No.14 : Kegel conducts Sibelius #4 (2)



浮月斎 えっ?出番ですか?(^^;)
今回はこういう状況ですので、ご辞退申し上げていたのですが、シベリウスの#4、ざっと聴き直しましたので、少しだけ書きます。(^^)

細密に聴き直していないので、何ですが、ケーゲルのシベリウスは言ってみれば、ロマンとかイマジネーションに働きかける叙情というものを描く方向には全くなくて、この作品を冷徹に彼のカラレーションで描き切っていますね。私のイメージでは「もっとも稠密な#4」というところでしょうか。ただ欲を申せば、これは「濃すぎる」かもしれない。この演奏には「逃げ場」がないせいでしょうか。例えば、セルのアニバーサリイの#4を聴くと、冷徹に描き切る指揮という点では、ケーゲルと対極的な質感で、テクスチュアの見事さをセルは聴かせてくれました。私はもっとさらりとした冷徹さの方が、この作品の質感に相応しいように思います。

鈴木 ただ、形式としての交響曲は、マーラーはお手本にはならないので(^ ^ ;、やはり、ブラームスの、別のテンペラメント(大半は各作曲家の生国に縛られますが)を持った後継、と感じてしまう部分があります。
3番まではそう言えるかもしれませんが、4番以降にそれを感じることはむしろないのではないでしょうか?極論をすれば、交響曲という形式の意匠をどんどん消去していく過程こそシベリウスではないかと思う訳です。音楽の構成・叙述がどんどん簡素になっていくなかで、音楽そのもののイマジネーションは逆に非常に豊穣になっていく。ブラームスはひたすら交響曲に対しては分厚い化粧を施しているだけです。

鈴木 ケーゲルの演奏で聞けるのは、ワルターやイッセルシュテットの系統とは別の系統の、本来ドイツ音楽が持っていた、「情念どろどろだけど、それをザッハリッヒに演奏してしまう」という部分もあったはずですから。
ケーゲルは、私にとっては大変に厳格な表現において情念の溢出を感じさせることの方が多いです。それはザッハリッヒという次元ではないと考えています。

鈴木 4番は、過渡期の作品から受ける晦渋な印象はありますね。これ以降、音楽的にはなんだか単純になって、より深みを増して行くんだと思います。
そうですね。この作品が一番深みがあります。私は、4番と7番が一番好きです。

佐々木 このケーゲルの演奏で聴ける、ナマの葛藤や暗い情熱といったものはドイツロマン派に通じるものがあるのかなと。ケーゲルの演奏が、この曲を後期ロマン派に引き寄せているんじゃないでしょうか。
鈴木 ドイツロマン派というか、ドイツの音楽家も一枚岩ではないわけで、その辺りの聞き分けと言いましょうか。このあたりの議論になると、浮月斎さんの出番だと思うんだけどなあ(^ ^)。
うーん。鈴木さんの言い分で宜しいかと思いますけれど...。この演奏にはシェーンベルクの「ペレアスとメリザンド」の味わいに近いものを想起させる感触が部分的にありますね。でも、#4はシベリウスの作品の中で最もロマンから離れた味わいでなくてはならないと思いますが、ケーゲルは、彼なりに「正しく」それを捉えていると私は思います。

ケーゲルには後期ロマン派に繋がる「濃さ」は感じられますが(それが佐々木さんの言う後期ロマン派につながるのではないかと思いますが)、ケーゲルがここで引き寄せているものは、むしろ「緻密な散文」なのではないかと思います。いい加減な表現ですが、ザンデルリンクやカラヤンあたりと決定的に違うのは、ケーゲルは#4の音楽語法を少しも曖昧にせず、暴力的にくっきりと音の翳を描けばそれだけ、この作品からは馥郁とした香りの世界からは遠のき、ロマン的なイマジネーションからは乖離していくような気がします。

佐々木 これは、先ほども触れましたが、なんだか後期ロマン派に通じるような演奏の所為だと思うのです。
鈴木 そうですね。後期ロマン派的シベリウスの演奏ですかね。確かに。
私はむしろ全くそういう聴き方ではなくて、只管にケーゲルのイマジネーションによって描かれただけかなと。という意味では、彼のベルリオーズの「幻想」と同じスタンスであるという気がします。まぁ、あれも後期ロマン派的と言われればそれまでですが。(^^;)
そういう意味では、レヴァイン&BPOの4番なんかどうですか?

鈴木 浮月斎 ケーゲルのシベリウスは言ってみれば、ロマンとかイマジネーションに働きかける叙情というものを描く方向には全くなくて、この作品を冷徹に彼のカラレーションで描き切っていますね。
同曲では、カラヤンやバルビローリ、ベルグルントの演奏が、やはり優れていると思います(FINLANDIAの新録はまだ聞いていない)。しかし、その裏側でもこのような演奏が可能だという、ものすごくよい例でしょうね。ケーゲルのシベ4は。

鈴木 やはり、ブラームスの、別のテンペラメント(大半は各作曲家の生国に縛られますが)を持った後継、と感じてしまう部分があります。
浮月斎 3番まではそう言えるかもしれませんが、4番以降にそれを感じることはむしろないのではないでしょうか?
第5番や、第6番にも濃厚にその痕跡があると思います。なぜか、第6番を聞くと、ブラームスの遠いこだまを聞いているような気にさせられるときがあります。

浮月斎 極論をすれば、交響曲という形式の意匠をどんどん消去していく過程こそシベリウスではないかと思う訳です。
これは、その通りだと思います。ただ、交響曲の表面上の古典的な姿はけっこう堅持されていて、第7番でぐずぐずに崩したような感じはしますが。シベリウスは、けっこう若いときに交響曲への筆を折っていますが、交響曲という形式への幻滅だったのかな?以降、室内楽が多くなりますね。

浮月斎 ケーゲルは、私にとっては大変に厳格な表現において情念の溢出を感じさせることの方が多いです。それはザッハリッヒという次元ではないと考えています。
これは、言葉の使い方だけで、言わんとしているところは同じだと思います(^ ^ ;。

浮月斎 ザンデルリンクやカラヤンあたりと決定的に違うのは、ケーゲルは#4の音楽語法を少しも曖昧にせず、暴力的にくっきりと音の翳を描けばそれだけ、この作品からは馥郁とした香りの世界からは遠のき、ロマン的なイマジネーションからは乖離していくような気がします。
ほらね。やはり出番ですよ(^ ^)。だって、ケーゲルだもん。「暴力的にくっきりと音の翳を描けばそれだけ」...ハードボイルドです(^ ^;。

浮月斎 私はむしろ全くそういう聴き方ではなくて、只管にケーゲルのイマジネーションによって描かれただけかなと。
というより、ケーゲル自体が後期ロマン派の精神性を引き継いでいるのでは、という部分はありますね。ヴェーベルンから、シューリヒト、ケーゲル、ギーレンと続いて行く、個性は異なりますがドイツの鋼のような表現意欲というか...。鋼と言っても、トスカニーニとは別の意味ですが...。言葉の使い方は、難しい(^ ^)。

浮月斎 鈴木 同曲では、カラヤンやバルビローリ、ベルグルントの演奏が、やはり優れていると思います(FINLANDIAの新録はまだ聞いていない)。
佐々木さんの更新を拝見してみて、私もFINLANDIAの新録を聴いてみたくなりました。私はカラヤン旧盤が好きですね。ザンデルリンク盤は、斉諧生さんが申しているとおり、4番ではどうにも音楽語法に齟齬が感じられます。ザンデルリンクは5番以降がいいですね。

鈴木 しかし、その裏側でもこのような演奏が可能だという、ものすごくよい例でしょうね。ケーゲルのシベ4は。
そうですね。こういう指揮もできるのだなぁと深さを感じますね。

鈴木 シベリウスは、けっこう若いときに交響曲への筆を折っていますが、交響曲という形式への幻滅だったのかな?
交響曲という形式自体がシベリウスには体質的に合わないのだろうと思います。7番は1楽章の交響曲というより、やはり交響詩的なフレームに成り下がっていますしね。交響曲のフレームとしては5番が最後なんでしょうね。

鈴木 「暴力的にくっきりと音の翳を描けばそれだけ」...ハードボイルドです(^ ^;。
そういう意味では「ハード」ですよね。でも斉諧生さんがおっしゃっていたと思いましたが、ここでのケーゲルは暴力的なほどドロドロしていて、それが却ってケーゲルらしいと思いました。(^^)

鈴木 というより、ケーゲル自体が後期ロマン派の精神性を引き継いでいるのでは、という部分はありますね。
#4に限定せず、ケーゲル一般に関して言うことであれば、もう全然賛成です。ただ、これは私の聴きかたでしかないのですが、シベリウスだけに関して言えば、後期ロマン派風の精神性という側面は感じましたが、実際にここで表現されているのは、もっと惨たらしい散文精神ではないかと思いました。

鈴木 個性は異なりますがドイツの鋼のような表現意欲というか。
彼の「グレ・リーダー」なんか聴きますと、腐敗芳香に満ちた後期ロマンの精華というより、たしかにその「鋼のような表現」というか、ぎっちりして水も漏らさない濃さというものに引き込まれていきますね。シベリウスもそれに近いと思います。

斉諧生 作曲家論に入り込むと話題が拡散してしまう恐れがありますので、なるべく演奏論の範疇に踏み止まるよう、自戒しつつ...。

佐々木 ベルグルンドを聴いた後にケーゲルを聴くと、最初の弦の音色からして、本当におどろおどろしくてギョッとしました。
そうそう、そうなんですよ。最初にケーゲル盤聴いたときは、もう、ほとんど、ゾッとしました。

佐々木 ひとつには、音色がまるで違うこと。一言で言うと、重くて暗いトーンということでしょうか。
まったくそうですね。

佐々木 どこかマーラーを連想させるようなアーティキュレーションが、散見される。
フレーズなり音色感なり、マーラーっぽい楽句が出てきます。第4楽章終結のオーボエの下降する跳躍音型なんか、マーラーそっくりだと思いました。その少し前の弱音器付きのホルン四重奏なんかも。

山下 ベルグルンドの演奏は美しく透明感があったのですが、不思議と印象に残っていません。
私にとっては、ベルグルンドの演奏が、自分のスタンダードと一致する感じです。ボーンマス響盤は、今は手許にないのですが、今日はフィンランド放送響盤('68、FINLANDIA)を聴いて、あらためて、感心しました。雄渾で、緊張感があって。チェロ独奏は絶佳、フルートも可憐、Vn合奏の美しいこと!

山下 あくの強いものを先に聴いてしまうとあっさりとしたものでは満足ができなくなるのかもしれません。
同様の意味で、ケーゲル盤で最も忘れ難い表現は、第3楽章の終結近く、前に『全合奏による嘆きの歌に打ち下ろされるティンパニの鉄槌』と書いたところです。ここの軟弱な演奏には、ちょっと耐えられなくなってきています。

鈴木 「クールに燃えるハードボイルドな演奏」といった感じか。ウェットでどろどろした部分を、なんの躊躇もなく演奏してしまうから、上記のような表現になりました(^ ^ ;。音楽の内在するものを引きずり出したというか。
了解しました。私はどうも「ハードボイルド」っていうと、ミステリ小説の方から来る印象が強くて、そうですね、「ザッハリッヒ」に近い感じを持つ言葉です。

鈴木 同曲では、カラヤンやバルビローリ、ベルグルントの演奏が、 やはり優れていると思います。
カラヤン未聴ですが、バルビローリは今日聴き直しました。やはり、いい演奏ですね。弦にヒューマンな味わいがあって、しかし厳しさも欠けていません(金管やティンパニ)。

浮月斎 私のイメージでは「もっとも稠密な#4」というところでしょうか。ただ欲を申せば、これは「濃すぎる」かもしれない。この演奏には「逃げ場」がないせいでしょうか。
ああ、上手く表現されますね!

浮月斎 この演奏にはシェーンベルクの「ペレアスとメリザンド」の味わいに近いものを想起させる感触が部分的にありますね。彼の「グレ・リーダー」なんか聴きますと、(中略)シベリウスもそれに近いと思います。
「ペレアス〜」全曲をギーレン盤、「グッレ」はケーゲル盤で前奏曲・間奏曲のみ聴きましたが、なるほど、どこか近い感じがしますね。いつか、ケーゲルの「ヴォツェック」やりましょうよ。

佐々木 なんだか後期ロマン派に通じるような演奏の所為だと思うのです。
鈴木 そうですね。後期ロマン派的シベリウスの演奏ですかね。
浮月斎 私はむしろ全くそういう聴き方ではなくて、只管にケーゲルのイマジネーションによって描かれただけかなと。
私も同意見です。このシベリウスは、ケーゲルとしては珍しいアプローチでは?マーラーでも、あまり陰惨な演奏ではなかったと思います。

浮月斎 セルのアニバーサリイの#4を聴くと、冷徹に描き切る指揮という点では、ケーゲルと対極的な質感で、テクスチュアの見事さをセルは聴かせてくれました。
セル盤聴きました。管楽器が生暖かい音で、少々減点ですが、弦合奏は素晴らしいですね。ライヴで、あそこまで到達するのですから、やはり凄いコンビです。第4楽章で鉄琴にチューブラ・ベルを重ねたのも、ワタシ的にはマイナス評価。

浮月斎 私はもっとさらりとした冷徹さの方が、この作品の質感に相応しいように思います。
この「もっと」は、ケーゲル盤に対してでしょうか?あるいはセル盤?私は、そう感じます。
第4以降のシベリウスの交響曲には、人間的な感情を注ぎ込む余地がないように思うのです。「思い入れ」など邪魔でしかない、と。第1楽章冒頭のチェロ独奏とか、第3楽章冒頭のフルート独奏とか。ヴィブラートや大げさなクレッシェンドは、排除してほしい。

浮月斎 そういう意味では、レヴァイン&BPOの4番なんかどうですか?
聴きました。やっぱりBPOって名人揃いですね。特に木管には感心。弦合奏も、ヴィブラートを大きめに掛けた時でも、掛け方が揃っているからか、音が濁らないですね。問題はレヴァインで、これを聴くと、鈴木さんのおっしゃるブラームスの、別のテンペラメントを持った後継に感じられなくもないです。(^^;

dolceやespressivoの指定があると、すぐ甘い表情をつけますし、第3楽章のクライマックスの弦なんか、ほとんどブラームスの第3の3楽章みたいな盛り上がらせ方。第4楽章の鉄琴にも意味を感じていないようです。

佐々木 浮月斎 只管にケーゲルのイマジネーションによって描かれただけかなと。
ケーゲルのイマジネーションというのはおっしゃる通りですね。「後期ロマン派的」については、具体的にどうこうと言うのは私には難しいのですが、ケーゲルのこの盤を聴いていると、他の盤よりもマーラーやR・シュトラウスを何故か連想してしまうのです。勿論、部分的にですが。他の演奏より劇性を強く感じさせる点や、この盤の音色の所為かも知れません。

浮月斎 彼の「グレ・リーダー」なんか聴きますと、腐敗芳香に満ちた後期ロマンの精華というより、たしかにその「鋼のような表現」というか、ぎっちりして水も漏らさない濃さというものに引き込まれていきますね。シベリウスもそれに近いと思います。
「水も漏らさない濃さ」というのは上手い表現ですね!聴き返してみると、まさにそういう感じがします。色々聴いてみると、ケーゲル盤の表現力はやはり素晴らしいですね。

鈴木 同曲では、カラヤンやバルビローリ、ベルグルントの演奏が、やはり優れていると思います。
斉諧生 カラヤン未聴ですが、バルビローリは今日聴き直しました。やはり、いい演奏ですね。弦にヒューマンな味わいがあって、しかし厳しさも欠けていません(金管やティンパニ)。
カラヤン、今日聴き直しました。隅々まで、カラヤン臭は濃厚ですが、改めて聴いてみると、これも凄い演奏ですね。別世界に連れて行かれそうな感じ。

浮月斎 そういう意味では、レヴァイン&BPOの4番なんかどうですか?
斉諧生 聴きました。やっぱりBPOって名人揃いですね。
私も聴きました。全然この曲ぽくない演奏ですが、面白かったですね。

斉諧生 問題はレヴァインで、これを聴くと、鈴木さんのおっしゃる『ブラームスの、別のテンペラメントを持った後継』に感じられなくもないです。(^^;
まさにおっしゃる通りで、この演奏は全く別物ですね。表情づけは濃いいけど暗さが無いというか、ある種、あっけらかんとやってるので吃驚しましたが、BPOの威力でちゃんと聴かせちゃいますね。鉄琴のあっけらかんさも随一ですよね。
色々聴いていくうちに、ケーゲル盤の評価が随分上昇してきました。

浮月斎 斉諧生 このシベリウスは、ケーゲルとしては珍しいアプローチでは?マーラーでも、あまり陰惨な演奏ではなかったと思います。
マーラーあたりと比べると(#1、#4ですけど)、かなりイッている口の演奏だとは思いますが、私は意外とすんなりケーゲルに汎通するフレームと感じられるのですが...。

斉諧生 セル盤聴きました。管楽器が生暖かい音で、少々減点ですが、弦合奏は素晴らしいですね。ライヴで、あそこまで到達するのですから、やはり凄いコンビです。
結構厳しい評価ですねぇ。(^^;)
聴き直していないので細かく言えないのですが、管は確かにアレですが、質感−特に弦−が好きですね。でもおっしゃるとおり、もっとクールにできそうな気もしましたが。

浮月斎 私はもっとさらりとした冷徹さの方が、この作品の質感に相応しいように思います。
斉諧生 この「もっと」は、ケーゲル盤に対してでしょうか?あるいはセル盤?私は、そう感じます。
これはセル、ケーゲル両方です。でも、ケーゲル盤に対してそういうものを求めても詮無きことと考えますので(^^;)、どちらかといえばセルになりますか。ライブでなければもう少しクールな録音ができたかもしれませんね。

斉諧生 問題はレヴァインで、これを聴くと、鈴木さんのおっしゃる『ブラームスの、別のテンペラメントを持った後継』に感じられなくもないです。(^^;
私がレヴァインを挙げたのは、ケーゲルの位置に連なるというよりは、ケーゲルとは別の次元でこの作品をこの作品足らしめない要素があるという意味で類縁なのでは?という心算でしたが、これを読んで違う意味でも然りと感じました。BPOみたいなオケの力で押し切ってしまうのもひとつの面白さではあるのかなとは思いますが、やはり細部をどう詰めていくかはレヴァインには十分に読めていないのかもしれませんね。

佐々木 ケーゲルのこの盤を聴いていると、他の盤よりもマーラーやR・シュトラウスを何故か連想してしまうのです。勿論、部分的にですが。
そうですね。シベリウスには通例求めないドラスチックな表現性を追求しているという点で、ケーゲルのこの演奏は、他のシベリウス演奏とは同列に扱えないことはよく理解できます。

佐々木 カラヤン、今日聴き直しました。隅々まで、カラヤン臭は濃厚ですが、改めて聴いてみると、これも凄い演奏ですね。
正直申し上げて、私はカラヤンの4番(DG)がいまだに好きです。カラヤンの面白さがよく現れたものだと思いますね。でも、これが嫌いという人がいても不思議はないけれど。

佐々木 (レヴァイン&BPOの4番)まさにおっしゃる通りで、この演奏は全く別物ですね。表情づけは濃いいけど暗さが無いというか、ある種、あっけらかんとやってるので吃驚しましたが、BPOの威力でちゃんと聴かせちゃいますね。
彼のシベリウスは、2番もそうでしたが、作品を覆うべき空気感が希薄というか、私が思う「ザッハリヒ」のひとつの形かと考えます。聴き方を変えれば面白いのですが、後々まで聴きたいと思う演奏ではありません。4番もそうです。表情は彼なりによく味付けされている反面、さすがに米国のシベリウス熱で育った人らしく、細部は通例のロマンチシズムで片づけているところは仕方がないとは思っています。

佐々木 色々聴いていくうちに、ケーゲル盤の評価が随分上昇してきました。
そうでしょう、そうでしょう。(^^)
私のこの曲に対する求め方にケーゲルが一番近いのですが、うっかり近寄ると火傷(凍傷?)してしまうくらいの濃さについてゆける体力があるかが問題ですね。

斉諧生 佐々木 カラヤン、今日聴き直しました。隅々まで、カラヤン臭は濃厚ですが、改めて聴いてみると、これも凄い演奏ですね。
佐々木さんにこう書かれれると、聴かずにおれなくなりますね。今日、ついに(節を屈して?)買ってきました。(^^)

佐々木 (レヴァイン&BPOの4番)この演奏は全く別物ですね。表情づけは濃いいけど暗さが無いというか、ある種、あっけらかんとやってるので吃驚しましたが、BPOの威力でちゃんと聴かせちゃいますね。
HPも拝見しました。レヴァインも本望かも。(^^)
私はどうも、シベリウスの後期交響曲の演奏は、何か*ひんやり*とした空気を感じさせてほしいという、自分の嗜好に拘泥しているようですね。

浮月斎 (レヴァイン&BPOの4番)私が思う「ザッハリヒ」のひとつの形かと考えます。
ははあ。そういう捉え方をされているわけですか。

斉諧生 この「もっと」は、ケーゲル盤に対してでしょうか?あるいはセル盤?
浮月斎 これはセル、ケーゲル両方です。
セルには期待しただけに、ちょっと点が辛くなりすぎたかもしれません。(^^;
ケーゲルも、曲によっては冷徹に磨き上げた(音色も克明さも)アプローチをしていますから、この曲や#7も、そういう演奏が期待できたかもしれません。でも#4のアプローチで#7を鳴らしたら、どうなったでしょう?

斉諧生 ケーゲルとしては珍しいアプローチでは?
浮月斎 私は意外とすんなりケーゲルに汎通するフレームと感じられるのですが...
なるほど...。ケーゲルのディスク、もっと色々聴いてみる必要がありますね。

浮月斎 私のこの曲に対する求め方にケーゲルが一番近いのですが、うっかり近寄ると火傷(凍傷?)してしまうくらいの濃さについてゆける体力があるかが問題です。
まったく、言い得ておられますね。(^^)。

工藤 ちょっとばかり僕の感想を述べさせてもらいましょうか。でも、今皆さんの評価を読み返してみたのですが、本当に適確な表現で議論が進められていますので、もう僕の出る幕はないな、とも思っています(^^;。

うまい表現が浮かばないのですが、「どこでもドア」を開けてみたらそこは富士山の樹海のような森で、戻ろうと思ったらドアはどこかへ消えてしまっている、そんな雰囲気を出だしに感じました。で、ケーゲルは、そんな状況に置かれた人間の心理みたいなものを、実に精密に描き出しているのです。シベリウスといえばやはり“フィンランドの自然”なのでしょうが、他の交響曲と比べるとこの4番は異様なまでに“人間臭さ”を感じさせる曲だと思うのですが、ケーゲル盤を聴くとそれがよく分かる。そういう意味での対極は、おそらくラトル辺りになるのでしょうね。で、全体的に救い難いまでの暗いトーンに覆われてはいるのですが、でもその中で悲しみとか絶望だけではなく、喜びや楽しさなどが実に美しく表現されていると思うのです。

この演奏には大変感心しました。音楽ってすごい、人間って素晴らしい、と青くさいことを大声で叫びたくなるような感じです(^^)。以下、皆さんのご意見に簡単にコメントさせて頂きます。

斉諧生 しかし、ケーゲルが表現しているのは、まさしく*シベリウスの深淵*にほかならないのです。
まさに“深淵”という言葉がピッタリではありますね。ただ、上述のように、僕はそこに“暗闇”だけを聴き取ったのではありません。

斉諧生 具体的な分析は難しいのですが、清澄な弦・木管と硬質に咆哮する金管が特徴と言えるでしょう。奏法上の特質があるのでしょうか?このあたりは工藤さんにお尋ねしたいところです。
奏法的にはオーソドックスなドイツ流儀でしょう。金管の音色など、完全にそうです。斎諧生さんが感じられている部分は、純粋にケーゲルの音作りに関与することだと思います。

斉諧生 チェロが主題の断片を出しますが、この響きは「自然の憂愁」ではなく、もっと人間的な孤独ではないでしょうか。それに続くフルートは絶唱そのもの。
そう、その通りなのです。でも、“人間的な孤独”が表現されているのではなく、“孤独な状況下にある人間の心理”が全曲に渡って表現されているように思うのです。

鈴木 第4楽章は、第1楽章と比較すると、音楽そのものに竜頭蛇尾の印象があるが、ケーゲルは第1楽章から第4楽章までの構成感も大切にしているようだ。
全く同感で、そういう意味で「どこでもドア」という譬えを使ってみたのです。突然ほうり出されて突然引き戻される、そんな幻想的なおとぎ話、といった雰囲気が読めないときっとこの曲は理解できないのだと思います。

鈴木 全体に*白夜の国のシベリウス*からはほど遠い演奏だが、この交響曲のイメージにとらわれない快演(怪演?)だと思う。
極論すれば、この曲に対する一般的なイメージの方が間違っているのだとも言えるような気もします。ちょっと話がそれますが、

鈴木 同じドイツの指揮者でも、カラヤンはその辺はエトランゼですが、フィンランド情緒は濃厚ですが。
そうですかねぇ?カラヤンも(僕は結構好きですが)“フィンランド情緒”とは異質なもののように感じられますが。なかなか独立もままならない弱小国(ちょっと言い過ぎか(^^))だからこそはぐぐくまれたであろう、はかない情緒はベルグルンドくらいにしか感じたことはないです。ロジェストヴェンスキー盤のように、侵略者側からの“フィンランド情緒”ってのも、まあ面白いですが(^^;。

斉諧生 まったく凄まじい表現力です。
本当にそうですね。この曲を“名曲”と呼ぶことには抵抗がありますが、ケーゲルの掘り下げに耐え得る内容を持っていることだけは確かなようです。

斉諧生 この点、#4の世界は、他のシベリウスの後期交響曲の世界とかけ離れています。他の曲は、概ね、もっと晴朗ですし、人間感情を超越するようなところがありますから。
1〜3番とも全く違う世界ですよね。これらの交響曲は、俗に言う「愛国心」のような、そういう境遇にいれば誰にでも(ちょっと言い過ぎですが)書ける内容しか持っていないとも言えますが、4番は同じ人間の感情といっても、誰がこんなことを感じられるのか、っていうようなレベルのものですものね。でも、ケーゲルはさらにその先を行っていますね。恐らくこんな響きはシベリウス自身、全く想像もしていなかったと思います。演奏芸術の真価を見せつけられたような気がします。

鈴木 小生は、この手の演奏大好きなので、毎日聞きたいとは思いませんが、裏ファーストチョイスに入れてしまうかも(^ ^ ;。
え?“裏”ですか?(^^)僕だったら堂々の第1位ですけどねぇ。

浮月斎 ただ欲を申せば、これは「濃すぎる」かもしれない。この演奏には「逃げ場」がないせいでしょうか。
曲が終わった瞬間に解放されるんですよね。音楽は音が鳴っている間だけのものではない、ということをこれほど実感させてくれる演奏もないと思います。

浮月斎 ザンデルリンクやカラヤンあたりと決定的に違うのは、ケーゲルは#4の音楽語法を少しも曖昧にせず、暴力的にくっきりと音の翳を描けばそれだけ、この作品からは馥郁とした香りの世界からは遠のき、ロマン的なイマジネーションからは乖離していくような気がします。
そうです、そうです。こういうことを僕も言いたいのです。

浮月斎 私はむしろ全くそういう聴き方ではなくて、只管にケーゲルのイマジネーションによって描かれただけかなと。
そうですね。で、そのイマジネーションが曲の本質を捉え切ったところから出てきているから、この演奏が素晴らしく感じられるのだと思います。

山下 議論で出ていたCDのうち気になったものを何点か聴いてみました。中心はカラヤン/BPOとベルグルンド/COEです。

山下 あくの強いものを先に聴いてしまうとあっさりとしたものでは満足ができなくなるのかもしれません。
斉諧生 同様の意味で、ケーゲル盤で最も忘れ難い表現は、第3楽章の終結近く、前に『全合奏による嘆きの歌に打ち下ろされるティンパニの鉄槌』と書いたところです。
どちらの演奏も基本的にはこの傾向があり、濃い味付けに慣れてしまったら薄味じゃ物足りなくなるのでは?と思い聴いてみましたが、逆に透明感のある演奏が新鮮に思え、特にベルグルンド/COEの演奏のアプローチが私の感性にはぴったりはまりました。

また、無駄な音・装飾がないこの曲だと演奏者の力量が透けて見えるようです。そういった点では、佐々木さんがおっしゃっていたような木管のコクという点でカラヤンの演奏はすばらしいものでした。極端な言い方をするならば、ケーゲルほど闇でもなく、ベルグルンドのように透明で清涼感があるわけでもなくその中庸なところとして、長い目で見たら一番手が伸びるディスクになっているかもしれません。

ライナーノーツに載っていたベルグルンドのインタビューで、「作曲された頃に比べてチェロの音色がストレートになっているので抑えが必要だ...」といった一節がありましたが、ケーゲルの演奏で特に印象に残ったのがチェロのおどろおどろしさですので、鈴木さんがおっしゃっていた裏側の演奏という表現がまさに的確だと思えてきました。

鈴木 全体に*白夜の国のシベリウス*からはほど遠い演奏だが、この交響曲のイメージにとらわれない快演(怪演?)だと思う。
工藤 極論すれば、この曲に対する一般的なイメージの方が間違っているのだとも言えるような気もします。
この点に関しては、あまり多くこの曲を聴いているわけではないので何ともいえませんが、やはり一般的なイメージであればベルグルンド的な演奏に落ち着くでしょう。そういった意味で、本日はリトマス試験紙??となりうる演奏を何度も聴きましたので、再度これからケーゲルを聴いてみます。深淵、闇...といった点で違った印象が得られるかもしれません。

斉諧生 工藤 音楽ってすごい、人間って素晴らしい。
これは読む方も感激するコメントですね!パレーの幻想は野々村さんに、ケーゲルのシベリウスは工藤さんに、それぞれ高く評価していただき、提案者冥利に尽きます。

工藤 “孤独な状況下にある人間の心理”が全曲に渡って表現されている突然ほうり出されて突然引き戻される、そんな幻想的なおとぎ話
なるほど。こういう聴き取りもあるのですね。もう一度聴き直そうかな。

工藤 極論すれば、この曲に対する一般的なイメージの方が間違っているのだ
たしかに、きわめて「人間臭い」と聴けるとも思いますが、ケーゲル盤の響き方は、やっぱり「裏」じゃないかなぁ...(根拠薄弱ですけど)。

工藤 恐らくこんな響きはシベリウス自身、全く想像もしていなかったと思います。演奏芸術の真価を見せつけられたような気がします。
この議論の締めはこのコメントじゃないかな、と思いました。(^^)。





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