No.13 : Rattle conducts Mahler #4


EMI CDC 5 56563 2 Mahler : Symphony No.4
(EMI CDC 5 56563 2)
1. Mahler : Symphony No.4 G-dur

Amanda Roocroft (sp)
City of Birmingham Symphony Orchestra
Sir Simon Rattle (dir)





発言者 : 山下(モデレータ)、工藤、佐々木、斉諧生、鈴木、大黒、浮月斎

※今回より希望者によるエントリー方式合評会となりました。



山下 マーラーの交響曲の中でも長大でもなく重々しくもないため聴くのに敷居が低く、かなり多くの演奏を聴いてきたこの曲に何か目新しいものを感じることもないだろう...。と、あまり過度の期待ももたず聴いてみたところ、やはり聴き始めはつまらなく感じました。が...、何度か聴いてみるとなかなかどうして面白味を感じる演奏でした。
印象に残ったのが、「第3楽章の扱い」、「クールさ」。
今までインプリントされている演奏は、第1楽章や、スケルツォ的な第2楽章に力がはいりがちで、第3楽章は主題は美しいが、時折聞こえる強奏以外どちらかと言えば淡々としたものが多かったように思えます。ラトルの演奏を聴いて真っ先に違いを感じたのが、”やや”エモーショナルな第3楽章でした。オーボエやヴァイオリンの主題が丹念に積み重なっていって劇的なクライマックスへいく過程がなかなか良く聴き所でしょう。全体を通して聴いてみると、特に第1楽章で極端なテンポの揺り動かしもなく自制されていて、あえて均質な演奏にしようという意図が感じられる気がしました。均質さというのは、第4楽章のソプラノにも共通していて特徴はあまりないけどおおらかさのある声は共感できました。クレンペラー、テンシュテット、バーンスタイン(旧盤)など、手持ちのCDと聴き比べてみましたが、第1,第2楽章は控えめで印象が薄いものでした。この地味さが評価の分かれるところだと思いますが、私には逆に目新しく感じられ、第3楽章の深みも含めて十分推薦できる演奏だと感じました。
余談ですが、何かの本で第4番は初演の際に期待していたより単純なものだったので、聴衆の評価が芳しくなかったという話を読んだことがあります。意外にこういった演奏に近かったのでは?という気もしてきました。

鈴木 ラトルのマーラー4番。実はラトルのどこがいいのか今まで分からないまま来てしまった。小生まず録音でデッドな響きがあまり好きな方ではないので(トスカニーニだけ別^ ^)、ラトルの録音は以前から敬遠していたような傾向がある。これはEMIのラトル=バーミンガム市立響の録音に全て言えることだが。特に木管がドルビーシステムを間違ってかけたような減衰の早さにはラトルの録音ではいつも不満な点だ。
この録音でも第1楽章終結部では豊かな残響が聞こえるのだが、音楽の途中ではどの楽器の音もデッドに聞こえてしまう。また、弦がいつまでたってもピッチが不揃いに聞こえ、一聴いぶし銀のように聞こえるのだが、バーミンガム市立響の弦のザラッとした感触には生理的に不快感を感じてしまうこともある。このマーラー第4番でも、どういう訳か生理的に受け付けない音質のため、最後まで聞き通すのに苦痛を強いられる感じだ。

演奏に関しては、見通しのいい演奏なのだが、いささか人工的な感触であるのは否めない。そのため第1楽章、第2楽章ではファンタジーが聞こえてこない。「ここらでもうちょっと音を伸ばして欲しい」とか「もっとピアニッシモの美しさが欲しい」とか「もうちょっと爆発して欲しい」と感じてしまう。第1楽章冒頭の鈴の音は変な終わり方をするが、あれでスコアは正しいのだろうか?他の演奏を聞くとラトルのこの冒頭は違和感を覚える(と思ったらレヴァインもラトルと同じだった。ところがワルターやカラヤン、インバルでは鈴はフェルマータをかけ、きちんと解決されている)。

第3楽章は、非常に美しく弦楽器や木管楽器が広がって行くのだが、「歌」に乏しい感じがする。これは第1、第2楽章でもそうなのだが、テヌートすべきところが徹底し切れていないきらいがあるためだろうか。カラヤンのやりすぎの演奏もあるが、ラトルではそのため音楽がポツポツと途切れてしまう。中間部で、はかなく盛り上がる箇所あるが、音はでかくなっているのに、感情的な起伏に乏しい。もっと鬼気迫る演奏が可能なはずだ。なんかきれい事で終わってしまっているような感じ。
第3楽章の最後は大変美しい。この録音で最もいいのは第4楽章だろう。アマンダ・ロークロフトのソプラノも大人の表現だが暗視して聴いて入られるし、歌の背後の管弦楽も前3楽章と違い雄弁に聞こえる。しかし、全体的にこの演奏、なんか変なのだ。あまり練らないで演奏してしまった感が拭えず、各フレーズの最後が曖昧なままだ。そのため聞く方は消化不良を起こしてしまいそうな印象を受けた。ただ、音の出方は曖昧ではないので(^ ^)、その辺り評価される方がいるかも知れない。小生、ちょっと辛目。

斉諧生 マーラーの4番、いろいろCDを積み上げてはみたのですが、どうも考えがまとまらず、迷いを残したままですが、投稿します。

マーラーをどう聴くか? 私にとっては未だに迷いの多い問題です。一方で、メンゲルベルクはいいなぁ、全曲は4番しか遺っていないというのは痛惜の極み、と思うのです。弦合奏に、むせかえるようなヴィブラートとグリッサンド・ポルタメントを弾かせ、管楽器には性格的な音色を響かせる。ゲシュトップトの記号でもあれば思いっ切り...。松葉の記号は敏感に再現し、リタルダンド、テヌートやアクセントは強め強めに表現する。そんな演奏がマーラーらしくて良いなあ、と思いつつ...、ラトルやサロネンのような、マーラー臭さを排した演奏にも、嬉しくなってしまうのです。

弦のヴィブラートやグリッサンドを抑制し、管楽器もキャラクタリスティックな音色を聴かせるよりも美しい響きを優先する。例えば第1楽章32・33小節のクラリネット、126小節以降でのフルート。弦のグリッサンド指定をすべて無視した演奏が出てこないものかとさえ、思います。でも、テンポ系の動きにはあまり違和感がないのです。リタルダンドなど、スマートなものであれば、大きめの方が面白く思えたりします。

第3楽章はむせかえるような耽美の音楽ではなく"Ruhevoll"「静けさに満たされて」(ケーゲル盤での邦訳)になるような...。例えば27小節から36小節への運び方、メンゲルベルク・ワルターとラトル・サロネンとでは、まったく別な音楽になっています。ですから、ラトル盤で抵抗があるのは第2楽章です。変則調弦のヴァイオリン・ソロの表情の濃さなど、ちょっと浮いていませんか?

第4楽章で、ラトルは、オーケストラを抑えて歌唱をくっきり聴かせるバランスにしていますが、どうでしょうね。管弦楽の音彩を十全に聴かせてくれる方がありがたいようにも思います。歌詞が歌詞ですから...

工藤 ラフマニノフやシベリウスの好演で、ラトルには大変良い印象を持っています。マーラーにはこれといった思い入れもなく、ましてや5番より前の交響曲はめったに聴くこともないので、今回のラトルの演奏が一つのきっかけになれば、と結構期待して聴き始めました。

が、今回はまったくの期待外れ。この合評会では、「恐らく気に入らないだろうなぁ」とか「ひょっとしたら良いかもしれない」という程度の予想が外れることはありましたが、今回は「どんなに悪くてもどこかに新しい発見があるはずだ」というやや大きめの期待がものの見事に外されてしまいました。

まず、ラトルの意図が全く見えません。スコアの細部には極めてアバウトだし、かといって音楽の大局的な流れが尊重されている訳でもない。選ばれているテンポ自体は適切なものだと思いますが、その変わり目でオケのコントロールができていない。こうなると、ソロで一発聴かせる、というまでの技量のないオケの欠点ばかりが耳についてしまいます。一見奇抜に見えるレパートリーの中で、確かに自分の音楽をしてきたラトルはどこへ行ってしまったのでしょうか?このディスクが、単にマーラー全集を完成させるために仕方なく録音したもの、なのだとすればラトルにもやや不吉な兆候が見えてきた、ということになるのでしょうか。

最初の報告で他の演奏を引合いに出してしまうのには問題があるかもしれませんが、ケーゲルの素晴らしいこと!ケーゲルのような“闇”はラトルの芸風ではないでしょうが、しかしこの徹底した細部へのこだわりこそが、ラトルの目指していたもののはずだという気がしてなりません。

浮月斎 以前もお話し申し上げたとおり、マーラーの4番は苦手な作品です。この曲のどこが面白いのか、何を見出せるのか−それがわからないのです。でも今回は何か新しい発見があるかと思い、楽しみに腹をくくったのですが、今までに聴いてきた比較的ストレートな演奏の方がまだましと思いました。

ラトルの技は各所に聴け、フットワークの軽いマーラーだと思うのですが、ここでの彼の意図がまるではっきり見えません。全体的に分裂症気味のメルヒェンという感じに思え、端々を引掴んで捏ねたような味わい(特に1・2楽章)で、色合いも水彩画の如く淡い。その割に響きの清潔さもそれほどではなく、音の張りや勁さが全く感じられません。これはなかなかうまいデッサンかもしれないけれど、デッサンの域を出ていないようで、作品と対峙するラトルの拘泥ぶりがよく出てきれていないように思います。ラトルが意図したものを聞き手に揺さ振りをかけぬまま終わってしまうのは、単にオケの技量だけではないでしょう。

1楽章は展開が切れ切れすぎ、2楽章の主題の聞かせ方の意図が全然掴めません。この作品の生命線は3楽章だと思うのですが、入れ込み具合いの限度はよく心得ているようでも、明るめの静謐感に乏しい。また、ラトルが逆に深い陰翳をここから引き出そうとしているとは思いがたく、どこか半端な味わいに思え、息吹が感じられません。しかし、あっさりとしているようでも、演奏時間を考えると、なかなか濃厚にやっている訳です。そのあたりのバランスがどうも聞き手にはうまく掴めない。奥歯にものがはさまっているというか。4楽章は、この馬鹿馬鹿しい歌詞にはうんざりですが、抑制とも淡白とも言い難い、妙にあっさりした踏み込みは、むしろほっとするものがある反面、最後の余韻が殺伐とフェイドしていきますね。

貧しいながら、今回のために聴き比べてみました。セルのように質感の澄明なロマンでもないし、ハイティンクのように温みのある磨かれた膨らみでもない。ましてクレムペラーのように質朴だが線の太さもない。アバドも素直に振れているように思いました。カラヤンはやはり独特ですね。また、先日聴いたサロネンの方が、もっと多層のクリアな磨きあげがうまいように思いました。ケーゲルはまだ聴いていません。そう思うと、ラトルは本当にこの曲をやりたくてやっているのかなという思いがあります。それとも、私には彼が何らか仕組んでいる多面的な仕掛けを見抜けないだけなのかな。

佐々木 この演奏は、どうも書きように困りました。冒頭の鈴の音から、vnの主題に入るあたりの結構恣意的なテンポの変化は、「おお、なかなか期待させるかな」と思ったのですがその後、特に面白い所もなく、これは斉諧生さんがおっしゃっていた事ですが、2楽章などvnが妙に力が入っていて、確かに少し統一感がないような気がしますし焦点が絞りにくいですよね。

3楽章などは、私は昔からこの曲の中では一番好きなところだからかもしれませんが、やはりこの楽章が一番面白く聴けました。とはいえ、「この演奏のここが良かった」という程の、特別のものが無いんです(終楽章は昔から全く面白くないと思っておりまして...)

ラトルはまだほとんど聴いていない指揮者ですし、彼の持ち味もよく分からずに聴いておりますので、いろいろ録音を聴いた上で戻ってくればまた違うかとは思うのですが、「これだけ聴いても、なんとも言いにくい」というのが正直なところです。実は、私はこの曲では、恥かしながらショルティの旧盤に強力にインプリンティングされておりまして、手元にある何枚かの4番を聴いても、やはりショルティ旧盤がダントツに面白かったことを正直に告白しておきます。随分荒い演奏なのですが...。(^_^;)

ショルティの振ったものはどれもこれも感心しませんが、この盤だけは何故か好きです。

鈴木 ラトルのマーラー、辛目の評価が多いですね。次は第9なのか。ウ〜ン、期待出来ないかな(^ ^ ;;;;。サロネンは「大地の歌」か。ウウウウ〜ン(@_@)

ただ、ラトルは第4番第3楽章での弱音部での美質はありますので、アダージョではなんか多少希望の光が...(うう、苦しい...)。ラトルを聞き直してみて感じたのが、「塗装をしてないプラモデル」という印象でした。演奏として、完成させるつもりがなかったんじゃないかと・・・。というよりレコード会社の戦略かな。ラトルは、マーラーには向いていないのでしょうね。そこを無理矢理マーラーなら売れると(^ ^)。

ラトルは「大地の歌」でも不完全燃焼した音楽を聞かせてくれて、小生を厭世的な気分(音楽そのものがではなく*なんでこんなつまらないCD買っちゃったんだろう*という^ ^)にさせてくれましたので、マーラーに向かない若手・中堅指揮者の筆頭ではないかと。NAXOSのウィット、IMPのスクロヴァチェフスキ、そしてBCのケーゲルとそれぞれ廉価版の4番を聞き直してみたのですが、言いたいことはそれぞれ少しづつ違いますが、どれも表現のレベルではラトルより上でした。ましてや、メンゲルベルク、ワルター、バーンスタイン、クレンペラー、バルビローリ、カラヤン、ショルティ、テンシュテットなんてのがあるんだから、ラトルはマーラーに手を出すべきじゃなかったと。

人気先行型指揮者の典型のような...。オケもまるで練れていませんので、よけい結果は悪いですね。そういや、ラトルではマーラーの7番持っていたはずなんだけど、どこを探してもない。あれもつまらなかった...。

斉諧生 ラトルの第4、最初に聴いたときは気に入ったのですが、同じ方向性で、もっと徹底していて、オケの上手いサロネン盤を聴いたもので、ちょっと減点気味。もう少し他の演奏を聴いてみて、また投稿しますが、とりあえず皆さんの最初の御意見を見て気になったところだけ。

山下 印象に残ったのが、「第3楽章の扱い」、「クールさ」
「クールさ」の在りようは、吟味する必要があるように思います。管楽器への表情付けなどは、デフォルメを避けている一方、テンポの伸縮などは、前の世代より大きくなっているように感じます。

山下 今までインプリントされている演奏は、第1楽章や、スケルツォ的な第2楽章に力がはいりがちで、第3楽章は主題は美しいが、時折聞こえる強奏以外どちらかと言えば淡々としたものが多かったように思えます。
そうですね。聴く側も、第1・2楽章の色彩感を賞揚する一方、第3楽章は「冗長」とされることが多かったと思います。私のようなブルックナー好きからすると、第3楽章が一番なのですが。

山下 余談ですが、何かの本で第4番は初演の際に期待していたより単純なものだったので、聴衆の評価が芳しくなかったという話を読んだことがあります。意外にこういった演奏に近かったのでは?という気もしてきました。
初演の悪評は、交響曲なのに「鈴」「変則調弦のヴァイオリン」といった色物を導入したこと、また何よりも、最終楽章が、たいそう軽いし、歌詞はナイーヴだし、およそドイツ音楽の交響曲かくあるべしという理念を大きく裏切ったことへの反感ではなかったかと想像します。團伊玖磨先生の新作交響曲の終楽章が「ぞうさん」だったというイメージ、かな... (^^;

鈴木 第1楽章冒頭の鈴の音は変な終わり方をするが、あれでスコアは正しいのだろうか?他の演奏を聞くとラトルのこの冒頭は違和感を覚える(と思ったらレヴァインもラトルと同じだった。ところがワルターやカラヤン、インバルでは鈴はフェルマータをかけ、きちんと解決されている)。
これは、楽譜上は鈴とフルートはリタルダンド指定*無し*、クラリネットにpoco rit.、ヴァイオリンにritard.という妙な指定になっていることの一つの再現方法であると思います。私の聴いた中では、サロネンがほぼ同じ処理(ただし違和感は少なく処理されている)。情報ではバーンスタイン(新盤?)、テンシュテットが同様とのことですが、お持ちの方いかがですか?
また、広上淳一は鈴と木管が鳴り止んでから(!)ヴァイオリンが入るという処理。たいていの演奏は、第3小節の3拍目から全体がリタルダンド、メンゲルベルクとワルター(55年VPO)は3小節の頭からリタルダンドします。ただし、以前の出版譜では、「校訂」の結果として全段にritard.を付していた可能性もあります。

工藤 スコアの細部には極めてアバウトだし、(中略)(テンポの)変わり目でオケのコントロールができていない
具体的に例示していただければ助かります。

山下 山下 印象に残ったのが、「第3楽章の扱い」、「クールさ」
斉諧生 管楽器への表情付けなどは、デフォルメを避けている一方、テンポの伸縮などは、前の世代より大きくなっているように感じます。
「クール」という言葉は、あまりに陳腐なのですがこれといってよい表現が思い浮かびません(^_^;;。ところで、前の世代というといつ頃の録音を指されているのでしょうか?

私は、何度か聴いてみて*意図的な*自制の表現ではと感じたのですが、鈴木さんが書かれているように録音の影響や、単に*何も考えずに*振ったらこうなったという見方もありますね。

斉諧生 これは、楽譜上は鈴とフルートはリタルダンド指定*無し*、クラリネットにpoco rit.、ヴァイオリンにritard.という妙な指定になっていることの一つの再現方法であると思います。
普段、あまり細部に耳を澄ますことがありませんので気がつきませんでした。とりあえず、聴き比べてみます。

浮月斎 この作品の生命線は3楽章だと思うのですが、入れ込み具合いの限度はよく心得ているようでも、明るめの静謐感に乏しい。また、ラトルが逆に深い陰翳をここから引き出そうとしているとは思いがたく、どこか半端な味わいに思え、息吹が感じられません。しかし、あっさりとしているようでも、演奏時間を考えると、なかなか濃厚にやっている訳です。そのあたりのバランスがどうも聞き手にはうまく掴めない。奥歯にものがはさまっているというか。
おっしゃるとおりですね。深く踏み込まずに、かといって冗長にならずにといった、バランス感を表現しようとしたなかなか意欲的な演奏だと感じましたが、意図したことが実現できたかと考えると、判断は難しいです。

浮月斎 聴き直してみて、少し、感想を上方修正する必要があるなと感じております。私の言いたかったのは、今までのラトルらしからぬ録音ではなかったのかなぁ、という漠然としたものなのかもしれません。斉諧生さんがホームページで挙げておられた

「マーラーは個々の音の微細な表情や局所的なテンポ変化によって織り成される新しい音楽の世界を目論んでいた。彼のそうした意図は十分に理解されることなく、奇矯なものとして退けられた」
(渡辺裕『文化史のなかのマーラー』(筑摩書房)より要約引用)

という見解は、ラトルを聴いて、確かにそういう目途の作品であるような気はしました。但し、それは「目途」でしかなく「結果」ではないように思います。そこに焦点を当てるのは、一夜の演奏会ならともかく、無防備にディスク録音してしまうというのは危険すぎますね。奇形を奇形として開示する浮揚力はこの作品にはないように私には感じられます。でも、マーラーは本来「奇矯なもの」なのに、各時代のフレームにうまく嵌められてきたのは何故?と問いたくもなります。

ところで、あまりご意見が出てこないのですが、如何なものでしょうか。

山下 最初のご意見では”何か変わっているがそれを形容するのは難しい”もしくは、”この演奏は受け入れがたい”という感じでしたが、近況はどうでしょうか?ご意見を読んで論点として出てきそうなものとしては、

(この曲をはじめて聴くという方はいないと思いますので)通常この曲のイメージとしてある、ファンタジー・幸福感...といったインプリントと幾分違った演奏をどう評価するか?といった点でしょうか?

このところ、ラトル、スクロヴァチェフスキーなどどちらかというと落ち着いた演奏を聴いていたら、ちょっと前まで気に入っていたクレンペラーなどの演奏が恣意的でわざとらしいようにも思えてきました。無理に明るく振る舞わなくても、憂いでもいいじゃないという印象をこのところ持っています。

以前の投稿では、クールと表現しましたが”静的で憂いのある演奏”ともいえるかもしれません。個人的には、この演奏は最初聴いたときと、何度か聴いてみての印象が大きく変わった演奏でした。当初のご意見から、上方修正・下方修正などあれば伺ってみたいと思っています。

工藤 工藤 スコアの細部には極めてアバウトだし、(中略)(テンポの)変わり目でオケのコントロールができていない
斉諧生 具体的に例示していただければ助かります。
これを細かくチェックしようと思っていたら、時間がとれずにご不沙汰してしまいました。で、この件についてはもう少し時間を頂くとして、その他の部分で少し意見を述べさせて頂きたいと思います。

鈴木 ラトルは、マーラーには向いていないのでしょうね。
これはどうでしょうか。細部に拘る指揮者は他にもいますが、ラトルは細部に光を当てつつ大局的な流れも実現できる、いわば「木を見て森を見る」演奏家だと僕は思っています。これ以外にラトルのマーラーを聴いていないので一般論は言えませんが、決してマーラーに不向きな指揮者ではないように思えます。

浮月斎 「マーラーは個々の音の微細な表情や局所的なテンポ変化によって織り成される新しい音楽の世界を目論んでいた。彼のそうした意図は十分に理解されることなく、奇矯なものとして退けられた」という見解は、ラトルを聴いて、確かにそういう目途の作品であるような気はしました。但し、それは「目途」でしかなく「結果」ではないように思います。そこに焦点を当てるのは、一夜の演奏会ならともかく、無防備にディスク録音してしまうというのは危険すぎますね。
確かにスコアを見ると、この作品には上記引用部分の意図が強く感じられます。だからこそ、「音の微細な表情」や「局所的なテンポ変化」が甘いラトル盤は評価できないのです。斉諧生さんはオケの技量ゆえにあまり評価されてなかったようですが、ケーゲル盤はまさにその点が優れていると思います。

浮月斎 奇形を奇形として開示する浮揚力はこの作品にはないように私には感じられます。
そうですね。作品の力は弱いです。だからこそ、スコアの細部まで徹底して意思をもった音作りをしないと冗長な音楽として感じられてしまうのだと思います。

山下 (この曲をはじめて聴くという方はいないと思いますので)通常この曲のイメージとしてある、ファンタジー・幸福感...といったインプリントと幾分違った演奏をどう評価するか?
うーん、ラトル盤に「ファンタジー・幸福感...」と違った感覚がある、というのは...、どうでしょうか。僕はむしろ、この演奏では雰囲気すら表出できていないために、通常感じられる感覚すら見い出せなかっただけなのではないかと考えています。ちょっと厳し過ぎるかな(^^)。

山下 無理に明るく振る舞わなくても、憂いでもいいじゃないという印象をこのところ持っています。
特に3楽章なんかは、色んな感情を表現することが可能ですよね。実際、演奏によってその違いを見て(聴いて?)取ることもできます。でも、ラトル盤は真っ白なんですよね。

山下 当初のご意見から、上方修正・下方修正などあれば伺ってみたいと思っています。
結局、最初と感想は変わっていません(^^)。

鈴木 鈴木 ラトルは、マーラーには向いていないのでしょうね。
工藤 これはどうでしょうか。細部に拘る指揮者は他にもいますが、ラトルは細部に光を当てつつ大局的な流れも実現できる、いわば「木を見て森を見る」演奏家だと僕は思っています。これ以外にラトルのマーラーを聴いていないので一般論は言えませんが、決してマーラーに不向きな指揮者ではないように思えます。
実は「大地の歌」というのをまず聞いて、「あ、これは違うな」と感じたのがラトルのマーラーに違和感を感じた最初です(第7番も聞いたはずなんだけどなあ^ ^ )。*ラトルは細部に光を当てつつ大局的な流れも実現できる*というのは誉めすぎのような気もします。*細部に光を当てつつ*と言う言葉は、実は違うように感じる方もいるかも知れませんが、「大地の歌」では小生クレンペラー盤(EMI)に感じています。今日ラトルのVPOとの第9番がCD屋の棚に並べてありましたが、4,600円という金額と今までのラトルのマーラーへの不信感から食指は動きませんでした。

工藤 うーん、ラトル盤に「ファンタジー・幸福感...」と違った感覚がある、というのは...、どうでしょうか。僕はむしろ、この演奏では雰囲気すら表出できていないために、通常感じられる感覚すら見い出せなかっただけなのではないかと考えています。ちょっと厳し過ぎるかな(^^)。
なんだか工藤さんは小生と同じことを感じているような気もしますが(^ ^ ;;;;。なんか生ぬるいんですよね。このマーラー。小生も来週の金曜日まで、泊まりの出張はありませんので、20枚くらいあるこの曲のCDをちょっくら聞き比べ(実際にはききかじりですな^ ^)ようかなと思っています。





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