が自分で補って、イメージを完成させるという意味です。そのため、*それ以上のものを作りたい*と言うよりも、自分たちが作る「ラジオドラマ」にいかに聴衆のイメージを膨らませるかが大切であったと思います。ライナーに書いてありますよ、「最初のラジオドラマ・ヴァージョンに近い形で録音を行った」と。でも、音としての作品は「ラジオドラマ」そのもののように聞こえますが。
小生、ライナーノートの*近代芸術のあり方*に対する嘲笑か冷笑かは分かりませんが、そのことに対して少し反発しています。ここで展開されている「音」によるドラマは、*近代芸術のあり方*を超克出来ていません。「演奏者」と「聴衆」という図式のフレームの中では、恐らく、*近代芸術のあり方*へのちょっとしたパロディにしかならないと思うんです。「この録音が、断食自殺者への伴奏以上のものであることを願って」という意図は分かりますが、それを願う方が演奏者の傲慢さだなあと感じてしまうのであります (^ ^)。
鈴木 そこが、問題 (^ ^)。島田さんのテキストが面白いと感じるか、「なんだい、これ」と感じるかの差のようなものですかね。小生、申し訳ないけど後者です。
野々村 というか、この音楽を評価する人は、みんな後者なのでは?なにしろ、大友氏をはじめ、演奏者もみんなそうなんだから。
それを言っちゃあ、なんでこのテキストを選んだのか、分からなくなってしまう (^ ^ ;;;;。でも、大体は言わんとされていることは理解できます。
野々村 ダダイズムは、「芸術」という枠組に厳然と権威が存在した時代には有効だったかもしれないけど、現在では過去の遺物でしょう。たとえ飲み屋のトイレに掛かっていても、グレコやゴッホの絵には人を感動させるものがあるけど、デュシャンのオブジェは美術館以外に置いたら邪魔なだけ :-)
「ミイラ」と関係ない話になって恐縮ですが、小生、形式を問わず近代芸術家の原型は、ベートーヴェンではないかと思います。その後、セザンヌとゴッホによって決定的な近代芸術家の肖像が完成されていったような・・・。でも、結局は算術に強い経済型芸術家がその時々の主流を占めましたが。
デュシャンのオブジェは、トイレに置けば立派に通用するのでは (^ ^ ;;;;。まあ、あれが*芸術*に対する観念化の最初だったんですけどね。
鈴木 前にも書きましたが、赤瀬川原平の「芸術形式トマソン」が、もっとも、その無名性の芸術を押し進めたものなんですけどね。*どこでも芸術*の発見の過程が芸術行為です。
野々村 大友氏が言いたいのは、そういうこととは全然違うと思うのですが。「個人による創造」にこだわらずに、みんなで知恵を出し合って凄えものができればそれでいいじゃん、ということなのでは?
*近代芸術のあり方*を云々する以上、実は避けては通れない道筋のひとつがトマソンです。そもそも「みんなで知恵を出し合って凄えものができればそれでいいじゃん」と言う考え方と同じ発想です。と言っても、小生も確たる解答を持っているわけではないし、赤瀬川源平に入れ込んでいるわけではありませんが。ただ、見せ方はナンセンスマンガそのものですが、その乾いたユーモアに惑わされずに、赤瀬川氏の思想の原点を知っていただきたいと思います。大体、*近代芸術の超克*をうたっていた作家や評論家は、今や押しも押されもしない、近代芸術家と近代芸術評論家の風格を備えているではありませんか。(なんか、小生の恨み辛みもこもっていますが (^ ^))
野々村 事例として適切なのは、シェルシ問題でしょう。彼は、最晩年にようやく高く評価されたわけですが、死の直後に即興演奏の録音を第三者が譜面化するという「作曲」法が暴露されると、「盗作」「偽作」などと騒がれた。その音楽が本当に凄ければ、たとえ作曲者としてクレジットされている人と実際に譜面を書いた人が違っても、それは大した問題ではないはずなのですが、「芸術」の世界では、どうやらそれではいけないらしい。
へえ!それは、シェルシ自体あまり知らないもので、「そうだったんですか」としか言いようがないですが・・・。*芸術家の高潔さ*を云々する腐ったジャーナリストは大勢いますよ。そいつら悪い意味でのスノッブとしか言いようがない場合が多いですが。
浮月斎 私は自身の基調報告では、はっきり言って、非常に評価に悩んでいるところがありまして、文面にそれがストレートに出ています。
野々村 大切なのは、「音楽が面白い」ことよりも「議論が面白い」ことですから、提案者としては嬉しいですね。いや、私はもちろん、音楽としても面白いと思っているわけですが (^ ^)。
音楽としては、小生も面白いと思っていることはお忘れなく。
野々村 フォーマットに乗らない「面白いこと」をやろうとすればするほど、「こんなもんでしょう」な部分が増えてしまうのは、しかたないと思うのですが。
いやいや、しつこいようですが「ラジオドラマ」のフォーマットにはちゃんと乗っています。例えば、野球をテレビで見るのと、ラジオで聞くのとでは、その聞き手の没入ぶりが異なるのはご存じですか?無論、ながら的にではなくラジオを集中して聞くと言うことが条件ですが。テレビでたらたらした動きを見ているより、ラジオの方が興奮度は圧倒的に高いのです。最初に戻って、マクルーハンもそう書いています。
野々村 お説ごもっともですが、アンダーグラウンド音楽の世界の基準では、この録音はスタジオ録音としても「かなり良い」の部類なので....
この辺りは、コメントをしないでおこう (^ ^ ;;;;。でも、結果的には録音は悪くないですよ。ほんと、この手の作品のCD化としては。
浮月斎 例えば、単語音節の変成とか、朗読にもテンポの自在性を与えて音楽に対峙させてみるとか、「語りべ」的空間と音を同心円的に配置してみるとか。
野々村 この種の実験は「前衛音楽」ではそれなりに行われていまして、私見ではあまり成果は挙がっていないと思います。浮遊させるんだったら言語よりも電子音の方がよほど有効で、言葉が聞き取りにくくなるデメリットを補うほどの効果はなかったような。
そうですね。湯浅譲二さんの『世阿弥九位』も効果的には薄かったですね。
野々村 非常に単純なテクストでない限りは、ボソボソ言うバックグラウンドノイズにしかならないのかなあ、と感じていたところに、この素朴な手法の強烈なインパクトに、私はコロンブスの卵を感じたわけです。
映像が氾濫している時代に、ラジオドラマの手法が新鮮なのかも知れません。そして、聞き手の参加。それが「ラジオドラマ」です (^ ^ ;;;;。
よいテキストがあれば、朗読やラジオドラマは、聞き手に映像作品を上回る感動をもたらします。名前はど忘れしましたが、ある俳優さんが民話の語り部として、全国を回っておられますが、一度ラジオで『原爆の日の情景−お地蔵さんの話』を聞いたときには、バックグラウンドミュージックはありませんでしたが、ほんと鳥肌が立ちました。
あと、有名なオーソン・ウェルズの『宇宙戦争』!昔、ラジオで聞いたことがあります。英語でしたが迫真力のあること!逆に映像だけで音がない分凄かったのは、亡くなった黒澤明作品の『八月の狂詩曲』での公園を掃除する老人たちのシーン。「あの人たちはね。この公園で遊んでいた友達が死んで行くのを見たんだよ。多分最も怖い場面をあの人たちは見たんだ」という意味のセリフのあと、しばらく無音でした。見ていて、怖いような悲しいような・・・。
野々村 「現代音楽」で伝統的に用いられてきたテクストは、マラルメとかカルヴィーノとかe.e.カミングスとか、読み手の想像力に依存したものばかりだったんです。そういう関係性はそれはそれで面白いんだけど、それとは全然違うこういう手があったのか、という新鮮な驚きが、私のこの作品への高い評価の根底にあるのです。
???「吐き気がする」「胃が痛い」と言う言葉は、自殺者の状況を想像させるにあまりあるものがありますが。テキストは、読み手の想像力に依存してはいけないんですか?
野々村 で、やはり山瀬まみでは無理、と (^ ^)。
意外と面白かったりして(^ ^)。すいません、単なるチャチャです m(_ _)m。
野々村 ここで聴かれる音楽自体は、実はドラマ性とは無縁な、音響イメージだけがゆるやかに浮遊する、典型的な即興音楽ですよね。ところが、それが方向性の明確なテクストと出会うと、突如雄弁にドラマを語り始める。私には、この化学反応が何より面白かったのです。
ウ〜ン、そうかなあ。小生がそもそも「ミイラ」を*雄弁なドラマ*として捉えられなかったのが問題かも知れません (^ ^ ;。面白いのは面白いんだけど、テキストの朗読と音楽がうまく融合されすぎてたからかも知れません。
野々村 大友氏は、このあたりの事情には十分に自覚的で、それが彼の映画音楽作曲家としての資質に表れているのでしょう。
映像やテキストにインスパイアされると言うことですね。大友氏のソロなどはあるんでしょうか?
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