| 野々村 |
この作品の成立過程については、大友良英氏自身によるライナーに詳しいのでそちらに譲ることにして、論点を整理するところから始めましょう。
まずは、この作品の音楽史的位置付け。いわゆる「現代音楽」(クラシックの流れに沿った創作)ではないのは自明としても、「ポピュラー音楽」の既存のジャンルに分類できるわけでもない。「即興」をキーワードにした名付け得ぬ(「フリージャズ」ともまた大きく隔たっている)音楽を目指す一群の人々が存在して、人脈的にもしばしば「現代音楽」の演奏家たちと接点があり(この作品においては、原田節、石川高ら)、音楽の精神においては、昔日の「現代音楽」のシリアスな探求の姿勢を最も良い形で(おそらく、今日「現代音楽」を自称する人々の大多数よりよほど)継承している、というあたりでしょうか。私自身は、既にこの種の音楽に慣れ親しみ過ぎてしまったような気もするので、皆様のフレッシュな印象を、是非お伺いしたいところです。
次は、「朗読と音楽」というスタイルについて。このスタイルを持った作品は、20世紀前半に多く作られている(ドビュッシー『ビリティスの歌』『聖セバスチャンの殉教』、ストラヴィンスキー『兵士の物語』、プロコフィエフ『ピーターと狼』、プーランク『象のババール』、シェーンベルク『ナポレオンへのオード』『ワルシャワの生き残り』など)わけですが、これらの作品の多くは、音楽としては魅力的でも、朗読と音楽の関係が、単なる併置に過ぎない場合が多いように感じられます。この『ミイラになるまで』は、この意味で一歩抜け出した関係性が達成されている(上記の作品群では、シェーンベルクのものがいい線まで行っていると思いますが、オペラのストーリー上のクライマックスのような書法で、極めて伝統的)と言えるでしょう。各セクションの始まりは、大友氏言うところの「ラジオ・ドラマ」のようでもありますが、しだいに白熱してくると、音楽と朗読が協動して強いインパクトを与えます。
そして、「即興」という音楽のあり方について。上記の諸作品と比べて、この作品における音楽に推進力が欠けている(ドビュッシーの音楽は、似たようなものという気もしますが)ことの原因を、即興であることに求めるのはわかりやすいですが、おそらく誤りでしょう。その原因としては、冒頭の検死報告のセクション以外はステディ・ビートに基づいていないことに尽きると思います。そして、これこそが、不定形の朗読と音楽が緊密に結び付くことができた要因でもあります(シェーンベルク作品の場合は、音楽の拍節構造に合わせて朗読が行われるわけで、これは朗読でクライマックスを作る伝統的な方法ですね)。「即興」とは言っても、この作品の場合はかなり緊密に管理されているわけで、このCDではインデックスで区切られているセクションごとにテクストを切り分け、各々に適切な編成と音楽のスタイルを当てはめることは、この録音では事前に行われているはずです。各セクション内の楽器の入りや楽想の切り替えのタイミングは指揮者=大友氏が指示を出し、しかも出来上がった録音を大友氏があらためてリミックスして、ここに聴かれる「作品」になっているわけで、奏者に任されているのは、個々のフレーズを作ることと、他奏者との重なりの微妙なタイミングを見計らいで決めること程度です。むしろ、「即興」という看板の意味は、ここでの創作プロセスは、作曲家個人のヴィジョンを演奏家が忠実に再現するというヨーロッパ近代芸術音楽のあり方とは違って、大友氏と音楽家たちが協議しながら進められたことを示唆するものでしょう。
最後に作品についてですが、私としては、とりあえずは「やっぱり面白い!」と言うしかなさそう。買ってから一年余り経っても、印象は変わらなかった。踏み込んだコメントは、皆様の意見が一通り出揃ってからということで。
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| 斉諧生 |
正直申しまして、私には、この作品と斬り結ぶ上での、知的・音楽的体力に欠けていると言わねばなりません。
大友氏は、この日記を書き続けた断食自殺者を「自分の意見を一方的に流通させることで大部分は事足りていた近代芸術のあり方そのもの」と観じているわけですが、私は、そういうことを考える以前の問題として、克明に綴られた肉体的変化の様相に怯えてしまうのです。これは、私が養老孟司氏の著書は読んでも、布施英利氏のものには手を出さないことと、並行関係にあると思います。
また、即興演奏というものに対しても、その値打ちを正しく聴き取り評価するだけの耳がないことを痛感します。奏者と奏者のインタープレイに敏感に反応することができない、ということでもあります。これはクラシックやジャズでも同様。
言い訳じみますが、そのようなわけで、あまり議論に参加できないだろうなぁと思いつつ、既に野々村さんから提出されている論点について、思うところを述べます。
(1) こうした「即興」の音楽史的位置付け
私の場合、まだ新ウィーン楽派の手前で止まってしまっているので、こういう音楽のありようには、音的に入って行きにくいです。
人間の聴感覚の原理として、協和音・定リズムがあると思うので(間違っていたら御免なさい)、こうした音楽は、基本的に不安・緊張といった感情の上にしか成立できないように思います。したがって、あまり拡がりはないのではないかと考えています。
(2)「朗読と音楽」というスタイル
野々村さん御指摘のとおり、朗読と音楽が協働するような作品って、少ないですね。技法的にも、無調以前には結合しにくかったでしょうし。この作品では良く合っているのだろうと思いますが、ただ、「ラジオ・ドラマ」に留まるか「一歩抜け出した関係性が達成されている」かは、前記のような理由で、私には判別できません。
(3)「即興」という音楽のあり方
「個々のフレーズを作ること」が奏者に任されていれば、「即興」を標榜していいのではないでしょうか。単純かな?
蛇足ですが、イントロダクション以外でも、44・45日目でマリンバ(?)が一定したリズムを刻んでいたと思います。
(4) 作品について
あまり面白くなかったと言うより、前記のような事情で、受けとめる力に欠けているのだと思います。
ただ、70分間、嫌になったり退屈したりすることなく聴けたのは、投稿せねばならない義務感からだけではなかったはずで、全体設計なり大友氏の指揮なり各奏者の演奏なりに優れたものがあったからでしょう。
つまらないことですが、53・54日目が省略されているのは何故なんでしょう?
まさかCDの不良ではないと思いますが。
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| 鈴木 |
「ミイラになるまで」なかなか面白かった。野々村さんご推薦のCDなので、もっとハードかなと思ったのですが、内容とはうらはらに、音楽の部分はけっこう和みながら聞けた。朗読は、最後の方まで元気がいいので、大きな切迫感は感じられないのが難点だが、*言葉*に没入できる人には、その想像力によって、ライヴで失神者が出たのは、なるほどと思える。
耳に聞こえる響きの質に関しては、ヴェーベルン以降のなんかの発展があったのかいな、と意地悪く聞いてしまうが、必要以上に絶叫していないのがよい。*言葉*が、なければな、と思う。いわゆる、朗読伴奏としての音楽としては優秀だと思うが、(今から約30年前ほど前 ^ ^ 、この手の詩の朗読とフリーミュージックの即行演奏はイヤと言うほど聞いた。ただし、有名ではない人のが多かったが)、音楽だけ聞いていると、各演奏者の迫力不足の感は否めない。なんか*気分を出して、さあどうぞ*的にはなかなか面白いが、表現されている*音楽*としては、音楽と言葉のセット売りの物として朗読伴奏の域を出ていないと、感じる。
ドラマとしては、観念的な作物だが、結構面白く、小生最初に書いたように、総体的には和みながら聞けた。自殺志願者の自殺方法を、断食を選んでしまったがための、悲喜劇が追体験できるのは確かだ。しかし、そこから導き出されてくるものは、*ああ、面白かった*だけで済んでしまうような気がしてならない。いわゆる、エンターテイメント作品だな、これは (^ ^ ;;;;。
ダダイズムやシュールレアリズムのメンタリティから、一歩も出ていないと言うことができるかも知れない。全体としては、面白く聞けたが、音楽云々は語ることがができないということか。
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☆予備的議論:作品にまつわる思い出話など
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| 浮月斎 |
「ミイラ」なかなか楽しめましたが、その分、不満も多い。
とりわけ、折角こういう面白い音楽的試みをやるなら、この原作では役不足であろう、というのが私の率直な結論。
まず、録音についての苦言を少々。
折角の佐野史郎の朗読でのマイクノイズがすごく気になります。全体的にやたらと高い(再生)レベル、ヒスノイズ系電気ノイズ(ハム音?)、そして肝腎のミックスが立体性に薄いと感じた。
音楽に入る前に原作について。
私は今回も含め、島田雅彦を面白いと思ったことは一度もないので、その分、評価でもろにそれが被っていることを申し添えます。
断食による肉体的変化を克明に記録という手法は、サバサバとした不気味さを訴求するものの、想像力的な凄絶さに足りず、インパクトは弱い。しかし、むしろここでは断食者のモノローグが飛躍的に俗世→形而下→形而上的な跳躍の表現にあるようだが、もっと一意な自意識への推問の方がいい。「何処にでもいそうな中年男だったが、断食が彼を根本的に変えてしまった」と島田は言うが、存在・認識ともに「断絶」諸相を作り上げたかったのなら、もう少し秘儀的な飛躍があってよいと思う。特にダンテの読書の部分に、背景的記号性をまるで感じさせない無駄がある。あれなら経典でも何でもよいのではないか。
次に朗読と音楽という形態について。
私はNHKのラジオ・ドラマを結構聞いていたが、スタンスはかなり違うけれど、結果はほとんど同じになっていないだろうか。ここで扱っているのは「詩」ではなくドラマなのであり、言葉そのものより物語の展開にこそ先行性を持つため、どうしても朗読と音楽の融合的推進は必ず破れるところが出てくるのである。真にこうした形態から蝉脱するには、音楽よりも「朗読」そのものの在り方を根本的に考え直す必要があるのではないかと思う。朗読という行為が、音楽と組み合うことで、どのような「ナラトロジイ」を形成すべきかという観点がそれだと思われ、これを踏み外すと、音楽ドラマか音楽劇と大差なくなりかねない。
「ミイラ」はその意味で、耳で聞くには、朗読行為のコンセプトそのものが単調すぎないだろうか。各セクションの冒頭に特に感心しない。音楽のバックが朗読の進行とともに、朗読に対置するのではなく、朗読の背後に回り込んで一体化し、その上で朗読そのものの表現性を立体化しているように感じられる。このあたりが「ミイラ」の妙味といえるだろう。しかし、音楽が朗読に一体化するとしても、バックが興に乗ると朗読が溶け込み過ぎる傾向にあり(そういうミックスなのだろうが)、意図はわかるが、音が朗読に代わるという「越権行為」を有効にするほど、朗読に解放力を持たせていないところにこれでは、単に朗読が聞きにくくなるだけだろう。「ラジオ・ドラマ」とするならば、ひとつの面白い方向性と思うが...。
最後に即興について。
これを即興演奏というべきか理解に苦しむが、「協働的音楽行為」という中身で考えれば、面白味があるといえるだろう。ドラマが確固としたところにある中で、朗読と如何に相即した音楽を形成するかの下地があるとすれば、創作物でもなく、譜どりもしていない「音楽ドラマ」というところでしょうか。
私がここで面白かったのは、持続音の不安定性の集積の諸相。あれは大変だろう。通常のドラマならば、うるさいからともっと抑えられている筈。断食者のメンタリティの反映なのか、ドラマのオスティナートとなっている腹痛のシンボリックな表現なのかはわからないけれど ...(^^;)。
逆に疑問なのは、音楽としてはミックスに大きな責務がある筈だが、なぜこうもミックスが平板なのか。例えばもっと浮遊させてもよいのではと思えるが...。それから、朗読の音韻と間。故意に淡々連綿とやっているのだろうが、朗読での一切の音韻的技芸を排し、その代わりにバックですべて融合・反映させるのがこの「ミイラ」の妙味としても、朗読の価値観は脱コンセプトしていないのだから、少々勿体ない気がする。特に間がないだけに、余計目立つのが残念。
何度も言うが、ドラマであるところに、朗読の演出・表現自体を抑え、それを音楽が乗じて表現するという、意欲的な音楽的表意は「ミイラ」の姿勢として最も評価できるものであろう。しかし、原作が「持続性」の中での変化における表出冥利にあるところ、むしろこの原作のフレームの狭さに演奏家自体のイマジネーションはかなり抑制されていやしまいかとも思う。
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| 工藤 |
単純に「面白かった」というのが率直な感想。はじめに断っておかなければならないのは、僕は全くといってよいほど文学的な素養はなく(謙遜とか卑下とかとらないで下さいね)、この原作についても「へぇ」といった以上の感想を持つことはありませんでした。これはクラシックの歌曲においても全く同じです。「どっからこんなヘンテコなテキストを見つけてきたんだろう」と感心する以外には、特に感動したりすることはありません。ただ、良い歌曲の場合にはまず例外なく、一つ一つの言葉に対する音楽的直感の鋭さに驚かされます。
「ミイラ」を“歌曲”と表現するのは違うと思いますが、上記のことが「ミイラ」についてもそのまま当てはまりました。要するに、ヘンテコなテキストの朗読の調子、そして音楽が醸し出す雰囲気、それらを非常に“面白く”感じたわけです。
とはいえ、「ミイラ」の場合はテキストが全く分からない、すなわち未知の外国語だった場合には恐らく聴き通すことのが退屈でしょうから、やはりテキスト自体の価値も評価の対象になってくるのだとは思います。ただ、その評価を放棄してもなお、“面白い”と感じ得る音楽的内容が僕には感じられました。これは、“即興”の持つ良い方の側面が出た例なのでしょうね。
ここで、このディスクにおける“即興”について疑問があります。それは、どのようにこの録音が行われたのか、ということ。ライブのように全員が同時に演奏をして、それを録音しているのか、それとも何らかの手順に基づいて別々に演奏したものをミキシングしたのか?これで“面白かった”という評価が変わるわけではありませんが、興味があります。
蛇足ですが、このアルバム、ジャケットもなかなかセンスが良くて楽しいですね。
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