No.12 : Immerseel conducts Schubert (2)


工藤 どうも「未完成」というのは“名曲”過ぎて、他のややマイナーな曲などと比べると、真剣な議論の対象になり辛いところがあるのでしょうかね?以下では、議論を喚起するためにやや刺激的な表現が混ざるかもしれません。

浮月斎 インマゼール盤については、あまり古楽であるという意義をときほぐしながら聴いたという感じではありませんでした。
そうですね。この団体の響き・奏法は確かに古楽の土俵に立ってはいるものの、“ピリオド”と“モダン”両方の特質を兼ね備えていることが大きな特徴ですね。そういう意味で、彼らの響きをどのように皆さんが受け入れているのかが、興味深いところです。僕は古楽器の響きがどちらかと言えば苦手な方なので、この団体の響きにはむしろ好感を持ちました。管楽器の響きも非常に派手で、そのきらびやかな雰囲気が高く評価できます。

浮月斎 しかし、一般的な演奏スタイルでは、概ね、作品の風雅な理想美(幻想美とでもいいましょうか)を強く色づけしていて、滅多にこのような爽快なコントラストはないでしょうね。
ここが問題でしょうね。というのは、「未完成」といった時に我々がすぐに思い浮かべるのは「作品の風雅な理想美(幻想美とでもいいましょうか)」だということに、さして異論はないのですが、果して「未完成」はそういう曲なのか?先日もちょっと投稿しましたが、アーベントロート盤を聴いた時に、あの時代にも“風雅”ではない解釈がされていたことに新鮮な驚きを感じました。僕が他に聴いたのは、ムラヴィンスキーとフルトヴェングラー、クライバーでしたが、彼らのいずれも“風雅”というよりはむしろ荒々しいものを感じさせる演奏でした。そして、彼らの演奏はどれも強烈な強弱のコントラストが効いていました。ひょっとしたら、我々は「未完成」を強い先入観の元で聴いているのではないでしょうか?

佐々木 そして何よりもこの盤はこの曲の実像がどういうものであるかを聴き手に問うようなところがあってそれが面白いと思いました。
このように言うこともできるとは思いますが、実はこの盤だけが“この曲の実像”を問いかけている訳ではない、というのが僕の考えです。

工藤 第3に、「アクセントかディミュニエンドか」の解釈について
浮月斎 うーん。音楽学的な観点での興味は特にこの辺には持てないので、これはパスします。
実は5月の演奏会で、ベーレンライター新版の楽譜を使って「未完成」を演奏するのです。僕はオケ経験があまりないので、何の違和感もなく楽譜通りに弾いているのですが、学生オケなどで何度も弾いている人達は、どうしても従来の楽譜通りの表情付けをしてしまうのですね。で、僕としては「ひょっとしたら旧版の方がより自然な表情なのではないか」と考えたりもするのです。ただ、聴いている分にはそれほど大きな差もないような気がしますが。まあ、このようなこともあって、皆さんのご意見を伺ってみようと思った次第です。

浮月斎 「隠れ蓑」ではなく、現在、古楽が最も古典の前衛的解釈の場と化しているひとつの証左と素直に見るべきでしょう。
僕はこの点については異論があります。上述の内容自体は全く同意見ですが、この演奏が“前衛的解釈”かというと疑問があるのです。もちろん、学術的に批判された楽譜を用いていたり、当時の楽器についての詳細な研究の成果に基づいていることははっきりしているのですが、解釈自体は、実は非常にオーソドックスなものに聴こえないでしょうか?どこにも極端なデフォルメがなく、楽器や和声のバランスも非常に模範的に整えられている。この演奏の素晴らしいところは、ただ楽譜通りやっているだけなのに、爽快な推進力に満ちた、生き生きとした「未完成」が奏でられているところにあると思います。ちょっと皮肉な見方をすれば、指揮者が余計なことをしなかったために、奏者の良い意味での自発性が喚起され、このような良い結果が生まれたとも考えられますが(^^)。これは、6番がやや退屈な演奏になっていることの理由としてもうなづけると思います。

浮月斎 私には、神秘的な幻想美というものはあまりこの作品に感じないせいか、馥郁たる情緒にて聴かせられると、退屈な作品と思います。
僕が音楽で一番大事だと思っているのが“メリハリ”です。確かにこの曲には夢見るような部分がたくさんありますが、それだけではダメなのですね。どのように夢から覚まされるか、それが重要なのです。このインマゼール盤は、その辺りがごく自然にかつ効果的に達成されていることが高く評価されると思います。

佐々木 インマゼールの未完成ですが、やはり第2楽章が良いですね。第1楽章はこの演奏では曲のへんてこさがそのまま露呈してしまうような感じがしますが。今までバッハなんかでは、たとえばマタイだと、リヒターやらメンゲルベルクやら聴いていたものがある時ガーディナーのマタイが出てきてショックを受けたりという事があったと思うのですが、そういう事がシューベルトでも起こってきているだけなのかもしれませんね。

工藤 ここが問題でしょうね。というのは、「未完成」といった時に我々がすぐに思い浮かべるのは「作品の風雅な理想美(幻想美とでもいいましょうか)」だということに、さして異論はないのですが、果して「未完成」はそういう曲なのか?(中略)ひょっとしたら、我々は「未完成」を強い先入観の元で聴いているのではないでしょうか?
(ほんの思い付きで書きますが)仮にそうだとして、その先入観を振り切った時に「未完成」が今まで通りの通俗名曲足り得るのでしょうか?

佐々木 そして何よりもこの盤はこの曲の実像がどういうものであるかを聴き手に問うようなところがあってそれが面白いと思いました。
工藤 このように言うこともできるとは思いますが、実はこの盤だけが“この曲の実像”を問いかけている訳ではない、というのが僕の考えです。
私がこのように書いたのは、クライバーやムラヴィンスキーなど積極的な攻め方をしている演奏からはこの曲の実像はともかく、指揮者の個性を聴く、という感じを受けるのに対し、インマゼールはそういうのとは少し違うのかなと感じたからなのですが、例えば他にどの盤がそう(この曲の実像を問い掛けている)だと思われますか?

工藤 僕が音楽で一番大事だと思っているのが“メリハリ”です。確かにこの曲には夢見るような部分がたくさんありますが、それだけではダメなのですね。どのように夢から覚まされるか、それが重要なのです。このインマゼール盤は、その辺りがごく自然にかつ効果的に達成されていることが高く評価されると思います。
大筋で賛成ですが、「ごく自然」というところだけは少し引っかかりますね。

で、また少し話がずれますが、今日インマゼールがフォルテピアノを弾いたクレメンティのソナタ集を少し聴いてみましたが、この人はもともとかなりケレンのある演奏をする人のようですね。もう少しこの人の演奏を聴いてからシューベルトを聴いたのならまた受ける感じが変わったかもしれません。

山下 工藤 ひょっとしたら、我々は「未完成」を強い先入観の元で聴いているのではないでしょうか?
鈴木 インマゼールの演奏は、逆にスコアに書いてあるように金管をしっかり鳴らしたりしているのですが、どこか必然性が感じられない。ただ書いてあるからプカプカと鳴らしちゃったという居心地の悪さを感じます。
私も、強い先入観を持って聴いていた1人かもしれません。いくつか他の演奏を聴いてみて、インマゼールの演奏に戻ってきてみると当初違和感を感じていた、強烈なコントラストがこの演奏に特殊ではないことがわかってきました。どうも、私の中では風雅な印象のみが強調されていたようです。
今日は、ブリュッヘン・ケルテスの未完成を聴いてみました。感性に一番あっているのはケルテスの演奏で、一番居心地の悪さを感じたのは、インマゼールの演奏でした。(かなり主観的なものですが...)うまい言葉が見つかりませんが、曲の流れのようなものが感じられず突然に曲が展開していて、美しいけど一本調子な構成に物足りないものを感じました。

工藤 実は5月の演奏会で、ベーレンライター新版の楽譜を使って「未完成」を演奏するのです。
楽器を演奏しなくなって10年ほどたちましたので、演奏する側の視点というのはよくわかりませんが、聴いている限りではあまり違いは感じられません。ただ、版の違いによる影響が大きいのか指揮者の恣意性の影響が強いのかはよくわからないですね。これから、ベーレンライター版をもちいた演奏が他にも出てくれば版の違いがクリアになるかもしれません。

浮月斎 佐々木 このグレートも、もう少しテンポを穏当にして、金管の強奏を抑えてくれたら愛聴盤になったんじゃないかと思うんですが(笑)。
なるほど。私としては逆にもっとテンポは早目にぐいぐい引き込む演奏だったらと思いました。この辺はやはり皆さんのおっしゃるインプリントというものなのでしょうか。

佐々木 爽快なコントラスト...確かにこれを評価出来るかどうかですね。私の場合、最初インマゼール盤を聴いた時は、先に抵抗が立ってしまったのですが。...中略...私も前回投稿したとおり、相当数の未完成聴き比べの後、この浮月斎さんの御意見とほぼ同じ感想を持つに至りました。
私にとっては固定イメージに薄い作品だからでしょう。佐々木さんのおっしゃる抵抗感が私にはあっさりなかったのは、いかにこの曲をまともに聴いていなかったかということでしょうね(^^)。

佐々木 私の場合、インマゼールのような味わいも良いなぁと言う事でモダンオケで昔からの名演系のいくつかもやはり捨て難いですが。
うまく総括できないのですが、私も実はこういう「ノリ」でのモダンオケの方がもっと深く抉ることはできるような気がしまして、同感です。ただ、問題はインマゼール盤のような明るくテクスチュアの透けて見えるような感触がモダンオケでうまく出し切れるかどうかということですね。

佐々木 ワルターからは、私は前述の通り、神秘的とか幻想味とかは全く感じませんで、特に第2楽章は昔のヨーロッパに対する郷愁といいますか、他の人の演奏とは全く違うものとして聴きました。これはこれで好きですが。
ええ、私もほとんどそんな風に聴けます。あのバスの歌いまわしは佐々木さんの言うとおりワルターならではのものですが、ワルターとしては好きなのですが、シューベルトとしてどうかというとこれは自分の好みではない。

で、実はセルですが、クリーブランドとの55年頃のモノラル録音もありまして、昨日こちらも聴いたのですが、こちらは前進的な意志に漲った爽快な演奏でして、先日申し上げたステレオ盤とはかなり印象は違いました。しかし、それもやはり私が今回求めたような「未完成」の姿とは違うなというところです。

鈴木 インマゼールの演奏は表現たり得ていないんではないかと思うんです。
これは確かにそう思います。むしろ積極的にニュアンスの細やかさで澄明に流れる「未完成」こそ気に入っているフシが私にはありますね。しかしです。「シューベルトの表現たり得るところはじゃ何なんだ」ということになるのですが、ことシューベルトのオケモノに関して言えば、私としてはひたすら「清水」に近いほうがマシと思えるのです。この辺は、クナがという話ではなく、全般的に巨匠時代のシューベルトってこんなに強引にドライブしていいのかいなと逆に思ってしまう。グレートみたいにつまらん作品は逆にそうでないと退屈してしまう。そういうところでは「未完成」を、交響曲として私は扱っていないように思います。好みの差はその辺にも起因するのかもしれません。

鈴木 この演奏は、悪い演奏ではありませんが、ピリオド楽器を近代型オーケストラのピッチに近づけて演奏するという実験の枠内に収まっているような気がしてならないんです。
うーん。表現意欲という点ではかなり淡いだけではないでしょうか?微細な音感覚の味わいはなかなかどの演奏にもかえ難いものは持っていますよ。

鈴木 そのため、一聴すると「健康的な明るめの演奏ですな」と言う印象になって、単に「聞きました」で終わってしまう。精巧な「未完成」の模造品は聞けたが、本物じゃなかったと言う印象が小生強いです。ただ、これは小生が古い演奏内容が好きだだけではすまない問題を内包しているとは感じます。
「未完成」という点だけに問題を絞れば、ここらが、やはり好みの問題−否、この作品にどういうインスパイアを期待するか−という聞き手の差になっているような気がしております。スパイシィで濃い味付けを付与すればそれはそれで滅法面白いにも拘らず、薄い味のブルガリア料理のように、塩加減の差がかなりわかりにくい程度でも味の玄妙さは随分違うみたいなものも面白いのではないかと。どっちかといえば後者の方が「未完成」の聞き手として、その体質が私に合っている感じです。

工藤 ここが問題でしょうね。(中略)アーベントロート盤を聴いた時に、あの時代にも“風雅”ではない解釈がされていたことに新鮮な驚きを感じました。僕が他に聴いたのは、ムラヴィンスキーとフルトヴェングラー、クライバーでしたが、彼らのいずれも“風雅”というよりはむしろ荒々しいものを感じさせる演奏でした。そして、彼らの演奏はどれも強烈な強弱のコントラストが効いていました。
鈴木さんのおっしゃる先の論点とも符合しますが、たしかにここが問題ですね。私自身は慄然とするような孤高の姿がやはり擦り込まれてきた「未完成」であり、その姿の峻厳なるところを評価してきたように思います。そして、その路線での「未完成」も決して悪くはないのですが、この作品とはそこまでデモーニッシュに研磨されるべき名品なのかどうか、私には疑問があります。

既にそう磨かれた味わいはそれはそれで存分に楽しめても、シューベルトという作曲家のトータルな姿を思い浮かべると、彼のデモーニッシュ性はもっと軽やかな想像力を羽ばたかせるような気がしてなりませんし、無底の暗黒とも乖離したものであるような気がします。濃い表現を高めればそれだけ遠のいていくものがあるな−というのが、インマゼール盤で知り得たシューベルトの「未完成」だったという訳です。

浮月斎 「隠れ蓑」ではなく、現在、古楽が最も古典の前衛的解釈の場と化しているひとつの証左と素直に見るべきでしょう。
工藤 僕はこの点については異論があります。上述の内容自体は全く同意見ですが、この演奏が“前衛的解釈”かというと疑問があるのです。
すみません、私はこの演奏に対して発言したというより、古楽の位置的一般論をお話したつもりでしたので、工藤さん同様、インマゼール盤が「前衛的解釈」という意味合いではありません。

工藤 解釈自体は、実は非常にオーソドックスなものに聴こえないでしょうか?どこにも極端なデフォルメがなく、楽器や和声のバランスも非常に模範的に整えられている。この演奏の素晴らしいところは、ただ楽譜通りやっているだけなのに、爽快な推進力に満ちた、生き生きとした「未完成」が奏でられているところにあると思います。皮肉な見方をすれば、指揮者が余計なことをしなかったために、奏者の良い意味での自発性が喚起され、このような良い結果が生まれたとも考えられますが(^^)。
私が思っていたのはまさにこの工藤さんの表現ですね。聞き手の本当の分水嶺はこの事実をどう受け入れるかにあるような気がします。鈴木さんがつまらんと思うのもまさにこの点、私が気に入っているのもまさにこの点ではないでしょうか。私にはこの活力と爽快なニュアンスに満ちた「未完成」の方が好きであるというだけなのでしょうね。

工藤 これは、6番がやや退屈な演奏になっていることの理由としてもうなづけると思います。
これもまさに同感。

山下 今日は、ブリュッヘン・ケルテスの未完成を聴いてみました。感性に一番あっているのはケルテスの演奏で、一番居心地の悪さを感じたのは、インマゼールの演奏でした。(かなり主観的なものですが...)うまい言葉が見つかりませんが、曲の流れのようなものが感じられず突然に曲が展開していて、美しいけど一本調子な構成に物足りないものを感じました。
この辺は、もともとのこの作品の奇異性みたいなものがインマゼール盤が素直に出ているからではないかと思います。版の問題はさておいても、この作品のスコアをかつて眺めた時、ふつうの打ち込みでは到底通例の雰囲気は出てこない。かなり演出というか、プロットをつける必要があると感じました。それが指揮者の技量・オケの技量に連動しているとすれば、インマゼールの位置関係もすんなり理解できるのではないでしょうか。

佐々木 その先入観を振り切った時に「未完成」が今まで通りの通俗名曲足り得るのでしょうか?
そういう意味でなくとも、たいして名品ではないと思います。運命とカプリングしやすかったLP時代からこれは不思議でした。運命は何度どんな演奏で聴いても名曲ですが、未完成だけはそう思えたことがないのです。

佐々木 この曲の実像はともかく、指揮者の個性を聴く、という感じを受けるのに対し、インマゼールはそういうのとは少し違うのかなと感じたからなのですが、例えば他にどの盤がそう(この曲の実像を問い掛けている)だと思われますか?
ふむふむ。また見えてきた。通俗名曲というよりはこの曲は指揮者を見せる「鏡」として重宝されてきただけなのかもしれませんね。それだとこの作品を録音する意義というものが大変に深い訳ですから。

佐々木 今日インマゼールがフォルテピアノを弾いたクレメンティのソナタ集を少し聴いてみましたが、この人はもともとかなりケレンのある演奏をする人のようですね。
チェンバロ時代にデュフリを弾いた有名なエラート盤がありました。私はレオンハルトを含む何人かの演奏で聴き比べられるものを聴いたのですが、もともとかなり大胆な表現をする人ですよ。フォルテピアノに中心を移したのは自然なことです。そういう延長で指揮者インマゼールを聴くと、ややイメージが違うんですね、私の場合。(^^)。

工藤 山下 私も、強い先入観を持って聴いていた1人かもしれません。いくつか他の演奏を聴いてみて、インマゼールの演奏に戻ってきてみると当初違和感を感じていた、強烈なコントラストがこの演奏に特殊ではないことがわかってきました。どうも、私の中では風雅な印象のみが強調されていたようです。
皆さんのご意見を読んでいて、まず最初に僕が感じていたのが、まさに山下さんのおっしゃられていることなのです。ただ、この“強烈なコントラスト”というのをどのように表現するのかが、難しいところなのでしょうね。アルバン・ベルクQのシューベルトも“強烈なコントラスト”を持っていると思いますが、これはシューベルトの音楽の特質がよく表現されているのか、それとも演奏団体の特質が強く出ているのか、やや判別し難いところがあります。

山下 うまい言葉が見つかりませんが、曲の流れのようなものが感じられず突然に曲が展開していて、美しいけど一本調子な構成に物足りないものを感じました。
そうですね。確かに“聴かせ上手”な演奏ではないように感じられます。

佐々木 インマゼールの未完成ですが、やはり第2楽章が良いですね。第1楽章はこの演奏では曲のへんてこさがそのまま露呈してしまうような感じがしますが。
ここはちょっと趣味の違いが出てしまうような気がします。僕は2楽章の方に物足りなさを感じ、1楽章の方に好感を抱きました。それは恐らく、「曲のへんてこさがそのまま露呈してしま」っているが故の感想でもあると思いますが。

佐々木 (ほんの思い付きで書きますが)仮にそうだとして、その先入観を振り切った時に「未完成」が今まで通りの通俗名曲足り得るのでしょうか?
これは浮月斎さんもおっしゃられていますが、僕も「未完成」はそれほどの曲だとは思っていません。好き嫌いを無視すれば、チャイコフスキーの5番などと同じレベルの作品だと思います。ただ、聴きやすい曲であることも事実で、それだからこそ多くの演奏家が取り上げているのだと考えています。これは、決して“先入観”のあるなしに関係するものではないと思います。

工藤 このように言うこともできるとは思いますが、実はこの盤だけが“この曲の実像”を問いかけている訳ではない、というのが僕の考えです。
佐々木 (私がこのように書いたのは、クライバーやムラヴィンスキーなど積極的な攻め方をしている演奏からはこの曲の実像はともかく、指揮者の個性を聴く、という感じを受けるのに対しインマゼールはそういうのとは少し違うのかなと感じたからなのですが例えば他にどの盤がそう(この曲の実像を問い掛けている)だと思われますか?
佐々木さんが挙げられているクライバーやムラヴィンスキーが、です。彼らの演奏からは、指揮者の個性は当然聴こえてきますが、それだけではなく、この曲の持つ叙情性、恐ろしさ、分裂した気質…そういったものも聴こえてきます。僕には、まさにそれが“この曲の実像”と思われるのです。このインマゼール盤に欠けているのが“指揮者の個性”であるために、この演奏が「作品の真正な姿を提示している」といったイメージで捉えられがちなだけだと思います。

佐々木 大筋で賛成ですが、「ごく自然」というところだけは少し引っかかりますね。
この演奏で用いられている楽器を用いれば、ここで実現されている音響は「ごく自然」なものだと思いますが。

浮月斎 ただ、問題はインマゼール盤のような明るくテクスチュアの透けて見えるような感触がモダンオケでうまく出し切れるかどうかということですね。
そうですね。まさにこの響きこそが、この演奏の価値だと思うのです。好感を持って受け入れた人と抵抗を示した人との差も、この響きを受け入れることができたかどうかということのようですし。そういう意味で、

鈴木 この演奏は、悪い演奏ではありませんが、ピリオド楽器を近代型オーケスラのピッチに近づけて演奏するという実験の枠内に収まっているような気がしてならないんです。
とまでは言い切れないと思います。要するに「指揮者を聴く」人には、ほとんど意味のない演奏、ということにでもなるのでしょうか。やや乱暴な言い回しですが。でも、オーケストラの技術は非常に高いですね。

浮月斎 ふむふむ。また見えてきた。通俗名曲というよりはこの曲は指揮者を見せる「鏡」として重宝されてきただけなのかもしれませんね。それだとこの作品を録音する意義というものが大変に深い訳ですから。
上で佐々木さんのご意見に対して、チャイコフスキーの5番を持ち出したのも、ここで浮月斎さんのおっしゃられていることと同じものを感じたためです。チェリビダッケのチャイ5を思い起こすと、彼はまさにそのように曲を扱っていたと思います。

佐々木 工藤 ここはちょっと趣味の違いが出てしまうような気がします。僕は2楽章の方に物足りなさを感じ、1楽章の方に好感を抱きました。それは恐らく、「曲のへんてこさがそのまま露呈してしま」っているが故の感想でもあると思いますが。
どうもこの演奏での第1楽章をシューベルトと認めたくないようなこだわりがあるのです。私には。ピアノソナタを聴いて親しんだシューベルトとは何かが決定的に違うような。

佐々木 (ほんの思い付きで書きますが)仮にそうだとして、その先入観を振り切った時に「未完成」が今まで通りの通俗名曲足り得るのでしょうか?
工藤 これは浮月斎さんもおっしゃられていますが、僕も「未完成」はそれほどの曲だとは思っていません。好き嫌いを無視すれば、チャイコフスキーの5番などと同じレベルの作品だと思います。ただ、聴きやすい曲であることも事実で、それだからこそ多くの演奏家が取り上げているのだと考えています。これは、決して“先入観”のあるなしに関係するものではないと思います。
今回改めて聴いて見て、やはり古い先入観で演奏者も聴き手も染まってこその名曲かなぁという気はしたのですが、それにしても、チャイ5と同レベルとは...。

工藤 佐々木さんが挙げられているクライバーやムラヴィンスキーが、です。彼らの演奏からは、指揮者の個性は当然聴こえてきますが、それだけではなく、この曲の持つ叙情性、恐ろしさ、分裂した気質…そういったものも聴こえてきます。僕には、まさにそれが“この曲の実像”と思われるのです。このインマゼール盤に欠けているのが“指揮者の個性”であるために、この演奏が「作品の真正な姿を提示している」といったイメージで捉えられがちなだけだと思います。
「叙情性、恐ろしさ、分裂した気質…」という、未完成に私が求めていたものは、何人かの指揮者が演出したものであって、実像としては、そういった雰囲気を必ずしもまとった曲ではないのかなという感じを受けたので、あのように書きました。ベーム、ワルター、インマゼールと、それぞれ演奏は全く違いますが、これらを聴いたところでは、前述の「叙情性、恐ろしさ、分裂した気質…」をそれほど濃く感じなく、もっと違う味わいの方に良いものを感じたためです。ただ、このあたりは1音楽ファンの感想であって、何ら確固とした根拠のあるものではありませんが...。(^_^;)

佐々木 大筋で賛成ですが、「ごく自然」というところだけは少し引っかかりますね。
工藤 この演奏で用いられている楽器を用いれば、ここで実現されている音響は「ごく自然」なものだと思いますが。
そうかもしれませんね。私の書いたのは音楽ファンが部屋で「未完成」を楽しもうとした場合に、この音響は刺激的すぎる、と言ったようなニュアンスとご理解ください。まあ、これは好みの問題で、自分の部屋でだって、これぐらいやってくれないと物足りない、という人だっているでしょうね。

浮月斎 ただ、問題はインマゼール盤のような明るくテクスチュアの透けて見えるような感触がモダンオケでうまく出し切れるかどうかということですね。
工藤 そうですね。まさにこの響きこそが、この演奏の価値だと思うのです。好感を持って受け入れた人と抵抗を示した人との差も、この響きを受け入れることができたかどうかということのようですし。そういう意味で、
鈴木 この演奏は、悪い演奏ではありませんが、ピリオド楽器を近代型オーケスラのピッチに近づけて演奏するという実験の枠内に収まっているような気がしてならないんです。
とまでは言い切れないと思います。要するに「指揮者を聴く」人には、ほとんど意味のない演奏、ということにでもなるのでしょうか。やや乱暴な言い回しですが。

工藤さんのように演奏する側の方からこういう発言が出ると、聴く側としてはとても安心します(自分がこの演奏で物足りない所について明示いただいているという意味で)。

工藤 上で佐々木さんのご意見に対して、チャイコフスキーの5番を持ち出したのも、ここで浮月斎さんのおっしゃられていることと同じものを感じたためです。チェリビダッケのチャイ5を思い起こすと、彼はまさにそのように曲を扱っていた と思います。
でも、そういう演奏だと、部分的に感心はするし、心に残ったりもするのだけれども、聴く側として手放しにメロメロになっちゃうという所まではいかないような気がします。別にそういう演奏がいいと言っている訳では全くないのですが、一方で、クラシックを聴く人には、そういう「メロメロ」にして欲しい、って思っているところが少しはあるとも思うんです。私だけかな?

山下 浮月斎 この辺は、もともとのこの作品の奇異性みたいなものがインマゼール盤が素直に出ているからではないかと思います。(中略)それが指揮者の技量・オケの技量に連動しているとすれば、インマゼールの位置関係もすんなり理解できるのではないでしょうか。
先に、料理の味付けの話を書かれていましたが、私はやはり調味料が入っていないと駄目のようです。単に、薄い、一本調子という言葉しか思い当たらなかったのですが、この差異が主観につながっていたようです。

工藤 僕には、まさにそれが“この曲の実像”と思われるのです。このインマゼール盤に欠けているのが“指揮者の個性”であるために、この演奏が「作品の真正な姿を提示している」といったイメージで捉えられがちなだけだと思います。
私も、”指揮者の個性”があまりない演奏だと思っていましたが、恣意的に薄味にしたのであれば、しっかりと統制が効いていてなかなか趣向を凝らした演奏といえるのかもしれません。

佐々木 「叙情性、恐ろしさ、分裂した気質…」という、未完成に私が求めていたものは何人かの指揮者が演出したものであって、(中略)これらを聴いたところでは、前述の「叙情性、恐ろしさ、分裂した気質…」をそれほど濃く感じなく、もっと違う味わいの方に良いものを感じたためです。
私も、佐々木さんのご意見に近いです。”叙情性”は多くの演奏で感じましたが、分裂した気質というのはあまり感じたことがないように思います。曲の表情が、めまぐるしく変わるわけでもなく、比較的予定調和ともいえるような気がします。どちらかというとまろやかさのようなものを感じていました。

斉諧生 さて、今日は一日中、シューベルトを聴いておりました。「未完成」はインマゼール盤の他に、大指揮者のものばかり4点、聴きました。C・クライバー、クレンペラー(DGG)、シューリヒト、マタチッチ。さすがに(@_@)気味ですが、どうも、聴くほどに変な曲ですね。指揮者によって違いが出るような、出ないような...。ちょっと飛躍しますが、詰まるところ、この曲の魅力は、
  1. センチメンタルなメロディー
  2. ファンタジー溢れる転調の妙
の2つに尽きるのではないでしょうか。もちろん、陰の濃い部分があることも否定しませんが、あまり魅力的な音楽にはなっていないと思えるのです。

とすれば、響きを濁さず、クリアにそれを聴かせてくれるインマゼール盤は、高く評価できると思うのです。ブリュッヘンのメンデルスゾーンのとき、

工藤 ただ、ひょっとしたらこれが本来の“ロマン派”の姿で、他の多くは“後期ロマン派”的な“ロマン派”なのかもしれませんね。
鈴木 ズキッ!ズバリ言われてしまった!そうなんですよね。我々は後期ロマン派的なロマン派の演奏を求めすぎているのかも知れない。
に始まるやり取りがありましたが、同じことではなかろうか、と思うのです。もっとも喜多尾道冬『シューベルト』(朝日選書)によれば、「そこ(=未完成)から聴きとれるのはその悶々とした性的妄想である」のだそうですから、後期ロマン派ないし表現主義的演奏も有り得るのでしょうけれど。(^^;

そう、このコンビでメンデルスゾーンやシューマンを聴いてみたいものです。最近スター指揮者不在のSony Classicalだから、すぐ録音するかもしれない。

浮月斎 泰然と流れていくような「未完成」ではない、絹のような感触とさっくりした強さがうまくまじり合った音楽構築ということで、インマゼールの「未完成」は気に入りました。
また
浮月斎 私自身は慄然とするような孤高の姿がやはり擦り込まれてきた「未完成」であり、その姿の峻厳なるところを評価してきたように思います。そして、その路線での「未完成」も決して悪くはないのですが、この作品とはそこまでデモーニッシュに研磨されるべき名品なのかどうか、私には疑問があります。
まぁ、私が考えていることは、浮月斎さんの御意見の、単細胞的なパラフレーズでしかないと思います。ただ、

浮月斎 ことシューベルトのオケモノに関して言えば、私としてはひたすら「清水」に近いほうがマシと思えるのです。
シューベルトの管弦楽曲全般に一般化するかどうかについては保留します。いずれ別信で投稿しますが、「グレート」に関しては、私はもう少しハト派です。(^^)

浮月斎 ブリュッヘン盤の「未完成」の方が汎通的な解釈のフレームの中にあるような気がします。
と、
野々村 6番は、ブリュッヘンのKO勝ちですね。音楽の躍動感が全く違います。
浮月斎 これはそうですね。ブリュッヘンの方が素晴らしい。
これは同感です。インマゼール盤は木管、特にクラリネットの音に魅力が乏しく、全体の印象を損なっていると思います。

鈴木 音楽そのもの、あるいは音楽の向こう側にあるものでもいいですが、インマゼールの演奏は表現たり得ていないんではないかと思うんです。
あれはあれで「向こう側」を表現していると思えば、そんな気がしてくるのではありませんか?(^^)

鈴木 ただ、シューベルトの「未完成」に救いのない破壊的な暗さを求めるか、しなやかで爽やかなメロディメーカーの音楽を求めるかの違いは聞き手によって生じてしまうでしょうが。
クナの「未完成」は未聴ですが、「救いのない破壊的な暗さ」を実現できるのは彼一人だろうという気はします。

工藤 ちょっと皮肉な見方をすれば、指揮者が余計なことをしなかったために、奏者の良い意味での自発性が喚起され、このような良い結果が生まれたとも考えられますが(^^)。
うーん。まぁ、この問題には立ち入らないことにしましょう。(^^)

工藤 確かにこの曲には夢見るような部分がたくさんありますが、それだけではダメなのですね。どのように夢から覚まされるか、それが重要なのです。
これはもう少し教えてくださいませんか?私には、この曲に「夢−非夢」という2項対立の構造があるというイメージが湧かないのです。

工藤 でも、オーケストラの技術は非常に高いですね。
なるほど。

山下 曲の流れのようなものが感じられず突然に曲が展開していて、美しいけど一本調子な構成に物足りないものを感じました。
シューベルトの大規模な器楽曲って、みんなそんなところがありませんでしたっけ? (^^;  #グレートの第4楽章なんか、ほとんどポプリみたいな...。

工藤 ひょっとしたら、我々は「未完成」を強い先入観の元で聴いているのではないでしょうか?
佐々木 その先入観を振り切った時に「未完成」が今まで通りの通俗名曲足り得るのでしょうか?
上記2点の魅力は残存しますから、まずまず生き残れるのでは?でも、演奏会では取り上げられなくなりましたねぇ。大阪名物コバケン&大フィルの新春3点セットくらい?

佐々木 でも、そういう演奏だと、部分的に感心はするし、心に残ったりもするのだけれども聴く側として手放しにメロメロになっちゃうという所まではいかないような気がします。(中略)一方で、クラシックを聴く人には、そういう「メロメロ」にして欲しい、って思っているところが少しはあるとも思うんです。
後段、全く同感ですが(「少し」どころでないかも (^^;)、達成度が高ければ、メロメロ状態だと思うのです。というか、ベートーヴェンなりシューベルト、ブラームス、チャイコフスキー、ドヴォルザークあたりの超有名曲になれば、誰の演奏でも、「指揮者を映す鏡」になってしまいませんか?モーツァルトは少し違うかもしれません。

ちょっと本題から外れますが、昨日聴いたインマゼールのグレートについて。何より驚いたのは、第3楽章で聴いたことのない音楽が出てきたこと!私の持っているスコア(音楽之友社=ユニバーサル版)だと112小節と113小節の間に、4小節分。あとは、未完成同様、テクスチュアの明快で爽快な音楽を楽しめました。

佐々木 未完成の時と同様、管がよくきこえて面白いのは面白いのですが、この急加速と金管の激しさにはやはり少なからず抵抗を覚え、(中略)このグレートも、もう少しテンポを穏当にして、金管の強奏を抑えてくれたら愛聴盤になったんじゃないかと思うんですが(笑)。
そんなにテンポを動かしてましたか?1・2楽章など、基本テンポは不穏当:-) に速いとは思いますが、「急加速」に該当するような部分が、思い当たりません。第1楽章の終結あたり?でも、あそこは、古楽派でない指揮者でも加速する人は少なくないでしょう。

佐々木 グレートの場合、私のリファレンスは昔からベーム/BPOでして。
私も、同じ盤です。あ、ひょっとして、第1楽章提示部で第2主題が出るところかな?あそこはベーム盤だと軽くリタルダンド→ア・テンポしますよね?リタルダンドというより、わずかにパウゼが入る、と言った方がいいかも。ほんとに魅力的です!ふっと花が咲くような。インマゼールは逆に加速。でも、ここも、同様の処理は珍しくないと思います。

浮月斎 私としては逆にもっとテンポは早目にぐいぐい引き込む演奏だったらと思いました。
前半に比べれば、3・4楽章のテンポは、確かにちょっと微温的ですね。

浮月斎 グレートみたいにつまらん作品は逆にそうでないと退屈してしまう。
この曲で、シューベルトの交響曲が、ようやく水準に達したと思うのですが、どうでしょう?緩急自在の演出がないと、時間と音響の浪費みたいな演奏になりがちだとは思います。この曲は、ぜひカルロスの録音を聴いてみたいのですが、夢で終わるかなぁ...。マーラー;第3・4、グレートと並べると、浮月斎さんの好みでない要素が浮かび上がってくるような。

山下 以前ポストした内容で、ちょっと表現力不足だったと感じたところがありましたので、少しばかり補足します。

斉諧生 インマゼール盤は木管、特にクラリネットの音に魅力が乏しく、全体の印象を損なっていると思います。
山下 曲の流れのようなものが感じられず突然に曲が展開していて、美しいけど一本調子な構成に物足りないものを感じました。
斉諧生 シューベルトの大規模な器楽曲って、みんなそんなところがありませんでしたっけ? (^^; グレートの第4楽章なんか、ほとんどポプリみたいな...
おっしゃっているとおり、全体の構成は単調な作りだと思うのですが、単調は単調なりに、表現の工夫が欲しいなと思えました。斉諧生さんが書かれている、木管の音に魅力がないという印象を第6,第7番ともに私も持ちました。音色もさることながら、弱音での微妙な表現があまりなく、言葉は悪いですが棒吹きという感じでしたので、そういう点も含め一本調子だなぁと感じました。

佐々木 インマゼールのグレートについて。スコアを買いに行く時間がとれなかったのでもう1回聴いた上でのリプライですが、

佐々木 未完成の時と同様、管がよくきこえて面白いのは面白いのですが、この急加速と金管の激しさにはやはり少なからず抵抗を覚え
斉諧生 そんなにテンポを動かしてましたか?(中略)あ、ひょっとして、第1楽章提示部で第2主題が出るところかな?あそこはベーム盤だと軽くリタルダンド→ア・テンポしますよね?
全くです。あのオーボエ!
リタルダンドする演奏に慣れているところを、加速気味に突っ込むので、おやおや、ちょっと待ってくれぇ...と、。それに、序奏(Andante)のテンポ設定はいくらなんでも速すぎるような気がします。主部(Allegro ma non troppo)と、もう少し差を付けて欲しいところです。急加速、というのは表現が悪かったです。すみません。ベーム/BPOのこの曲のイメージで聴くと異様に速い個所がある、というくらいの意味とご理解ください。

斉諧生 インマゼールは逆に加速。でも、ここも、同様の処理は珍しくないと思います。
そうなんですか。あとバーンスタイン、アバド、レーグナーあたりは聴いたことあるのですがもうどんなだったか思い出せません。アバドの2楽章で仰天したくらいしか覚えておりません。

工藤 さて、シューベルトですが、大分議論も収束したようですね。やや乱暴なまとめ方をすると、「指揮者の個性を聴き取ることはできなかった」ということで意見は一致しているようです。ただ、「未完成」をどの程度の名曲と捉えているかで、「オケの技術だけで満足した」人と、「ただの音響としてしか感じられず、物足りなかった」人とに分かれたような気がします。今回の一番の収穫は、普段聴いているようで聴いていない「未完成」を集中して聴き直せたことにあるかもしれませんね。正直言って6番の方には、全く興味が持てませんでしたが。長帳場でしたが、皆様ご苦労さまでした。(^^)





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