| 山下 |
工藤 これはどうでしょうか。細部に拘る指揮者は他にもいますが、ラトルは細部に光を当てつつ大局的な流れも実現できる、いわば「木を見て森を見る」演奏家だと僕は思っています。これ以外にラトルのマーラーを聴いていないので一般論は言えませんが、決してマーラーに不向きな指揮者ではないように思えます。
ラトルのマーラーは、あまり多くの演奏を聴いていませんので(9番は、他に購入したいCDが多かったので結局購入しませんでした。)何ともいえませんが、私も不向きとまではいかないような気がしています。
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| 浮月斎 |
リプライとしては少々中途半端ですが...。「大地の歌」と第4番の2盤を聴いてみたラトルのマーラーですが、私には、結局、彼がマーラーに何を追求しようとしているか理解できませんでした。意欲と結果が調和しないというより、ラトルのマーラー観は何だかバロック的な方向に引き摺られている気がしてなりません。求めるべき方向性は実験としては面白いのですが、表現の濃度が如何せん伴っていない。
山下 やはり聴き始めはつまらなく感じました。が...、何度か聴いてみるとなかなかどうして面白味を感じる演奏でした。
私もそうでした。しかし全体としては、やはりそれほど記憶に残るものはないという感じですね。聴き返してみて、面白いなと感じたのは2楽章のいびつさの徹底ぶりでした。
山下 全体を通して聴いてみると、特に第1楽章で極端なテンポの揺り動かしもなく自制されていて、あえて均質な演奏にしようという意図が感じられる気がしました。
ここは逆に、テンポよりも敢えて「部分の位相差」をかなり細かくラトルが出しているように感じました。私にはむしろそれが違和感があります。それは、
鈴木 このマーラー第4番でも、どういう訳か生理的に受け付けない音質のため、最後まで聞き通すのに苦痛を強いられる感じだ。
という音色の面とも非常に関連があると思いました。どうしてもこの作品には、ぎとぎとの甘さか、ある種澄明・不可思議な水位が必要なのではないかと...。
鈴木 第3楽章は、非常に美しく弦楽器や木管楽器が広がって行くのだが、「歌」に乏しい感じがする。これは第1、第2楽章でもそうなのだが、テヌートすべきところが徹底し切れていないきらいがあるためだろうか。カラヤンのやりすぎの演奏もあるが、ラトルではそのため音楽がポツポツと途切れてしまう。
鈴木さんの謂いはとてもよくわかります。ただ「歌」よりラトルの求めている質感の問題かなと私は感じました。そしてボツボツ切れて聞えるのも、意識的な計らいなのだろうなと。ただ、何度聴いてもラトルはここで、乳白色系の静謐さを求めているのか、実は背景にある憧憬を灰色系の陰翳を取り混ぜて描いているのか、理解できませんでした。ただ何か「濃く」は描こうとしているようです。
工藤 まず、ラトルの意図が全く見えません。スコアの細部には極めてアバウトだし、かといって音楽の大局的な流れが尊重されている訳でもない。選ばれているテンポ自体は適切なものだと思いますが、その変わり目でオケのコントロールができていない。
そうですね。結果として、この鈍く鄙びたがさつな音が、どうもこの作品の今までとは違う側面を出そうとしているぞと言いたげだが、はっきり言えていないという隔靴痛痒が厭なんです、私は。
工藤 ケーゲルの素晴らしいこと!ケーゲルのような“闇”はラトルの芸風ではないでしょうが、しかしこの徹底した細部へのこだわりこそが、ラトルの目指していたもののはずだという気がしてなりません。
ケーゲル盤を聴いて、こういう自分が立つ地面とは別世界のクールな静謐さを感じさせられるます。ラトルはここまで「謐」はできなくても「閑」のレベルではないだろうと思いました。ニュアンスの評言が難しいのですが、「濃厚さの追求次元」が何かズレているような気はそのままなくなりませんでした。
斉諧生 初演の悪評は、交響曲なのに「鈴」「変則調弦のヴァイオリン」といった色物を導入したこと、また何よりも、最終楽章が、たいそう軽いし、歌詞はナイーヴだし、およそドイツ音楽の交響曲かくあるべしという理念を大きく裏切ったことへの反感ではなかったかと想像します。
そういう意味では、冗長長大な第3番の呆れるスケールの方がまだ捉えどころはあるように思えます。私には、どうもこの作品はマーラーの交響曲の中でのインターリュードとしてくらいしか捉えようがありません。私の場合、マーラーはシリアスかつミステリアスな分裂と接合の運動と離反みたいなところと、幸福的大団円を想定しながら造反する厭世観みたいなものが面白いのだけだからなのかもしれませんが。
山下 私は、何度か聴いてみて*意図的な*自制の表現ではと感じたのですが、鈴木さんが書かれているように録音の影響や、単に*何も考えずに*振ったらこうなったという見方もありますね。
自制という言葉には違和感がありますね。ラトルとしてはかなりやりたいことはやっているようには思うのです。そういう意味で「単に*何も考えずに*」というのもやはり違うでしょう。どうにも的確に批評できないのですが、この演奏は余分なものが付加されているからではなく、決定的にラトルがやりそうな何かが足りないのが問題なのではないかと思うのです。それは、もしかすると、
工藤 これ以外にラトルのマーラーを聴いていないので一般論は言えませんが、決してマーラーに不向きな指揮者ではないように思えます。
決して不向きではないとは思いますが、先に述べたとおり、私もラトルの「大地の歌」では明快な練磨をやはり感じませんでした。彼がマーラーの世界でやれる何かとは逆に何なのかを考えると、彼がいまさら付け足すべきユニックさがむしろないような気もしなくもありません。ラトルのマーラーへの求められるものと録音結果の間のジレンマが、「大地の歌」同様に第4番にもあるというのは首肯できます。私が感じている齟齬をお持ちになるかどうか、皆さんにもお伺いしたいところです。
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| 佐々木 |
ラトルのマーラー、やはり「どう書いたらいいのか分からない」ままで、うまくまとまらなくて申し訳ないのですが、とりあえず今のところの感想を。
浮月斎 「大地の歌」と第4番の2盤を聴いてみたラトルのマーラーですが、私には、結局、彼がマーラーに何を追求しようとしているか理解できませんでした。意欲と結果が調和しないというより、ラトルのマーラー観は何だかバロック的な方向に引き摺られている気がしてなりません。求めるべき方向性は実験としては面白いのですが、表現の濃度が如何せん伴っていない。
私も「理解できない」という点は全く同じなのですが、バロック的というのは、どういう意味なのでしょうか?ご教示くだされば幸甚です。
山下 やはり聴き始めはつまらなく感じました。が...、何度か聴いてみるとなかなかどうして面白味を感じる演奏でした。
浮月斎 私もそうでした。しかし全体としては、やはりそれほど記憶に残るものはないという感じですね。聴き返してみて、面白いなと感じたのは2楽章のいびつさの徹底ぶりでした。
私も最初の印象よりは面白い演奏だなとは思います。というのは、
浮月斎 ケーゲル盤を聴いて、こういう自分が立つ地面とは別世界のクールな静謐さを感じさせられるます。ラトルはここまで「謐」はできなくても「閑」のレベルではないだろうと思いました。ニュアンスの評言が難しいのですが、「濃厚さの追求次元」が何かズレているような気はそのままなくなりませんでした。
ケーゲルを聴いていて思うのは、スコアを見て聴いていなくても、音楽の流れというか、アーティキュレーションに自然と乗っていけることで、ラトルの場合は、そういう流れをわざと恣意的に変えているということですね。普通もっと歌うだろうという所が禁欲的であまり歌わないとか、テンポの変化は結構大きいのだけれど、でも、それがあまり気持ち良くないとか、音楽の流れをわざとたち切るようなデュナーミクとか、こういう風にやることでそこに何か「深いもの」があるのかなと思うのですがよく分かりません。
ただ、少し居心地が悪い部分はあるのですけれど、まぁ、聴いていて面白いといえば面白いわけで、もともとマーラーに思い入れの無い私としては、「これが今までのロマン主義を脱却した、新世代のマーラー」といわれれば、そういうもんかいなぁと思わないでもないです。
浮月斎 自制という言葉には違和感がありますね。ラトルとしてはかなりやりたいことはやっているようには思うのです。そういう意味で「単に*何も考えずに*」というのもやはり違うでしょう。
そうですね。「やりたいこと」はやってるんでしょうけれど...。
浮月斎 私が感じている齟齬をお持ちになるかどうか、皆さんにもお伺いしたいところです。
浮月斎さん、鈴木さんを始め、皆さんおそらく同じ事をおっしゃっているのでしょうし、同じような「齟齬」を感じているのではないでしょうか?
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| 鈴木 |
浮月斎 「大地の歌」と第4番の2盤を聴いてみたラトルのマーラーですが、私には、結局、彼がマーラーに何を追求しようとしているか理解できませんでした。
この録音は、最近の流行だからか、楽器がほとんど歌わないですね。サロネンしかり、ガッティしかり。ただ、ガッティの5番はその分アクセントが強めで、推進力になっている。
先週、メンゲルベルク、バーンスタインの新盤、ケーゲルなどの第4番を聞いたのですが、どれもよく歌う演奏で、特にメンゲルベルグなどやはり、表現の*凄み*さえ感じました。バーンスタイン新盤やテンシュテットは、最初の鈴の音の処理がラトルと同じで、解決しないまま、ヴァイオリンのテーマに入ります。しかし、両者の冒頭以降の音楽の濃厚なこと(^ ^ ;;;;。バーンスタイン旧盤では、そんなに積極的ではないですが、解決されています。ケーゲルは後ほど触れますが、ピリオド楽器の奏法が、近代型オケに伝染して、一種の流行のようになっているのでしょうか。
ラトルの4番では、ソロヴァイオリンが活躍しますが、楽譜に書いてあるからか、申し訳程度にビヴラートかかかっています。そのほかの弦楽器は、歌うことを抑制されているようです。そのため、物理的な盛り上がりはあるのですが、音楽の盛り上がりとは少し違うような感じです。
浮月斎 ケーゲル盤を聴いて、こういう自分が立つ地面とは別世界のクールな静謐さを感じさせられるます。ラトルはここまで「謐」はできなくても「閑」のレベルではないだろうと思いました。ニュアンスの評言が難しいのですが、「濃厚さの追求次元」が何かズレているような気はそのままなくなりませんでした。
佐々木 ケーゲルを聴いていて思うのは、スコアを見て聴いていなくても、音楽の流れというか、アーティキュレーションに自然と乗っていけることで、ラトルの場合は、そういう流れをわざと恣意的に変えているということですね。
そうでしょうね。そのためラトル盤ではこの交響曲に乗れないもどかしさを感じますね。まだ、ケーゲルやセルの方が、なにをこの交響曲で聞かせたいかさえ(多少方向性は異なるようですが)わかれば、乗りやすいですね。バーンスタインやテンシュテットならすぐに乗れます。小生にしては、さっき気がついたのですが、なぜクレンペラーややマゼールを聞き直していないのだろう(^ ^ ; 。
佐々木 こういう風にやることでそこに何か「深いもの」があるのかなと思うのですがよく分かりません。
なんか逆に音楽が軽くなったような気もしますが。
佐々木 「これが今までのロマン主義を脱却した、新世代のマーラー」といわれればそういうもんかいなぁと思わないでもないです。
自制したマーラーがやりたかったのだったりして(^ ^)。ただ、Dレンジのダイナミックさはなかなかです。
今、ケーゲルを聞いているところですが、メンゲルベルクほどではありませんが、こちらは楽器によく歌わせる演奏です。さらに、各フレーズのメリハリがしっかりして、管楽器など、かなり泣かせているところもありますので、そのためメロディが生きてきて、ケーゲル版マーラーの世界に自然に入ってゆけるようです。
ラトルのような各楽器間の集積した響きの透明さは失われていますが、マーラーがこの交響曲で希求した*無邪気な聖*はケーゲルの方が切実に濃厚に響きます。第3楽章で、そのことを顕著に感じます。ラトルとの比較でですが、ケーゲル盤のなんといじらしくて、切ないこと。テンシュテットではさらに自意識が濃厚な演奏です。木管楽器の意表をつくフレージングは、テンシュテットが最も面白いです。
佐々木 浮月斎さん、鈴木さんを始め、皆さんおそらく同じ事をおっしゃっているのでしょうし、同じような「齟齬」を感じているのではないでしょうか?。
*ラトルのような各楽器間の集積した響きの透明さ*と書きましたが、ラトルは、まだそこまで行き着けていない。もし、もう少しでも先へ行っていたら、かなり感じは異なると思います。オーケストラの精錬度と、録音の*音*にも問題ありですが。この録音はピラミッド型で、細かなところまでよく採れているのですが、昔のDBXのように、高域がばっさりと倍音ごとカットされているような音で、そのあたりが、弦のざらつきとしてだけ聴感上聞こえるのかもしれません。木管もなんか、布をかぶせたような音ですね。
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| 浮月斎 |
佐々木 私も「理解できない」という点は全く同じなのですが、バロック的というのは、どういう意味なのでしょうか?
バロックの原義である「歪んだ(真珠)」という意味を下敷きにしました。或る意味ではマニエリスティックともいえるかもしれませんが、それほど磨かれたフォルムには成育していないと思い、その言葉は御法度としました。
佐々木 ケーゲルを聴いていて思うのは、スコアを見て聴いていなくても、音楽の流れというか、アーティキュレーションに自然と乗っていけることで、ラトルの場合は、そういう流れをわざと恣意的に変えているということですね。
ケーゲルは至って豊かな筆圧でまとめあげていますよね。彼の素晴らしさは、特に3楽章では、淡々と深くまた一切の蠢動を呑み込んだような静の境地を提示したところだと思います。また音楽の流れを彼流にがっちり掴んでのせ上げているせいか、窮めて心地よく見事に音楽が流れていきますね。ラトルはそういう描き方のできる人だと思っていたのですが、そもそもこの作品のアナリーゼのスタートから全く違う目論見を以ってこうなったのか、ただ思う通りに完遂できなかったのか、その辺が理解できませんでした。
鈴木 ピリオド楽器の奏法が、近代型オケに伝染して、一種の流行のようになっているのでしょうか。
マーラーに関してはそれはないと思っているのですが、よほどオケが下手だということでなければ、やはり「抑制している」と思うほうが自然なのかもしれないなと思いました。
鈴木 まだ、ケーゲルやセルの方が、なにをこの交響曲で聞かせたいかさえ(多少方向性は異なるようですが)わかれば、乗りやすいですね。
多分、両者ともマーラーの深さを出そうなどとアナリーゼしているのではなく、自分達のこの作品に対する美的想念を臆面もなく出しているように思います。私はそういう方がきっぱりした主張があって、聞き手へのインスパイアはうまく出来ていると思いました。
鈴木 マーラーがこの交響曲で希求した*無邪気な聖*はケーゲルの方が切実に濃厚に響きます。第3楽章で、そのことを顕著に感じます。
先述のとおり、これは全く同感です。
佐々木 こういう風にやることで、そこに何か「深いもの」があるのかなと思うのですが、よく分かりません。
鈴木 なんか逆に音楽が軽くなったような気もしますが。
言われてみると、確かにそうですね!しかし、それが音楽自体の質的な軽さではなく、骨格をはずした軽さというか、スカスカした軽さなんです、私が感じているのは。
鈴木 *ラトルのような各楽器間の集積した響きの透明さ*と書きましたが、ラトルは、まだそこまで行き着けていない。
これは透明と言うのでしょうか?
鈴木 もし、もう少しでも先へ行っていたら、かなり感じは異なると思います。オーケストラの精錬度と、録音の*音*にも問題ありですが。
先ほどシマノフスキと書いてふと思ったのですが、あれくらい繊細な音楽を曇らず細やかに磨き上げられたこのコンビが、録音の多少の瑕疵があるからといってここまで精度がレベルダウンするとはどうも思えないのです。
とすれば、この4番でラトルがやっていることは全て「意図的」であると考えるべきではないでしょうか?穿った見方をすれば、鈴木さんの言を藉りれば*無邪気な聖*という従来の4番の表象を真っ向から否定する−がさつさ、いびつさ、めまぐるしい変幻、軽薄さなど、従来のトータルな美意識を意図的に破棄したというのがラトルのメッセージなのでしょうかね...?そういう意味なら、確かにそれは成功していると思います。しかし、聞き手がそれを快く肯定できるかどうかはやはり賭でしかなかったと思います。その点でも、私はどうしてもBPOでの演奏を聴き比べてみたいと強く思うのです。
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| 大黒 |
ラトルの9番を先に聴いてしまって、これは駄目だという気持ちになりました。それで、4番を聴くのも気が乗らなかったのですが、通して聴いてみました。結論から申し上げて、まったく感心できず、最後まで聴くのが苦痛でもありました。独善的なフレージングとギアチェンジ、恣意的なパート構築などが、どうにも神経に障るほどに美感を損ねていること(それが音楽的に成功していれば説得力を持ち得るのですが、彼の場合残念ながらそうではない)、また歌謡性が全く欠如していること、全楽章を通じての構成力と求心力を持ち合わせていないこと、等によりおよそマーラーの音楽に共感を持って演奏しているとは到底思えない、底の浅さを露呈した演奏であると思います。4番という曲を、こんなに長いと感じさせる駄演・奇演も珍しいと感じました。
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| 山下 |
昨日、今日と少し肯定的な評価も出てきているようですが、全体的には、歌謡性・ファンタジーに欠けるマーラーらしくない演奏というご意見が多いようです。また、ラトルの”実験的試み”のねらいはわかる気がするが、結果的に成功していないのではないか、という流れに議論が進みつつあるようにも思います。
鈴木 *ラトルのような各楽器間の集積した響きの透明さ*と書きましたが、ラトルは、まだそこまで行き着けていない。
浮月斎 これは透明と言うのでしょうか?
私は、透明さが目指すところなのだろうかと感じています。どちらかといえばこの曲は、幾分”曇り”があるのが本来の姿では?と最近思えてきました。分裂症気味で、感情を吐露しまくっているような曲ばっかり作っている作曲家が一見明るい曲を作っていても、やはり偽りの部分があるのでは?とすると、よくある花園・ファンタジーというイメージははいまいち適さないのではないか?という思いもあります。インプリントされた演奏イメージをぶち壊してやるという、野心的かつ意欲的な(でも抑制された)試みという印象はいまだに変わっていません。
浮月斎 穿った見方をすれば、(鈴木さんの言を藉りれば)*無邪気な聖*という従来の4番の表象を真っ向から否定する−がさつさ、いびつさ、めまぐるしい変幻、軽薄さなど従来のトータルな美意識を意図的に破棄したというのがラトルのメッセージなのでしょうかね...?そういう意味なら、確かにそれは成功していると思います。しかし、聞き手がそれを快く肯定できるかどうかはやはり賭でしかなかったと思います。
全く同感です。台詞の少ないドラマだとどうしても役者の演技力自体が問われてしまいますが、それと同様に抑制された音数も少な目の音楽では”音”自体の善し悪しが目立ってしまいますね。...としますとこの実験は成功とはいえないのかもしれません。
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| 浮月斎 |
山下 また、ラトルの”実験的試み”のねらいはわかる気がするが、結果的に成功していないのではないか、という流れに議論が進みつつあるようにも思います。
結局そういう方向のようですね、大地の歌、第9番も交えると。
山下 インプリントされた演奏イメージをぶち壊してやるという、野心的かつ意欲的な(でも抑制された)試みという印象はいまだに変わっていません。
その印象は何度か聴いて自分でも得心はしたのですが、それほど聞き手を納得させられるような次元ではなかったというのが、やはりラトルということでは、とにかく残念でした。
山下 としますとこの実験は成功とはいえないのかもしれません。
私もそういう思いです。しかし、ライブでもこの雰囲気でしたら、いくら録音に瑕疵があるとはいえ、高い評価が出るとはとても考えにくい。ライブではかなり違った側面があるのではないでしょうか。となると、いずれまたマーラーを再録音するつもりなのかなぁ。
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| 斉諧生 |
ラトルのマーラー、週末に投稿する旨、申しておりましたが、結局、皆さんの御意見に付け加えたり反論したりする材料も出てきませんでした。ラトルの「大地の歌」、「告別」だけ聴き返しましたが、何か中途半端というか...。ところどころゾクッとするような響きが出るものの、音響の捌きだけで流してしまうような場面も多く、歌唱も常識的で、全体としては感心しませんでした。
4番は聴き返すほどに点が下がってきまして、*ラトルとしては*イージーとしか思えない音楽も目立ちます。ラトルなら、我々が聴き取っているもの以上の何かを意図しているのではないか、という懸念も感じないではないのですが、ここまで皆が聴いても判らないのではしょうがないですね。
これまで1・2・6・7・10番と録音してきた流れで、ディスコグラフィの埋め草...をラトルも始めるようになったのか?!という心配もしてしまいます。ライナー・ノートでゴルトシュミットを持ち出しているのも、何か自己弁護めいて聞こえてくる...。いつも思うのですが、評価は、結局、期待度に左右されるところが大きいのでは?
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| 工藤 |
先日部屋を片付けていたら発掘されたバーンスタイン/VPOのヴィデオを見てみました。アンサンブルの精度という点では、やはり辛めの評価になるでしょう。しかし、今回のラトル盤で決定的に不足していた“マーラーらしさ”が、極めて濃厚に表出されていたのに感心しました。
結局、この“マーラー”という名前から期待される雰囲気と、ラトルの音楽とがあまりにもかけ離れていたことが、今回の不満の大きな原因なのだと再認識いたしました。ここで、“マーラーらしさ”などという、極めて抽象的な表現を用いたのは、どんなに個性的な解釈でもほとんどの演奏に共通して感じられる雰囲気を指すのには、これくらいしか言葉が思いつかなかったからです(^^;。
良い/悪い、愉しい/つまらない等の評価を越えて、大部分の演奏には、決して拭い去ることのできない“マーラーの刻印”が感じられます。皮肉な見方をすれば、それをここまで除去するのに成功したラトルの手腕自体は評価に値するでしょうね。もっとも、4番はそうしたマーラー臭の薄い部類に入る曲なのでしょうが。そういう意味で、ラトルの7番にはちょっと興味があります。要するに、「ラトルがマーラーを取り上げる必然性は、“少なくともこの録音からは”感じられない」というのが、僕の感想ということになりましょうか。
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| 山下 |
工藤 良い/悪い、愉しい/つまらない等の評価を越えて、大部分の演奏には、決して拭い去ることのできない“マーラーの刻印”が感じられます。皮肉な見方をすれば、それをここまで除去するのに成功したラトルの手腕自体は評価に値するでしょうね。もっとも、4番はそうしたマーラー臭の薄い部類に入る曲なのでしょうが。そういう意味で、ラトルの7番にはちょっと興味があります。
結果的に感じ取った印象は、全く逆になってしまいましたがこの演奏を聴いて注目した観点は、工藤さんに近いと思います。やはり、”らしくない演奏”だったので評価が分かれてしまいましたね。斉諧生さんがおっしゃっていたように、聴く前の期待の影響が大きいのかもしれませんね。
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| 鈴木 |
浮月斎 これは透明と言うのでしょうか?
「透明」いう言葉で誤解をされてしまったようですが、ラトルの創り出す*音楽*が「透明」なのではなく、*響きが透明*だという意味です。それでも、中途半端ですが、「軽く(軽薄さ)」な印象は、多分そこから出ていると思います。
山下 ただ、ラトルの演奏は方向は合っているような気がしています。目指すところに到達しているかは別問題ですが...
案外近いのが、バーンスタインの新盤だったりして(^ ^)。でもこれがマーラーの新しい演奏の形態だとしたら、ウーン!ですが...。
山下 やはり、”らしくない演奏”だったので評価が分かれてしまいましたね。斉諧生さんがおっしゃっていたように、聴く前の期待の影響が大きいのかもしれませんね。
マーラー交響曲第4番を、さまざまなCDで比較試聴してみた結果は、小生のHPの「ほんまかいなの名曲インデックス」で現在での小生の結論を述べました。まあ、ラトルの演奏から、マーラー独特のフレージングは聞けませんでしたね。しかし、マーラーの音楽から、ラトルの演奏のように、みなさんの言われるマーラー臭を抜くことは、果たして意味があるのかいな、と感じています。なんか、脂っけを抜いてパサパサになった機内食のステーキみたい(^ ^ ;;;;。
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| 山下 |
鈴木 案外近いのが、バーンスタインの新盤だったりして(^ ^)。でもこれがマーラーの新しい演奏の形態だとしたら、ウーン!ですが...
以前よく聴いていたのですが、ふと思うと最近CDプレーヤにかかる機会がめっきり少なくなった1枚です。ただ、私の私見ですがクールさを意識している感じはあまりなく、方向性はちょっと違うような気がします。
鈴木 ラトルの演奏から、マーラー独特のフレージングは聞けませんでしたね。しかし、マーラーの音楽から、ラトルの演奏のように、みなさんの言われるマーラー臭を抜くことは、果たして意味があるのかいな、と感じています。なんか、脂っけを抜いてパサパサになった機内食のステーキみたい(^ ^ ;;;;。
何度かみなさんよりご指摘がありましたが、マーラーらしくないフレージングの影響とともに”音”自体が与える印象もこのディスクをどう聴くかにかなり影響していたように感じます。浮月斎さんがおっしゃっていたように、機会があれば違ったオケでこういったアプローチに再トライして欲しいと感じる演奏でした。長い間おつきあいいただきありがとうございました。
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