No.10 : Celibidache conducts Tchaikovsky #5



EMI 5 56522 2 Tchaikovsky : Symphony No.5
(EMI 5 56522 2)
Tchaikovsky : Symphony No.5 e minor op.64

Münchner Philharmoniker
Sergiu Celibidache (dir)





発言者 : 野々村(モデレータ)、佐々木、斉諧生、鈴木、工藤、山下、浮月斎



野々村 チャイコフスキーの作品は、小学校の音楽鑑賞で聴かされた『くるみ割り人形』以来、そこここで耳にしてきたが、一度として良いと感じたことはなかった。BGMとして聴くと、『ピアノ協奏曲第1番』など、そこらのムードミュージックと比べれば良く書けている、と思ったりはしたのだが。しかし、『展覧会の絵』目当てで買ったチェリビダッケ・エディションの最初の1枚に併録されていた『ロメオとジュリエット』の解釈は実に見事で(肝心の『展覧会の絵』は、遅いだけで何の取柄もない演奏だったが)、チャイコフスキーの和声感覚を見直すのと同時に、この作曲家とチェリビダッケの相性は非常に良いのではないかと感じて、その後のリリースでもチャイコフスキーの2枚には大いに期待していた。

今回は交響曲第5番を取り上げることになったわけだが、期待は裏切られなかった。とにかく、最初の2つの楽章に驚嘆。なまじあれこれの演奏を聴いてきた人からは「遅すぎる」という文句も出ているようだが、先入観を持たずに聴く限りは、この解釈にしてこのテンポありで、全く不自然さはない。グールドの『ゴールドベルク変奏曲』の新旧2回の録音のテンポは全く違うが、その解釈の枠内ではどちらも自然に聞こえるのと似ている。特に素晴らしいのが第2楽章で、抑制された弦楽合奏を背景にして管楽器が出入りするアダージョ楽章だが、均質な響きとその中での微妙な差異を、オーケストラのパレットとダイナミックレンジをいっぱいに活かして描き切っている。第1楽章もそこに至る準備として基本素材を丹念に展開して、ライブとは思えない完成度である。第3楽章は繋ぎに終始して、第4楽章では音楽の底の浅さが露呈してしまっているが、これは作品の問題だろう。解釈としては、循環主題による構成が身体的レベルで感じられる構築性の高いもので、終楽章の吹きまくり音楽も、ミュンヘンフィルの技術水準の高さを実感させてくれる仕上がりだった。

上記の文章は比較試聴を行う前のものであるが、チェリ/ロンドンフィルの1949年の録音などを聴いて、幾らか評価が変わった。もちろん、今回の録音が非常に優れたものであることは疑いないが、第3・4楽章の解釈については、チェリの旧録音の方が上回っていると私は感じる。旧録音での表現は、速目のテンポで金管も抑え気味の比較的オーソドックスなもので、後年の彼がそれに飽き足らなくなったことは理解できるが、そういう路線の方が、作品のアラが目立たず愉しくフィナーレを迎えられる。もっとも、旧録音では第1・2楽章の追い込み方はさほど深くなく、両者はトレードオフの関係にあるのかもしれない。すなわち、作品が丸裸になるまで表現を詰めるか、良い塩梅のところでまとめておくかという姿勢の違いである。私は基本的には前者の姿勢が好みで、ドビュッシーもブーレーズの解釈が一番だと思っているが、チャイコフスキー作品のようなさほど思い入れのないものならば、後者のアプローチも悪くないと思う。そういう意味では、終楽章を盛り上げることに焦点を絞って作品全体を再構成した、ストコフスキー/ニュー・フィルハーモニア管のような解釈も許容できる。概して、ブラームスのような二流の作曲家の方が「名盤」には恵まれていると感じられるのは、そのあたりが原因かもしれない、とふと思った。

浮月斎 最近この曲を聴いたこともない状況。この曲はしっかりした構成・形式など交響曲としての持ち味はよく出来ていますが、癇に障るようなくどさもあり、もうこういう機会しか聴けないかもしれません。

まず結語としては、これはこの作品の示し方としては非常にユニックでありながらも、見事な名演であると思います。賞賛の第1点は、チェリ独特の描き方ではあるが、この曲のトータルな姿をまざまざと見せつけてくれたこと。この曲は寄せ木細工のように固定楽想の展開とつなぎとを巧みに接合した感があり、そういうところに指揮者によるテンポ解釈、楽想の終止・切り替えなどの違いが出てくる訳で、チェリの場合、単にテンポが遅いというより、作品の動性の息の根を止め、小賢しいテンポ展開を真っ平にしてしまった上で、作品の持つ形式的叙述そのものを深々と描いてみせる。この曲の持つテンポやフレージングの巧みな切り替えで動的な面白さを聴かせる演奏も悪くないが、ここまで悠揚かつ緊張に満ちた推進力で聴くとこの曲の本来的な構造と表現とがくっきり出てくるように思う。
第2点は、息づくような抑制のかかった弦の表情が一貫して太い幹のように緻密に描かれていることにより、ソロが実にくっきりと魅惑的に浮き上がってくること。とにかく、1楽章や2楽章における木管ソロの浮き出る有り様は可憐に伸びていく枝のように美しい。第3点は、第2点を支えている要素である強弱の細心の練り方。弦の最弱音の魅力だけでなく、金管の強奏が効果的に炸裂する見事さも筆舌に尽く。音の対比・差別化が神経質なくらいみっちりチェリ流に描かれていて凄いの一言。

この演奏ではやはり1楽章が見事と思うが、2楽章の描かれ方も特筆すべき美しさで、内的方向に凝縮・沈潜する素晴らしさというべきだが、包容力の広さが素晴らしい。私が唯一残念なのは、4楽章。これまで矯めてきた動性を力で爆発させるのはいいとしても、それまで折角見事だった音楽の叙述がここで動的要素を引き込んでしまい通例の劇的昂揚になってしまったからで、これがいいという人もいるだろうけれど、あのテンポを遵守しつつ激することができたらと思う。それにしても、確かにここで聴ける或る意味でデフォルメされたチャイコフスキーは、作曲者自身が全く予想できなかっただろうトータリティを内在的に浮上させていることに驚嘆と賞賛を送りたいところ。

斉諧生 まず思ったのは、オーケストラの音程が美しいということ。音を聴いているだけでも胸が熱くなってしまいます。このあたりの技術的なことは工藤さんがお詳しいと思いますが、単にピッチがよいだけでなく、各奏者が全体の和声の構造を把握して微妙な調整を行いながら演奏しているのではないでしょうか。弦の和音や金管群の吹奏もさることながら、特筆したいのはティンパニ。打ち込みの鋭さとかリズム・間合いの良さだけなら他にも巧いオーケストラはありますが、*表情*までも感じさせるタイコは初めて聴きました(終楽章の118〜 125小節あたりが好例)。

チェリビダッケの指揮は、噂どおり遅いテンポながら、もたれることがない。通俗的な指揮ならば虚仮脅しに聴こえる第1楽章や甘ったるく響く第2楽章なのですが、彼の抑制の効いた表情からは、「諦念」や「寂寥」が真実味を帯びて心に響いてきます。第2楽章112小節からのオーボエ独奏には、ふと『大地の歌』「告別」で同じ楽器が吹くソロを連想したくらいです。同じ楽譜からこれほど違った音楽を生み出し得るとは...。チェリビダッケは、昔、FM放送でシュトゥットガルト時代のライヴを聴いた程度で、これまであまりいい印象がなく、言行等には不信感すら持っていたのですが、今回のチャイコフスキーに接して、不明を恥じた次第です。フィナーレも馬鹿騒ぎに堕ちず、トランペットやティンパニの強奏が決め所で見事に決まり、この上ない充実感を持って全曲を聴き終えることができました。

山下 チャイコフスキーの第5番は、とても楽しめました。今回スコアも購入して、参照しながら聴いてみました。微妙にコントロールされた音量、歩みを確かめて進むような遅さで、小さめの音量で聴いていたらわからないような音を眺めつつ聴いていました。以前、熱心なファンの方からやっぱりチェリはライブで聴かなくてはわからないとか、彼の演奏はCDに収まり切れていないといったことを聞きましたが、それもわかる気がしてきました。PPPの繊細な表現などは、本来の音がうまく伝わってきていないのかもしれません。

という感じで、160小節くらいまでスコアを目で追っていたのですが、細かいところははだんだんどうでもよくなり、後はただ演奏に浸っていました。全体的に良いなと感じたのは、テンポが遅い=甘ったるい、となっていないところでしょうか。悠然とした歩みの中重きを置くところはきちんと強調されているのが印象的でした。後半の第3楽章、第4楽章も極端にテンポを揺らしたり、追い込んだりせずに進んでいるところは、賛否両論分かれるかもしれませんが、全体を通じて悠然とした歩みを変えなかったところも共感できました。感覚的に気に入っている曲ですので、ほとんど批判的な面は出てきませんでした。余談ですが、スコアを見てみて改めて、曲の構成のシンプルさがわかりました。この曲を嫌いだとおっしゃる御意見もわかるような気がしてきました。

鈴木 遅くなりましたが、チェリのチャイコ5番。小生、チャイコフスキーは苦手。あまり聞く方ではない。でもそのわかりやすいメロディラインや、管弦楽法のうまさでは、並ぶものはそんなには、いないだろう。その辺りへの評価が、好悪の分かれ目だという気がするが。しかし、作曲家が効果を狙うのは当たり前で、マーラーも「あざとく作曲するのだ!聴衆に分からせるために!」というような発言をしていたと思うが、その分では、チャイコフスキーはマーラーよりも役者は上だ。

ただ、クラシックを結構聞いてきてしまった人間には、チャイコフスキーを聞いていると、どこかハズカシイ気持ちになってくるのも事実だ。あまりに、効果的に赤裸々な音楽だからか。チェリビダッケの交響曲第5番の演奏は、ムラヴィンスキーやカラヤンの演奏を聞き慣れた耳には、少しもたれる。チェリの晩年の演奏は、独特なテンポの遅さが特徴だが、小生、ドビュッシーやリムスキー=コルサコフなどは、凄い演奏だとかっているのだが、もう少し古典寄りの音楽は、多少つらいものがある。実験しなければならないのは、部屋を暗くして、コンピュータの端末など気にしないで集中して聞くことなのかも知れない。チェリの晩年の演奏は、聞き手にどういう態度、どういう姿勢で聞いているのかを、試すような部分がある。恐らく、それが生前のチェリのCD(LP)発売不許可の姿勢につながると思う。このチャイコフスキーも相当な集中力を持って聞かないと理解できないだろう。恐らく、ふつうに、聞き飛ばしていると、この演奏の持つ*意味*が理解できない。第2楽章などまるでブラームスの交響曲第5番第2楽章だな(^ ^ ;、この演奏では。また、他の演奏と聞き比べの必要性を感じています。

佐々木 私の場合、この曲は、クラシックを聴き始めて間もないころカラヤン&BPOの70年代のレコードで聴いたのが最初です。5年ほど前に、それと同じCDを買って、聴いて、いっぺんに嫌になって中古屋に売り飛ばしてしまい、それ以来、この曲は一度も聴いていませんでした。今回のチェリの演奏で、その印象が払拭されるのではないかと大きな期待感を持って聴きました。

で、聴いてみて、面白いけれど、正直なところ感動はしませんでした。曲によるところも大きいと思いますが、ムラヴィンスキーの盤などでこの曲を聴くと惹かれるものがずっと多いし、やはり、私はチェリのこの演奏が(どちらかと言えば)気に入らなかったのだろうと思います。弱音の美しさや金管の咆哮、それらの対比には確かに目を見張るものがありまた木管のソロが実にくっきりを描かれることなど、噂どおり凄いとは思うのですが、なんだか細かい所を拡大して見せつけられてばかりいるようでたとえば、展覧会で大きな絵を見ていて、後ずさってもっと離れて見たい時ってありますよね。そんな感じです。もちろん、部分部分では感心したり感動したりする(たとえば、2楽章の運命の動機〜コーダのあたりなど素晴らしい)のですがチェリは基本的に芝居がかった演出を好む人というイメージがあり、どうもそのあたりが鼻についてしまうようです。そういう意味でモノラルの旧録の方が好感を持てる所がありました。あれは途中ワウフラが凄かったですが。

工藤 はじめに断っておきますが、僕はチャイコフスキーの音楽が大嫌いです(^^)。旋律、和声、管弦楽法...、全てに嫌悪感を催します。しかし、逆説的な言い方になりますが、おかげでチャイコフスキー作品の演奏の良し悪しはよく分かります。この第5交響曲では、ムラヴィンスキーやカラヤンなどの素晴らしい演奏が記憶に残っています。このような演奏では、僕がまさに嫌うところのチャイコの“体臭”が強く押し出されています。

一方、今回のチェリの演奏では、不思議とその“体臭”が感じられませんでした。したがって、僕にとっては極めて聴きやすい演奏であった訳です。しかし、チャイコの適切な解釈と言って良いのかどうかははなはだ疑問ではあります。全曲通しての印象は、極端に“音響”に焦点が当てられている、ということでした。特に金管の荘厳な響きは素晴らしい。楽器間のバランスが本当に細心の注意を払って整えられていることがよく分かります。トランペットの音色もなかなか。ホルンがあまり上手でないことが残念ですが(特に2楽章)、Tutti部分では周到に整えられたバランスのおかげであまりアラが目立ちません。また、この金管を支える他の楽器もチェリのイメージする響きをよく理解しているようで、全曲に渡って統一された音を出しています。“音響”重視の解釈によって、やや犠牲になっているのが爽快なリズム感。1楽章はもちろん、2楽章にも前に向かうような感覚が欲しいところなのですが、この演奏ではそれがあまり感じられません。ただ、ティンパニの名技がそれをギリギリのところで支えています。演奏として素晴らしいと思ったのは、3楽章です。この陳腐な曲を、ここまでムードたっぷりに、しかも曲として仕立て上げた手椀にはただただ脱帽です。4楽章も十分水準に達している出来ではないでしょうか。随所にこけおどし的な部分が散見されますが、それはむしろ曲の責任と判断すべきでしょう。最終和音でブラボーを煽らない音作りには、好感が持てました。全般に、ここまで響きを磨き上げ、しかも曲の構成も台無しにしない演奏はそう多くないでしょう。そういう意味では何だかんだ言っても、カラヤンと共通するものも感じられたりします。

鈴木 で、チャイコなのですが、聞き比べておりまして、珍しく小生工藤さんのご意見に近かったような感じです。みなさんの投稿を反映させたら、長文になってしまいました。

工藤 はじめに断っておきますが、僕はチャイコフスキーの音楽が大嫌いです(^^)。旋律、和声、管弦楽法...、全てに嫌悪感を催します。しかし、逆説的な言い方になりますが、おかげでチャイコフスキー作品の演奏の良し悪しはよく分かります。この第5交響曲では、ムラヴィンスキーやカラヤンなどの素晴らしい演奏が記憶に残っています。このような演奏では、僕がまさに嫌うところのチャイコの“体臭”が強く押し出されています。
カラヤンとムラヴィンスキーでは、恐らく別のテンペラメントを発していると思いますが、チャイコフスキーを嫌いな人間は、恐らく工藤さんと同じことを感じていると思います。カラヤンの演奏で、小生念頭に置いているのは、1984年のウィーン・フィルとの演奏です。
山下さんも書いておられましたが、スコアは非常に単純に書かれているのに、恐ろしく効果的。カラヤンは彼の美学の上で、音を磨き上げて行きますので、ロシア人よりもロシア臭い演奏に感じたりします。ムラヴィンスキーは、ロシア人としては、この交響曲をあくまで交響曲として音化しようとする。そのため、彫琢具合はカラヤンと印象的に似てくるのかも知れませんね(^ ^ ;。あくまで、聞き終えた後の印象という意味ですが。

工藤 一方、今回のチェリの演奏では、不思議とその“体臭”が感じられませんでした。したがって、僕にとっては極めて聴きやすい演奏であった訳です。
そうですね。チェリではなんかチャイコフスキーと言うより、ブラームスの交響曲を聞いているという感じですね。肌触りというか。感覚的な言葉で申し訳ないですが。

工藤 しかし、チャイコの適切な解釈と言って良いのかどうかははなはだ疑問ではあります。(中略)また、この金管を支える他の楽器もチェリのイメージする響きをよく理解しているようで、全曲に渡って統一された音を出しています。“音響”重視の解釈によって、やや犠牲になっているのが爽快なリズム感。1楽章はもちろん、2楽章にも前に向かうような感覚が欲しいところなのですが、この演奏ではそれがあまり感じられません。ただ、ティンパニの名技がそれをギリギリのところで支えています。
*前に向かうような感覚が欲しい*。そうですね。第1楽章でも多少失速気味で、小生15分くらいの金管が派手になるところで、聞き疲れがしてしまうのです。カラヤンも、ムラヴィンスキーも「前へ」という推進力はありますが、チェリの演奏は。どこかその場所に止まって、響きを楽しむという風情があります。

佐々木 弱音の美しさや金管の咆哮、それらの対比には確かに目を見張るものがあり、また木管のソロが実にくっきりを描かれることなど、噂どおり凄いとは思うのですが、なんだか細かい所を拡大して見せつけられてばかりいるようでたとえば、展覧会で大きな絵を見ていて、後ずさってもっと離れて見たい時ってありますよね。そんな感じです。
と言う言葉の、言葉を変えての表現という気もしますが。それを、肯定的にとらえるか、否定的にとらえるかの違いはありますが。で、試しに部屋を暗くして、世事俗事のことを忘れて聞いていると、何か、気持ちよくなる演奏ではあります。
これは、チェリが禅に凝ってインチキ臭いことを言っていたとか、超俗の思想にあこがれていたと言うことは抜きにしても、チェリ最晩年の思想が聞こえるような気がするということでしょうか。今の段階での小生の結論としては、チェリの演奏は、チャイコの5番という効果絶大な名曲を聞く上では、多少適さない部分があるかも知れませんが、チェリを聞くことでは滅法面白いと言うことです。これは、チェリの最晩年の演奏録音にはおしなべて言えることで、他のCDからも感じていることではあります。

浮月斎 ここまで悠揚かつ緊張に満ちた推進力で聴くとこの曲の本来的な構造と表現とがくっきり出てくるように思う。(中略)それにしても、確かにここで聴ける或る意味でデフォルメされたチャイコフスキーは、作曲者自身が全く予想できなかっただろうトータリティを内在的に浮上させていることに驚嘆と賞賛を送りたいところ。
浮月斎さんも、チャイコフスキーはあまり好きではないとのことでしたが、この表現も何か似たようなことを我々別の言葉で表現しているようで・・・なかなか面白い(^ ^ ;。ただ、チェリは、曲に歩み寄ると言うよりも、この曲を自分の理想の音楽の構造にしてしまった上で音響化してしまったという印象はありますが。その点では、カラヤンやムラヴィンスキーよりも役者が上の部分があるのかもしれませんね。:-)。

浮月斎 皆さんのご意見を拝読し、表現上の好悪はあるようですが、鈴木さんのご意見にほぼ首肯できました。

鈴木 チェリは、曲に歩み寄ると言うよりも、この曲を自分の理想の音楽の構造にしてしまった上で音響化してしまったという印象はありますが。
私も鈴木さん同様、工藤さんのスタンスに実は近い。或る意味でチェリにすっかり感心させられたという感じでした。しかし、確かに聴き終わった後の「感動」のようなものに薄い。「ああこれはいい!」とは思うのですが。

鈴木 その点では、カラヤンやムラヴィンスキーよりも役者が上の部分があるのかも知れませんね。:-)
たしか高校生の頃、セル盤を聴いてなんて味気なく面白くない演奏だろうと思ったのですが、スコアを見ながら聴いて実はこういう素っ気ない作品だったんだなとわかりました。で、裏を返せば如何にカラヤン(EMI)が巧みに演出しているかということに気がついた次第です。ただ、ムラヴィンスキー(DG)には、あの冷徹で沸沸とくる進み方が好きです。

野々村 旧録音では第1・2楽章の追い込み方はさほど深くなく、両者はトレードオフの関係にあるのかもしれない。すなわち、作品が丸裸になるまで表現を詰めるか、良い塩梅のところでまとめておくかという姿勢の違いである。
確かにチェリはこの作品を「丸裸になるまで表現を詰め」たといえます。が、作品を内在化し、その読み取りを精密に吐き出すという点で、神秘的な傾向すら感じました。その意味では実は作品を「丸裸に」とは全く逆のことをやっている。私にはそこが面白い。

斉諧生 弦の和音や金管群の吹奏もさることながら、特筆したいのはティンパニ
本当にティンパニがうまいですね。聴いていてここまで徹底して鍛え上げたのかとすら感じました。

山下 細かいところははだんだんどうでもよくなり、後はただ演奏に浸っていました。
「ただ演奏に浸っていました」というのがよくわかります。同じ感じ方ではないでしょうが、私は何だかブルックナーでも聴いているかのような聴き方をしてしまいました。そういう意味でも、

鈴木 チェリの晩年の演奏は、聞き手にどういう態度、どういう姿勢で聞いているのかを、試すような部分がある。
いやホントに試されています。こちらから試そうなどとは無駄で、音楽にもう浸りきるしかない感じ。浸らずに細かく見詰め直していても、禅問答しているのと同じ心境になってしまいます。細かな部分は、所詮、全体あっての鏡でしかないと。こういうあたりの作品のトータリティを我々は突きつけられているのかも。その意味で単にいい悪いではすまない何かがあるように思いました。

佐々木 面白いけれど、正直なところ感動はしませんでした。曲によるところも大きいと思いますが。
同感です。ブラボーを呼ばない珍しい演奏ですね。聴衆の散漫な拍手の開始は素直ではないかと思いました。ただ私はそれがよかったりしました。

佐々木 なんだか細かい所を拡大して見せつけられてばかりいるようで、たとえば、展覧会で大きな絵を見ていて、後ずさってもっと離れて見たい時ってありますよね。そんな感じです。
佐々木さんの言わんとしていることもわかります。が、私は受けとり方が違って、細かなところもかなり克明に描かれているけれども、作品全体の直観的流れみたいなものを聴けという具合いにチェリに教えられた感じでした。

工藤 一方、今回のチェリの演奏では、不思議とその“体臭”が感じられませんでした。したがって、僕にとっては極めて聴きやすい演奏であった訳です。しかし、チャイコの適切な解釈と言って良いのかどうかははなはだ疑問ではあります。
先にも書いたとおり、これは同感です。

工藤 全曲通しての印象は、極端に“音響”に焦点が当てられている、ということでした。特に金管の荘厳な響きは素晴らしい。楽器間のバランスが本当に細心の注意を払って整えられていることがよく分かります。
確かに。私にはそれ以上に作品解釈上の「直観的全体把握」が通例の解釈とはかなり乖離している点ばかりに気を取られていました。

工藤 4楽章も十分水準に達している出来ではないでしょうか。随所にこけおどし的な部分が散見されますが、それはむしろ曲の責任と判断すべきでしょう。
そうですね。これはやはり作品の問題でしょう。

工藤 全般に、ここまで響きを磨き上げ、しかも曲の構成も台無しにしない演奏はそう多くないでしょう。そういう意味では何だかんだ言っても、カラヤンと共通するものも感じられたりします。
確かに2楽章を聴いていて部分的にカラヤンを思い出しました。でもカラヤンの演出は楽想の間合いの取り方、憂愁を帯びたメロディの強調的演出で、響きの磨かれ方はチェリには及ばないな。

山下 工藤 一方、今回のチェリの演奏では、不思議とその“体臭”が感じられませんでした。(中略)全曲通しての印象は、極端に“音響”に焦点が当てられている、ということでした。特に金管の荘厳な響きは素晴らしい。楽器間のバランスが本当に細心の注意を払って整えられていることがよく分かります。
この音響とバランスにかなりの繊細が感じられる点は私も同感です。余談ですが、昨年近所の市民オケのチケットをもらったので聴きにいってみましたが、聴いていて変化が感じられずちょっと飽きてしまった記憶があります。こういった音数の少ない(ある面ですかすかの)曲こそ、逆に情緒や表現の差が出て面白いように私は感じています。情感の表現を誇大にやりすぎると工藤さんがおっしゃっている体臭がでてきてしまうかもしれませんが・・。

鈴木 チェリの晩年の演奏は、聞き手にどういう態度、どういう姿勢で聞いているのかを、試すような部分がある。
浮月斎 いやホントに試されています。
このところBOXのCDをずっと聴き続けたせいか、チェリが構築しているペースに慣れてしまった気がします。Allegro vivaceなんて何のそのという感じですし、この演奏は「浸れたら」無批判に受け入れてしまいそうですが、逆にこの次の展開はこうなるはずといったインプリントがあると違和感を感じずにはおれない演奏なのかもしれません。

佐々木 浮月斎 私も鈴木さん同様、工藤さんのスタンスに実は近い。或る意味でチェリにすっかり感心させられたという感じでした。しかし、確かに聴き終わった後の「感動」のようなものに薄い。「ああこれはいい!」とは思うのですが。
そうですね。昨日今日と、マルケヴィチ→シルヴェストリ→テミルカーノフ→ストコフスキーと聴いて今チェリを再度聴いているのですが、いろんなのを聴いて戻ってくるとやはり、滅法面白いとしか言い様がありませんね。

鈴木さんの『今の段階での小生の結論としては、チェリの演奏は、チャイコの5番という効果絶大な名曲を聞く上では、多少適さない部分があるかも知れませんが、チェリを聞くことでは滅法面白いと言うことです』とおっしゃるのがよく分かりました。

浮月斎 確かにチェリはこの作品を「丸裸になるまで表現を詰め」たといえます。が、作品を内在化し、その読み取りを精密に吐き出すという点で、神秘的な傾向すら感じました。その意味では実は作品を「丸裸に」とは全く逆のことをやっている。私にはそこが面白い。
おっしゃる事は分かる気がします。神秘的な感じがしますし、確かに所々ブルックナーみたいな音響もあります。ただ聴いていると、この曲と神秘的とはやはり相容れないようなどこかミスマッチな感じが少し残ってしまうかなと。

鈴木 チェリの晩年の演奏は、聞き手にどういう態度、どういう姿勢で聞いているのかを、試すような部分がある。
浮月斎 いやホントに試されています。
結局、これがいいのか悪いのかは聴けば聴くほどわからなくなってきました。とにかく、滅法面白いし音響に浸るように聴けばいい気持ちにはなれます。他の色々な演奏と比べると、明らかに別格です。そこで、さて感動するかというと、どこかに戸惑いが残るのです。私はこの曲のよくあるイメージから抜けきれていないのでしょうか?

浮月斎 佐々木さんの言わんとしていることもわかります。が、私は受けとり方が違って、細かなところもかなり克明に描かれているけれども、作品全体の直観的流れみたいなものを聴けという具合いにチェリに教えられた感じでした。
そうかもしれませんね。このあたりは、すぐには自分でも結論が出ないかもしれません。

斉諧生 皆さんチャイコフスキーがお好きじゃないんですね。驚きました。私は4〜6番の交響曲とP協、Vn協、弦楽セレナードくらいしか聴きませんが、好きな方です。

野々村 チャイコフスキーの作品は、(中略)一度として良いと感じたことはなかった
鈴木 小生、チャイコフスキーは苦手
工藤 僕はチャイコフスキーの音楽が大嫌いです(^^)
浮月斎さんも佐々木@CD三昧日記さんも、はっきりお書きではないけれど、否定的な書きぶりでいらっしゃったし。でも鼻につくといえば鼻につくかな?Vn協第1楽章展開部の入りのトゥッティなんか...工藤さん*超*大嫌いでいらっしゃるのでは?書法の薄さについては御指摘が相次いだので、あらためてスコアを見直したら、成る程、そうですね!私はこの曲は聴き初めがロストロポーヴィッチ&LPOで、その後はムラヴィンスキー、ストコフスキー、マゼール等々、濃厚系の演奏で*刷り込み*されてますので、全然、意識したことがありませんでした。ヤマカズのCDとかコバケンのLPとかもあったなぁ...。

閑話休題、チェリビダッケの演奏については、「こんなんチャイコフスキーちゃう!」と言われればそのとおりなのですが(レコ芸での小石氏の評がそれ一色)、私は、「この曲はこんな風に鳴る曲だったのか!」という驚嘆と、それをつかみ出したチェリビダッケへの賛嘆を感じずにはいられません。

浮月斎 ここで聴ける或る意味でデフォルメされたチャイコフスキーは、作曲者自身が全く予想できなかっただろうトータリティを内在的に浮上させていることに驚嘆と賞賛を送りたい。また、細かなところもかなり克明に描かれているけれども、作品全体の直観的流れみたいなものを聴けという具合いにチェリに教えられた感じでした。
この演奏の外面を特徴づけている3つの要素、すなわち
  • 遅いテンポ...ア
  • 細部の磨き上げ...イ
  • 響きの吟味...ウ
は、どれかがチェリビダッケの目標でどれかがその副産物というものではなく、いずれも、彼がつかみ出したものを具現化するための必然であったと、これは思い込みかもしれませんが、私には感じとれるのです。

ア:
鈴木 チェリビダッケの交響曲第5番の演奏は、ムラヴィンスキーやカラヤンの演奏を聞き慣れた耳には、少しもたれる。チェリの晩年の演奏は、独特なテンポの遅さが特徴だが、小生、ドビュッシーやリムスキー=コルサコフなどは、凄い演奏だとかっているのだが、もう少し古典寄りの音楽は、多少つらいものがある。
イ:
佐々木 なんだか細かい所を拡大して見せつけられてばかりいるようで、たとえば、展覧会で大きな絵を見ていて、後ずさってもっと離れて見たい時ってありますよね。そんな感じです。
ウ:
工藤 全曲通しての印象は、極端に“音響”に焦点が当てられている、ということでした。

ただ、原曲(というのも変かもしれませんが)との間に多少の軋みを生じているのでしょうけれど。「悲愴」も第1楽章ではツボにハマっているものの、第2楽章以下は軋みが目立ちます。





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