| 鈴木 |
野々村 しかしこの録音におけるプレトニョフは、「解釈」の一環として譜面から離れているのではなく、譜読みが不十分なため譜面の情報を再現するのに失敗しているだけで、両者は全く違います。最近、ピアノのレッスンでこれらバガテルの中の曲を練習していただけに、その違いははっきりわかります。
鈴木 どちらかというと、譜面とにらめっこをして、これはなかなかすごいというのではなく、なかなか聞けるジャンという軽い評価ですね。
野々村 それが趣味だと言われたら、反論のしようはないわけですが、ヴァントのブラームスは不可だがこのバガテルの録音は可、では、もう何が何やら....ただ、今回のメンバーの評価の順序が、ヴァントのブラームスの時とはほぼ逆順になっていることに、重要な意味があるかもしれない。
これを読んで、多少すれ違いの理由が分かりました(^ ^ ;。最後にお書きになっていた、ヴァントのブラームスの評価にも共通します。要は、よく知っているかいないかの差が大きいと言うことでしょうか。ブラームスは、小生スコアの隅々までとは言いませんが、結構知っている。その上でかなりの演奏を聞いてきているので、ヴァントのブラームスは不可という結論が出てしまったのです。来年くらい絶賛しているかも知れませんが。逆に、バガテルはそんなに知っている方ではない。野々村さんはピアノでレッスンしたことがあるわけですから、よく知っている、ということになるのでしょうか。それと、曲に対する思い入れもありますね。多分、小生ブラームスの交響曲第2番は聞き飛ばすことはできないけど、野々村さんはいかがですか?。
|
| 佐々木 |
野々村 ただ、今回は、「受け止め方」の次元で違うのではないかと。「趣味の違い」では済まされない、「クラシック音楽観の違い」まで遡る問題なのではないかと。
どうなんでしょうか。鈴木さんが書かれた事に近いと思いますが、どこまでの「思い込み」や「期待度」を持って聴いたかという所の温度差じゃないでしょうか。
鈴木 もうひとつは、佐々木さんもこの演奏はまるで評価しておられませんが、やはりオーケストラを中心にして聴いてきた耳と、ピアノや室内楽を中心にして聞いてきた耳とでは、感じ方が異なっているのかも知れません。これはまだ想像の域です。
そうですね。私はオーケストラは結構聴き飛ばしますけど、ピアノにはやはり耳をそばだててしまいますね。(弾けないけど)今回のようなフルプライスで、あの装丁で、DGの主力のアーティストが弾いた盤であれば、「標準」以上の何かを期待して聴きますから、感想はそれを前提にしたものとなっている訳です。
|
| 山下 |
野々村さんが書かれているように、『私は、2枚目の作品は「本格的な鑑賞に値するもの」で、もっと「深いものを引き出」すことが可能だと考えているから、上記のような評価になるわけです』といった捉え方をする場合と、私や鈴木さんのように「ちょっとしたもの」という前提で聴く場合には随分と印象が変わってくると思います。価格以外に不満なところが、不思議と思い当たらなかったのは私のこういったスタンスに起因するところが大きいです。
|
| 斉諧生 |
ディスクの企画と値付けへの疑問の声が多く出ましたが、私はいっこう気になりません。輸入盤で買ったから寛容でいられるのかも...。:-)
アーティストと曲目の組合せがレコード会社の都合で制約されるのは仕方のないことで、それを言い出せば、オーケストラの専属制が厳しかった頃のウィーン・フィルの扱いなど、言いたいことが山ほどあります。今回の選曲がウゴルスキの落ち穂拾いであろうと、プレトニョフ自身の創意であろうと、演奏それ自体を評価の対象とすべきでしょう、ここでは。レコ芸か何かの推薦マークなら、「お買物ガイド」としてCPを論じることも必要でしょうけれど。また、LP・CDの値付けが均一なのは、それ自体疑問は疑問ですが、今回のディスクだけ問題にするわけにも参りますまい。書籍みたいに製作費+初版部数を基礎にした値付けが出来ないものかと思います。
野々村 例えば、バガテルop.119-1の冒頭の音型は、2つの前打音はレガートで、次の3音はスタカートで、最後の1音は通常のタッチで弾くように指定されていて、アファナシエフはその指定に忠実です。ところがこの録音では、全部スタカートにしか聴こえません。その後転調してトリオ風になる部分は、アファナシエフは冒頭と同じ硬質なタッチで弾いているのに対して、プレトニョフはレガート気味の抒情的なタッチに変化させています。譜面に何の指定もない以上、この種の選択は「解釈」の違いにすぎません。しかし、転調後の最初の楽想が反復された後に現れる下降音型のフレーズは、1回目は一切指定がないのに対して、2回目は2音ずつレガートで結んでグループ化するよう指定されています。ここでも、アファナシエフはその差を明確に音にしているのに対して、この録音は均質なタッチで通り過ぎていくだけです。
私は楽譜を所持していませんし、演奏譜は校訂者によって随分違うこともあるとはいえ、野々村さんがおっしゃるからにはエディションの問題ではないのだろうと前提します。プレトニョフのタッチの使い方やフレージングは、それはそれで考えた結果ではないでしょうか。主部冒頭でスタカートを強調して、中間部のレガートとの対比を印象づける作戦と聴きました。単純かな?(^^;。もちろん、アファナシェフ盤の含蓄の深さが優っていると思いますが。
ピアノに限らず、ヴァイオリンであれ指揮であれ、こうした次元の改変は、演奏者の裁量範囲ではないでしょうか。譜面に忠実に再現するのも善し、改変して新鮮な面白さを生みだすのも善し。このあたりは工藤さんの御意見を伺いたいところです。もっとも、
野々村 最近、ピアノのレッスンでこれらバガテルの中の曲を練習していただけに、その違いははっきりわかります。
となると、これ以上の議論は難しいかな...。同じことですが、
野々村 1枚目と同じスタンスで寛いで弾いているだけ
浮月斎 1・2枚ともその弾きっぷりにそう変わり映えがしないという感覚があり
前信で書いたとおり、私は、2枚目では弾き方が変化していると聴きました。変化の結果が物足りないと言われれば、このジャンルに疎い私は反論しません。
|
| 工藤 |
斉諧生 今回の選曲がウゴルスキの落ち穂拾いであろうと、プレトニョフ自身の創意であろうと、演奏それ自体を評価の対象とすべきでしょう、ここでは。
“演奏それ自体を評価の対象”とするには、残念ながらあまりにも“軽い”曲ばかりだった、というのが僕の印象です。今回の議論が演奏だけではなく、選曲にまで立ち入って行なわれたこと、結果としてあまり盛り上がらなかったことなどは、結局のところ、「真剣に耳を傾けるには軽過ぎる」ディスクだったのだと思います。モーツァルトのディスクをケッヘル番号順に並べて悦に入っている人もいるくらいですから、ベートーヴェンのWoo作品のある程度集めたこういうディスクも存在して良いと思います。しかしながら、こういう考え方で捉えている以上、やはり“資料”ですよね。演奏のレベルを考えれば確かに「良質の」資料ではあると思いますけど。
斉諧生 プレトニョフのタッチの使い方やフレージングは、それはそれで考えた結果ではないでしょうか。
考えた、というよりはむしろ、何も考えずに感じたまま弾いているような印象を受けました。彼くらいの音楽家であれば、このディスクに収められている曲くらい、初見でレコーディングできるでしょうし、仮に事前に準備をしていたとしても、それは楽譜を丹念に読むことよりは曲の成立過程とかいったことに向けられていたのではないでしょうか?まあ、あくまでも僕の勝手な推測ではありますが(^^)。
斉諧生 ピアノに限らず、ヴァイオリンであれ指揮であれ、こうした次元の改変は、演奏者の裁量範囲ではないでしょうか。譜面に忠実に再現するのも善し、改変して新鮮な面白さを生みだすのも善し。
こういう細部の“煮詰め”に関しては、もちろんグールドのような例もありますが、一般的にはステージの上で聴衆の反応を感じながらの演奏をどれだけ繰り返したかにかかっている部分もあります。今回の収録曲を、プレトニョフは一体何回公開演奏したのでしょうか?
斉諧生 前信で書いたとおり、私は、2枚目では弾き方が変化していると聴きました。
そういう風に考えると、2枚目の曲の方が人前で演奏した回数が多いでしょうから、斉諧生さんの感じ方は至極当然だと思います。ただ、もっと色々なことが表現できるだろうな、とは思いますけど。
|
| 野々村 |
野々村 ヴァントのブラームスは不可だがこのバガテルの録音は可、では、もう何が何やら....。ただ、今回のメンバーの評価の順序が、ヴァントのブラームスの時とはほぼ逆順になっていることに、重要な意味があるかもしれない。
鈴木 要は、よく知っているかいないかの差が大きいと言うことでしょうか。ブラームスは、小生スコアの隅々までとは言いませんが、結構知っている。その上でかなりの演奏を聞いてきているので、ヴァントのブラームスは不可という結論が出てしまったのです。来年くらい絶賛しているかも知れませんが。
「来年くらい絶賛しているかも」というのは、「趣味の問題」という意味でしょうか?それだったら、私の主張とは違います。
鈴木 それと、曲に対する思い入れもありますね。多分、小生ブラームスの交響曲第2番は聞き飛ばすことはできないけど、野々村さんはいかがですか?
私がブラームスの交響曲に思い入れがないのは確かですが、op.33や119のバガテルにも、特に思い入れはありません。op.126はまた別ですが。
鈴木 もうひとつは、佐々木さんもこの演奏はまるで評価しておられませんが、やはりオーケストラを中心にして聴いてきた耳と、ピアノや室内楽を中心にして聞いてきた耳とでは、感じ方が異なっているのかも知れません。これはまだ想像の域です。
この点への皆様のご意見は?私も、「もしかすると」と思っています。
野々村 今回の曲目では、「作品への不満」と「演奏への不満」を区別しないといけないわけで、そのあたりも面倒ですよね。
佐々木 バガテルなど、グールドやタンの盤と聞き比べてみて私の場合は「演奏への不満」の割合が強いかなと思います。
私も、「演奏への不満」の割合が大きいのでしょう。1枚目には肯定的、2枚目には否定的なわけですから。
斉諧生 私は楽譜を所持していませんし、演奏譜は校訂者によって随分違うこともあるとはいえ、野々村さんがおっしゃるからにはエディションの問題ではないのだろうと前提します。
普段はヘンレ版やウィーン原典版を買う私が、これに限ってはドーヴァー版を買ってしまったので不安もありますが(^ ^;;)、J.S.Bachじゃあるまいし、プレトニョフの演奏が「譜面通り」になっている版が存在するとは、考えにくいものがあります。
斉諧生 プレトニョフのタッチの使い方やフレージングは、それはそれで考えた結果ではないでしょうか。主部冒頭でスタカートを強調して、中間部のレガートとの対比を印象づける作戦と聴きました。
これ1曲ならそういう解釈も不可能ではありませんが、どの曲でも、1フレーズ中でスタカートとそうでない音が斑状になっている箇所を、プレトニョフはことごとく1種類のタッチでのっぺりと弾いており、ここまで来ると、「初見同然」と考えた方が自然なのでは?
斉諧生 ピアノに限らず、ヴァイオリンであれ指揮であれ、こうした次元の改変は、演奏者の裁量範囲ではないでしょうか。譜面に忠実に再現するのも善し、改変して新鮮な面白さを生みだすのも善し。
スタカート/レガート/スタカートという、音楽の性格の変化に合わせたタッチの変更は、「裁量範囲」だと私も思っていますが、それによって「スタカートとそれ以外の音の対比」「レガートの切れ目」が聴き取れなくなっても補修工事をしないのは杜撰です。
斉諧生 今回の選曲がウゴルスキの落ち穂拾いであろうと、プレトニョフ自身の創意であろうと、演奏それ自体を評価の対象とすべきでしょう、ここでは。
工藤 “演奏それ自体を評価の対象”とするには、残念ながらあまりにも“軽い”曲ばかりだった、というのが僕の印象です。今回の議論が演奏だけではなく、選曲にまで立ち入って行なわれたこと、結果としてあまり盛り上がらなかったことなどは、結局のところ、「真剣に耳を傾けるには軽過ぎる」ディスクだったのだと思います。
たぶん、プレトニョフはそう思って弾いていたんでしょうね。
|
| 工藤 |
鈴木 もうひとつは、佐々木さんもこの演奏はまるで評価しておられませんが、やはりオーケストラを中心にして聴いてきた耳と、ピアノや室内楽を中心にして聞いてきた耳とでは、感じ方が異なっているのかも知れません。これはまだ想像の域です。
野々村 この点への皆様のご意見は?私も、「もしかすると」と思っています。
今回の評価から推測すれば、そういうことになりそうですね。でもどうでしょうか、僕はあまりピアノ曲を聴かないんですけどね。室内楽といっても弦楽四重奏がほとんどでしたし。ピアノの音色はどちらかと言えば苦手な方です。
野々村 ここまで来ると、「初見同然」と考えた方が自然なのでは?
これには賛成です。野々村さんとは違って楽譜を検討しながら聴いた訳ではありませんが、それでも音楽的な多彩さがあまり感じられないことは確かです。
さて、今回のプレトニョフは、何か、結局議論をどこに収束させれば良いのか、見当がつきませんでした(^^;。
|
| 佐々木 |
鈴木 もうひとつは、佐々木さんもこの演奏はまるで評価しておられませんが、やはりオーケストラを中心にして聴いてきた耳と、ピアノや室内楽を中心にして聞いてきた耳とでは、感じ方が異なっているのかも知れません。これはまだ想像の域です。
野々村 この点への皆様のご意見は?私も、「もしかすると」と思っています。
私は聞く前のこの盤に対する期待度の違いだと思っていますが、そういう要素も多少はあるかも知れませんね。ただ今回の盤に関しては、私は普段全然聴かない曲ばかりだったんですが。
|
| 鈴木 |
op.119-1をまず楽譜を見ながら聞いて思ったのは、野々村さんご指摘の箇所は、これはピアニストの解釈の範疇でしょうね。冒頭スラーからスタッカートに移るところは、プレトニョフはアファナシエフに比較してスムーズに流れますが、曲全体の捉え方として、両者はかなり異なりますので、出だしの違いは、後の演奏の展開によります。音楽の枠組みの捉え方は、アファナシエフの方がより古典的です。譜面上の18小節目から、曲想が変化して行くわけですが、その前の、第15小節から第17小節(繰り返されますが)までのバスの弾き方は、アファナシエフではまるでバッハです(^ ^ ;。プレトニョフは、そこまでは強調されません。
問題は、18小節目以降の音楽ですが、アファナシエフは古典的、プレトニョフはロマン派的です。この音楽を、バッハなどのバロックから流れてきた到達点として捉えるか、ロマン派の出発点として捉えるかの違いでしょうね。どちらが*正しい*ではなく、どっちも*正しい*のです。この当たりが、好悪の分かれ目になっているようですね。第3曲や第4曲を比較するとその差がはっきりと分かります。
これは、多分に*今どっち方面の音楽に自分がコミットしてるかが、聞き手の受け取り方の違いのような気がします。たとえば、楽譜を前にして、自分がバガテルを弾くことを想像しますと、以前だったら、アファナシエフに近く、今だったらプレトニョフに近いと言うことになるでしょうか。
op.33の方では、プレトニョフとグールドを比較できたのですが、楽譜に忠実なのは、プレトニョフの方です。グールドは、多くのスタッカートやスラーの指示を無視しています。ギクシャクとした箇所と、思いっきりレガート気味にした箇所が交互に頻出するグールドと、ロマン派的に楽譜に忠実に弾くプレトニョフの差は、聞き比べるとなかなか面白いものがあります。音のドラマとして、聞いていて面白くて考えさせられるのはグールドですが、「バガテル」本来の持ち味を聞かせてくれるのは、プレトニョフでしょう。
まあ、みなさんの批判と賞賛の差は、楽譜とにらめっこをして聞いた以上では、こんなんかいなと(^ ^ ;;;;。バガテルでも全曲を楽譜と付きあわせながら、各個のCDを聞き比べるのは、ものすごく時間がかかりますので、まあこの辺りでご勘弁...。
|
| 野々村 |
鈴木 op.119-1をまず楽譜を見ながら聞いて思ったのは、野々村さんご指摘の箇所は、これはピアニストの解釈の範疇でしょうね。
ソナタクラスの規模の作品になれば、この程度はもちろん「解釈の範疇」でしょうね。他に表現すべきことはいくらでもありますから。しかし、こういうシンプルな作品でも同じスタンスで良いのかどうかを、私は疑問視しています。
鈴木 音楽の枠組みの捉え方は、アファナシエフの方がより古典的です。譜面上の18小節目から、曲想が変化して行くわけですが、その前の、第15小節から第17小節(繰り返されますが)までのバスの弾き方は、アファナシエフではまるでバッハです(^ ^ ;。プレトニョフは、そこまでは強調されません。
バスの強調は、この時期のアファナシエフの特徴ですね。やはり、グールドの影響かな?
鈴木 問題は、18小節目以降の音楽ですが、アファナシエフは古典的、プレトニョフはロマン派的です。この音楽を、バッハなどのバロックから流れてきた到達点として捉えるか、ロマン派の出発点として捉えるかの違いでしょうね。どちらが*正しい*ではなく、どっちも*正しい*のです。
私も、そういうのは*解釈の範疇*で、「どちらも正しい」と思っています。
鈴木 この当たりが、好悪の分かれ目になっているようですね。第3曲や第4曲を比較するとその差がはっきりと分かります。
少なくとも私の場合は、そういうあたりは好悪とは無関係です。
鈴木 また、管弦楽を中心にして聴いてきたのか、ピアノを中心にして聞いてきたのかで捉え方に差が出るかの違いですが、アファナシエフは、ピアノという楽器の中で音楽を完結させていますが、プレトニョフは、他の様々な楽器の奏法を参照しているようです。
そのココロは?この録音でも、その違いが出ている箇所はありますか?
鈴木 op.33の方では、プレトニョフとグールドを比較できたのですが、楽譜に忠実なのは、プレトニョフの方です。グールドは、多くのスタッカートやスラーの指示を無視しています。
ええ、グールドは、全然「楽譜に忠実」ではありません。:-) ただ、私が問題にしたのは「精度」で、「忠実度」ではない。
鈴木 ギクシャクとした箇所と、思いっきりレガート気味にした箇所が交互に頻出するグールドと、ロマン派的に楽譜に忠実に弾くプレトニョフの差は、聞き比べるとなかなか面白いものがあります。
グールドは、思いつきでそう弾いているわけではなく、「この楽想ならば、私はこういうアクセントを付ける」という思考の結果を、高い精度で示しているわけです。プレトニョフは、「通常許容される程度に譜面に忠実」ではありますが、表現としてはかなりアバウトですね。
鈴木 音のドラマとして、聞いていて面白くて考えさせられるのはグールドですが、「バガテル」本来の持ち味を聞かせてくれるのは、プレトニョフでしょう。
結局のところ、何を《「バガテル」本来の持ち味》とみなすかという、議論の出発点に帰着したようですね。そのアバウトさを「本来の持ち味」と思っている人にとっては、この録音は好ましいと感じられるわけです。
|
| 鈴木 |
野々村 ソナタクラスの規模の作品になれば、この程度はもちろん「解釈の範疇」でしょうね。他に表現すべきことはいくらでもありますから。しかし、こういうシンプルな作品でも同じスタンスで良いのかどうかを、私は疑問視しています。
では、シンプルな作品であればどのようなスタンスを取るのが、最もいいのか、ちょっと分かりかねますが。
野々村 バスの強調は、この時期のアファナシエフの特徴ですね。やはり、グールドの影響かな?
元々、バッハ弾きであったアファナシエフの拭いがたき演奏のクセのような気がします。17小節の最後は、下方に1オクターブの跳躍がありますが、右手の音との和声を聞きながら演奏すると、バッハを弾けば分かりますが、自然にアファナシエフのような弾き方になるんですよね。オルガンのペダルを思い浮かべば、そのことはもっと顕著です。もしかすると、アファナシエフはオルガンも勉強したことがあるのかしらん?
野々村 この当たりが、好悪の分かれ目になっているようですね。第3曲や第4曲を比較するとその差がはっきりと分かります。少なくとも私の場合は、そういうあたりは好悪とは無関係です。
ありゃ、そうですか。てっきりそうなのかと思っていましたが。
野々村 そのココロは?この録音でも、その違いが出ている箇所はありますか?
まあ、ピアノという単色楽器での演奏ですから、どこがどうだとは言いにくいですが、たとえば、プレトニョフでは、4曲目第3小節目の冒頭や、5小節目最初の終結音の和音のアーティキュレーションは弦楽合奏か(工藤さんから反論くらいそう^ ^)、あるいはその他の楽器の合奏のような弾き方、終結音の余韻ですね。アファナシエフは、ピアノの音色と強弱の関係で、音楽を積み上げて行くような感じです。
野々村 ええ、グールドは、全然「楽譜に忠実」ではありません。:-) ただ、私が問題にしたのは「精度」で、「忠実度」ではない』『プレトニョフは、「通常許容される程度に譜面に忠実」ではありますが、表現としてはかなりアバウトですね。
この辺りに、野々村さんのおっしゃりたいことがあるようですが、なぜ、プレトニョフがaboutなのか小生には分かりません。楽譜を見て、CDを聞けば聞くほど、プレトニョフの演奏には、納得させられることの方が多いです。むしろ、アファナシエフやグールドにやはり、「なんでだろう?」と疑問を感じる場合の方が多いです。
最初は、どなたかがおっしゃっていた「初見演奏」かなと思っていたのですが、楽譜を見ながら詳しく聞けば聞くほど、これは、考え抜かれた演奏です。ただ、ベクトルがアファナシエフやグールドとは違いますので、その辺りでしょうか?野々村さんの「バガテル」の認識をお聞かせいただけないですか?それを読めば、野々村さんの立論も分かるような気がしますが。
野々村 結局のところ、何を《「バガテル」本来の持ち味》とみなすかという、議論の出発点に帰着したようですね。そのアバウトさを「本来の持ち味」と思っている人にとっては、この録音は好ましいと感じられるわけです。
これは、先にも書きましたように、小生や山下さんは、意見表明をしているわけですが、野々村さんは、ご自身の意見表明を述べないで議論をしている印象があります。「バガテル」は、われわれが持っているイメージの曲ではないのですか?では、どのような...。是非、ご意見を。
|
| 野々村 |
再譜面対照はやっていないので、「全面的な再反論」にはなっていませんが、ご了承を。
鈴木 では、シンプルな作品であればどのようなスタンスを取るのが、最もいいのか、ちょっと分かりかねますが。
私は以前「一般に、簡単な曲ほど細部は琢磨すべきもの」と書きました。私のスタンスは最初から一貫しています。
鈴木 元々、バッハ弾きであったアファナシエフの拭いがたき演奏のクセのような気がします。17小節の最後は、下方に1オクターブの跳躍がありますが、右手の音との和声を聞きながら演奏すると、バッハを弾けば分かりますが、自然にアファナシエフのような弾き方になるんですよね。
私は、そういう解釈の方が「気持ちいい」のですが、もちろんそのあたりは評価には含めていません。
鈴木 この当たりが、好悪の分かれ目になっているようですね。第3曲や第4曲を比較するとその差がはっきりと分かります。
野々村 少なくとも私の場合は、そういうあたりは好悪とは無関係です。
鈴木 ありゃ、そうですか。てっきりそうなのかと思っていましたが。
第1曲について、「その後転調してトリオ風になる部分は、アファナシエフは冒頭と同じ硬質なタッチで弾いているのに対して、プレトニョフはレガート気味の抒情的なタッチに変化させています。譜面に何の指定もない以上、この種の選択は「解釈」の違いにすぎません。」と書いたわけですが、意図は伝わらなかったのでしょうか....
鈴木 なぜ、プレトニョフがaboutなのか小生には分かりません。楽譜を見て、CDを聞けば聞くほど、プレトニョフの演奏には、納得させられることの方が多いです。むしろ、アファナシエフやグールドにやはり、「なんでだろう?」と疑問を感じる場合の方が多いです。
細かいフレージングの指定を、「解釈としての許容範囲」と無視してフラットにしてしまい、常套的なルバートや表情付けでまとめていく、*よくある演奏*と感じます。譜面と対照しても全然*驚き*がない。
鈴木 最初は、どなたかがおっしゃっていた「初見演奏」かなと思っていたのですが、楽譜を見ながら詳しく聞けば聞くほど、これは、考え抜かれた演奏です。ただ、ベクトルがアファナシエフやグールドとは違いますので、その辺りでしょうか?
私は以前「『自分では弾けない高度な技術』か『自分では譜面から読み取れない深遠な解釈』のいずれかがないと、何のために買ったのかわからない」と書きました。そのあたりが「ベクトルの違い」だとおっしゃるのですか?
鈴木 野々村さんの「バガテル」の認識をお聞かせいただけないですか?それを読めば、野々村さんの立論も分かるような気がしますが。
・1曲が短い ・単純な素材 ・自由な形式というだけでしょう。そこから、できるだけ多くのものを引き出すよう努めるのが、演奏家というものだと思います。
鈴木 「バガテル」は、われわれが持っているイメージの曲ではないのですか?では、どのような...。是非、ご意見を。
ウェーベルンの最も密度が高い作品『SQのための6つのバガテル』でも、「バガテル」なわけです。「バガテル」だから「ちょっとしたもの」であるかのように弾かなければならない、というのは、「シンフォニー」の本来の意味は「響きあうもの」であったから、ウェーベルンのop.21やショスタコの14番は、もはやシンフォニーとは言えない、というのと同レベルの議論では?ベートーヴェンについて言えば、「バガテル」という作品については、作品番号の有無がメルクマールになっているという印象を持っています。これはあくまでバガテルに限った話です。例えば32の変奏曲にも、作品番号は付いていないわけで。
|
| 鈴木 |
反論の反論。
野々村 では、シンプルな作品であればどのようなスタンスを取るのが、最もいいのか、ちょっと分かりかねますが。私は以前「一般に、簡単な曲ほど細部は琢磨すべきもの」と書きました。私のスタンスは最初から一貫しています。
実際には、おっしゃられる意味はよく分かるのですが、それに拘泥しすぎるとよくないと思います。ただ、簡単な曲ほど人に聞かせるのは難しいですけどね。
野々村 細かいフレージングの指定を、「解釈としての許容範囲」と無視してフラットにしてしまい、常套的なルバートや表情付けでまとめていく、*よくある演奏*と感じます。譜面と対照しても全然*驚き*がない。
ご意見としてはよく分かるのですが、今まで「バガテル」のリファレンスになる録音を聞いたことがなかったので、その意味で、小生はプレトニョフに楽譜を見た後感心しました。*「解釈としての許容範囲」と無視してフラットにしてしまい、常套的なルバートや表情付けでまとめていく*演奏も時によっては、必要だと思います。でも、小生はそうは感じていませんが。他に*フラットにしてしまい、常套的なルバートや表情付けでまとめていく*演奏を聞いたことがないからかも知れませんが。何せ、アファナシエフとグールドの演奏しか知らなかった(^ ^ ;。
野々村 私は以前「『自分では弾けない高度な技術』か『自分では譜面から読み取れない深遠な解釈』のいずれかがないと、何のために買ったのかわからない」と書きました。そのあたりが「ベクトルの違い」だとおっしゃるのですか?
それは、聞き手のスタンスとして小生などとはかなり違うなあ。生身の人間が弾くことが条件でなければ、音楽はある程度自分の解釈を含めて、コンピュータやシンセサイザーで再生が可能です。実際に小生はそれをやってきた上で、音楽を聞く上で、楽譜は不要だと思っていますし、*高度な技術*も*深遠な解釈*も相対的なものだと思っています。聞き慣れた曲に対しては、自分だったらこうしたいという部分と、その曲を研究した演奏家の解釈なり、どのように情動したかを聞いて楽しんでいるんだと思います。
*深遠な解釈*というのは、なんか野々村さんには不似合いな言葉ですね(^ ^ ;。深遠な解釈=絶対的な解釈とイメージしてしまう言葉ですが、それは実際には、あり得ないですね。*ある程度普遍化された*ということなら、その通りなのですが。*『自分では弾けない高度な技術』か『自分では譜面から読み取れない深遠な解釈』*を求めて小生は音楽を聞いているわけではありません。結果的にはそうなのかも知れないけど、もっと情緒的な部分、月並みな言葉ですが「感動」を求めていると言うことになるのでしょうか。それは、別に熱い感動でなくてもかまわない、冴え冴えとした感動もあるわけですから。これは、言葉の上では同じようなことを言っているように見えますが、言葉の*意味の意味*おいては、かなり差があると思います。
野々村 ウェーベルンの最も密度が高い作品『SQのための6つのバガテル』でも、「バガテル」なわけです。(中略)ベートーヴェンについて言えば、「バガテル」という作品については、作品番号の有無がメルクマールになっているという印象を持っています。
ウェーベルンの「バガテル」と言う言葉の意味と、ベートーヴェンの「パガテル」は同じ意味なのでしょうか?ショスタコーヴィッチの交響曲とベートーヴェンの交響曲では、まるで意味が違っていますよね。ウェーヴェルンは「パガテル」と題名が付いているけれども、だれも「ちょっとした」「ばかばかしい」とは思わないですね。題名の裏を読みます。ショスタコーヴィッチも、晩年になればなるほど、「発表形式として」交響曲にはなっていますが、誰も、晩年の*交響曲*はベートーヴェンやブラームスなどの交響曲と同じ土俵を期待していないでしょうね。作品番号の有無はあてにならないですよ。
最後ですが、野々村さんが最初にお書きになっていたように、このCD「買ったときの値段」が大きく*満足度*を左右させているのは、間違いないです。小生3,800円で買いましたが、国内版はフルプライスで6,000円以上する。最近は3,200円でも見かけましたが、これは6,000円でははっきり高いです。ミッドプライスのCDのつもりで小生書いてきましたが(野々村さんも確かそうかな?)実際には、3,000円くらいでバンバン聞かれて、アファナシエフやグールドとの比較で、「おやまあ!」てな、よくも悪くもリファレンス的な聞き方をされるべきCDだと思います。小生は、そうやって聞きました。
|
| 工藤 |
何か、野々村さんと鈴木さんの往復書簡みたくなっていますね(^^;。そろそろ終りも見えているようですが、他の皆さんからももう少しコメントを頂ければ、と思います。引用等、かなり自由にしていますがご容赦を。
野々村 細かいフレージングの指定を、「解釈としての許容範囲」と無視してフラットにしてしまい、常套的なルバートや表情付けでまとめていく、*よくある演奏*と感じます。譜面と対照しても全然*驚き*がない。
鈴木 ご意見としてはよく分かるのですが、今まで「バガテル」のリファレンスになる録音を聞いたことがなかったので、その意味で、小生はプレトニョフに楽譜を見た後感心しました。
学校で教えてもらうような“基本的なルール”にのっとり、これといった“アラ”のない演奏が“リファレンス”なのだとすれば、syuzoさんの感想は理解できます。ただ僕の場合、どんなに個性的で譜面からの逸脱が大きくても、それ以外から絶対に得られないような表現がなされているような演奏が“リファレンス”です。ちょっと宇野巧芳大先生チックですが(^^)。だからこそ、この演奏はレッスンの“お手本”である、という言い方を最初にした訳です。
鈴木 聞き慣れた曲に対しては、自分だったらこうしたいという部分と、その曲を研究した演奏家の解釈なり、どのように情動したかを聞いて楽しんでいるんだと思います。
では、鈴木さんは、“聴き慣れていない”曲に対してはどのような楽しみ方をされているのでしょうか?また、今回の小品は確かに“聴き憶えのない”曲だったかもしれませんが、果して“聴き慣れていない”曲といえるのでしょうか?僕は、曲の展開、和声、リズム...いずれをとっても“聴き慣れた”曲として捉えましたが。もちろん、これは曲の出来・不出来を言っているのではありません。
鈴木 深遠な解釈=絶対的な解釈とイメージしてしまう言葉ですが、それは実際には、あり得ないですね。*ある程度普遍化された*ということなら、その通りなのですが。
「深遠な解釈=絶対的な解釈」でしょうかね?僕はそのようにはイメージできませんが。また“普遍化”ということも野々村さんはおっしゃられていないように思えます。グールドやアファナシェフが例に挙げられていて、“普遍”という言葉が出てくるのもしっくりこないですし(^^)。
鈴木 ショスタコーヴィッチの交響曲とベートーヴェンの交響曲では、まるで意味が違っていますよね。
逆に「交響曲」の方は難しいですね。僕は“まるで意味が違っている”とまでは思いませんけど。「交響曲=オーケストラのためのソナタ」として捉えるのであれば、「オーケストラ」の形態も変化しているし、「ソナタ」の定義も曖昧になってきているし、全く同じものと言い切る訳にはいかないとは思いますが。
鈴木 ただ、簡単な曲ほど人に聞かせるのは難しいですけどね。
結局、これが全てですね。
鈴木 このCD「買ったときの値段」が大きく*満足度*を左右させているのは、間違いないです。
まあ、そうでしょうね。僕の場合、たぶん3000円でも買わないようなものに6000円以上も払った訳ですから(^^;、なおさらそうでしょうね。で、はっきり言ってそれだけの価値はないと思いました。でも、3000円の価値だってないような...(^^)。
鈴木 実際には、3,000円くらいでバンバン聞かれて、アファナシエフやグールドとの比較で、「おやまあ!」てな、よくも悪くもリファレンス的な聞き方をされるべきCDだと思います。小生は、そうやって聞きました。
“リファレンス”ということについては、僕はむしろ“マニアのための資料”的なディスクだと捉えています。曲目の珍しさと演奏・録音ともに無難であることを考えれば、マニアの方が買う分には6000円でも安いもんでしょうし。
|
| 野々村 |
野々村 細かいフレージングの指定を、「解釈としての許容範囲」と無視してフラットにしてしまい、常套的なルバートや表情付けでまとめていく、*よくある演奏*と感じます。譜面と対照しても全然*驚き*がない。
鈴木 ご意見としてはよく分かるのですが、今まで「バガテル」のリファレンスになる録音を聞いたことがなかったので、その意味で、小生はプレトニョフに楽譜を見た後感心しました。
ブレンデルとかブッフビンダーとか、ああいう系統の録音が、鈴木さんおっしゃるところの「リファレンス」なのですか?この録音は、彼らのものよりはましですね。そういう意味で、「一定の水準には達している」と思います。
鈴木 *「解釈としての許容範囲」と無視してフラットにしてしまい、常套的なルバートや表情付けでまとめていく*演奏も時によっては、必要だと思います。
ブーレーズの第2ソナタやシュトックハウゼンのピアノ曲Xクラスの作品ならともかく、このレベルの平易な作品なら、それこそ譜面だけあれば十分だと思いますが...。
野々村 私は以前「『自分では弾けない高度な技術』か『自分では譜面から読み取れない深遠な解釈』のいずれかがないと、何のために買ったのかわからない」と書きました。そのあたりが「ベクトルの違い」だとおっしゃるのですか?
鈴木 それは、聞き手のスタンスとして小生などとはかなり違うなあ。生身の人間が弾くことが条件でなければ、音楽はある程度自分の解釈を含めて、コンピュータやシンセサイザーで再生が可能です。実際に小生はそれをやってきた上で、音楽を聞く上で、楽譜は不要だと思っていますし、*高度な技術*も*深遠な解釈*も相対的なものだと思っています。聞き慣れた曲に対しては、自分だったらこうしたいという部分と、その曲を研究した演奏家の解釈り、どのように情動したかを聞いて楽しんでいるんだと思います。
端的に言えば、「楽譜があれば事足りるような録音では楽しめない」というだけのことなんですが...。解釈や情動は誰にでもあるもので、それが*芸*のレベルまで昇華されていないと、金は払えないなあ。
鈴木 *深遠な解釈*というのは、なんか野々村さんには不似合いな言葉ですね(^ ^ ;。深遠な解釈=絶対的な解釈とイメージしてしまう言葉ですが、それは実際には、あり得ないですね。
別に*深遠*が100万通りあってもいいですが、深いものは深い。
鈴木 もっと情緒的な部分、月並みな言葉ですが「感動」を求めていると言うことになるのでしょうか。それは、別に熱い感動でなくてもかまわない、冴え冴えとした感動もあるわけですから。
やはり、「音楽を聴く根本姿勢」の問題になってきたようですが、*深遠*だからこそ、*感動*もできるのでは?また、その「感動」は、情緒とは無縁なものだと思います。
鈴木 ウェーベルンの「バガテル」と言う言葉の意味と、ベートーヴェンの「パガテル」は同じ意味なのでしょうか?
ええ、少なくともスペルのレベルでは、全く同じです。むしろ、ウェーベルンの傑作を知ってしまった後では、「バガテル」はもはや「ちょっとしたもの」ではあり得ない、と言うべきかな。それは、ピリオド楽器の演奏会でも、客席でのマナーは19世紀後半以降の様式が忠実に守られているのと似たようなものでは。
鈴木 ショスタコーヴィッチの交響曲とベートーヴェンの交響曲では、まるで意味が違っていますよね。(中略)誰も、晩年の*交響曲*はベートーヴェンやブラームスなどの交響曲と同じ土俵を期待していないでしょうね。
結局のところ、「聴き手の期待」だけの問題なのだとしたら、私はop.33に『エロイカ変奏曲』と同質のものを期待するし、op.119に『ディアベリ変奏曲』と同質のものを期待します。で、グールドやアファナシエフがそれに応えてくれている以上、この演奏を高く評価することは、私にはできません。
鈴木 作品番号の有無はあてにならないですよ。
ええ、一般にはそうですね。前回のポストでも、『32の変奏曲』の例を挙げておきました。
|
| 鈴木 |
工藤 鈴木さんは、“聴き慣れていない”曲に対してはどのような楽しみ方をされているのでしょうか?また、今回の小品は確かに“聴き憶えのない”曲だったかもしれませんが、果して“聴き慣れていない”曲といえるのでしょうか?
最初はそれがリファレンスです。その後に同曲でよりよいものが出てくれば、それがリファレンスです。まあ、初めて聴く曲は、それが好みに合うかどうかから始まりますが。
工藤 「深遠な解釈=絶対的な解釈」でしょうかね?僕はそのようにはイメージできませんが。また“普遍化”ということも野々村さんはおっしゃられていないように思えます。グールドやアファナシェフが例に挙げられていて、“普遍”という言葉が出てくるのもしっくりこないですし(^^)。
深遠なとは、*奥深い意味を内含する*と言う言葉にとらえていますが、深遠なという言葉を使うときには、無意識でも*自分にとって絶対的*という意味をもってしまうのではないですかいな?これは、哲学の巨人に聞かないと。*多少とも普遍化された*という言葉は、*絶対的に普遍*とはちょっと違うニュアンスで使いました。
工藤 曲目の珍しさと演奏・録音ともに無難であることを考えれば、マニアの方が買う分には6000円でも安いもんでしょうし。
ベートーヴェンマニアや、ピアノ曲マニアに聞いてみたいですが。それは言われれば、クレンペラーのすさまじい古いノイズの集積のようなCDに大枚はたいているわけですが。
野々村 ブーレーズの第2ソナタやシュトックハウゼンのピアノ曲Xクラスの作品ならともかく、このレベルの平易な作品なら、それこそ譜面だけあれば十分だと思いますが....
これはそうでもないですよ。やはり書かれた音楽より、音楽は音にして初めて分かると思います。楽譜見て、音を想像するのは本格的な訓練を受けていなければ、相当難しいと思います。
野々村 やはり、「音楽を聴く根本姿勢」の問題になってきたようですが、*深遠*だからこそ、*感動*もできるのでは?また、その「感動」は、情緒とは無縁なものだと思います。
*深遠な*という言葉は小生本来好きなのですが、最近*うさんくさい*と同義語になってきたようで(^ ^ ; 、あまり使いたくないというのが真相だったりして(^ ^ ;;;;。でも、このご意見は、野々村さんの意外な面を見せてもらったような気がします。
少し前なら、プレトニョフの演奏は、小生は評価しなかったでしょう、恐らく。でも、この残響を含めたピアノの音色を含めて、総体的な現在の評価として、わりと琴線に触れるものがあったということです。それから、小生、どうもリファレンスとニュートラルであるということを、同義で使ってしまっているようです。でも、自分にとってのニュートラルって変化してゆくんですよね。また、そのような演奏は、*好き、嫌い*、*いい、悪い*とは別の次元だと考えています。自分の重心がどこに置かれるのかは、それは先のことは分からない。自分が音楽を聞くときの重心は、ここ数年大きく変化してしまったような気がします。
|
| 野々村 |
鈴木 実は、小生今までアファナシエフのパガテルが最高だと思っていましたが、楽譜を見ているうちに、考えが多少変わってしまった。グールドもそうなのですが、ナチュラルな部分がもう少しほしいと感じてしまったのです。
今まで言ってきたことをひっくり返すようで恐縮ですが、op.33やop.119は、「ナチュラル」に演奏しても面白いような曲とは思えないんですよね。「個性的に処理」すれば面白くなる素材ではあるけど。op.126はそれ以上の内容を持った曲なので、それをプレトニョフがどう料理するのかを、本当は聴いてみたかった。
野々村 ブーレーズの第2ソナタやシュトックハウゼンのピアノ曲Xクラスの作品ならともかく、このレベルの平易な作品なら、それこそ譜面だけあれば十分だと思いますが....
鈴木 これはそうでもないですよ。やはり書かれた音楽より、音楽は音にして初めて分かると思います。楽譜見て、音を想像するのは本格的な訓練を受けていなければ、相当難しいと思います。
ソルフェは確かに難しいけど、キーボードの一つもあれば....。
|
| 山下 |
野々村 やはり、「音楽を聴く根本姿勢」の問題になってきたようですが、*深遠*だからこそ、*感動*もできるのでは?また、その「感動」は、情緒とは無縁なものだと思います。
鈴木 *深遠な*という言葉は小生本来好きなのですが、最近*うさんくさい*と同義語になってきたようで(^ ^ ; 、あまり使いたくないというのが真相だったりして(^ ^ ;;;;。でも、このご意見は、野々村さんの意外な面を見せてもらったような気がします。
野々村さんと鈴木さんのやりとりを読んでいましたが、私が、この曲を聴くスタンスは鈴木さんに近いです。同じような意見の繰り返しになりそうでしたので、ちょっとだけコメントします。聴く姿勢という点では、(私にとっては)この曲は*感動*を求めるタイプの曲ではなかったように思います。感動というより、どちらかというともっと穏やかな心の動きですね。
そういえば、最初に小粋という言葉を使いました。譜面に近くフラットな表現の中にも、飽きさせないだけの変化があり、感動するような派手な装飾はありませんでしたが、リファレンス的には楽しめる演奏でした。他の演奏を聴く機会はありませんでしたが、あまり個性のない(もっと言えば恣意性のない?)この演奏を聴いた後で、他の演奏にふれれば変化が楽しめる予感がしています。私にとっては、リトマス試験紙的ディスクでした。
|