エピローグ:大友氏『ミイラ』を語る




当合評掲載後、野々村氏と大友良英氏ご本人との合評読感を軸にした追伸篇です。



野々村 大友さん、はじめまして。以前、『ミイラになるまで』の通販の件で問い合わせした者です。音楽関係のメイリングリストでこのディスクの合評会をしていたのですが、ディスクに関する質問がいくつか出てきました。もしお時間がありましたら、ご回答頂ければ幸いです。

  • 「ラジオドラマ」への、大友さんのイメージは?
  • 録音方法は?(一発録りか、朗読など先録りか)
  • 「今世紀中にあと2枚」は、現在も有効ですか?

大友 『ミイラになるまで』の合評会を読ませていただきました。少し前の作品ということもあって、作者としては冷や汗の出る思いですが・・・。でも、あそこまで深い討論をしてくださり、どうもありがとうございます。

野々村 「ラジオドラマ」への、大友さんのイメージは?
もしも、あの討論の中に出てくる「ラジオドラマ」の定義に関することでしたら、私の思惑は以下のようなものです。私があそこで言っていた「ラジオドラマ」とは、ラジオ放送でオンエアー可能な形態のテクストのある作品という程度のことです。日本では通常、ラジオドラマというとかなりオーソドックスなドラマ番組になってしまいますが、私自身はヨーロッパのラジオ局が制作しているジョン・ローズやハイナー・ゲッペルスらが作っているラジオドラマの影響を受けていて(私も実際、演奏者として何度か参加したこともあります)、そこでは言葉と音響の構成要素を自由に駆使して作られたものが堂々とオンエアーされたりしています。その中では、無音やラジオノイズと変わらない音なんかも自由に使い放題で、皆実験の場として自由に作品を作っており、そんな現場に参加して触発を受けた部分はかなりあります。そんなイメージがあって、多分ラジオドラマという言い方をしたんだと思います。別にCDドラマでもよかったんですが、言葉として発想が広がるような感じがしたのかな、きっと。

野々村 録音方法は?(一発録りか、朗読など先録りか)
  1. まずはじめに、スタジオで16チャンのマルチトラックに一発録り。これは同時録音ですが、声だけはブースを分けました。そのやり方は詳しくは忘れましたが、ほぼライヴの時と同じ手順で、ただし休憩を入れつつ数パートに分けて、一発勝負でやりなおしをせずに録音しました。で、後から朗読のミスのみをやりなおしました。ここまでを1日でやりました。
  2. それをミックスダウン、ただし2チャンに落とすのではなく、3チャンに落としました。演奏パートを2チャンのステレオに、もうひとつは朗読のトラックです。 これも1日で。ここまでがスタジオの作業です。
  3. 前半はほぼそのままに、イントロと後半は大幅なリミックスや編集を自宅でしました。これには数日かかったと思います。もっとかかったかもしれないけれど、忘れてしまいました。
合評会でも指摘されていたように、この自宅での作業はすべてヘッドホンでやっています。無論マスタリング時にはスピーカーを通じて聞こえ方を調整しているので、私的にはあれで納得がいっているのですが、やはりヘッドホン用にミックスされているのは間違いありません。理由は、当時私は四畳半の木造アパートに住んでいて、とてもスピーカーから音を出して作業できる環境になかったというのも大きいです。が、もうひとつ大きな理由は、ヘッドホンでの音場が好きなせいもあります。頭の中のバーチャルな遠近感で音を作るのは、今も非常に好きな方法です。いずれにせよ、コンサートの音の感じをCDで再現しようという意図はここではまったくなくて、あくまでもこのバージョンはCDで聴くことを前提として作っています。CDはコンサートを再現するものというJazzやクラシックでの前提で聴かれてしまうと、それでも悪くはないが、すわりがわるいなあという感じです。

ご指摘の通り、いわゆる忠実な再生という意味でのHI-FI録音ではないですし、そうしていない理由は予算のことだけではなくて、私自身のオーディオメディアへの視点があるのも事実です。私の多くの作品は、全てではないまでも、同じ作品でもメディアによって表現方法を変えています。CDはCDだし、ライヴはライヴだし、インターネットはインターネットだしで、どれもそれ以外の代替品ではないし、自然にそういう発想で創っているというのが正直なところです。よく「戦略」なんて言われ方をされてしまいますが、そういったものではなくて、もっと生理的な欲求と直感が発想の源です。もちろん、直感に至るまでには、いろいろな葛藤やら、試行錯誤があるのですが・・・。

たしかに予算さえあればもっとよい音でとれるのは事実ですが、現実にはポップスでもなく、アカデミックな世界とも没交渉で私のような仕事をしている者に予算など出る可能性はほとんどないですし、この作品にしても、信じられないくらいの低予算です。その中でスタジオの人達ばベストの録音をしてくれたと思っています。声がうまくサウンドしていないとすれば、それはスタジオの録音の問題ではなく、ハードディスクレコーダーとヘッドホンだけを頼りにリミックスをした私の力量不足によるところが大きいと思います。

野々村 「今世紀中にあと2枚」は、現在も有効ですか?
討論の中でも指摘されていた通り、この2年あまりで、あまりにも私の方向が変わってしまい、多分作られることはないと思います。やたらなことを書くもんではありませんね。

ただ、今思うと、この方向の変化の萌芽はすでに「ミイラ」の中ではっきり出ています。具体的に何が変化したのかといえば、「音楽は創り手が提供するのではなく、聴き手が発見するものではないか」という考えになったのが最大の変化で、それによって私の創作の焦点は、「どう演奏するか」から「どう聴くか」に変わっていきました。今考えれば、この作品で私がやろうとしていたのは、そういうことなのです。そこまでは至っていないとしても、そういう方向にのちのち行くであろう発想が、そこここにあったように思います。

ここで言っている「聴く」というのは、言葉に置き換えられるような構造を読み取ることではなく、うまく言葉にできないのですが、あえて試みれば、テクスチャーを感じることで世界を見るような感じではないかと最近は思っています。ここでいう世界は全世界のことではなくて、もっとミニマルな感じなのですが。20世紀の西洋音楽の多くは、進化論的に構造を読み取ることに終始しがちですが、今現在こうした歴史観が前提となった音楽に私はほとんど興味が持てずにいます。本音を言えば、こんなものは大学の中でしか通用しない昔話だと思っています。構造は確かに進化するのですが、だからどうというものでもなくて、進化の先に理想の音楽が・・・なんて話はとても信用できないし、必要なら進化を・・・でも選択肢はいつでも無限にあって、その中からあなたの責任で最良と思える何かを常に選択し続けるべきで、その選択肢は進化論的な一定の価値観にしばられる必要はない、という考えで作品を作っています。なので、ポスト現代音楽的な視点は当時からあまりなかったし、今はまったくありません。

いずれにせよ、そうしたことを含めて、今は音楽の創り手の側から何かを説明する必要をかつてほどには感じていないのも事実で、聴き手が自分たちの耳で音楽を発見できるような作品を作ることに興味は移行してしまいました。なので、「ミイラ」についても、私の思いなどよりも、聴いてくださった方々の耳に何かが響いていればいいかなと思っています。

そういえば、ちょうどあの日記が、そういうものとして私の前に現れました。私にとって面白かったのは日記のストラクチャーではなくて、多分テクスチャーの方なんではないかな?今考えると、そういう気がしています。ちなみにあの日記は、無論脚色もあるのですが、ほぼ現実の自殺者の日記をかなりの部分引用しているそうです。文学というよりは、インターネットでたまたま本物の狂人の書く日記に出くわした時の感じとでもいうか、多分あの本は、そういった猛毒を多少ワクチン化したような感じではないかな、と思ったりもするのですが・・・。

あ、ついつい長くなってしまいました。変わったとは言え、自分の創作の話になるとおしゃべりすぎてしまう点は、変わってないようです。

野々村 大友 もしも、あの討論の中に出てくる「ラジオドラマ」の定義に関することでしたら、私の思惑は以下のようなものです。
大友さんのライナーが議論の対象になり、「ラジオドラマ」として想定されているのは日本の典型的なスタイルのもので、それを批判的に超えようとしたのがあの作品なのか、想定されているのはより広義のもので、あの作品も「ラジオドラマ」の一種として捉えられているのか、ということが問題になったのです。大友さんの立場は後者だった、と理解しました。

大友 私自身はヨーロッパのラジオ局が制作しているジョン・ローズやハイナー・ゲッペルスらが作っているラジオドラマの影響を受けていて、
なるほど、ああいうものも含めた「ラジオドラマ」なわけですね。

野々村 録音方法は?(一発録りか、朗読など先録りか)
大友 1. まずはじめに、スタジオで16チャンのマルチトラックに一発録り。これは同時録音ですが、声だけはブースを分けました。
これが議論の対象になったのは、朗読-->アンサンブルの影響ははっきり聞き取れるが、アンサンブル-->朗読という影響が感じられないのは、朗読先録りだったせいではないか?という指摘があったからです。録音ブースの佐野さん&島田さんは、あのアンサンブルを聴きながら朗読していたのですか?

大友 2. それをミックスダウン、ただし2チャンに落とすのではなく、3チャンに落としました。演奏パートを2チャンのステレオに、もうひとつは朗読のトラックです。
これは、朗読はそのまま使うが、アンサンブルはリミックスするから、という技術的な問題と理解してよろしいでしょうか。

大友 3.前半はほぼそのままに、イントロと後半は大幅なリミックスや編集を自宅でしました。
録音現場では大友さんは指揮に専念して、ベイリーのギターを入れたのはこの時、ということでしょうか。ついでに、あの作品ではどの程度までが事前の仕込みで、どこからが「即興」だったのかも教えて頂けますか?

大友 コンサートの音の感じをCDで再現しようという意図はここではまったくなくて、あくまでもこのバージョンはCDで聴くことを前提として作っています。CDはコンサートを再現するものというJazzやクラシックでの前提で聴かれてしまうと、それでも悪くはないが、すわりがわるいなあという感じです。
私が大友さんを聴き始めたのは、『鉄路の白薔薇』にライブ演奏を付けたお仕事からで、上映終了直後に当時出ていたディスクを全部買い漁ったのを覚えています。ですから、『ミイラになるまで』のライブは聴けたはずなのですが....聴き逃してしまいました。残念。

大友 20世紀の西洋音楽の多くは、進化論的に構造を読み取ることに終始しがちですが、今現在こうした歴史観が前提となった音楽に私はほとんど興味が持てずにいます。
私も、「進化論的に構造を読み取る」系統の音楽にはほとんど興味がありません。というか、優れた作曲家がそういう歴史観から逃れようとした過程が、「20世紀西洋音楽の本当の歴史」なのではないかと思っています。

大友 本音を言えば、こんなものは大学の中でしか通用しない昔話だと思っています。
全く同感です。しかし、「現代音楽」業界でそれなりに評価された作曲家の大半は音大の教師として生計を立てるわけで、「進化論的歴史観」を否定することは自らの飯のタネを否定することにもなるので、彼らにはできない。で、そういうシステムにうまく順応した人ほど忠実な弟子も増えて、業界での地位はますます磐石になる。

大友 選択肢はいつでも無限にあって、その中からあなたの責任で最良と思える何かを常に選択し続けるべきで、その選択肢は進化論的な一定の価値観にしばられる必要はない、という考えで作品を作っています。なので、ポスト現代音楽的な視点は当時からあまりなかったし、今はまったくありません。
というわけで、そういう力強い言葉をお伺いするとますます、「現代音楽がかつて持っていた開拓者精神の正統的後継者」などと思ってしまうわけです (^ ^)。

大友 大友 私自身はヨーロッパのラジオ局が制作しているジョン・ローズやハイナー・ゲッペルスらが作っているラジオドラマの影響を受けていて、
野々村 なるほど、ああいうものも含めた「ラジオドラマ」なわけですね。
ジョン・ローズのラジオドラマには、ドイツやイタリア、オーストリアで何回かつきあっています。ラジオ局から私の渡航費や宿泊費、ギャラまでしっかりと出て、うらやましい環境だな、と当時思いました。その上で、贅沢なスタジオでアーティストに自由に作品を作らせてくれるのですから。これはラジオドラマに限ったことではなくて、通常の音楽作品の発表の場としても、ヨーロッパやカナダのラジオ局の果たして役割は大きいと思います。

野々村 録音ブースの佐野さん&島田さんは、あのアンサンブルを聴きながら朗読していたのですか?
二人とも演奏を聴きながら朗読してます。ただ、島田さんが聴いていたのは、まったく別のアンサンブルでした。あのパートは、私がそのアンサンブルとディレク・ベイリーの音源を使って、まったく別のアンサンブルを作ったものです。

野々村 これが議論の対象になったのは、朗読-->アンサンブルの影響ははっきり聞き取れるが、アンサンブル-->朗読という影響が感じられないのは、朗読先録りだったせいではないか?という指摘があったからです。
また、佐野さんの朗読部の演奏も、主に後半の方は、同じようにカットアップやコラージュをしまくっていて、ストラクチャーの原形はまったくといってよいくらい留めていません。なので指摘は大正解なのです。同時録音をしていながら、私があとで大胆にリミックスしたために、朗読が先にあり、後から演奏を付けたのと結果的には同じことになってしまいました。

ただ、リミックスやカットアップといっても、通常コラージュ的に聞こえるようなミックスはあえてしませんでした。テクスチャーはそのままに、ストラクチャーだけを変えた感じです。なので、普通に聴いただけでは、即興のアンサンブルと変わらなく聞こえると思います。なんでそうしたのか、この辺は思い出せないのですが、でも明らかにそう意図していました。

大友 2. それをミックスダウン、ただし2チャンに落とすのではなく、3チャンに落としました。演奏パートを2チャンのステレオに、もうひとつは朗読のトラックです。
野々村 これは、朗読はそのまま使うが、アンサンブルはリミックスするから、という技術的な問題と理解してよろしいでしょうか。
はい。

大友 3. 前半はほぼそのままに、イントロと後半は大幅なリミックスや編集を自宅でしました。
野々村 録音現場では大友さんは指揮に専念して、ベイリーのギターを入れたのはこの時、ということでしょうか。ついでに、あの作品ではどの程度までが事前の仕込みで、どこからが「即興」だったのかも教えて頂けますか?
ミュージシャンに対しては事前の仕込みはしていません。ただ、簡単な指揮によるサインを10〜20パターンくらい用意して、それで朗読と私の指揮とともに即興してもらいました。そのテクスチャーはほぼそのまま生かしていますが、前述の通り、リミックス時に場所によっては原形を留めないくらいストラクチャーを変えています。なので、朗読も含めたテクスチャーは即興によって作られ、ストラクチャーはリミックスで作られたと解釈してもらってかまわないかと思います。ベイリーを入れたのはリミックス時です。

野々村 私が大友さんを聴き始めたのは、『鉄路の白薔薇』にライブ演奏を付けたお仕事からで、上映終了直後に当時出ていたディスクを全部買い漁ったのを覚えています。
それはそれは、どうもありがとうございます。あの「鉄路・・・」の日は40度近い熱で、点滴を打ちながらのステージでした。長く感じたあ〜。巻上さんの朗読によるミイラ初演もたしかその4〜5日前くらいで、同じくすごい熱だったのだけはよく覚えています。(苦笑)すごい熱なのにこのあたりでコンサートがたてこんでて、ボロボロでした。あの熱の中、前日の夜に「鉄路・・・」の曲を書いたりで、それじゃ熱さがるわけないですよねえ。よく切り抜けたもんだ ^^;

島田さんが全編朗読した1997年の札幌NOW MUSIC FESTIVALでの公演が、ライヴとしてはもっとも気にいっているバージョンです。個人的には、CD化したいくらい気にいっています。まだ未定ですが、島田さんの朗読で、ディレク・ベイリーが入って、オーストリアで「ミイラ」の再演が11月にあるかもしれません。これは、やるとすれば久々の再演です。今の視点でやってみたいというのが動機です。

野々村 私も、「進化論的に構造を読み取る」系統の音楽にはほとんど興味がありません。というか、優れた作曲家がそういう歴史観から逃れようとした過程が、「20世紀西洋音楽の本当の歴史」なのではないかと思っています。
そうですね。でも逃げても逃げても追いかけてくるんですよね、いろんなもんが(苦笑)。

野々村 「現代音楽」業界でそれなりに評価された作曲家の大半は音大の教師として生計を立てるわけで、「進化論的歴史観」を否定することは自らの飯のタネを否定することにもなるので、彼らにはできない。で、そういうシステムにうまく順応した人ほど忠実な弟子も増えて、業界での地位はますます磐石になる。
(爆笑)でも業界内の地位ったって、それが業界として成立してるんですか。私はそういう人達とほとんど接触ないので、わからないのですが。成立してるのなら、私もまぜてほしいもんです ^^)

野々村 大友 また、佐野さんの朗読部の演奏も、主に後半の方は、同じようにカットアップやコラージュをしまくっていて、ストラクチャーの原形はまったくといってよいくらい留めていません。
言われてみれば、前半では朗読の内容をそのまま翻訳したような音響がしばしば聞こえたのに、後半ではそれが全くない(あえて挙げれば、最終トラック)ことや、測ったように炸裂する後半のアンサンブルは即興にしては出来すぎていることなど、納得です。

大友 ただ、リミックスやカットアップといっても、通常コラージュ的に聞こえるようなミックスはあえてしませんでした。テクスチャーはそのままに、ストラクチャーだけを変えた感じです。なので、普通に聴いただけでは、即興のアンサンブルと変わらなく聞こえると思います。
こういうお話を伺うと、ますます「ライブではどうだったのか」を聞いていないことが悔やまれます。

野々村 あの作品ではどの程度までが事前の仕込みで、どこからが「即興」だったのかも教えて頂けますか?
大友 ミュージシャンに対しては事前の仕込みはしていません。ただ、簡単な指揮によるサインを10〜20パターンくらい用意して、それで朗読と私の指揮とともに即興してもらいました。
大友さんからは事前に指示を与えていないということですね。ただ、ミュージシャンがテクストをあらかじめ読んで、適当そうな楽器を用意したり(打楽器やサンプラー音源の場合)、フレーズを考えておいたり、ということはありそうな気もするのですが、その可能性も排除されていたのですか?

大友 朗読も含めたテクスチャーは即興によって作られ、ストラクチャーはリミックスで作られたと解釈してもらってかまわないかと思います。
これに即して言えば、ストラクチャーはその場で即興的に決まるけど、テクスチャーは何らかの仕込み(テクストの予習、リハーサルなど)でかなり決まってしまいますね。

大友 島田さんが全編朗読した1997年の札幌NOW MUSIC FESTIVALでの公演が、ライヴとしてはもっとも気にいっているバージョンです。個人的には、CD化したいくらい気にいっています。
CDブックのライナーでは、島田さんがこの作品を気に入っているのかどうかはよくわかりませんでしたが、それはかなり入れこんでいるということですね。Ground Zero解散決定後も、この作品は上演し続けていたのですね。あるいは、日程が先に決まっていたから?

大友 島田さんの朗読で、ディレク・ベイリーが入って、オーストリアで「ミイラ」の再演が11月にあるかもしれません。これは、やるとすれば久々の再演です。今の視点でやってみたいというのが動機です。
コブラが大友部隊のような解釈も許容していたように、この作品も現在の方向性と矛盾はしないように感じます。ダイエット日記併読版の方は、そうもいかないかもしれませんが。

一度聴いてみたいのが、「外国語に翻訳されたテクストを用いた『ミイラ』」です。合評会でも話題になったように、テクストが明瞭に伝わってくるかどうかで、音楽の聞こえ方も全然違うと思われますし。それに、例えばフランス語でリリースしたら、向こうで大ヒットなんて可能性だって全くないとは言い切れないわけで (^ ^)

野々村 私も、「進化論的に構造を読み取る」系統の音楽にはほとんど興味がありません。というか、優れた作曲家がそういう歴史観から逃れようとした過程が、「20世紀西洋音楽の本当の歴史」なのではないかと思っています。
大友 そうですね。でも逃げても逃げても追いかけてくるんですよね、いろんなもんが(苦笑)。
「作曲という行為は、伝統と無関係ではあり得ない」(近藤譲)

でも、そういうことを誠実に言う人の方が、新しいことをやっているのだと思います。「前例がない」とか「全く新しい」とか自称する連中は、大体....朝日新聞と組んで、「全く新しいオペラ」をぶち上げている人もいますが :-p

大友 でも業界内の地位ったって、それが業界として成立してるんですか。
「作品発表が収入に繋がる」ことを「業界として成立している」と言うのであれば、もちろん全く成立していません。作曲者と演奏者が分離しているから、演奏者のギャラとか練習場代とかパート譜代とかさまざまな出費がかさんで、アマチュアバンドがライブハウスを借り切る時よりもはるかに多額の持ち出しになるのが普通だと思います。

大友 成立してるのなら、私もまぜてほしいもんです ^^)
しかし、今のところは、音大が定員割れして教師がどんどんリストラされるほど、少子化もアカデミズム離れも進んではいないようなので、「音大の教師が学術論文の代わりに作品発表を通じて評価される」というシステムは、一応成立していると思います。でも、それってそんなに魅力的ですか???

大友 こういうやりとりってはまってしまいますねえ。楽しんでレスしてる自分がちと恥ずかしい ^^。

野々村 大友さんからは事前に指示を与えていないということですね。ただ、ミュージシャンがテクストをあらかじめ読んで、適当そうな楽器を用意したり(打楽器やサンプラー音源の場合)、フレーズを考えておいたり、ということはありそうな気もするのですが、その可能性も排除されていたのですか?
基本的には、事前にテクストを読まないようにという指示をしています。ただ、録音が初演になった人以外はもちろんすでに知っているわけですが、前のことはなかったつもりで、といつも言ってます。ちなみに、佐野さんもほぼぶっつけ本番の初演です。可能性を「排除」なんて強い意志ではなくて、きっちりとした作曲作品にして固定する気はないので、即興演奏に臨む時のように、毎回新鮮であってほしいという程度の気持ちです。それと、ミュージシャン自身にも、意識としては聴衆のような立場に立ってもらいたかったというのが一番大きいです。「いったいこの人どうなってくんだろう?」などと思いながら音を出してほしかった。なので、フレーズを考えておくってこともありませんでした。再演するとすれば、また違うアイディアになるかもしれませんが。

実際のライブでは、私の指揮により大きな比重がかかってます。指揮がレコードでのリミックスの役目を果たしていました。なので、後半はライブでも実質、コンダクション的なコンポジションになっていたと思います。

野々村 ストラクチャーはその場で即興的に決まるけど、テクスチャーは何らかの仕込み(テクストの予習、リハーサルなど)でかなり決まってしまいますね。
メンバーを決めることが、ほぼテクスチャーのための作曲といえます。こういうテクスチャーにしてほしいという指示はほとんどしていません。唯一「元気に人の音に反応したり、即興のエクスタシーに走らないように」といったくらいです。テクスチャーイコール人選ですね。それでどうなるか、ある程度の予想は立つんです。

大友 あの熱の中、前日の夜に「鉄路・・・」の曲を書いたりで、それじゃ熱さがるわけないですよねえ。よく切り抜けたもんだ ^^;
野々村 私のおぼろげな記憶では、その前後にもう2本くらい、別な無声映画にも音楽を付けていませんでしたっけ?
はい。ですからあの熱の中、3本分の映画音楽を書いて、しかもミイラもやってるわけです。火事場の馬鹿力っすね。

野々村 CDブックのライナーでは、島田さんがこの作品を気に入っているのかどうかはよくわかりませんでしたが、それはかなり入れこんでいるということですね。Ground Zero解散決定後も、この作品は上演し続けていたのですね。
これは今でもおもしろい素材と思っています。島田さんの中では、ほぼ忘れかけていた小品だったようですが、朗読するのは好きみたいですね。

野々村 コブラが大友部隊のような解釈も許容していたように、この作品も現在の方向性と矛盾はしないように感じます。ダイエット日記併読版の方は、そうもいかないかもしれませんが。
そうですね。

野々村 一度聴いてみたいのが、「外国語に翻訳されたテクストを用いた『ミイラ』」です。合評会でも話題になったように、テクストが明瞭に伝わってくるかどうかで、音楽の聞こえ方も全然違うと思われますし。
これは、そこまで私が外国語に堪能ではないという理由で、いまのところ積極的に考えてはいません。ただ、誰かそういう企画を積極的に考える朗読者なり別の作曲家が現れてきたら、私の触手も動く気がします。

大友 でも逃げても逃げても追いかけてくるんですよね、いろんなもんが(苦笑)。
野々村 「作曲という行為は、伝統と無関係ではあり得ない」(近藤譲)
でも、そういうことを誠実に言う人の方が、新しいことをやっているのだと思います。

近藤譲さん、いいこと言いますね。その通りだと思います。問題は、伝統というと、すぐに西洋流進化論的史観か、自分や民族のルーツとかに回収されちゃうのがいやなんですよ。そんな辞典や大学の先生の言っているるような話ではなくて、もうちょっと自分自身のリアリティに沿った考え方をしたいと思ってます。Ground Zero『プレイズスタンダード』は、そうした試みでもあったわけです。

野々村 「作品発表が収入に繋がる」ことを「業界として成立している」と言うのであれば、もちろん全く成立していません。作曲者と演奏者が分離しているから、演奏者のギャラとか練習場代とかパート譜代とかさまざまな出費がかさんで、アマチュアバンドがライブハウスを借り切る時よりもはるかに多額の持ち出しになるのが普通だと思います。
持ち出してまでやっているという現実は、僕らのいる世界とて同様です。CDを出してもそれに見合う収入にはなっていないし、ライブのチャージバックも、打ち上げに行って3000円払って、あとは交通費で消えちゃうのであれば、実質持ち出しですから。むしろ、いい意味でアマチュア精神をそれで維持できるなら、いい面もあると思います。問題は、そういうことが権威主義と結びついてヒエラルキーのピラミッド形成に一役買っている現実があったり、芸術をやってるのだから援助を受けて当然みたいなエリート意識と結びついていくとしたら、ちょっと、私は関わりあいたくないなあ・・・という感じですが。

私は音楽が現実と遊離して、高貴な芸術であったほうがいい、という近代・現代音楽が無意識のうちに持ってしまっている発想にも?マークなので、現実に経済と結びつかない音楽のサバイバル方法に、作曲と同じ意味で興味があります。

大友 成立してるのなら、私もまぜてほしいもんです ^^)
野々村 しかし、今のところは、音大が定員割れして教師がどんどんリストラされるほど、少子化もアカデミズム離れも進んではいないようなので、「音大の教師が学術論文の代わりに作品発表を通じて評価される」というシステムは、一応成立していると思います。でも、それってそんなに魅力的ですか???
(笑)いえ、まったく興味ないです。教職にも興味ないし(時々たのまれて講義をやってはいますが、現場が好きな私にとっては、学校自体には興味持てないんです)。そんな世界とは関わりたくないってのが本音です。学生と接するのは、たまになら悪くないのですが。まぜてほしいのは、作品にかけた労力に対して、それ相応の金銭的見返りのある世界があればという話です。でも、ないんですよね、やっぱり。とすれば、自分の方法でサバイバルするしかない。

野々村 大友 まぜてほしいのは、作品にかけた労力に対して、それ相応の金銭的見返りのある世界があればという話です。でも、ないんですよね、やっぱり。
私が説明したのは、現代音楽の演奏会の大半を占めている「自主公演」の話で、「委嘱」で書く場合にはそのような出費はもちろんなく、委嘱料が入ります。でも、日本の場合、手抜き作品を量産するのでない限り、それだけで食べていくのはまず不可能。唯一の例外は、海外の一流団体からの委嘱を山のように受けていた、後半生の武満さんくらいでしょう。

ともかく、最初の質問の範囲を大幅に越えて、色々と興味深いお話をありがとうございました。





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