| 佐々木 |
野々村 ムラヴィンスキーの1950年代半ばのモノラル録音は、5番も6番も、私にとっては全くつまらなかった。
私の持っているのはDGのステレオの方ですが、これは聴き流すには最高やなと思いました。多分演奏はモノラルのとそう違わないのでしょうね。
佐々木 弱音の美しさや金管の咆哮、それらの対比には確かに目を見張るものがあり、また木管のソロが実にくっきりを描かれることなど、噂どおり凄いとは思うのですが、なんだか細かい所を拡大して見せつけられてばかりいるようで。
野々村 ただ、私の印象は「こういう解釈だから面白く聴ける」だったのですが。
私も面白く聴けたのは同じですが、ただ同時に戸惑いというか引っ掛かりがとれなかったんです。
野々村 私にとってのムラヴィンスキー盤は、「もっと離れて見るといかにつまらない作品であるかの解説」だったわけです。
前述のとおりムラヴィンスキー盤は流し聴きしかしておりませんで、もう少ししっかり聴いてみたいと思います。2枚に分かれてるのでつい敬遠しちゃうんですよね。
佐々木 チェリは基本的に芝居がかった演出を好む人というイメージがあり、どうもそのあたりが鼻についてしまうようです。
野々村 彼は「芝居がかっている」のでしょうか?よくわかりません。スローテンポを好む演奏家がよく受ける非難ではありますが。
これは私がチェリの音楽に全面的な好意を持っていないので「芝居がかった」というコトバを使ったのですが、私の中では「とっても素晴らしい」と紙一重でもあります。「スローテンポを好む演奏家」って例えばアファナシエフ?私は彼の演奏には「芝居がかった」という印象無いですし、他にちょっと思い浮かばないのですが。
斉諧生 浮月斎さんも佐々木@CD三昧日記さんも、はっきりお書きではないけれど、否定的な書きぶりでいらっしゃったし。
私はチャイコフスキーの4、5を特に敬遠しております。コンサートでゴリゴリに盛り上げられるともう嫌になっちゃいます(なら行かなきゃ良いのにって感じですが)。
野々村 感動とか陶酔とか、そういうものはチェリビダッケとは無縁でしょう。彼の信者は、ことごとく彼の美質を誤解しているような気がしますね。
鈴木 小生は、チェリの信奉者ではありませんが、チェリの音楽は、極めて陶酔的だと感じます。それが*誤解*ではなく、音楽そのものを聞かせようということからも、です。
浮月斎 これくらい耽美的な陶酔を呼び込む演奏はないです。それがブラボーには出ないものであろうともです。その意味から指揮者個人の審美観が聞き手の姿勢次第で同化すると言うことで*神秘的*と申しました。だから聞き手の姿勢次第なんだということも。
おっしゃるとおりですねぇ。聞き手の感じ方次第で、陶酔的な聴き方もありうる演奏だと思いますが、一方では醒めて聴いたって十分に興味深い演奏なんですよね。
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| 工藤 |
野々村 いやいや、決して*真っ平*ではないでしょう。「動的な盛り上がり」は拒否する一方で、作品のポリフォニックな重層性を強調するための微妙なテンポチェンジは、最初の2つの楽章では頻繁に行われていると思います。
ただ、フレーズの歌わせ方が基本的にワン・パターンなため、作品がどのようなモチーフから成り立っているのかは分かりやすい一方、やはり音楽がやや“平坦”になってしまっているとの印象が残りました。
野々村 むしろ、ミュンヘンフィルと組むようになってからマニエリスティックな表現が際立ってきて、肯定的に評価できない解釈も少なくないのに対して、海賊盤などで聴いた1950〜60年代の演奏には、録音状態とオケの能力以外に不満を感じたことはありません。
70年代のシベリウスやショスタコを聴いたことがありますが、こと「リズム」に関してはその頃の方が素晴らしいです。興奮して譜面台を叩いている部分も、非常に納得がいきましたし。もちろん、テンポの遅い・速いとは関係ありません。
佐々木 弱音の美しさや金管の咆哮、それらの対比には確かに目を見張るものがあり、また木管のソロが実にくっきりを描かれることなど、噂どおり凄いとは思うのですが、なんだか細かい所を拡大して見せつけられてばかりいるようで。
野々村 ただ、私の印象は「こういう解釈だから面白く聴ける」だったのですが。
皆さんがおっしゃっていることですが、僕も“面白い”とは思いますが、“感動”するには至りません。チェリ自身が述べている言葉とは矛盾してしまいますが、僕はこの解釈を“チャイコの意思にのっとった”ものとして捉えているのではなく、“チェリが作り上げたオーケストラの技術の披露”として捉えているといえば、僕が感じている面白さの質が説明できるかもしれません。
佐々木 チェリは基本的に芝居がかった演出を好む人というイメージがあり、どうもそのあたりが鼻についてしまうようです。
野々村 彼は「芝居がかっている」のでしょうか?よくわかりません。スローテンポを好む演奏家がよく受ける非難ではありますが。
考えている言葉のニュアンスが違うのかもしれませんが、僕もこの演奏を「芝居がかっている」とは思いませんでした。いわゆる“文学的な”解釈をする人達とは異なり、むしろ極めて物理的な音響に対する生理的な快感から解釈を始めているような印象があります。そのため、パウゼのとり方などに個性的な部分が散見されることもありますが、これは「芝居がかっている」こととは別でしょう。
工藤 “音響”重視の解釈によって、やや犠牲になっているのが爽快なリズム感。1楽章はもちろん、2楽章にも前に向かうような感覚が欲しいところなのですが、この演奏ではそれがあまり感じられません。
野々村 譜面を見ながら聴いて、「できなかった」のではなく、「やらなかった」のだと確信しました。これらの楽章では、必ずしも譜面の指定通りではないテンポやバランスを選択して、ポリフォニックな書法がはっきりと感じられるような解釈を行っていますが、もし普通にリズミックに演奏すると、これらの要素は(特にライブでは)聴き手の意識からこぼれ落ちてしまうでしょう。
これは、僕もその通りだと思います。ただこの曲の場合、チェリが犠牲にした部分の方がむしろ大切なようにも感じます。
野々村 チェリビダッケが最終的に聴かせたかったものは、「西洋音楽の歴史の蓄積」なのではないかと、私は感じています。カラヤンの*磨き上げ*は、あくまでその作品を(アカデミックなレベルで)効果的に響かせるためのものであって、チェリと一見似てはいるものの、方向性は正反対だと思います。
音響に対する執着という点では、“正反対”とはいえないのではないでしょうか?ただ、チェリにはカラヤンとは違う思想も持っていた。そのためにそれぞれが晩年にたどり着いた時に出来上がった音楽が、異なった様相を呈しただけではないかと思います。
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| 浮月斎 |
野々村 う〜む、「解釈を聴く」というのは、一般にそういうことなのでは?そういう意味でも、*あのくらいが当たり前*と言いたくなります。
決して現状、当たり前とは思えないですね。私がここで言っているのは、聞き手における一現象論で、解釈を聴く「姿勢」とは違います。それは、
佐々木 聞き手の感じ方次第で、陶酔的な聴き方もありうる演奏だと思いますが、一方では醒めて聴いたって十分に興味深い演奏なんですよね。
佐々木さんの表現から強引に割り切って言えば、私自身「醒めて分析的に聴く気にはとてもなれない」部分がものすごく多いと感じました。つまり、それはチェリの解釈を聞く姿勢ということとは次元の異なる話なわけです。
結論は下に書きましたが、私はこれをひとつの「芸術論的実践」として捉えており、実践手法そのものより、芸術論そのものを丸ごと取り込んでしまえたということになる訳です。だから、野々村さんの言う「西洋古典音楽はかくあるべしという理念を、具体的な作品を通じて表明する行為」の理念にシンパシィを感じたという話なのかもしれません。
山下 ダイナミックスではなく(テンポという点での)動的さは真っ平らに近いと感じました。あの悠然としたテンポで進むコトは、単に単調になってしまうだけという不安感を私ならもってしまうのですが、あえてそれを通し続けたところが面白みだと感じます。
私が先に書いたのもほぼこういう感覚に近いもので、具体的な音楽進行ではなく、イメージ的な話がベースです。この曲ならなおさらこういう形で音楽構造を示そうとするのは「退屈さ」を誘因するだけで、ふつうは私には魅力的に感じないからこそ、なおそう思ったのです。
工藤 ただ、フレーズの歌わせ方が基本的にワン・パターンなため、作品がどのようなモチーフから成り立っているのかは分かりやすい一方、やはり音楽がやや“平坦”になってしまっているとの印象が残りました。
結果的に私はその「平坦さ」によるこの曲の別の魅力が豁けてきたことが改めて面白かった訳です。
工藤 僕はこの解釈を“チャイコの意思にのっとった”ものとして捉えているのではなく、“チェリが作り上げたオーケストラの技術の披露”として捉えているといえば、僕が感じている面白さの質が説明できるかもしれません。
これはとてもよくわかりました。この文意を藉りれば、「私はこの解釈を“チャイコの意思にのっとった”ものとして捉えているのではなく、“チェリが作り上げた観念的芸術の精華”として捉えている」というのが私の面白さを集約したことになるのかもしれない。
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| 野々村 |
山下 ダイナミックスではなく(テンポという点での)動的さは真っ平らに近いと感じました。あの悠然としたテンポで進むコトは、単に単調になってしまうだけという不安感を私ならもってしまうのですが、あえてそれを通し続けたところが面白みだと感じます。
体感レベルでは、私も同感です。というか、*普通の演奏*を全く知らないもので、最初にチェリの今回の演奏を聴いた時は、こういうスタティックな曲として納得してしまったのでした。
野々村 彼は「芝居がかっている」のでしょうか?よくわかりません。スローテンポを好む演奏家がよく受ける非難ではありますが。
佐々木 これは私がチェリの音楽に全面的な好意を持っていないので「芝居がかった」というコトバを使ったのですが、私の中では「とっても素晴らしい」と紙一重でもあります。
ところが、私の語感では、「芝居がかった」というのは、「こけおどし」と紙一重だったりするわけです....。
工藤 フレーズの歌わせ方が基本的にワン・パターンなため、作品がどのようなモチーフから成り立っているのかは分かりやすい一方、やはり音楽がやや“平坦”になってしまっているとの印象が残りました。
ムラヴィンスキー盤と比較すると確かにそうですが、やはり私は、「こういう解釈だから面白い」になってしまうのです。
工藤 皆さんがおっしゃっていることですが、僕も“面白い”とは思いますが、“感動”するには至りません。
私も、*感動*はしませんでした。しかし、感動>面白いとも一概には言えないと思います。
工藤 チェリ自身が述べている言葉とは矛盾してしまいますが、僕はこの解釈を“チャイコの意思にのっとった”ものとして捉えているのではなく
私も、現在はこの演奏を「作曲者の意図に沿った解釈」だとは思っていません。でも、グールドのモーツァルトのファンタジーにはいたく感動したことを思い出すと、私が感動しなかったのは、この作品自体は全然良いと思っていないことの反映なのかもしれませんが。
工藤 考えている言葉のニュアンスが違うのかもしれませんが、僕もこの演奏を「芝居がかっている」とは思いませんでした。いわゆる“文学的な”解釈をする人達とは異なり、むしろ極めて物理的な音響に対する生理的な快感から解釈を始めているような印象があります。そのため、パウゼのとり方などに個性的な部分が散見されることもありますが、これは「芝居がかっている」こととは別でしょう。
「文学的」の対極にある、という点では同感ですが、「音響指向」というのともまた違うと、私は感じています。むしろ「構造指向」なのではないかと。この演奏に限って言えば、音響について感じるのは、「豊かさ」ではなく、「正確さ」です。
野々村 譜面を見ながら聴いて、「できなかった」のではなく、「やらなかった」のだと確信しました。
工藤 これは、僕もその通りだと思います。ただこの曲の場合、チェリが犠牲にした部分の方がむしろ大切なようにも感じます。
何が大切で、何を切り捨てるべきかというのが、解釈という行為の本質なのでしょうが、この作品においては、チェリの見解は工藤さんとは一致しなかったが、私とはかなり一致したということになるのでしょう。
野々村 チェリビダッケが最終的に聴かせたかったものは、「西洋音楽の歴史の蓄積」なのではないかと、私は感じています。カラヤンの*磨き上げ*は、あくまでその作品を(アカデミックなレベルで)効果的に響かせるためのものであって、チェリと一見似てはいるものの、方向性は正反対だと思います。
工藤 音響に対する執着という点では、“正反対”とはいえないのではないでしょうか?
あえて極論に走ると、カラヤンの音響への執着というのは、オーディオマニアのものと同じで、チェリとは正反対では。それを*精神的に低い*などと言うつもりはありませんが。
佐々木 聞き手の感じ方次第で、陶酔的な聴き方もありうる演奏だと思いますが、一方では醒めて聴いたって十分に興味深い演奏なんですよね。
浮月斎 佐々木さんの表現から強引に割り切って言えば、私自身「醒めて分析的に聴く気にはとてもなれない」部分がものすごく多いと感じました。つまり、それはチェリの解釈を聞く姿勢ということとは次元の異なる話なわけです。
しかし、私の場合は、これまでこの合評で取り上げてきたどのディスクよりも「醒めて分析的に」聴いて、その結果として非常に面白かったんですよね....。
浮月斎 私はこれをひとつの「芸術論的実践」として捉えており、実践手法そのものより、芸術論そのものを丸ごと取り込んでしまえたということになる訳です。だから、野々村さんの言う「西洋古典音楽はかくあるべしという理念を、具体的な作品を通じて表明する行為」の理念にシンパシィを感じたという話なのかもしれません。
この演奏の場合には、「作曲者の意図を棚上げにする」という特異な行為が行われているからそう感じられるのであって、ラヴェル作品の演奏のように、彼の芸術論と作品が幸福に融合している場合には、また違ってくるのでは?
浮月斎 この文意を藉りれば、「私はこの解釈を“チャイコの意思にのっとった”ものとして捉えているのではなく、“チェリが作り上げた観念的芸術の精華”として捉えている」というのが私の面白さを集約したことになるのかもしれない。
いずれにせよ、この演奏が「チャイコの意思にのっとった」ものだとは誰も感じていないというところで、今回も意見が一致したようで (^ ^)。
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| 斉諧生 |
野々村 クラシック音楽を演奏する以上は、あの程度は当たり前で、そういう演奏でなければ、わざわざ聴いてもしかたないと感じる、ということです。
過去に名演の蓄積があり、しかもそれらを繰返し再生している現代において、クラシック音楽の演奏家は、*本質的には*、そういう立場に置かれているわけですね。柴田南雄先生の作曲論を思い出します。
工藤 皆さんがおっしゃっていることですが、僕も“面白い”とは思いますが、“感動”するには至りません。
野々村 私も、*感動*はしませんでした。しかし、感動>面白いとも一概には言えないと思います。
「感動」ということばをどのような精神状態について用いるかという難問ですが、今回のチェリビダッケのチャイコフスキーのような、指揮者が楽曲を超越してしまった演奏には、いかに名演であっても、適用しにくいことばのように思います。曲の弱点まで赤裸々にされては...。「感銘」とか「賛嘆」とかになるのかな?
工藤 僕はこの解釈を“チャイコの意思にのっとった”ものとして捉えているのではなく、“チェリが作り上げたオーケストラの技術の披露”として捉えているといえば、僕が感じている面白さの質が説明できるかもしれません。
浮月斎 この文意を藉りれば、「私はこの解釈を“チャイコの意思にのっとった”ものとして捉えているのではなく、“チェリが作り上げた観念的芸術の精華”として捉えている」というのが私の面白さを集約したことになるのかもしれない。
野々村 いずれにせよ、この演奏が「チャイコの意思にのっとった」ものだとは誰も感じていないというところで、今回も意見が一致したようで (^ ^)。
工藤さんのお言葉は、「解釈」を「演奏」に置き換えれば、工藤さんのお考えの説明として、よく納得できます。私には、「解釈」=チェリビダッケの意図が、「技術の披露」にあったとは思いづらいのです。
野々村さんのまとめを面白がりつつ、あえて茶々を入れるのですが、チャイコフスキーがこの演奏を聴けば喜ぶかもしれませんよ。1・2楽章など「作り物」めいたところが払拭されて、真実味を帯びているのですから:-)。いかにもチャイコフスキーらしいストコフスキーの演奏が、逆に作曲者を怒らせる−あるいは恥じ入らせる−かもしれません。いかに効果を狙って書いた曲であるかということが、曝露されているのですから。まぁ「のっとる」ということばに、どこまでの含蓄を認めるか、の問題かもしれませんが。作曲者の意思を尊重していたら、ブルックナーの第8交響曲の名演は不可能でしょう。(^^;。
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| 鈴木 |
チャイコフスキーですが、チェリの他の演奏も確認したのですが、AUDIORやMETEORの70、80年台の録音と、EMIの90年代の録音とでは、音の取り方も影響していると思いますが、チェリの集中力に差があるようです。80年代ミュンヘンpo.との録音と、70年代のシュトットガルト放送o.でも差があります。ただ、70年代のAUDIORは音が悪いので、80年代の演奏録音が、雑音があっても小生好きなのですが、前にも書きましたように、EMI盤は、チャイコを聞くことでは×、チェリを聞くことでは○です。あれこれ聞き比べて、90年代のチェリは、より諦観が深まったのかなという感じです。野々村さん、チェリは、本当にラヴェルで○、ドビュッシーで△ですね:-)。
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| 工藤 |
工藤 皆さんがおっしゃっていることですが、僕も“面白い”とは思いますが、“感動”するには至りません。
野々村 私も、*感動*はしませんでした。しかし、感動>面白いとも一概には言えないと思います。
“至りません”と書いたのは、僕の失言ですね(^^)。必ずしも“感動>面白い”という図式が成り立つとは思っていません。もちろん感動するような音楽は大好きですが、「感動とはちょっと違うかな」と感じても非常に楽しめる音楽というのもありますものね。今回のチェリは後者に極めて近いのですが、でもやはり曲が曲だけに“非常に”楽しんだとまでは言えません;-P。
野々村 「文学的」の対極にある、という点では同感ですが、「音響指向」というのともまた違うと、私は感じています。むしろ「構造指向」なのではないかと。
解釈の出発点は確かに「構造重視」だと思います。ただあえて言うのなら、その理詰めのストイックさに我慢がならなくなった時に、すぐに“ゴージャスな”響きに逃げてしまう(ちょっと表現に問題があるかもしれませんが)傾向が感じられました。そういう意味で音響「重視」ではなく音響「指向(好?)」だとは思います。
野々村 この演奏に限って言えば、音響について感じるのは、「豊かさ」ではなく、「正確さ」です。
響きの“構造”を「正確」に探り当て、再現しているという意見には全く同感です。
野々村 何が大切で、何を切り捨てるべきかというのが、解釈という行為の本質なのでしょうが、この作品においては、チェリの見解は工藤さんとは一致しなかったが、私とはかなり一致したということになるのでしょう。
前に書いたこととは矛盾するかもしれませんが、ひょっとしたらチェリの解釈はこの曲の何かを「切捨てた」のではなく、もともとなかった“構造”という要素を無理矢理「付加した」と捉えることもできるかもしれませんね。もともとないものをさもあるかのように見せられて、しかもそこが“曲の弱さ”なんて言われているとしたら、チャイコフスキー先生もさぞかしご立腹のことでしょうに(^^)。
野々村 あえて極論に走ると、カラヤンの音響への執着というのは、オーディオマニアのものと同じで、チェリとは正反対では。それを*精神的に低い*などと言うつもりはありませんが。
このことにあまり執着するつもりはないのですが、音響については「部屋のスピーカー」と「ホール」のどちらを想定していたかということ以上の違いはないと感じられます。
斉諧生 私には、「解釈」=チェリビダッケの意図が、「技術の披露」にあったとは思いづらいのです。
これも僕の表現がまずかったですね。極端に言えば、「技術の披露」とも見なせるような部分を特に楽しんだ、ということにでもなりましょうか。今回のディスクに関しては否定的な意見を書くことが多かったですが、これだけ個性的な音楽を、オケを自在に操って実現させるチェリの才能にはただただ感嘆させられたことだけは、念のため(^^;付け加えておきます。
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| 佐々木 |
野々村 ところが、私の語感では、「芝居がかった」というのは、「こけおどし」と紙一重だったりするわけです....
確かに「芝居がかった」は「こけおどし」に近い意味でという方が普通ですね。ただこの場合「素晴らしい」含みを込めて使ったとご理解下さい。
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| 野々村 |
鈴木 AUDIORやMETEORの70、80年台の録音と、EMIの90年代の録音とでは、音の取り方も影響していると思いますが、チェリの集中力に差があるようです。80年代ミュンヘンpo.との録音と、70年代のシュトットガルト放送o.でも差があります。
「差がある」というのは、具体的には、どちらがどうだと?
鈴木 前にも書きましたように、EMI盤は、チャイコを聞くことでは×、チェリを聞くことでは○です。あれこれ聞き比べて、90年代のチェリは、より諦観が深まったのかなという感じです。
「諦観」というのは、チャイコフスキー作品への諦観?
鈴木 チェリは、本当にラヴェルで○、ドビュッシーで△ですね :-)
殆んどのラヴェルの録音は、「クリュイタンスにいかに近付くか」が評価基準なのですが、チェリだけは、全く違う道だと感じます。
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| 鈴木 |
野々村 「差がある」というのは、具体的には、どちらがどうだと?
段々、力が抜けて行くんですよね。まず、テンポ感。実際にタイミングでは差がない場合もありますが、実聴では、テンポが遅くなっているというか、力が抜けている。また、オーケストラの統率という点では、どの時点でもコントロールが利いているのですが、年代が下るごとに馬力よりも、音の目的が変わって行く。ただ、録音された音に力があるかどうかは、録音方法、CD化の方法にもよるのかも知れませんが、
70年代は、まだオーケストラをドライヴしている、
80年代は、オーケストラと一体になってかなり陶酔的、
90年代は、オーケストラがチェリのやりたいように合わせているのだが、ちょっと同情的。
という、毒にも薬にもならない印象ですが。
野々村 「諦観」というのは、チャイコフスキー作品への諦観?
いえ、チャイコフスキーへの諦観ではなく、自分の生に対してのでしょう。昨日、同シリーズのワーグナーを聞きましたが、クレンペラーやクナとは違うのですが、生のまま枯れたというか(前者二人は最晩年は、本当に枯れていますが)、まだ、瑞々しさを残して、枯れて行くというか・・・。「表現」としては、瑞々しいはずなのですが、聴感上は、瑞々しいとは言い難い。どう言えばいいのか、ちょっと言葉が見つかりません(^ ^ ;;;;。
野々村 殆んどのラヴェルの録音は、「クリュイタンスにいかに近付くか」が評価基準なのですが、チェリだけは、全く違う道だと感じます。
小生も、そう感じます。チェリのラヴェルは、どの演奏とも似ていませんね。カラヤンともテンペラメントはずいぶん違う。強いて挙げる馬がいないのが現状です。小生、チェリでは、部分的にはブルックナーやベートーヴェンには凄いなとは思いますが、全体的には、もっと凄い演奏があると思います。その意味では、チェリのラヴェルはやはり凄いです。METEOR盤を想定していますが。
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| 野々村 |
では、チェリはそろそろまとめということで。
斉諧生 過去に名演の蓄積があり、しかもそれらを繰返し再生している現代において、クラシック音楽の演奏家は、*本質的には*、そういう立場に置かれているわけですね。
過去の録音の存在はさておき、チェリが「孤高の」「異端の」などと呼ばれていることには、強く疑問と違和感を感じる、ということです。彼のレパートリーがクラシックの保守本流を行くものであることにも端的に表れているように、彼の姿勢の方がまっとうなはずなのに。
斉諧生 「感動」ということばをどのような精神状態について用いるかという難問ですが、今回のチェリビダッケのチャイコフスキーのような、指揮者が楽曲を超越してしまった演奏には、いかに名演であっても、適用しにくいことばのように思います。曲の弱点まで赤裸々にされては...
例えば、アファナシエフのブラームス演奏は、演奏者が楽曲を明らかに超越しているにもかかわらず感動を引き起こすので、それだけではないのでは?
斉諧生 野々村さんのまとめを面白がりつつ、あえて茶々を入れるのですが、チャイコフスキーがこの演奏を聴けば喜ぶかもしれませんよ。1・2楽章など「作り物」めいたところが払拭されて、真実味を帯びているのですから。:-)
チャイコは何でも悪く取るタイプの人だったようなので、果たしてどうなるかはわかりませんが、モーツァルトがグールドの演奏を面白がるのは間違いないでしょう :-)。
斉諧生 いかにもチャイコフスキーらしいストコフスキーの演奏が、逆に作曲者を怒らせる−あるいは恥じ入らせる−かもしれません。いかに効果を狙って書いた曲であるかということが、曝露されているのですから。
でもあれは、「譜面から逸脱」まで行ってしまっていると思いますが。少なくとも、チャイコはそれを面白がるような人ではないでしょうね。
工藤 解釈の出発点は確かに「構造重視」だと思います。ただあえて言うのなら、その理詰めのストイックさに我慢がならなくなった時に、すぐに“ゴージャスな”響きに逃げてしまう(ちょっと表現に問題があるかもしれませんが)傾向が感じられました。そういう意味で音響「重視」ではなく音響「指向(好?)」だとは思います。
この作品の場合は、「構造」とは言っても、「素材とその展開」という伝統的なものではなく、工藤さんのおっしゃるところの《響きの構造》なわけですが。循環主題による「構造」は背景に退いていて、ストイック/ゴージャスが対比される「構造」。
野々村 何が大切で、何を切り捨てるべきかというのが、解釈という行為の本質なのでしょうが。
前に書いたこととは矛盾するかもしれませんが、ひょっとしたら
工藤 チェリの解釈はこの曲の何かを「切捨てた」のではなく、もともとなかった“構造”という要素を無理矢理「付加した」と捉えることもできるかもしれませんね。もともとないものをさもあるかのように見せられて、しかもそこが“曲の弱さ”なんて言われているとしたら、チャイコフスキー先生もさぞかしご立腹のことでしょうに(^^)。
で、上記のような「構造」は、作曲者が本来意図していた*弱い*構造とは全然別な、西洋音楽の歴史が生み出した集合無意識の産物なのではないかと。
野々村 あえて極論に走ると、カラヤンの音響への執着というのは、オーディオマニアのものと同じで、チェリとは正反対では。
工藤 このことにあまり執着するつもりはないのですが、音響については「部屋のスピーカー」と「ホール」のどちらを想定していたかということ以上の違いはないと感じられます。
グールドを間に入れると、カラヤンとチェリの類似点も見えてきそうな気はしますが、「スピーカーとホールの違い」なんて単純なものだけではないと思います。
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