No.12 : Immerseel conducts Schubert


SONY CLASSICAL SRCR 1972 Schubert : Symphony No.6,7
(SONY CLASSICAL SRCR 1972)
1. Symphony No.7 (8) in B minor D759 "Unfinished"
2. Symphony No.6 in C major D589

Anima Eterna Symphony Orchestra
Jos van Immerseel (dir)





発言者 : 工藤(モデレータ)、野々村、佐々木、斉諧生、鈴木、山下、浮月斎



工藤 シューベルトのスコアには、例の“ディミュニエンドかアクセントか”問題をはじめとして、学術的にもさまざまな問題があるようです。その辺りのことは、金子健志さんの単行本などに詳しいので、あえて僕の方から細かくふれることは避けますが、ベーレンライターの新全集版に基づいたというこの演奏は、そうした学術的な興味だけではなく、音楽的にも十分に満足させてくれる素晴らしいものだと思いました。

ピッチや使用楽器についても解説書に詳しく記されていますが、今までの古楽器演奏とは異なった響きがとても新鮮です。しかし、決してそれに溺れている訳ではないところが、この演奏の素晴らしいところです。劇的な音楽の作りが実に鮮やかで、各楽器の美しい歌と、強奏時の金管のコクのある響きとが絶妙のコントラストを作り上げています。シューベルトで眠くなることの多い僕にとっては、非常にインパクトの強い演奏でした。ただ、ムラヴィンスキーに聴かれるような、何とも形容のしようがないあの“寂しさ”がないのが、ちょっと物足りないところでしょうか。「未完成」と6番との間にこれといった違いを感じないまま、ディスクを聴き通してしまうのもこれに起因するのかもしれません。

今回僕が購入したのはこの1枚だけですが、もしシューベルトの全集を揃えようというのであれば、恐らくもっとも薦められるものだろうと推察します。ということで、僕の評価は「推薦」以上「特選」未満。

斉諧生 聴き返すほどに、この「未完成」に魅了された。何より素晴らしいのは、弱音の美である。弦合奏、木管、ホルンとも、ピアノの美しさは他の(おそらくすべての)盤に冠絶すると思われる。

第1楽章では、23・25小節で木管の主題の裏を吹くホルン、展開部冒頭で弦合奏が低弦のピアニッシモからトゥッティのフォルティッシモへクレッシェンドしてゆく部分。第2楽章では58〜60小節(第2主題直前)のppp指定のホルンや、186〜188小節で第1主題への対位旋律を吹く高音のファゴット等々、いくらでも例を挙げることができる。

インマゼールの指揮は、淡々とした中に豊富なニュアンスを盛り込み、夢幻的な美しさを湛えたものとなっている。例えば、第1楽章提示部(再現部)で第2主題への転調を導くホルン(とファゴット)に付けられた微妙なディミヌエンドには舌を巻いた。第2楽章第2主題を吹くクラリネットとオーボエの、はかなげなアクセントにも胸が締めつけられる思いがする。もちろん、強奏時の金管は音を割って鮮烈さを描くのだが、それでもしつこくはなく、変にデモーニッシュな音楽にはならない。近年のシューベルト演奏で問題となる">"の処理も穏当・音楽的なもので、納得できる結果である。

もちろん、「未完成」には過去幾多の名演奏があり、それぞれに個性的な美しさを誇っているわけだが、この古楽器アンサンブル特有の繊細な音色美を十分に発揮した録音は、代表盤のひとつとして聴き継がれるべきものであろう。残念なのは強奏時の音色で、弦合奏は幾分硬くなり、金管も18世紀オーケストラあたりに比べると、ややコクのない音になってしまう点である。これが改善されておれば、ベスト盤として挙げ得たものと思われる。カプリングの交響曲第6番は、曲想・書法が更に古楽器オーケストラにマッチしており、とことん楽しめる演奏となった。

野々村 今回は、最初に降伏宣言をしておきたいと思います。他の演奏を全くと言っていいほど聴いたことがないので、演奏のせいなのか作品のせいなのかはわかりませんが、音楽として何が面白いのか全然わかりませんでした。特に第6番は、モーツァルトの初期交響曲を聴かされているような印象で完全にお手上げです。『未完成』の方は、現代楽器とほぼ同じピッチによる輝かしい響きが、モダン楽器による室内オケの軽快な演奏のようで楽しく聴けましたが、これだったらブリュッヘンのメンデルスゾーンの方がずっと刺激的だったし、シューベルトの歌曲やピアノ曲や弦楽四重奏曲ならばそこここに感じられる深淵がどこにも見当たらず、きれいごとに終始しているという印象を受けました。楽想の急激な変化に、辛うじて彼の個性の片鱗が感じられましたが、そのあたりの処理は自然そのもので、だとすると、この演奏のレベルはかなり高いのでしょうか?

山下 課題のシューベルトについて、第6番はいままでほとんど耳にしたことがありませんでしたので、とりあえず未完成中心のコメントとなります。

はじめてこの演奏を聴いて、聞こえてきた音には今までの演奏との響きの違いなが感じられ、瑞々しいようで古めかしくもある雰囲気。ただ、最初の感想では、強奏の部分のみが強調されすぎて頭に残り、全体の印象は芳しくないよう思えたのが、正直なところです。何度か聴き直すうち、逆に表現の繊細さ細かさが感じ取れるようになり、弱奏と強奏のコントラストを意識した演奏ととらえれば積極的に評価できるように思えます。

何度か聴いてみても、ロマンティックな気分に浸っているのを突然遮られるような強奏が少しいただけないという印象は変わっていません。第2楽章の2分〜や6分〜の管楽器のアンサンブルはすばらしいため、余計に残念な気がします。ベーレンライター社から出版予定の批判版の楽譜を用いているとのことですので、これが本来の姿なのかもしれませんが、慣れないせいか若干の違和感があります。

鈴木 このシリーズの番号付けはややこしいですね。「未完成」はてっきり第8番だと思っていたし、「グレート」は第9番なんですよね、小生の認識では。なんか番号だけは統一しておいて欲しいですね。第6番はあまり聞いたことはありません。元々シューベルトはいまいち苦手で、あと聞くと言えば交響曲では第5番くらいです。インマゼールのシューベルトは、非常に健康的に豪華絢爛という印象でした。「未完成」ではシノーポリ指揮POやカルロス・クライバーがやはり推薦ですが、クレンペラー、ムラヴィンスキーの古手の指揮者のものが好きですね。フルトヴェングラーやワルターもLPでは持っていたのですが、CDでは買い直していません。

特にクレンペラーとVPOのDGから出たライヴや、バイエルン放送響とのライヴが小生気に入っています。という古いのが好きというスタンスを明らかにしておいて、インマゼールの「未完成」を聞くとビブラートのかからないピリオド楽器の演奏は、多少違和感はありますが、落ち着いて聞けました。ただ、昔、松本零士が「男おいどん」で描いて見せたシューベルトと「未完成」の、*ベートーヴェンがどうしても乗り越えられない*、焦燥感というのか陰々滅々とした*闇*の部分は後退していますね(^ ^ ;(まあ、あれは創作でしょうが)。

さっき、シノーポリと、朝比奈さんの東京都交響楽団のCDがあったことを思い出して、引っぱり出して聞き比べをしているのですが、その落差に笑ってしまいました。3者聞き比べでは、演奏として新鮮なのは無論インマゼールですが、堂々とした風格のようなものでは朝比奈、自分にこの曲を引き寄せて聞けるのは(没入できると言う意味ですが)シーポリでした。さらにアーベントロートの「未完成」も見つかったので聞いてみたのですが、爆裂型の荒れ狂った「未完成」で最も退屈しなくて聞けます(^ ^ ;。さらにさらに、Disque Refrainの1958年のクナを聞いてみると、やはりこれが小生には一番しっくりくる(^ ^ ;;;;。

いろいろと聞き返してみて感じるのですが、クナやアーベントロートを経て、クレンペラーを聞いて、シノーポリやクライバーからインマゼールまで行き着いてみると、だんだんと演奏者の恣意的な部分が取り除かれて行くのが分かりますが、*作品の真正な姿を浮き彫りにする*という最近のピリオド楽器での演奏は、感情的な部分が取り払われ、おしなべてプレーンテイストの演奏になってしまうなと感じました。そのことは、近代型オケの演奏でも言えることですが。インマゼールの演奏は好ましいですし、その演奏意義はいちいち肯首できるのですが、*自分にとって*好きな演奏かと聞かれると、嫌いではないし、否定もしないが、*あってもなくてもどちらでもかまわない演奏*ということになりますか。

浮月斎 インマゼールですが、実は以前、彼がアニマ・エテルナとともにカザルス・ホールでモーツァルトのピアノ協奏曲の演奏会を一夜聴いたのですが、風評ほど感心はしませんでしたし、ディスクも結局買いませんでした。古楽でのシューベルトをブリュッヘンと併せて今回初めて聴いたのですが、思っていたより堪能できました。割と積極的に評価したいと思います。

未完成では、幻想的な情感をインティメイトな次元ではなく、密度濃く墨痕鮮やかに描いているように思います。全体的に明るく澄明なの音の傾向が、ウェットに沈みがちなこの曲に生命力を感じさせ、しかも品性の限界ギリギリまで詰めたダイナミクスのとり方も実に見事ですね。特に2楽章がなかなか楽しめました。強いインパクトに訴えかけるインマゼールに比べると、ブリュッヘン盤はもう少し風格はあるがたおやかな味わいに聞えてしまいます。第6番は、あまり面白い作品とは思えませんが、無心に楽しめました。爽快にざっくり切れる味わいでも悪くないのかもしれませんが、未完成とのトータルのカラレーションを考えると通例の古楽みたいな方向には行かないのでしょう。

インマゼールの指揮は全体的に恬淡としていながらも、まず音の織りなす綾の玄妙さが筆舌に尽くし難い。特に木管のバランスとイントネーションが瑞々しいこと、弦の表情の豊かなことなどでしょうか。また音響の対比も鮮明で、特に弱音部分で弾くニュアンスの素晴らしさは、これまでのピリオド楽器のフレームを超えた見事さが感じられた次第。強音ということでは、ブリュッヘンの方が強さを感じられますが、インマゼールの強音は時にうるさいけれど、さっぱりでシャープ。

ただ、現代楽器での名演と比べてどうかという点ですが、未完成という作品自体がこれまで放ってきた濃厚な寂寞感なり、峻厳さのようなものを求めると確かに何かが違うとは思いますが、私はこの曲はもともとこういうアクティブなインパクトのある作品と思いますので、却って好ましい気がします。好悪が分かれるとすれば、この辺でしょうか

佐々木 この演奏の特徴は皆さんが挙げられているようにいくつもありますが、私にとっての魅力は、何と言ってもオーケストラの醸し出す色調ですね。強靭かつ透明で、新鮮。これには文句無しに魅了されます。

まず、未完成の方ですが、これを聴いている時にどうしても気になるのは、未完成がこんなに強靭で良いのか、或いは、雰囲気が無いとか、今まで聴いてきた演奏によるインプリンティングとの落差ですがこれは、インマゼール&アニマ・エテルナが例えば曲に没入するような演奏を目指していないことは明白なのでこの事を云々することは意味がないとは思います。

未完成では、やはり良いのは2楽章と感じました。これは1楽章に比べモダンの演奏とは完全に隔絶しているために、違和感を感じないというのがひとつの理由と思いますが(2楽章に関しては、他の演奏と比べてかなり速い)、この楽章の一般的なイメージである夢幻的な雰囲気を剥ぎ取った所で純粋に各楽器の音色と絡みを楽しめるかがやはり好悪の分かれ目となりましょうか。交響曲第6番の方は、あくまで私の好みから言うと、こういう曲を白日の下にさらけだすと演奏が単調に聞こえると思いますし、オケの鮮烈な強奏もこの曲では少しふさわしくない気がしました。音色の魅力や各楽器の上手い下手以前の問題でモダンのオケでもっとのんびりやってくれた方が安心して聴けるかなというのが実感です。

という訳で、未完成については幾分の引っ掛かりを感じながらも、この曲の新しい聴き方を教えてくれる演奏として評価。第6番の方は、どうも曲とオケのミスマッチのように聞こえてしまい、あんまり良いとは思われませんでした。しかし、このシリーズ、シューベルト当時の楽器とピッチを使用し、当時の響きを再現するという所が一つの売りである訳ですが、この演奏を聴いていると、そういう所を隠れ蓑にした前衛的な演奏のように聞こえてなりません。

工藤 まず皆さんのご意見を伺いたいのですが、ほとんどの方のコメントに「6番はあまりよく知らないので」といった旨の発言が入っていましたが、この際議論を「未完成」だけに絞ってしまってもよいと思いますが、いかがなものでしょうか?6番も洒落た良い曲だとは思うのですけどね。

さて、暫定的に「未完成」についての論点をピックアップしておきます。

第1に、この演奏で実現されている響きをどのように受け取ったか、ということ。僕自身は上手な古楽器オケが(僕には)馴染みのあるピッチで演奏している、といった単純な受け取り方をしました。一部不評(?)だった金管の強奏も、別にこの演奏だけが特別だという気もしていません。この点に関しては、むしろ他の「未完成」を聴き慣れたための違和感なのではないでしょうか?

第2に、「未完成」の演奏に対して何を期待するのか、ということ。正直言って、僕は「未完成」に限らずシューベルトの作品は、ほとんどまともに聴いたことがありません。ピアノ・ソナタはディスクを一枚も持っていませんし、グレートもフルトヴェングラーの大戦中の録音とベーム/ウィーン・フィルの来日公演だけ。となれば、皆さんに比べてあまり強い先入観(?)がないのかもしれません。そういった意味では、皆さんの“思い入れ”を存分に語って頂くのも面白いのでは(^^)。

第3に、「アクセントかディミュニエンドか」の解釈について。僕がスコアを見た限りでは、ベーレンライターの新全集版に忠実な解釈だと思われました。ただ、この新全集版が“決定版”なのかといえば、そうではないことが金子さんの著書でも指摘されています。その辺りを皆さんはどう受け取られたか。

オケの技術的なことは別に議論しなくてもいいですよね。皆さん概ね好意的な評価で一致しているようですし。何といっても“ド名曲”だけに、皆さんの推薦盤などもふんだんに織り込みながら、話を展開していければと思います。

山下 工藤 第1に、この演奏で実現されている響きをどのように受け取ったか、ということ。(中略)この点に関しては、むしろ他の「未完成」を聴き慣れたための違和感なのではないでしょうか?
私もやはり違和感を感じました。佐々木さんが未完成がこんなに強靱でいいんだろうか?と書かれていましたが、同感です。推薦盤として挙がっていたブリュッヘンを何度か聴いてみました。インマゼールに比べて、優雅さがあり強奏の部分も曲の流れにとけ込んでいるように感じます。

少し話がそれてしまいますが、以前録音された音をどう取り出すかといった話題が出ていたのを思い出しました。普段、アンプのボリュームはいつも同じでCDを聴いているのですが、このCDは弱音のレンジが他のものより広いような気がします。録音面でも、意欲的な試みと感じました。木管の響きはまるで室内楽のようですし。

斉諧生 工藤 第1に、この演奏で実現されている響きをどのように受け取ったか、ということ。僕自身は上手な古楽器オケが(僕には)馴染みのあるピッチで演奏している、といった単純な受け取り方をしました。
ピッチはそうですね。マッケラス/OAE盤あたりは、かなり高いようで、曲想が違って聴こえる趣がありますから。

工藤 一部不評(?)だった金管の強奏も、別にこの演奏だけが特別だという気もしていません。この点に関しては、むしろ他の「未完成」を聴き慣れたための違和感なのではないでしょうか?
金管の強奏に、というより強奏と弱奏の落差の大きさに違和感を持たれたのではないでしょうか。現代楽器の「未完成」でも金管を強奏する事例はありますが、弱奏の音量レベルはもう少し高くなりますから。

工藤 第2に、「未完成」の演奏に対して何を期待するのか、ということ。
実は、この点が、今回あれこれ聴き比べる中で変質したような気がします。もともとは宇野功芳*尊*の影響もありまして、
    「息も絶え絶えにあらゆる短調と長調の間を、遠隔調の森をさまよい歩く。
    魂は不思議な神秘の国へと連れ去られてしまうのである」
    (第2楽章第2主題提示のあたりのことです。(^^;)

などという雰囲気で、この曲を捉えておりました。

今回、久し振りにこの曲を聴いた時点では、シューベルト独特のファンタジーが次から次から湧き上がってくるような作品の一つ、と見ていました。ところが、いろいろな演奏で何度も聴くにつれて、ファンタジーの飛翔という点では、私がよく聴くアルペジオーネ・ソナタや、ヴァイオリンの幻想曲(そしてたぶん後期のピアノ・ソナタとかピアノ連弾の幻想曲とか)が上回っているように思えてきたのです。ファンタジーが交響曲という枠の中で必ずしも伸びやかに羽ばたいてはいないのではないか、そんな気がしてきました。未完に終わったのも、そのあたりに不満だったからでは、などと考えたりしております。

とりわけ、強奏部分をインマゼールのようにアクセント(縦向きのクサビ状の記号)を活かしてくっきり演奏すると、なにやらそこがガクブチのようなもので、間に弱奏部分のファンタジーがはさまっている、という曲になってしまう。ムラヴィンスキーが凄いのは、強奏部分をmfくらいに落としたり、アクセントを鈍く崩したりして、そこにもファンタジーを発生させているからではないでしょうか。「未完成」という曲は、楽想と形式が不釣り合いな作品なのかもしれません。そういう点ではきわめて特異な曲であり、また、そのゆえにかくも愛好されてきたのではないでしょうか。

買っただけで未聴ですが、インマゼールの「グレート」を聴けばヒントがあるかもしれない、と感じています。

野々村 同じ組み合わせのブリュッヘン盤(Philips)、および『未完成』のモダンオケによる録音としてムラヴィンスキー(BMG)とチェリビダッケ(Ermitage, RTSI管との1963年のライブ)を聴き、ようやく作品とこの録音のイメージが掴めました。

まず『未完成』ですが、私はどうやらモダンオケの演奏の方が好きなようです。ムラヴィンスキーとチェリビダッケという、およそ対極的な芸風を持つ2人の指揮者が、「弱音でセンチメンタルに」というスタンダードな解釈を踏襲して聴き応えのある音楽を作り上げているのに対して、ピリオド楽器ではそういう表現は難しい。それでも、ブリュッヘンは頑張ってそういう雰囲気を出そうとしているものの、テンポを落とすと響きの薄さが目立ってしまいます。速目のテンポと鮮烈なダイナミクスという、ピリオド楽器オケの*スタンダード*に徹したインマゼールの判定勝ちという印象。しかし、響きが美しいと言っても、それはピリオド楽器という枠内での話にすぎないように感じられます。

一方、6番は、ブリュッヘンのKO勝ちですね。音楽の躍動感が全く違います。そもそも、これまでの聴取体験を振り返っても、本当に素晴らしい演奏ならば、初めて聴いた作品でも強烈なインパクトを与えてくれるもので、今回のインマゼールの録音は、やはりたいしたものではなかったようです。使用譜やピッチ選択の新しさを売り物に、ピリオド楽器の土俵の中での判定勝ちを狙った志の低い録音、と言っては言い過ぎかもしれませんが、少なくとも私はこの全集の分売をこれ以上買いたいとは思いません。

浮月斎 工藤 第1に、この演奏で実現されている響きをどのように受け取ったか、ということ。...中略...この点に関しては、むしろ他の「未完成」を聴き慣れたための違和感なのではないでしょうか?
ピッチについては特別コメントはありません。インマゼール盤については、あまり古楽であるという意義をときほぐしながら聴いたという感じではありませんでした。弱奏と強奏のコントラストについては、古楽的な音の輝度差を感じますが、特別奇異には感じませんでした。しかし、一般的な演奏スタイルでは、概ね、作品の風雅な理想美(幻想美とでもいいましょうか)を強く色づけしていて、滅多にこのような爽快なコントラストはないでしょうね。

工藤 第2に、「未完成」の演奏に対して何を期待するのか、ということ。
シューベルトの管弦楽作品は「ロザムンデ」以外あまり好きでもない理由に、室内楽に比べて音楽のインテンシブかつイマジネイティブな側面があまり聞えてこないからと思っています。そういう意味で、泰然と流れていくような「未完成」ではない、絹のような感触とさっくりした強さがうまくまじり合った音楽構築ということで、インマゼールの「未完成」は気に入りました。このような明るめの音色で淡々と抉っていくこの演奏の方が、より自分の考えるシューベルトらしい感触という気がします。ここにもう少し前進的な推進力があればさらに言うことはなかったかなというところです。そういう意味で、私はやはりカルロスの指揮が最も好きなのだろうと思います。

工藤 第3に、「アクセントかディミュニエンドか」の解釈について。僕がスコアを見た限りでは、ベーレンライターの新全集版に忠実な解釈だと思われました。ただ、この新全集版が“決定版”なのかといえば、そうではないことが金子さんの著書でも指摘されています。その辺りを皆さんはどう受け取られたか。
うーん。音楽学的な観点での興味は特にこの辺には持てないので、これはパスします。そもそも自筆譜の「アクセントかディミュニエンドか」ということに関して言えば、ベートーベンにも、その他の作曲家にもある話と思いますが。

野々村 シューベルトの歌曲やピアノ曲や弦楽四重奏曲ならばそこここに感じられる深淵がどこにも見当たらず、きれいごとに終始しているという印象を受けました。
そうかもしれません。しかし、そもそもこの作品自体がそういうものではないかと思っています。

斉諧生 インマゼールの指揮は、淡々とした中に豊富なニュアンスを盛り込み、夢幻的な美しさを湛えたものとなっている。例えば、第1楽章提示部(再現部)で第2主題への転調を導くホルン(とファゴット)に付けられた微妙なディミヌエンドには舌を巻いた。第2楽章第2主題を吹くクラリネットとオーボエの、はかなげなアクセントにも胸が締めつけられる思いがする。
珍しく、私も古楽にしては(?)管の魅力を堪能したという感じでした。飲み口の端麗な水のようなよさがあると思います。

斉諧生 残念なのは強奏時の音色で、弦合奏は幾分硬くなり、金管も18世紀オーケストラあたりに比べると、ややコクのない音になってしまう点である。これが改善されておれば、ベスト盤として挙げ得たものと思われる。
私は逆に弱奏時の練り絹のような感触とニュアンスの粋に対比して、強奏時のある種堅い爽快な響きもコントラストされているような気がしています。その意味では、これはこれでいいのではないかと。どちらかといえば、前回も書いたようにブリュッヘン盤の「未完成」の方が汎通的な解釈のフレームの中にあるような気がします。それはそれでよさはあるのですが、「音」ではなく「音楽構成」という点で、インマゼール盤の方がシューベルトのよさみたいなものをもう少しインスパイアするものがあるような気がしました。

山下 何度か聴いてみても、ロマンティックな気分に浸っているのを突然遮られるような強奏が少しいただけないという印象は変わっていません。第2楽章の2分〜や6分〜の管楽器のアンサンブルはすばらしいため、余計に残念な気がします。
私にはそれがこの作品の地のありようかと思います。インマゼールはややデフォルメしている気はしないでもありませんが、私にはもともと未完成はこのような構成自体が自然のような気がします。別段ハイドンの驚愕に類比させる必要はありませんが(^^)、もっと内的に沈潜するだけではないヤマ場はある筈です。強奏の響きが堅いので、カルロスの時のようなしなやかさにやや欠ける分うるさく感じられるとは思いますが、それが「古楽臭さ」かなとやや諦め気味です。

佐々木 これは、インマゼール&アニマ・エテルナが、例えば曲に没入するような演奏を目指していないことは明白なので、この事を云々することは意味がないとは思います。
いやいや、意外に彼等なりの没我的境地と思いますよ。

佐々木 この楽章の一般的なイメージである夢幻的な雰囲気を剥ぎ取った所で、純粋に各楽器の音色と絡みを楽しめるかがやはり好悪の分かれ目となりましょうか。
他の演奏との比較というほどではないにしても、私が聴けたのはかなり耽美的ながら明るさと歌を失わないところで、逆に、古楽として隔絶した聴き方ではないところで共感してしまったところもあります。聴き方が悪いのかもしれませんが、私の場合、ブリュッヘンよりインマゼールの方が夢幻的な美しさを感じました。

佐々木 しかし、このシリーズ、シューベルト当時の楽器とピッチを使用し当時の響きを再現するという所が一つの売りである訳ですが、この演奏を聴いていると、そういう所を隠れ蓑にした前衛的な演奏のように聞こえてなりません。
「隠れ蓑」ではなく、現在、古楽が最も古典の前衛的解釈の場と化しているひとつの証左と素直に見るべきでしょう。ティーレマンの時も話ましたが、古楽が古典解釈の前衛となったというよりも、モダン楽器演奏の場でそれらが反比例してどんどん失われていっているということでもあります。

古楽という楯の中でインマゼールがやっていることを、学究的な次元で、オーセンティックか否かというよりは、もっとモダン演奏と同次元で聴き、比べ、楽しむことができたなというのが、私の実感です。そういう意味で6番もやってほしかったのですが、こちらはどうも古楽的意匠に身をまといすぎている気がしましたね。

野々村 ムラヴィンスキーとチェリビダッケという、およそ対極的な芸風を持つ2人の指揮者が、「弱音でセンチメンタルに」というスタンダードな解釈を踏襲して聴き応えのある音楽を作り上げているのに対して、ピリオド楽器ではそういう表現は難しい。
確かに。それが結局違いというものでしょう。それは以前のメンデルスゾーンでも議論があったと思いますが。

野々村 それでも、ブリュッヘンは頑張ってそういう雰囲気を出そうとしているものの、テンポを落とすと響きの薄さが目立ってしまいます。速目のテンポと鮮烈なダイナミクスという、ピリオド楽器オケの*スタンダード*に徹したインマゼールの判定勝ちという印象。しかし、響きが美しいと言っても、それはピリオド楽器という枠内での話にすぎないように感じられます。
ブリュッヘンについての感想は私とほぼ同じではないかと思います。ピリオド楽器という点では、確かにそうかもしれませんが、楽器奏法の問題を超えたニュアンスの妙味は−特に管−、私はあまりモダンvsピリオドというフレームを特別意識せずに聴けたように思いました。といっても、やはりピリオドはピリオド。同じ土俵では比較できないものはありますが...。

野々村 一方、6番は、ブリュッヘンのKO勝ちですね。音楽の躍動感が全く違います。
これはそうですね。ブリュッヘンの方が素晴らしい。因みに私、EMIでのカラヤンの全集でモダンの6番を聴いてみましたが、つまらぬ作品というよりやはり聞かせか方かと思いました。

野々村 そもそも、これまでの聴取体験を振り返っても、本当に素晴らしい演奏ならば、初めて聴いた作品でも強烈なインパクトを与えてくれるもので、今回のインマゼールの録音は、やはりたいしたものではなかったようです。
未完成ほど作品の本性を煮詰めきれていないからで、この手の作品−例えば3番など−はインマゼールだとそういう傾向にあるかもしれません。ただ、グレートを聴いてみないと...。

佐々木 ベーム/BPO(DG)は変にいじっていない点、好感の持てる演奏。ワルター/NYpo(SC)は暖かいバスが妙に安心感のある演奏で捨て難い。かなり個性が強いですがやはり面白いのはカルロス・クライバー(DG)ですね。私の中の常識的未完成像に近いのはC.ディヴィス/BSO(Ph)あたりでこれは流れが自然で、とても心地よく聴けます。
ワルター&NYPを聴きましたが、未完成の従来のスタンダートたる味わいがワルター独特の味わいにマッチしていてこれはこれで素晴らしいですね。

佐々木 ワルター/NYpoの未完成の第2楽章のように、ゆったりとやるのはとても味があると思いますが、あれは強いて言えば、ウィーンへの郷愁とでも言うようなもので幻想味とは少し違うような感じがします。
私には、神秘的な幻想美というものはあまりこの作品に感じないせいか、馥郁たる情緒にて聴かせられると、退屈な作品と思います。セル盤を聴きましたが、セルなどはもっと爽快かと思えば、やはり従来のフレームとそう大きく乖離していませんね。

シューベルトの幻想というか想像力の飛翔は、どう考えても管弦楽作品では鈍重すぎるのではないかと思います。だからといって、編成が小さければその妙味が出し切れるかとそうでもない。いかにテクスチュアを緊密・爽快に溢れさせるかという点にあるのかもしれませんね。

佐々木 そして何よりもこの盤は、この曲の実像がどういうものであるかを聴き手に問うようなところがあって、それが面白いと思いました。
そう言っていいかもしれません。

佐々木 私も手持ちの未完成聴き比べの後、インマゼールのグレートを聴いてみました。未完成の時と同様、管がよくきこえて面白いのは面白いのですが、この急加速と金管の激しさにはやはり少なからず抵抗を覚え、どうもうまく議論を進められそうにないなぁと思っていたところです。このグレートも、もう少しテンポを穏当にして、金管の強奏を抑えてくれたら愛聴盤になったんじゃないかと思うんですが(笑)。

とはいえ、グレートの場合、私のリファレンスは昔からベーム/BPOでして、良く考えるとモダンのオケでも、これ以外はお気に入りといえるようなものは殆どありませんので、家にあるグレートを全部聴き比べてみると、インマゼールは結構上位に入りそうな気もします。

浮月斎 一般的な演奏スタイルでは、概ね、作品の風雅な理想美(幻想美とでもいいましょうか)を強く色づけしていて、滅多にこのような爽快なコントラストはないでしょうね。
爽快なコントラスト...確かにこれを評価出来るかどうかですね。私の場合、最初インマゼール盤を聴いた時は、先に抵抗が立ってしまったのですが。

浮月斎 シューベルトの管弦楽作品は「ロザムンデ」以外あまり好きでもない理由に、室内楽に比べて音楽のインテンシブかつイマジネイティブな側面があまり聞えてこないからと思っています。そういう意味で、泰然と流れていくような「未完成」ではない、絹のような感触とさっくりした強さがうまくまじり合った音楽構築ということで、インマゼールの「未完成」は気に入りました。
私も前回投稿したとおり、相当数の未完成聴き比べの後、この浮月斎さんの御意見とほぼ同じ感想を持つに至りました。

浮月斎 このような明るめの音色で淡々と抉っていくこの演奏の方が、より自分の考えるシューベルトらしい感触という気がします。ここにもう少し前進的な推進力があればさらに言うことはなかったかなというところです。そういう意味で、私はやっぱりカルロスの指揮が最も好きなのだろうと思います。
私の場合、インマゼールのような味わいも良いなぁと言う事で、モダンオケで昔からの名演系のいくつかもやはり捨て難いですが。

野々村 シューベルトの歌曲やピアノ曲や弦楽四重奏曲ならばそこここに感じられる深淵がどこにも見当たらず、きれいごとに終始しているという印象を受けました。
浮月斎 そうかもしれません。しかし、そもそもこの作品自体がそういうものではないかと思っています。
私もそういう感じを少し受けました。というのも、最近、ヘブラーの弾いたシューベルトのソナタ集(7枚組)を購入し、久しぶりにピアノソナタをあれこれ聴いているのですが、未完成などのシンフォニーよりもソナタの方がぐっとくるなぁと...。

佐々木 これは、インマゼール&アニマ・エテルナが、例えば曲に没入するような演奏を目指していないことは明白なので、この事を云々することは意味がないとは思います。
浮月斎 いやいや、意外に彼等なりの没我的境地と思いますよ。
う〜ん、そうなのでしょうか?(*_*)

浮月斎 他の演奏との比較というほどではないにしても、私が聴けたのはかなり耽美的ながら明るさと歌を失わないところで、逆に、古楽として隔絶した聴き方ではないところで共感してしまったところもあります。聴き方が悪いのかもしれませんが、私の場合、ブリュッヘンよりインマゼールの方が夢幻的な美しさを感じました。
ブリュッヘンは未聴でして、この辺はリプライできません。m(__)m

ただ、今回いろいろ聴いてみて、自分の中で、未完成に関しては、夢幻的、幻想的な美しさを求めるというよりも、この曲をどういう味わいで聴かせてくれるかという、そのあたりに重点が移ってきていまして、幻想的な味わいはどうでもいいという感はあります。

佐々木 この演奏を聴いていると、そういう所を隠れ蓑にした前衛的な演奏のように聞こえてなりません。
浮月斎 「隠れ蓑」ではなく、現在、古楽が最も古典の前衛的解釈の場と化しているひとつの証左と素直に見るべきでしょう。
これは確かにおっしゃる通りと思います。

浮月斎 古楽という楯の中でインマゼールがやっていることを、学究的な次元で、オーセンティックか否かというよりは、もっとモダン演奏と同次元で聴き、比べ、楽しむことができたなというのが、私の実感です。
これも、何回もインマゼールの未完成を聴いた現在では肯けます。

浮月斎 そういう意味で6番もやってほしかったのですが、こちらはどうも古楽的意匠に身をまといすぎている気がしましたね。
そうですね。どうも魅力が薄い気がしますね。>6番

浮月斎 私には、神秘的な幻想美というものはあまりこの作品に感じないせいか、馥郁たる情緒にて聴かせられると、退屈な作品と思います。セル盤を聴きましたが、セルなどはもっと爽快かと思えば、やはり従来のフレームとそう大きく乖離していませんね。
成る程、セルもそうですか。ワルターからは、私は前述の通り、神秘的とか幻想味とかは全く感じませんで、特に第2楽章は昔のヨーロッパに対する郷愁といいますか、他の人の演奏とは全く違うものとして聴きました。これはこれで好きですが。

浮月斎 シューベルトの幻想というか想像力の飛翔は、どう考えても管弦楽作品では鈍重すぎるのではないかと思います。だからといって、編成が小さければその妙味が出し切れるかとそうでもない。いかにテクスチュアを緊密・爽快に溢れさせるかという点にあるのかもしれませんね。
そうですね。今後このインマゼール盤の反動?で、古楽系の決定盤のようなものが出てくることを期待します。

鈴木 かなり特殊なルートで、Chaconne盤のクナの「未完成」を入手いたしまして、いまそれを聞いているところなのですが、いやそのすさまじいこと(^ ^ ;。人によってはデフォルメの極地と言うかも知れませんが、小生にとっては、これが「未完成」なんだと心底感じてしまいます。インマゼールには「ふんそうかい。で、それで?」と言う部分がつきまとっていたのですが、クナにはそれがないですね(^ ^ ;;;;。

クナの「未完成」なら、小生言いたいことが山ほど出来てしまいます。これがクナの「未完成」で表現したかったことなんだと言うことが手に取るような演奏です(実際には、言葉で説明しろと言われても難しいですが)。

インマゼールの演奏を、クナのような古色蒼然とした演奏と比較聴取すること自体、ナンセンスだということは、佐々木さんの言われる通りなのですが、音楽そのもの、あるいは音楽の向こう側にあるものでもいいですが、インマゼールの演奏は表現たり得ていないんではないかと思うんです。その辺りが、小生失語症的に「何をいったらいいのかわからん!」状態になってしまった一番の要因ではないかと。で、クナ終わったから、インマゼール(^ ^ ;;;。リアルタイム試聴です(どこが(^o^))。

この演奏は、悪い演奏ではありませんが、ピリオド楽器を近代型オーケストラのピッチに近づけて演奏するという実験の枠内に収まっているような気がしてならないんです。そのため、一聴すると「健康的な明るめの演奏ですな」と言う印象になって、単に「聞きました」で終わってしまう。精巧な「未完成」の模造品は聞けたが、本物じゃなかったと言う印象が小生強いです。ただ、これは小生が古い演奏内容が好きだだけではすまない問題を内包しているとは感じます。

最近チョー話題のサロネン(^o^)の演奏にも小生同じようなことを感じることがありまして、サロネンはドラマティックな曲想の音楽でのデティールを積み上げることをしないで、最後のクライマックスの大音響でつじつまを合わせるようなところがありますね。音楽に内在するものと対決していない。そのために逆に緩序楽章などではビロードのように柔らかな響きを聞かせてくれて、それはそれでいいのですが...(^ ^)。

インマゼールの演奏は、逆にスコアに書いてあるように金管をしっかり鳴らしたりしているのですが、どこか必然性が感じられない。ただ書いてあるからプカプカと鳴らしちゃったという居心地の悪さを感じます。まあ、これは古楽器を、しかも通常よりピッチを上げての演奏のしにくさからこうなっちゃったといことかも知れませんが。ただ、シューベルトの「未完成」に救いのない破壊的な暗さを求めるか、しなやかで爽やかなメロディメーカーの音楽を求めるかの違いは聞き手によって生じてしまうでしょうが。クナの驚くべき「未完成」の後に、インマゼールの同曲を聴くと、なんかシラジラしく聞こえてしまうのが現状でした。

野々村さんとは、プレトニョフでは対立したのにここでは同じような意見になってしまった。





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