議論1:バトル編



野々村 斉諧生 大友氏は、この日記を書き続けた断食自殺者を「自分の意見を一方的に流通させることで大部分は事足りていた近代芸術のあり方そのもの」と観じているわけですが、私は、そういうことを考える以前の問題として、克明に綴られた肉体的変化の様相に怯えてしまうのです。
「テクストへの評価」を作品評価に含めるかどうか、というのは難しい問題ですね。もしそうだとすると、19世紀までのオペラは、まともに論じられるようなものではないということにもなりかねない。

斉諧生 (1) こうした「即興」の音楽史的位置付け
人間の聴感覚の原理として、協和音・定リズムがあると思うので(間違っていたら御免なさい)、こうした音楽は、基本的に不安・緊張といった感情の上にしか成立できないように思います。したがって、あまり拡がりはないのではないかと考えています。

ディスコースを持った音楽に限定するのならば、そういうものなのかもしれませんが、それだけが音楽でもないでしょう。無時間的な響きの中で、テクスチュアだけが緩やかに変化していく、という音楽体験が存在し得ることが戦後前衛によって示唆され、それが即興音楽に組み込まれて、ようやく「音楽史」に定着したのではないか、と私は考えています。

斉諧生 (2) 「朗読と音楽」というスタイル
野々村さん御指摘のとおり、朗読と音楽が協働するような作品って、少ないですね。技法的にも、無調以前には結合しにくかったでしょうし。

では、戦後前衛の諸作品の場合と比べてどうか、というのはやりますか?もし比較試聴するのであれば、次の2作品が良いサンプルになるでしょう。
  • Berio: Laborintus 2 (harmonia mundi France, HMA 190764)
  • B.A.Zimmermann: Requiem fur einen jungen Dichter (WERGO, WER 60180-50; SONY, SK 61995)
これらは、「音楽」の比重が高い作品です。「朗読」の比重が高い作品としては、私はあまり評価していませんが、丹羽勝海をフィーチャーした柴田南雄作品とか。

斉諧生 (3) 「即興」という音楽のあり方
「個々のフレーズを作ること」が奏者に任されていれば、「即興」を標榜していいのではないでしょうか。

「奏者が音楽を完全に自由に作れる部分」か、「複数奏者によるインタープレイ部分」がなければ、もはや本来の意味での「即興」とは言えないと私は思います。

鈴木 朗読は、最後の方まで元気がいいので、大きな切迫感は感じられないのが難点だが、
浮月斎さんも指摘していますが、下手に「感情を込めた」朗読をしないのが、この作品のコンセプトなのでしょう。

鈴木 耳に聞こえる響きの質に関しては、ヴェーベルン以降のなんかの発展があったのかいな、と意地悪く聞いてしまうが、
ウェーベルンはオンドマルトノもサンプラーの発振音も使っていません、というのはさておき、「新奇な響き」をもって良しとするとする感覚は、前衛の時代までのものではないでしょうか。

鈴木 *言葉*が、なければな、と思う。
私の友人の音響系ミュージシャンも、そう言っていました。ただ、私は専ら、言葉と音楽の関係性を面白いと感じたのですが。

鈴木 いわゆる、朗読伴奏としての音楽としては優秀だと思うが、(中略)音楽だけ聞いていると、各演奏者の迫力不足の感は否めない。なんか*気分を出して、さあどうぞ*的にはなかなか面白いが、表現されている*音楽*としては、音楽と言葉のセット売りの物として朗読伴奏の域を出ていないと、感じる。
これはバランスの問題で、音楽を更に「表現的」なものにすると、朗読もそれに応じたスタイルを取らざるを得なくなって、作品が意図しているコンセプトとは乖離してしまのではないでしょうか。

鈴木 ドラマとしては、観念的な作物だが、結構面白く、小生最初に書いたように、総体的には和みながら聞けた。
確かに、「音楽と言葉のセット売り」ではあるのですが、私にとってはより積極的な意味あいで、平板な原作(文庫で読んで再確認しました)が、音楽の力で初めて「結構面白く」なったという印象です。

鈴木 しかし、そこから導き出されてくるものは、*ああ、面白かった*だけで済んでしまうような気がしてならない。
大友氏言うところの「近代芸術」ではそれではいけないわけですが、その枠組にこだわらなければ、別にそれでもいいような気がします。

鈴木 全体としては、面白く聞けたが、音楽云々は語ることがができないということか。
鈴木さんのニュアンスとは違いますが、音楽だけを切り離して語るべき作品ではないでしょう。ビビンパをよく混ぜずに具だけ先に食べて、辛いと文句を言うようなもので。

浮月斎 なかなか楽しめましたが、その分、不満も多い。とりわけ、折角こういう面白い音楽的試みをやるなら、この原作では役不足であろう、というのが私の率直な結論。
少なくとも、ダイエット日記を併読するヴァージョンも聴いてみないと、この試みの全貌は論じられないと思いますが。ただ、最近の大友さんの録音を聴く限り、彼の興味は完全に音響系に移ってしまっているので、続編の録音は出そうにないけど。

浮月斎 まず、録音についての苦言を少々。
折角の佐野史郎の朗読でのマイクノイズがすごく気になります。わざとやっているとも思えませんね。全体的にやたらと高い(再生)レベル、ヒスノイズ系電気ノイズ(ハム音?)、そして肝腎のミックスが立体性に薄いと感じた。

これは、予算の問題ではないでしょうか。マイクノイズやハム音についてはまさにそれだし、ミックスと言っても、各パート独立にマルチトラックでは録っていないような気がする。せいぜい2000枚くらいしか出ないディスクを、公的援助なしで作って流通にも乗せるのは、大変なことだと思います。

浮月斎 音楽に入る前に原作について。
(中略)特にダンテの読書の部分に、背景的記号性をまるで感じさせない無駄がある。あれなら経典でも何でもよいのではないか。

ダンテに限らず、バッハもベケットも、原作に出てくる固有名詞はイヤミでしかないのですが、この作品では、そういう厭らしさが不思議と中和されていて、そのあたりもプラス評価の材料です。

浮月斎 次に朗読と音楽という形態について。
私はNHKのラジオ・ドラマを結構聞いていたが、スタンスはかなり違うけれど、結果はほとんど同じになっていないだろうか。ここで扱っているのは「詩」ではなくドラマなのであり、言葉そのものより物語の展開にこそ先行性を持つため、どうしても朗読と音楽の融合的推進は必ず破れるところが出てくるのである。

このヴァージョンからは、朗読からドラマ性を剥奪して、音楽の方だけでドラマを作ってしまおうという意図が感じられ、そのあたりは意識されていると思います。

浮月斎 真にこうした形態から蝉脱するには、音楽よりも「朗読」そのものの在り方を根本的に考え直す必要があるのではないかと思う。朗読という行為が、音楽と組み合うことで、どのような「ナラトロジイ」を形成すべきかという観点がそれだと思われ、これを踏み外すと、音楽ドラマか音楽劇と大差なくなりかねない。
このあたりを詰め切っていないのは、「即興」という看板のせいなのかもしれません。朗読のあり方を厳密に規定してしまうと、演奏の方も同程度に管理しないわけにはいけなくなり、確定譜面に向かってしまう。むしろ、ナレーターのスタンスが音楽を生成していくという構造が妙味なのでは。

浮月斎 「ミイラ」はその意味で、耳で聞くには、朗読行為のコンセプトそのものが単調すぎないだろうか。各セクションの冒頭に特に感心しない。
でも、最初は型通りな音楽が、だんだん相互浸透して面白くなっていくのが「即興」なのでは?最初の一音から最後まで面白くしようとしたら、完全に音楽を確定するしかないわけで。

浮月斎 音楽のバックが朗読の進行とともに、朗読に対置するのではなく、朗読の背後に回り込んで一体化し、その上で朗読そのものの表現性を立体化しているように感じられる。このあたりが「ミイラ」の妙味といえるだろう。
そうそう、言葉のドラマに音楽が彩りを添えるのではなく、音楽がドラマを作って言葉を巻き込んでいく。

浮月斎 しかし、音楽が朗読に一体化するとしても、バックが興に乗ると朗読が溶け込み過ぎる傾向にあり(そういうミックスなのだろうが)、意図はわかるが、音が朗読に代わるという「越権行為」を有効にするほど、朗読に解放力を持たせていないところにこれでは、単に朗読が聞きにくくなるだけだろう。
どこまで大友氏が意図していたのかはわかりませんが、「先が読める」テクストなので、あまり明瞭に聴き取れなくても目的は達成されるのではないでしょうか。

浮月斎 最後に即興について。
これを即興演奏というべきか理解に苦しむが、「協働的音楽行為」という中身で考えれば、面白味があるといえるだろう。ドラマが確固としたところにある中で、朗読と如何に相即した音楽を形成するかの下地があるとすれば、創作物でもなく、譜どりもしていない「音楽ドラマ」というところでしょうか。

ええ、そういうことだと思います。理想的な形態としては、全く異なったタイプのナレーターで2つのヴァージョンを作ってカップリングするとか。

浮月斎 私がここで面白かったのは、持続音の不安定性の集積の諸相。あれは大変だろう。通常のドラマならば、うるさいからともっと抑えられている筈。断食者のメンタリティの反映なのか、ドラマのオスティナートとなっている腹痛のシンボリックな表現なのかはわからないけれど ...(^^;)
46〜48日目あたりのことですか?私が一番面白いと感じているのは、36〜43日目のセクションのアンサンブルと朗読の関係です。

浮月斎 それから、朗読の音韻と間。故意に淡々連綿とやっているのだろうが、朗読での一切の音韻的技芸を排し、その代わりにバックですべて融合・反映させるのがこの「ミイラ」の妙味としても、朗読の価値観は脱コンセプトしていないのだから、少々勿体ない気がする。特に間がないだけに、余計目立つのが残念。
微妙な「間」は取っていると思いますが。例えば、45日目の対話とか。声量は終始フラットだけど、終わりに近付くほど、無理に絞り出してなんとか発声しているという雰囲気になってくるし。「日記の朗読」であり、断食自殺者がリアルタイムで喋っているのではないわけで。

浮月斎 何度も言うが、ドラマであるところに、朗読の演出・表現自体を抑え、それを音楽が乗じて表現するという、意欲的な音楽的表意は「ミイラ」の姿勢として最も評価できるものであろう。
そう言われて思い返してみると、20世紀に書かれた優れた無調オペラは、おしなべてそういうスタンスで貫かれているのではないでしょうか。

浮月斎 しかし、原作が「持続性」の中での変化における表出冥利にあるところ、むしろこの原作のフレームの狭さに演奏家自体のイマジネーションはかなり 抑制されていやしまいかとも思う。
そうおっしゃる向きは、大友さんがリーダーをやっていたユニットGround Zeroを聴きましょう!まずは、『Null & Void』(Tzadik, TZ 7204)あたりからどうぞ。

工藤 単純に「面白かった」というのが率直な感想。
私も結局はそれなんですけどね。「それ以上」というのは、「良いとされる既存の何かに合致している」ということの陳述ですから。

工藤 とはいえ、「ミイラ」の場合はテキストが全く分からない、すなわち未知の外国語だった場合には恐らく聴き通すことのが退屈でしょうから、やはりテキスト自体の価値も評価の対象になってくるのだとは思います。
この点は、歌曲の場合はどうなんでしょう?

工藤 ただ、その評価を放棄してもなお、“面白い”と感じ得る音楽的内容が僕には感じられました。これは、“即興”の持つ良い方の側面が出た例なのでしょうね。
ただ、テクスト自体が優れている必要はないものの、明瞭な意味と方向性を持ったテクストが存在していることは、この音楽的試みにおいては必要条件だと思います。

工藤 ここで、このディスクにおける“即興”について疑問があります。それは、どのようにこの録音が行われたのか、ということ。ライブのように全員が同時に演奏をして、それを録音しているのか、それとも何らかの手順に基づいて別々に演奏したものをミキシングしたのか?これで“面白かった”という評価が変わるわけではありませんが、興味があります。
単なる推測ですが、基本的には一発録り(ただし、失敗テイクは録り直す)だと思います。メジャーポップスのような、まずリズムセクションを入れて、徐々にオーバーダビングしていくような録音手法に適したような音楽ではそもそもないし、特に邦楽器とギターやオンドマルトノが絡むあたりの微妙なタイミングは、同時録音でないと不可能でしょう。ただし、ベイリーの音源のサンプリングや弦楽器セクションは、後から重ねた可能性もありそう。


☆バトルa:鈴木 vs. 野々村

☆バトルb:浮月斎 vs. 野々村


工藤 「ミイラ」、聴き返すほどに考えがまとまらなくなって、どうしようかと思っているのですが (^^;、とりあえず今思っていることを簡単にポストします。
なお、皆さんの芸術論や現代音楽一般の話題については、大変興味深く読ませて頂いているのですが、なんせ読んだことも聴いたこともないものが多いので、コメントしかねます (^^)。ご容赦を。

野々村 確かに、「音楽と言葉のセット売り」ではあるのですが、私にとってはより積極的な意味あいで、平板な原作(文庫で読んで再確認しました)が、音楽の力で初めて「結構面白く」なったという印象です。
鈴木 そこが、問題(^ ^)。島田さんのテキストが面白いと感じるか、「なんだい、これ」と感じるかの差のようなものですかね。小生、申し訳ないけど後者です。
野々村 というか、この音楽を評価する人は、みんな後者なのでは?なにしろ、大友氏をはじめ、演奏者もみんなそうなんだから。
「ふうん」というのが僕の感想。これは、最初にこのディスクで聴いたときも、後で文庫で読み直したときも変わりませんでした。野々村さんのように、“「結構面白く」なった”とも思いませんでした。ただ、全体に淡々と流れて行く感じが、音楽の素材としては扱いやすかったのかもしれないとは思いますけど。そう考えると、浮月斎さんが違和感を感じておられる佐野史朗の朗読も、むしろ適切なのかもしれません。


鈴木 *言葉*が、なければな、と思う。
野々村 私は専ら、言葉と音楽の関係性を面白いと感じたのですが。
最初は僕も音楽だけの方が面白いように思っていましたが、何回か聴き直しているうちに、恐らく音楽だけだとやや退屈に感じられるのではないかと思えてきました。ただ、“言葉”というには朗読がぱっとしないし、“文章”というにはそれほど洗練された文章だとも思えないし、ましてや“話”というにはよく分からないストーリー(?)だし…、といった感じで、野々村さんのおっしゃる「言葉と音楽の関係性」というほどのものはあまり感じ取れませんでした。

この辺が浮月斎さんのおっしゃる
浮月斎 結論としては、高く評価できるけれど、まだまだ深められる余地も多大にありそうで(特に朗読)
という感想にもつながるのかもしれません。

野々村 ミックスと言っても、各パート独立にマルチトラックでは録っていないような気がする。
なるほど。僕は、先に朗読部分を録音して、後から他のパートを重ねたのではないかと思っていました。というのも、音楽は朗読をきちんと踏まえているような気がしたのに対して、朗読が音楽から刺激を受けているような感じに乏しかったものですから。でも、

野々村 このヴァージョンからは、朗読からドラマ性を剥奪して、音楽の方だけでドラマを作ってしまおうという意図が感じられ、そのあたりは意識されていると思います。
という風に考えると納得もいきますね。ただ、「言葉と音楽の関係性」というには朗読側からの働き掛けが少ないという感想を持ちました。

工藤 とはいえ、「ミイラ」の場合はテキストが全く分からない、すなわち未知の外国語だった場合には恐らく聴き通すことのが退屈でしょうから、やはりテキスト自体の価値も評価の対象になってくるのだとは思います。
野々村 この点は、歌曲の場合はどうなんでしょう?
おそらく、いや間違いなく邪道なのかもしれませんが、僕は歌曲はある種の器楽曲と同じように聴いてしまいます。発音が気になるのは言葉が分からないからではなく、よくできた歌曲ほど言語の響きに鋭敏であるからです。それに対して「ミイラ」の場合は、言葉と音楽は明らかに違う立場におかれているように思えるのです。だからこそ面白いと思うのですね。逆に、ラジオドラマだと、今度は音楽は言葉の作用を強めるためのものとなってしまう。そういう意味で、「ミイラ」は言葉と音楽とが非常によい独立関係を保っているように思えます。





Back to Mummy top page
Back to okuzashiki top
Back to index.htm