さてはて、本年もまた「奥座敷同人5盤」リリースの季節がやってまいりました。 新譜・旧譜に拘わらず、各人が昨年聴いた中でベストと思える音盤を僅か 5 盤にセレクトいただき、とりまとめたものにございます。この場をお借りしまして、同人の皆様には厚く御礼申し上げるとともに、蘊蓄深き各御仁のセレクション及びコメントひとくさりをご快読いただければ幸甚にございます。 なお、執筆者名をクリックすると記事に飛びます。
店主鞠躬
2003 年を振り返ると、ヴァーグナーに明けヴァーグナーに暮れた 1 年だった。手前のホームページでは、「クナを聞く」「ヴァルキューレ」で 2003 年の幕が開き、現在も「パルジファル」が進行中だ。2004 年もヴァーグナーで明けたわけだ。恐らく 2004 年は、途中でヴァーグナーからブルックナーに移行できると思うが、プライヴェートでの生活環境が変わり、少し心許なくもある。 2004 年も新譜はあまり購入しなかった。中古の CD や LP を購入するのに忙しく、新譜に手が回らなかったためでもある。というのは表向きの理由で、日本では食指が動くリリースが少なく、輸入盤ではそのリリース量が多すぎて何を買ったらいいのか分からない状態のためである (^^;。探せば「これこれ!」というような CD に出くわすとは思うが、余り熱心に新譜漁りをしなかった。 しかし、自分ではそれほど購入した記憶がなくても、CD はなぜか増えてしまう。知人に「CD にはオスとメスがあり、人が寝静まった後、繁殖しているのだ」という説を唱える輩もいる (^^;。道理で CD は増えるわけだ・・・などと言って、結局自然に CD が増えていると錯覚するほど購入しているのだから、一種の病気みたいなものだな。 クナ物ではアメリカの Mythos や日本の Serenade などのレーベルが意欲的に LP からの復刻を行っていて、中には目から鱗が落ちるような音の CD-R もあった。クレンペラーにも初出音源がかなり出て、「やっと聞けた」というアイテムも結構あった。 小生が 2003 年に一番よく聞いたのはやはりクナの CD であるのは間違いないが (^^;、クナ物をはずれて、よく聞いた CD で 2003 年の 5 盤を選んでみようと思う。これは、かなり私的な CD の選択だ。クナ好きの小生にしては、自身首を傾げるような CD を多く聞いてきたような気もする (^^)。
待ちに待ったテンシュテットによるライヴ音源の正規リリースである。テンシュテットはスタジオ録音よりも、ライヴでその真価がより理解できるタイプの指揮者だが、1985 年の第 9 のリリースは実に嬉しかった。昨今増えているポテトチップスのような第 9 の録音ではなく、非常に指揮者のあくが強く、かつ劇的な表現で開放感がある。第 9 のファーストチョイスとなる人もいるだろう。 第 1 楽章からテンシュテットの入れ込み方はもの凄く、凄まじいテンシュテットの表現に意欲が聞ける。 この、1985 年の録音は以前から海賊盤で聞けていたもので、海賊盤では 1991 年の録音も聞くことができる。1985 年盤だけではなく、1991 年盤も正規リリースして欲しいと考えるのはテンシュテットフリークだけだろうか? 2004 年にはテンシュテットの他のライヴ音源も正規にリリースされるそうである。テンシュテット・ルネッサンスが起こればいいな、などとテンシュテット・フリークは期待してしまう。 ただ、なぜテンシュテットの新規リリースがそれほど盛んにならないか、と言うことを考えてみると、まずヨーロッパでのテンシュテットの評価がそれほど高くない、と言うことがあるかも知れない。テンシュテットの音楽は、どちらかというと旧世代に属する音楽で、ラトルなどのように最新のスコアの研究成果を織り込んだ音楽をするわけでもなく、また、分析的に斬新な演奏方法を実践するわけでもない。ひたすら音楽へ没入する姿が現代的ではないのかも知れない。 しかし、音楽缶詰として追体験し、それを素直な感動にむすびつけてゆく、と言うことではテンシュテットの創り出す音楽は希有な存在だとも思うのだ。テンシュテットの音楽を理解するためには、解毒剤として他の指揮者による録音が必要かも知れない。 その、テンシュテットのマーラー以外での音楽の熱を知る、ということでは、この BBC Legends の第 9 は実にいい体験をさせてくれると思う。数多ある第 9 の CD の中で、必聴の 1 枚であると言えると思う。
なごみ系の CD は何種類か買ったが、そのアレンジや演奏のへたくそさで、なごみながら聞けない CD が多すぎる。それは、楽曲のアレンジのせいでもあるし、「いかにも」な演奏姿勢が鼻につく、ということが大きい。 その点、奥村愛の 2 枚目のアルバムはなかなか良かった。あまり共感できないアレンジ(たとえばサティの「ジムノベティ」。これじゃ原曲が死んじゃうよ。というよりバルビエの演奏が刷り込みの悲しさか ^^;)も中にはあるものの、全体のイメージは好ましい。いかにも線の細いヴァイオリンだが、取り上げている曲想によくアレンジ、演奏ともマッチしている。まっすぐで生真面目なヴァイオリンの音は、マルツィの雰囲気をより柔らかくして若々しくした感じか。取り上げている楽曲の多くがイギリス音楽であることも、この CD の落ち着いた雰囲気を醸し出すことに成功している。 2003 年の終わりには、この CD を折りにつけ実によく聞いた。2004 年に入ってもよく聞いている。惜しむらくは、リサイタルで演奏したフランクのヴァイオリン・ソナタを録音してくれたらな、と思う。冒頭の「サリー・ガーデン」から「スコットランド幻想曲(ブルッフ)」への自然な感触のノスタルジー、「カヴァレリア・ルスティカーナ(マスカーニ)」のさわやかで透明な抒情、自然な表情が魅力の「ヴォカリーズ(ラフマニノフ)」など、瑞々しい音楽が聞ける。 「一家に 1 枚的」なニュートラルな情感を期待できる CD であると思う。
バッハのクラヴィア曲を聴き始めたのは、小生もご多分に漏れずグレン・グールドからだった。LP 時代にグールド盤であらかたのバッハのクラヴィア曲を聞き、その後に他の演奏者の録音を聞き始めたようなところがある。グールドの演奏は依然として曲目によってはファーストチョイスのものもあるが、盤歴を重ねるとその嗜好もかなり変わってしまった。たとえば「パルティータ」の全てでは残されていないが、クラウディオ・アラウの最晩年の録音が最も琴線に触れるし、「平均律クラヴィア曲集」ではスビャストラフ・リヒテルの演奏の方がターンテープルに載る回数は多い。さすがに「ゴルトベルク変奏曲」では、グールドの新旧 2 種類の録音が最も好きだが、柔らかみのあるバッハの方が好みになってきているのは年のせいか (^^;。 小生は、ドビュッシーやラヴェルのピアノ曲では、フランスの故女流ピアニスト、モニーク・アースの演奏がすこぶる好きだ。アースとは対極にあるようなフランソワの演奏も好きだが、アースの録音は透明かつストレートにドビュッシーやラヴェルの楽曲の持つ魅力を伝えてくれる。 今回のヒューイットの CD は、CD ショップの試聴機で聞き、一発で気に入ったものだ。アースのもっとアッケラカンとした情感とは少し異なるが、その透明なタッチや自然な音楽にいたく感激してしまった。この「イギリス組曲」は毎日聞いてもなぜか飽きない。その演奏を聞いて、深く考え込まされるような演奏も小生好きだが、この自然に流れてゆく優しい情感は素晴らしいと思う。バッハのクラヴィア曲を聞くなら、本来はグールドではなく、このような演奏が相応しいのかも知れない。 これもまた「一家に 1 枚」的なポピュラリティと、優れた情感を聞かせてくれる CD だった。
クレンペラーがウィーンに登場し、ウィーン・フィルを振って恐るべき名演の数々を生み出していった年の海賊 CD-R。小生は限られた演奏家のものしか海賊 CD-R を買わないことにしているが、それでも月によってはかなりの数の海賊 CD-R がリリースされ、聞く時間が取れなくて、購入したことを忘れてしまうこともままある。この、クレンペラーの海賊CDRをいつ購入したのかまったく覚えていないが、2003 年に購入したことだけは間違いがない。 「あれ?こんな海賊 CD-R があったっけ」っと思って聞き始めたら、最初の「ドン・ファン」から驚愕してしまった。凄い演奏だ。そのスケールの大きさと寂寥感が漂うような音楽は、美酒に酔うような優れた酩酊感をもって聞くことができる。スペクタクルさだけではない、素晴らしい情感を聞くことができる。スタジオ録音とはかなり異なる趣だ。 クレンペラーは1968 年にウィーン・フィルに招かれ、一連のコンサートを行っているが、これはその 6 月 16 日の演奏会の模様である。クレンペラーの1968 年ウィーンでのライヴは優れた演奏が多いのだそうだ。この 6 月 16 日のライヴは、以前に LP や CD でリリースされたことがあったのかも知れないが、小生は初めて聞いた。これだからライヴ録音は侮れない。クレンペラーの圧倒的な表現力とオーケストラの体温までが聞き取れるような素晴らしいライヴである。 曲目は、R・シュトラウス「ドン・ファン」、ヴァーグナー「ジークフリート牧歌」「トリスタンとイゾルデ第 1 幕への前奏曲」「ニュルンベルクのマイスタージンガー第 1 幕への前奏曲」で、ヴァーグナーの演奏の素晴らしさも比類がないほど、愛情と血が通った音楽が聞ける。 ヴァーグナーでは、「ジークフリート牧歌」のひなびた味わい、「トリスタンとイゾルデ第1幕への前奏曲」の寂寥感を伴う引き延ばされたような情感も凄かった。クレンペラーはややもするとザッハリッヒな情感に乏しい、強面の音楽をやると誤解される向きもあるが、なんのここで聞ける音楽の湿った感触は素晴らしい(録音は乾き気味だが)。この濃密な感動は、本物のロマンティストの音楽だろう。ウィーンフィルの演奏も素晴らしい。 アンコールで演奏されたらしい「ニュルンベルクのマイスタージンガー第 1 幕への前奏曲」の愛情のこもったゆったりと噛んで含めるようなフレージングも聞き惚れてしまった。「いつまでも終わらないで欲しい」と思える音楽が展開されている。 惜しむらくは、これが海賊盤であるということだ。新しい演奏家による新譜の録音がなければ新陳代謝は行われないし、現代に生きる演奏家の録音が大事なのは分かっている。それでも、大時代的ながら、このクレンペラーの古い録音を聞いていると、音楽の持つ真の豊かさ、ロマンと言うものに想いが行ってしまう。 これだけの名演が、海賊盤でしかリリースされないことは実に残念なことだ。海賊盤を聞くと言うことに罪悪感を感じながら、それでも我々ファンはこのような演奏録音を聞きたいのだ。
本来なら、奥村愛よりも上にランクしてしかるべき CD 2 枚である。実は、奥村愛はもちろんだが、竹澤恭子のこの 2 枚は 2004 年になった今でもよく聞いている。クラシック小品集と、コンセプトアルバムを同時に 2 枚リリースしてしまうと言うことも凄いが、竹澤恭子の濃密なヴァイオリンも凄い。確実にデビュー当時から比べてパワーアップしている。しかもなお、豊かなスケールを感じさせる演奏は見事である。 「romanza」はドヴォルザークの「母が教え給いし歌」を始め、魅力的な楽曲が並んでいる。それらの小品に食らいついてゆくというのか、自然に弾いたらこうなったのか分からないが、もの凄い竹澤恭子の表現意欲と実力を感じる。多くのヴァイオリニストと一線を画す面白さだ。ショパンの「夜想曲第 20 番」のレントがミルシティンのアレンジで聞けるが、もの凄く濃密な時間だ。クライスラー「愛の悲しみ」やクライスラー編ブラームスの「ハンガリー舞曲第 17 番」は多くのヴァイオリニストが取り上げているが、竹澤恭子のフレージングは実に面白くて説得力がある。ハイフェッツ編グラズノフ「瞑想曲」やマスネ「タイスの瞑想曲」ではその優しい情感は素晴らしい。とろけそうな情感というより、そのボディはしっかりとしている。ここでも、竹澤恭子の主張がはっきりと聞き取れる。濃厚なロマンティックな香りがする。アルトマン編ドビュッシー「亜麻色の髪の乙女」では、編曲でヴァイオリンの音色の指示があるのかどうか浅学の小生には分からないが新鮮だった。サラサーテ「ツィゴイネルワイゼン」は耳たこができるほどよく聞いているが、竹澤恭子の演奏は名演である。その万華鏡のように変化するヴァイオリンの音色は、へたをすると演奏技法の陳列会のようになってしまうが、ここではしっかりと説得力を持って弾かれている。この表現力を聞いてしまうと、なまなかな演奏では満足できなくなってしまう。ヴァーグナーをよく聞く最近では、ウィルヘルミ編ヴァーグナー「ロマンツァ」が収録されているのが嬉しい。このアルバムのタイトルにもなっている。 「Aria On The Strings」は、岩代太郎というアレンジャーの重い編曲に乗って演奏されてゆく。クラシックアルバムではなく、良質なムード音楽である。女性向けに作られたコンセプトアルバムだろうか?その全ての曲で竹澤恭子が参加しているわけではないが、最初に収録されている「初夏の日差し」という曲から、このアルバム全体の雰囲気を現しているようで引き込まれる。竹澤恭子のヴァイオリンはカタラーニ「ラ・ワリー」の「さようなら、ふるさとの家よ」から、濃密な香りを発するようにして聞くことができる。そのゆったりとしたテンポの分厚いアレンジ、電気的に処理をした竹澤恭子のヴァイオリンがムードたっぷりに演奏されてゆく。途中、2 曲ほど富田靖子によるシェイクスピアの詩の朗読が挟まれている。その部分は小生パスするが (^^;、ヘンデル「オンブラ・マイ・フ」や、プッチーニ「私のお父さん」は聞き物である。この重い濃厚さはいったい何なんだと思うが、その微熱が広がるような演奏には引きずり込まれるようだ。「私のお父さん」を 10 分以上かけて演奏しているのだ。その粘りつくしつこいほどの抒情は原曲を遙かに離れても、実に魅力的で楽しませてもらった。ヴェルディ「女心の歌」に至っては、しばらくの間、何が演奏されているのか分からないほどだった (^^;。モーツァルト「やすらかにお休み、私の優しい命よ」の魅力的なこと!「Aria On The Strings」全編に漂う雰囲気の濃厚さは、「一家に 1 枚」的な CD とは言えないが、実に怪しくその魅力を発している。
毎年ここで同じ嘆きを繰り返すのは見苦しいが、2003 年も音盤聴取より購入が先行する弊が甚だしかった。特に 2 月から取引を始めたYahoo!オークションでは、収穫も多かったが、費用的にも時間的にも大きなエネルギーを割かれてしまった。2004 年こそ「新譜試聴録」の充実をと、決意しているところである。 なお、『レコード芸術』誌 2 月号でも 5 点の音盤を選んだが、「2003 年の蒐集報告」という主題を与えられていたため、今回の 5 点とは少し入れ換わっていることをお断りしておく。
2003 年最高の音楽体験が、 1 月 21 日、トッパンホールでのペレーニ・リサイタルであったことは疑いない。その直後に『レコード芸術』誌から取材を受け、彼の音盤を聴き直してコメントを付けたことも、大きな経験となった。そうした「ペレーニ・イヤー」の頂点を築いたのが、 4 月に発売された当盤。 無伴奏ソナタの素晴らしさは筆舌に尽くしがたい。この楽譜から、超絶技巧の展示ではなく、溢れるような音楽を拡げることができるのは、古今東西、ペレーニただ一人ではあるまいか。民族への讃歌、望郷の思い、悲しみ、あるいはハンガリー平原の夜を吹きすさぶ風。 それ以外の作品においても、心からの懐かしい歌、類稀に美しい高音といったペレーニの魅力が、あらゆる音符から、聴く者の耳と体と心に浴びせかけられる。 独奏チェロと融け合わないピアノには多少閉口するが、技術はますます高く、音色はますます深く、音楽はますます円熟した、ペレーニ・ファンの「新約聖書」である。 再録音中というベートーヴェン;チェロ・ソナタや、ハンガリーで製作されたバッハ;無伴奏チェロ組曲の映像が、少しでも早くリリースされることを切望している。
これほど透明感があり晴朗な第 3 番の演奏は、シベリウスのスペシャリストといわれるようなベテラン指揮者でさえも達成できていない。騙されたと思ってでも耳にしていただきたい音盤である。 ヘルシンキ祝祭管は、ヤーッコ・クーシスト(ラハティ響コンサートマスター)等、フィンランドの若手有能奏者が集まった団体という。7-7-6-5-4 という小編成の弦合奏が実に美しいし、木管や金管の響きも清澄かつ雰囲気十分。第 3 楽章後半で弦のモチーフが組み合わさり繰り返され広壮豊美な終結に至る間に一点の混濁も見せない様は、いまだかつて聴いたことがない。第 2 楽章中間部での透きとおるようなフルートの音色感も、また同じ。 メロディを優先せずすべてのパートをくっきり響かせるバランス感覚は、いかにもピアニストらしい。これでこそシベリウスの音符が生命を持って語りかけるのだ。 第 3 楽章後半の "con energia" 指定をリズムの強調で具現化するアイデアも素晴らしく、あとはコーダの弦合奏に ff が指定されたところで音量を抑えさえしなければ、まったき理想の第 3 番となったはずである。 録音も最上、カプリングのヒンデミット:「四つの気質」では独奏を兼ねたムストネンの鮮明鋭利なタッチが冴えわたる。メジャーレーベルの不振が続く中、 Ondine レーベルの好調を証する 1 枚。
同好の士と情報交換して知られざる佳曲秀演の音盤を遠く海外から蒐集するのは電網音楽生活の醍醐味だが、これもそうした収穫の一つ。5 枚組ながらレギュラー盤 1 枚分の超廉価、録音も優秀で、極めてお買い得。 我も我もと軽快でスポーティなベートーヴェン像を録音してゆく時流を知るや知らずや、迫力十分、堂々たる音楽づくり。きびきびと畳みかけるような演奏に接すると、やはりベートーヴェンは「懦夫をして起たしむ」風がなければ始まらないと痛感する。苦悩を通じて歓喜へ至る楽聖像が正統として存在してこそ、ピリオド・アプローチの新鮮さ・美しさも際だつ…とは僻目か。 オーケストラの響きは蒼古たる中欧風、落ち着いた色調の和声感が美しい。すべてのパートが性根を据えて弓を弾く弦合奏はまことに重厚剛直、ここぞという所でグングンと突き上げてくる低弦には快哉を叫ばざるべからず。質朴な音色が光るフルートを筆頭に、よく感じている木管、けたたましくない金管も傾聴に値しよう。 これだけの実力を持つ団体を招聘しながらショパンの作品だけで一夜を埋めるごとき本邦音楽ビジネスの貧困、果たして如何。コルト、そしてフェドセーエフや高関健ら素晴らしい指揮者たちに、更に大きな活躍の場が与えられることを期待する。
老舗新興を問わず、あちこちのレーベルから過去の名演をセットにまとめて売り出す動きが強まった。各オーケストラのアルヒーフ発掘ものも枚挙にいとまない。ただでさえ聴く時間が足りていないのに、数枚十数枚入りの箱に次々と押し寄せられてはとても追いつかないが、その中で、一聴、耳を奪われたのが、この集成に含まれる「フーガの技法」(ビッチュ&パスカルによる管弦楽版)。 リステンパルトのバッハは、暖かく厚みがあり、躍動と愉悦に溢れ、それでいて威風とほのかな哀しみを併せ持つ。名だたる奏者の面々が繰り出すソロの魅惑も堪えられない。 とりわけ独奏ヴァイオリン(ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル)とバソン(モーリス・アラールら)、独奏チェロ(アンドレ・ナヴァラ)とフルート(ミシェル・デボスト、アラン・マリオン)・オーボエ等(ジャック・シャンボン、モーリス・ブールグら)による、典雅にして淡愁を帯びた、絶妙の合奏が聴ける「対位法 15 」(CD1 、トラック 15)は、音楽における抽象性と感覚美の完全な合一を具現した 7 分間といえよう。 音質も優れ、ボディのしっかりした鮮明な音色は、とても 1966 年の録音とは思えない。同梱された管弦楽組曲やブランデンブルク協奏曲も LP 時代から馴染んだ名演揃いだが、音質的に遜色があるのは残念だ。 リステンパルトにはハイドンやモーツァルトの録音も多数遺されているので、今後の覆刻に期待したい。
アコーディオン(一部の曲でバンドネオン)と弦楽五重奏、ピアノという編成によるピアソラ・アルバム。2002 年 8 月 29 日、スイスのヴィリサウ・ジャズ・フェスティヴァルでのライヴ録音である。収録曲は、 1.ブエノスアイレスの秋、 2.ブエノスアイレスの冬、 3.スール:甦る愛、 4.バンドネオン協奏曲第 3 楽章、 5.天使のミロンガ、 6.ミケランジェロ 70 、 7.「リベルタンゴ」の主題による即興、 8.ラウラとアストル(ガリアーノ曲)、 9.エスクアロ、 10.ブエノスアイレスの夏、 12.ブエノスアイレスの春。 ピアソラ自演に聴かれる、溶岩流のような重みのある熱を彷彿させる点で、ガリアーノに優るアコーディオン奏者はいないのではないか。この楽器の音は、往々、運動性は高いが腰が軽く、ピアソラ「のようなもの」になりがちな憾みを遺す。(ミカ・ヴァユリュネンの切れまくる鋭さは凄いが、あれはまた別な世界である。) ガリアーノが独奏した「『リベルタンゴ』の主題による即興」は、まるでピアソラが憑依したような凄まじさ。5 分ほどが一瞬のうちに過ぎ去り、嗚呼、もう少し長く聴きたかったと嘆じずにはいられない。 他のメンバーのプレイは、ピアソラ・グループのような凄味に欠けるとはいえ、ライヴらしくテンションの高い全力投球が好ましい。昨今凡百のピアソラ演奏に冠絶する出来栄えといえよう。 音盤ではないので番外として、 宮城谷昌光『クラシック 私だけの名曲 1001 曲』(新潮社) を、最も刺激を受けた書籍として挙げておきたい。 1,001 曲を 1 曲 1 頁で紹介した大著で、ブルックナー、ハイドン、マーラー、モーツァルトを排する一方、リリー・ブーランジェ、マルケヴィッチ、パレー、ステーンハンマルの作品を含むなど、凝った仕上がりになっている。「原稿を書きはじめるまえにCDは二千ほどあったが、書き終えたときには六千になっていた」という著者の打ち込みよう、まことに壮なるかな! 具体の選曲選盤に異論がないわけではない。突っ込みどころは無数にある。否、寧ろそこが刺激を受けた所以で、むらむらと「乃公出でずんば」という気にさせられるのである。 漱石によれば、芸術とは「自己と物との関係を明らかにし、それを感覚的に味わい、その好悪の感情から理想を描き出そうとする営み」であるという。 斉諧生はクラシック音楽との出会いによって、物我の関係を味わうことを覚えた。好悪の感情は人様々、いずれ自らの理想を明らかにする筆を執りたいと密かに目論んでいるところである。
それにしても、音盤屋へ足を運ぶことがめっきりと減った。かといって通販やネットオークションに精を出しているわけでもない。新譜不況は深刻だ。新録音は、収録曲と演奏者の名前を見ただけで容易に予想のつく内容(悔しいことに予想がはずれることはまずない)ゆえ、試聴機の前に立つのが関の山。歴史的録音はありきたりの曲目の同曲異演ばかり。音質改善を謳ったリマスター盤には、まったく興味がない。こうなると、新たに自分の棚に並ぶ音盤も必然的に変わり映えのしないラインナップになる。大いに物足りなさを感じつつも、以下に列挙した音盤からは珠玉の音楽体験を得ることができた。こういう悦びがある限り、音盤道楽から足を洗うのは当分先のことになりそう。
2003 年最大の収穫として、まずはこの CD 復刻を挙げたい。独特ではあるものの確かに弦楽四重奏曲の極致である作品群と、音楽的にも技術的にも絶頂期の団体による演奏。これを弦楽四重奏芸術の最高峰と呼ぶことに、僕はいささかの躊躇も感じない。表面的に聴き流そうといかに努力しても、作品の持つ切実な内容に縛り付けられてしまう。こういう音楽を前にして陳腐な言葉を並べることこそ、愚の骨頂。ただ黙って耳を傾けたい。本当に、本当に凄い音楽。 購入量の大半を占めたショスタコーヴィチ作品の音盤をざっと眺めると、 2003 年はなぜか交響曲第 7 番の新譜が多かった。ゲールギエフ/キーロフ O 盤(Philips : 470 845-2)は期待はずれだったが、ビシュコフ/ケルン WDR SO 盤(Avie : AV 0020)は出色の出来。バランスのよくとれたオーケストラの響きと、端正で奇を衒うことのないオーソドックスな音楽作り。ただそれだけなのに、この長大な作品を退屈させることなく聴き通させてしまうのが凄い。ビシュコフがかつてベルリン PO とやった第 5 、 8 、 11 番の 3 曲では、オーケストラの力に依存したり、あざとい表情付けをしたりする部分が気になったりもしたものだが、それから 15 年近く過ぎて大人の音楽家に成長したというような印象。スヴェトラーノフ/ソヴィエト国立 SO の 1978 年ライブ(Scribendum : SC 027)も忘れ難い。第 1 楽章の展開部の作りなどは、このコンビがお互いを知り合い、成熟してきたことを示す良い例だと思う。ライヴならではの大柄な熱気もたまらない。強奏部に力点のある演奏ではあるが、この作品の魅力を素直に伝えてくれると言って良いだろう。中間楽章の共感に満ちた歌も、強く聴き手に訴えかけてくる。終楽章コーダの尋常ならざる高揚感は、このコンビならではのもの。ただし、ライヴゆえのミスが盛大に繰り広げられているのは残念。第 2 楽章中間部のピッコロ Cl など、おっ、と思わせるような濃い歌いまわしで期待させた直後に、あられもなく崩れていくのはいくらなんでも許容しかねる。総合的には 1968 年のスタジオ録音(Scribendum : SC 025)をとるべきだろう。初演 20 周年を記念したエリアスベルグ/レニングラード SO による歴史的ライブ録音の復刻(Great Musicians of Palmira Du Nord : 2003-004)は、音質的な不満が残るものの熱く燃え上がった音楽は実に感動的。 その他の作品にも、注目すべき新録音がいくつかあった。中でも、カエターニ/ミラノ・ジュゼッペ・ヴェルディ SO による交響曲第 5 & 6 番(Arts : 47668-2)と第 7 番(Arts : 47667-2)には非常に感心した。いずれも、よく歌う、それでいて決して感情にのみ流されない節度を持った、しなやかな音楽の流れが際立つ好演。交響曲第 5 番のサッカーニ/ブダペスト PO 盤(BPO Live : BPOL1006)も、思わぬ掘り出し物。両端楽章で時折大きくテンポを揺らす以外は基本的に端正な演奏で、オーケストラの地味ながらも渋味のある音色を生かした、丁寧で美しい音楽に仕上がっている。アムランのピアノ独奏、リットン/ BBC スコティッシュ SO によるピアノ協奏曲第 1 & 2 番(Hyperion : CDA67425)は、独奏に関してのみ爽快で切れ味の鋭い、水準の高い演奏だが、オーケストラには不満が残る。その点、渡辺玲子のヴァイオリン独奏、ドミトリエフ/サンクト・ペテルブルグ SO という顔合わせのヴァイオリン協奏曲第 1 番(Warner : WPCS-11694)はライブ録音にも関わらず、独奏・オーケストラ共に技術的な不満は皆無。抒情的で派手さのない音楽作りが特徴的だが、特に偶数楽章におけるしっかりと楽曲の構成と内容を踏まえた堅実な解釈は、華やかな技巧の披露で安直に盛り上げてしまう演奏が多い中で、傑出している。ただ、第 3 楽章であまりにも気持ちが入りすぎて、少々下品になってしまうのは惜しい。 歌劇「カテリーナ・イズマーイロヴァ」(「ムツェンスク郡のマクベス夫人」の改訂版)の映画(Dreamlife : DLVC-1104 ; DVD)が字幕に若干の修正を加えて DVD 化されたことと、アーロノヴィチ/ローマ・イタリア放送協会(RAI)O らによる 1976 年の初出ライブ録音(Opera d'Or : OPD13884)が登場したことは、政治的文脈でしか語られないこの作品の改訂が音楽的な意味を持っていたことを再認識する大きなきっかけであった。この他、オーマンディ/フィラデルフィア O による交響曲第 13 番(RCA : BVCC-38298)と第 14 番(RCA : BVCC-38299)の初 CD 化も、大きなニュースとして特記しておきたい。今回の CD 化でこれらの名演を知る人が増えるのは、大変喜ばしいことだ。
この作品 118-2 は珠玉の逸品。もう何度繰返し聴いたかわからないが、その度に深く胸を打たれ、他の音楽を聴くことができなくなる。何とも人間的で女々しい(すなわち男らしい)歌心は、ちょっと他に対抗できる人がいるとは思えない。何という情感、何という完成度、何という音楽。どの曲をとっても、最初の一音からブラームスの音楽が溢れ出てくるような感じ。一つ一つのフレーズが聴き手を縛り付け、それが解けない内に次のフレーズがさらに聴き手を縛り付ける。まさに魔法。バッハやモーツァルトでの気品の高さも素晴らしい。ネイガウス著の「ピアノ演奏芸術」(音楽之友社)からは、音楽の抽象的な内容を具体的なイメージを通して理解し、再び抽象的な音楽作品として音化する秘密の一端を窺い知ることができる。独特の文体に身を委ねると、些細な言葉の中にも驚くほどの含蓄がある。「どんな再現部も、さすらう旅人が帰ってくる故郷である」という趣旨の一文は、ソナタ形式の核心。なるほど、これでショスタコーヴィチの音楽も明確に理解できる。 ネイガウスの音盤は Denon からリリースされたロシア・ピアニズム名盤選で集めたが、リヒテルも絶賛していたショパンのピアノ協奏曲第 1 番(Denon : COCQ-83663)も素晴らしかった。一瞬、自分達の記録録音を聴いているような錯覚に襲われるオーケストラの下手糞さはともかくとして、ここでのネイガウスは剛毅な感傷性とでもいった歌心で魅了してくれる。音符の数がやたらと多いのに、その全てを歌いきっているのが凄い。しかも、端正な佇まいを崩さずに。 ロシア・ピアニズム名盤選の中では、「ヘンデルの主題による変奏曲とフーガ」他を収録したヴェデルニコフによるブラームスの作品集(Denon : COCQ-83657)も忘れ難い。とりわけ作品 117 と 118 に聴かれる多彩な世界の凄さは、まさに圧巻。各曲が絶妙のバランスで自立していて、身動きしただけで崩れてしまいそうな純度の高い繊細さを持っている。音符はその場に静止しているだけなのに、そこから歌が溢れ出してくるような感じ。しかも、曲集としてのまとまりまで感じられる。
「エグモント」序曲の冒頭から、とんでもない音楽が繰り広げられる。ただの F 音がこれほどまでに意味深く響くことは、それだけで奇跡と言ってしまっても構わないだろう。二度目の F 音の痛切さには、もはや形容する言葉も見つからない。などと、宇野功芳氏のように大上段な言葉を使いたくなるほどの名演。「田園」も、全ての音が新鮮で、それでいて確固たる構成感を持ち、決して表面的なものに終始することのないドラマが展開される。この抽象美はただごとではない。「運命」も同様。アンコールの「アリア」に至るまで、全ての音が磨き上げられ、有機的に構成されつくした美の極致には、生半可な感情移入を許さない峻厳さと、薄汚れた魂を浄化する優しさとが同居している。こういう音楽に、許氏の扇情的な解説のような聴き方はそぐわない。 同じ「田園」でも、 2003 年最大の話題盤ともいえるカルロス・クライバー/バイエルン州立 O(Orfeo : C 600 031 B)盤は、期待はずれもいいところ。クライバーらしく颯爽とした音楽ではあるが、細かいニュアンスの練り上げに不足しているのが致命的。戸惑いがちな最後の拍手も当然。
DVD にも、注目すべき新譜が多かった。ムラヴィーンスキイ生誕 100 年を記念してリリースされたこのドキュメンタリーは、インタビューとリハーサルが中心の、ファンにはたまらない作り。「音楽解釈に正しいとか間違っているとかいうことはない。どれだけ説得力があるかどうかだ」というムラヴィーンスキイの言葉は、まさに至言。密度の高いリハーサルを経た本番の演奏は、同時に発売された DVD ( Dreamlife : DLVC-1111 ; DVD)で鑑賞することができるが、言うまでもなく説得力に満ちている。 オーイストラフの貴重な映像も何点かリリースされた。「オイストラフ コンチェルト・コンプリート」(Dreamlife : DLVC-1112 ; DVD)に収録されているショスタコーヴィチのヴァイオリン協奏曲第 2 番の映像は、第 3 楽章のカデンツァ以降の部分だけが「ダヴィッド・オイストラフ 太陽への窓」(Warner : WPBS-90093 ; DVD)という映像作品の中で既出だったもの。演奏年代は不明だが、限りなく初演に近い時期の収録だと思われる。第 1 楽章の展開部付近でオーイストラフが走ってアンサンブルが結構大きく乱れる事故などもあるが、作品の凄さや迫力は非常に強く伝わってくる。オーイストラフにしろモスクワ PO にしろ、まさにこうでなくてはならないという音を奏でているのが、何とも素晴らしい。これがショスタコーヴィチの音だ。ただし、画質は前述の DVD に収録されたものに比べると大分悪い。オーイストラフ親子とコーガン親子の共演によるヴィヴァルディの 4 つのヴァイオリンのための協奏曲も面白い。彼らの奏でる濃厚なロシア情緒漂うバロック音楽には、抗うことのできない魅力がある。また、ブラームスのヴァイオリンとチェロのための協奏曲他を収録した DVD(EMI : DVB 4904509 ; DVD)も見逃すことができない。画質・音質ともに良好とは言い難いが、このブラームスの圧倒的な完成度には、単なるロシアン・テイストへの偏愛を超えて、ただただ魅了された。 他には、ムーソルグスキイの歌劇「ホヴァーンシチナ」の映画版(Dreamlife : DLVC-1105 ; DVD)も何度となく観た。ネチパイロが歌う「シャクロヴィートゥイのアリア」の素晴らしさといったら!
2003 年最後の買い物で入手した新譜だが、 2003 年一番の大当たり。主として大祖国戦争の前後にソ連で人気のあった大衆歌曲を集めたアルバム。時代の雰囲気溢れるオリジナル(?)の録音で聴いた曲も多いが、無意味にやたらと巧いフヴォロストーフスキイの歌唱で聴くのもたまらなく楽しい。聴いていて思わず恥ずかしくなるような青臭く感傷的な旋律が、場違いなほど格調の高い歌声と不思議によく合う。伴奏がまた、紅白歌合戦の谷村新司や北島三郎を思い起こさせる安っぽさの極みのようなゴージャスさ。どうしてもこういう世界から離れられないのは、趣味が悪い証拠かな? 同種のアルバムとしては、民族楽器オーケストラ時代の若きフェドセーエフによる「 Old Russian Waltzes 」(Melodiya : C 01737-8 ; LP)も非常に楽しんだ。踊りのためのワルツというよりは、颯爽としたフェドセーエフの個性が前面に押し出された演奏がなかなか素敵。フヴォロストーフスキイ盤とフェドセーエフ盤の両方に、僕の大好きな名曲「満州の丘に立ちて」が収録されているのも嬉しい。 ソ連の流行歌といえば、ミハルコフ監督の映画「太陽に灼かれて」やノルシュテイン監督の「話の話」などで印象的に使われているタンゴ「疲れた太陽」も、随分と聴いた。ふとしたきっかけで「ノルシュテイン作品集」(Pioneer LDC : PIBA-3040 ; DVD)を観て「話の話」を知り、「疲れた太陽」の関連で映画「太陽に灼かれて」へと辿り着いた次第。この映画は名作だ。美しい自然と穏やかな日常の描写。滑稽さすら感じさせる人々の中で、ミーチャとコトフ大佐の際立った異質さが不思議な不安感を駆り立てる。1936 年のソ連という時代そのものとも言えるこの 2 人と、革命前の時間に生きているかのような周囲の人々。無垢なナージャの存在がたまらなく哀しい。全編を貫くタンゴ「疲れた太陽」が、この時代を意味深く象徴している。この映画を一度でも見てしまうと、ここで描かれた時代と独立してこの曲を聴くことはできない。それは、恐らく当時を生きたソ連の人々の感覚とそう違ってはいないのだろう。革命後の価値観を体現しているコトフ大佐が、ミーチャの登場で革命前の上流階級の価値観を持つ家族の中から浮いていくシーンは、スターリン気球の完成とともに訪れる破局を予感させて息苦しささえ感じさせる。そしてそのミーチャこそがこの時代の悪魔性そのものであることの、何という恐ろしさ。どこにでもあるような三角関係のラブストーリーが、ラブストーリーとしての結末を迎えられないことの不条理。しかもここで描かれたドラマは、奇妙なまでに穏やかな一日の出来事なのだ。何の前触れもなく登場人物皆が不幸になる物語なんて、確かにこの時代以外には考えられないし、考えたくもない。ミーチャとコトフ大佐の破局の後、無邪気に野原を駆けて行くナージャの後姿に、革命の英雄コトフ陸軍大佐一家のその後がテロップで流れる。銃殺、収容所で死亡、名誉回復…。しかし何より救いのない気分になるのは、ナージャが今もまだ生きているということ。ロシアは、まだこの時代の傷を引きずっているのだ。恐らく、決して癒されることなく。この映画のサウンド・トラック(Auvidis : K 1011)は、ほとんどがアルテミエフ(タルコフスキイの「惑星ソラリス」などの音楽も担当している)による曲で構成されているが、ここに収録されている「疲れた太陽」は哀しみを湛えた切なさが胸にしみる実に素敵なもの。映画冒頭のあの印象的なシーンとだぶらせているだけなのかもしれないが。 クラシカルからはずれてもう一点。三谷幸喜のミュージカル「オケピ!」東京公演の千秋楽生中継(WOWWOW)の録画を見る機会があった。劇としてのまとまりよりは、断片的なエピソードの絡み合いの妙を楽しむといった感じで、出演者のキャラクターに依存している部分が大きい中、特に布施明は歌も演技も極めて重要な位置を占めていた。率直に言って、服部隆之の音楽自体はさして素晴らしいとは思わない。もちろん、三谷幸喜の詩が歌にし辛いという側面もあるのだろうが。だが、そうした音楽上の問題を一切感じさせないどころか、何度繰り返し見ても惹きつけられてしまうのが、布施明による「オーボエ奏者の特別な一日」。「世界中の父親が 100 回唱えるなら…」のくだりは、涙なしに聴くことができない。音盤(zetima : EPDE-1092)でもその素晴らしさの一端を味わうことができる。カップリングの「ア・カペラ」は、 2002 年末の NHK 紅白歌合戦で全出演者中一番の名唱として印象に残っていた曲。 以上、蛇足の多い 2003 年の“ 5 盤”だったが、蛇足ついでに新譜・旧譜を問わず 2003 年中に入手し、繰返し聴いた盤を列挙しておく。 かぶとやま交響楽団では、計 3 回の演奏会に出演した。勉強用に購入した音盤の中ではツィマーマンの弾き振りによるショパンのピアノ協奏曲第 1 & 2 番(DG : 289 459 684-2)が噂に違わぬ名演。第 1 番の最初のフレーズから、徹底的に手の入れられたフレージングと、協奏曲の伴奏にあるまじき密度の高いオーケストラの響きに驚愕。丹念なフレージングは明らかにピアノのそれだが、ここまで完成度が高いと全く違和感のない自然な音楽として聴こえる。独奏が入ってからも、独奏と伴奏が一体となって「ピアノ音楽」を奏でていて、ツィマーマンの考えている音楽がはっきりと伝わってくる。遅いテンポ、弱音の美しさを強調するようなデュナーミク等個性的な演奏ではあるが、嫌味な部分は全くなく、本当に素晴らしい。2 曲通して聴いても、退屈する部分が皆無。こんなに隅々まで手を抜くことなく作り上げられたショパンの協奏曲は今までなかっただろうし、今後も現れることはないと思われる。リームスキイ=コールサコフの交響組曲「シェヘラザード」も何枚か購入したが、中ではゲールギエフ/キーロフ O 盤(Philips : 470 840-2)に感心した。これもまた隅々まで目の行き届いた、隙のない秀演。シベリウスの交響曲第 7 番は、ムラヴィーンスキイ/レニングラード PO にとどめをさす。デュナーミクの変更やテンポの動かし方など、随所に個性的な解釈が聴かれるが、ここでも「音楽解釈に正しいとか間違っているとかいうことはない。どれだけ説得力があるかどうかだ」というムラヴィーンスキイの信念が貫かれている。かねてから知られていた 1965 年のライブ録音も優秀なリマスターを施されて再発された(Scribendum : SC031)が、演奏そのものは、録音状態には不満が残るものの来日公演ライブ(Altus : ALT054)の方が優れている。 Orfeo レーベルからリリースされているザルツブルグ音楽祭ライブでは、ニコラーエヴァの 1987 年盤(Orfeo : C 612 031 B)とハンガリー四重奏団の 1961 年盤(Orfeo : C 604 031 B)が印象に残った。鈍重な足取りで、時に泥臭いロマンティシズムが満ちるニコラーエヴァ、こういう音こそ弦楽四重奏の名に相応しいと思わせるハンガリー四重奏団、どちらも現在では失われてしまったタイプの音楽を奏でている。 “ 5 盤”に入れるかどうか、最後まで迷ったのが、パスキエ・トリオによるモーツァルトの「弦楽三重奏のためのディヴェルティメント」(Erato : WPCS-22082)。音色のブレンド具合、自然な音楽の息遣い、いずれをとっても非の打ち所がない。音楽的なバランスの良さは理想的。まさに、名曲の名演。
2003 年は年央以降、「余暇の危機」が幾度となくあった。それを象徴する変化が食事と音盤である。 前者では、飲み主体の外食ばかり。おかげで口はさらに肥えたものの、あれだけ心得てきた自炊をほとんど諦めた。よって多種に亘るレトルトカレーの味と改味法に精通する年ともなった。後者は、4 月以降は必要があって本ばかりに金をかけ、音盤をほとんど何も買わなかった。これでやっと音盤三昧とも手切れかと北叟笑んでいたら、某誌での原稿書きを皮切りに、いきなり 3 ヶ月足らずで例年量くらい買って了った。しかし、2003 年ほど買った音盤をさくさく聴き進めなかった年もない。ここ数年の娯楽書漬けのせいで爛れ始めた脳味噌を、ちゃんとした読書と勉強で再起動する必要を感じている... なお、私目も『レコ芸』誌 2 月号で 5 点の音盤を選んだが、「2003 年の蒐集報告」という主題拝領のため、風琴音盤だけにした。従って、最近続いてきた風琴音楽系は、『レコ芸』誌でご覧いただければ幸甚である。この場で挙げたものは、本来のこの場の 5 盤のノリである。 尤も、2003 年で気合いを入れて勉強し直したのはメシアンのオルガン作品だ。私なりの誤認もなくはなかったが、やはりメガトレンドの中で彼の位置づけをどう捉えるかによって、メシアンの戦前/戦後の評価は変わってもおかしくないと再認識した。この話も元々は、
今さらである。しかし、今さらだから驚いた。こんなに素晴らしい作品だったかと初めて実感し、ターリッヒとチェコ・フィルの至芸にしびれた。無論、それにはわけがある。 音盤はスプラフォンの 54 年モノラル録音で、何の変哲もない国内盤。これをミトプー教祖・山田さん宅のウルトラスピーカで聴かせていただいたのである。ターリッヒは、音楽の流れを実にうまく方向付けする程度だが、むしろ、彼の棒にチェコ・フィルが一丸となって、指揮者への敬愛と作品への慈愛溢れる演奏を自発的に繰り広げていることに感動したのだ。大概の再生装置では、そうした息遣いまでは聞こえてこない。再生装置は重要だと改めて認識した。 ここには音楽構造とか形式美とか技術とか、理詰めの味わいではなく、演奏者の「自発性」にこそ生きた音楽を聴く、素朴で素直な感動の復権がある。最近、如何に斯様な音楽体験が減少しているかを思い知った。それは自分のせいなのか、それとも....
ウィレム・ブロイカー率いるこのガクタイは、マーチングから即興までやるホルモン全開バンド。フリーかつ即興スタイルだが、彼らの基本は編曲スコアに基づいた演奏形態であり、即興風に思えるのは、あくまで演劇的な要素やマーチングなどが付加されるからである。つまり、同じ蘭国でもミシャ・メンゲルベルク率いる ICP のような即興集団とは、似ているようで中身は対極的といえるかもしれない。クルト・ヴァイルやガーシュインのアルバムなども面白かったが、一番印象深かったのは、ブロイカーがアムステルダムのダム広場にある数台のストリートオルガンを使い、即興とも作曲ともつかぬシリンダー作曲(?)の成果を披露した "Lunch Concert" (BVHaast) とこの " In Holland " である。ここでは後者を挙げる。81 年録音の復刻。 コミカルな進行の中にスピードのキレがあり、不格好にデフォルメしながらも、実は高度な音楽の韜晦を見事に決めてくれる。下品ながら滅法面白く、これまた生き生きした音楽の快感がある。特にヴァッセナールのコンチェルトグロッソの 5 番(無論、編曲)は、笑える以上に、演奏の持つ生命力の真摯さにひたすら感心してしまった。鬼才ブロイカーは、どこかのインタビューで「音楽はもっと下品でなくちゃいかん」と語っている。その真意はともあれ、現今の古典音楽演奏に欠けているものこそ、この下品ともいえる勁悍な生命力の発出のような気がする...
99 年 8 月以来、12 月に高瀬アキ&林栄一@新宿ピットインで、久しぶりにアキさんのギャロギャロとプリプリの生の音に邂逅し、スカッと気分が晴れた。しかも、何か裾野が広がったような凛としたものも感じた。このところ非常に意欲的でリキの入った広範な活動やリリースをしているだけに、音にそうした風格が自然と乗っかってくるのだろう。 これはその際に買ったもので、日本リリース盤。アキさんとしては《セントルイス・ブルース》に次ぐトリビュートものであるが、当盤では生誕 100 周年のファッツ・ウォラーを取り上げた。音楽って、原型を有しながらも、こんなに自在に個性的に振る舞えるのだねぇ... と思わず唸るほど感心し、また楽しんだ。 アキさんの面白さは、ウォラーの復権なり、古典ジャズのリバイバルなりという次元ではなく、自身の音楽の中からウォラーの音楽的生命を咀嚼して吐き出す「再創造」の行為なのであり、そもそもトリビュート・アルバムとは本来どういうものなのか、「あるべき論」まで考えさせられて了った。それでなくとも、アキさんを含むこのセクステットのメンバー各自の個性的な表現性と音の振る舞いが、笑いと無限の豊かさを見せてくれる。なお余談だが、アキさん作品のタイトリングの面白さにはいつも感心するのだが、当盤収録のサロン音楽風諧謔を有した〈ヴィーンのイカ〉について。その題の由来(?)について、アキさん@新宿ピットイン曰く、ヴィーンでイカを食べたからとのことである(爆)。 蛇足ながら、もうひとつ。旦那のアレックス・シュリッペンバッハがトリオで 70 年代に録音した《パキスタン・ポマード》を聴き、かつてのアレックス的世界の鮮鋭さも、これまた楽しかった。
2003 年は風琴音楽を除けば、泰西古典で一番聴いたのは英国音楽であった。中でもバックスとマルコム・アーノルド、ハウエルズの管弦楽作品などを堪能した。特にバックスはトムソン盤経由でかなり傾倒し、交響曲から管弦楽・協奏曲はひととおり制覇した。バックスの苦い抒情と深い金管の咆哮を聴いていると、英国人が北方の風情をこよなく愛する背景も自然と見えてくるような気がした。その中から挙げようかと思ったが、以前、山尾さんの『近代・現代英国音楽入門』で、聴きたいと思っていたハウエルズ《楽園賛歌》が素晴らしかったので、これを挙げたい。 山尾さんはウィルコックス盤を推奨しているが、ハンドリー盤しか見つからなかった。彼の指揮はパワフルかつ叙情溢れる音楽だが、ソリストの弱さ、毎度ながら表現の詰めの甘さが気になるのは残念。にしても、この精神性の強さと美しさは筆舌に尽くしがたいものがある。そもそもこの作品は、標題こそ《楽園賛歌》だが、実態は〈In Paradisum〉的レクイエムである。だからこそ、或る面、フォーレやデュルフレの《レクイエム》より彼岸的美しさがなお光るというわけだ。例えば、Preludio でのソプラノソロの辺りなど、決して質感が軽いわけでもなく、また後期浪漫の濃厚美もすり抜けた「安寧なる美しさ」が私には好ましい。もっといい演奏が出ないかな、と言っては失礼か。 それにしても、ハウエルズの管弦楽(特に《"B"の組曲》)の巧緻な出来ばえを聴くに、もし彼が息子の夭逝を機に宗教作へと転じず、初期の趨勢ままに作品を書き続けていたとしたら、どれだけの傑作が残っただろうか... などと思うと残念な気もする。だが、その場合には間違いなく《楽園賛歌》は存在しなかっただろう。これでは天秤に掛けられぬ。
古楽は既にパラダイムではなくなっている。よく言えば音楽文化政策、悪く言えば .... である。詳しくはここでは書かないが、古楽だけが我々が真に求めるべき泰西古典演奏の世界と別次元の世界に止住しているわけにはいかないことを、誰もが開き直って書き進めていく時代じゃないかと私なんかは感じているのだが... さて、年後半に立て続けにチェンバロものを聴いたが、フリーシュのゴルトベルク変奏曲や JSB 集、アルファのレオンハルト(一部)など良かった。中でも印象的だったのが、ランヌーなるクラブサニストによる JSB の《英風組曲》だ。ふた癖もあるような快(怪)演を期待したのだが、実に魅力的だった。仏国人ならではのイネガル式濃い口のルバートやアルペジオの多用には苦笑するのみだが、とにかく響きの膨らみといい、音楽の抑揚といい、滴るような美麗さと素っ気なさの同居が蠱惑的ですらある。シデイ&バルによるリュッカース=エムシュのコピー。彼女には《仏国風組曲》とラモーの全集の録音もあるが、聴いてみた中では《英風組曲》が一番出来ばえがすぐれている。
昨年は、批評サイト(ご覧の通り、個人サイトではありません)を立ち上げるなど、音楽にはそれなりに時間を割いたが、抜本的に新しい分野を開拓したわけではない。ここ数年で手を広げたジャンルや音楽家たちは依然充実しており、購入枚数自体は昨年よりも減っているにもかかわらず、今回も80組が並んだ。だが、ここに安住することなく、今後も未知の分野に手を広げていきたい。なお今回は、まず80組を20部に分けて概観した後、各1組ずつ計20組を選び、最終的に5組まで絞り込んだ。 ただし、この分量の原稿を期日までに入稿するのは難しく、とりあえず最終的な5盤とそれらへのコメントを掲載した。80組版は、こちらをご参照下さい。なお、80組版にはクラシックCDも数組、20組に絞った段階でも1組が残ったが、5盤までは残せなかった。他の同人の方々のようにクラシックの新旧リリースを裏の裏まで掘れば、5盤すべてをクラシックで埋めることも不可能ではないのかもしれないが、80組版で挙げたような宝の山(これでも、結構悩んで絞り込んだ末である)の存在を知りながら、限られた予算を集中投下することは今の私にはできない。
ディスクに限らず、ライヴや音楽書、あるいは音楽以外の全ジャンルまで範囲を広げても、このディスクが今年のベストなのは揺るぎない。理由は単純。私が音楽表現で最も偏愛している、シューベルトからヴェーベルンへと受け継がれた透明なロマンティシズムに満ちているからである。ウィーン音響的即興シーンを代表するダーフェルデッカー(Cb.)とホーティンガー(4分音Tp.)が、ロンドンからティルパリー(Pf.)、東京からSachiko M (sine waves)を招いてこの録音が実現した。ダーフェルデッカーとホーティンガーの音がラッヘンマンやシャリーノの作品、ティルパリーの音がフェルドマンやケージの作品を連想させるのは、ダーフェルデッカーはdurianレーベルのオーナーとしてヨーロッパ前衛音楽を数多くリリースし、ホーティンガーはZeitkratzerアンサンブルの一員として現代音楽演奏も広く行い、ティルパリーはAMM参加以前から米英の実験音楽のスペシャリストとして活躍してきたことから、容易に理解できる。 そんな彼らがSachiko Mとの共演を望み、彼女はその期待に見事に応えた。彼女は各楽器と溶け合い、あるいは干渉し合う周波数の正弦波発振音を選び、ある時はひとりひとりの音に瞬時に反応し、ある時はあえて無表情・無反応に徹することで、一度は空間に散らばった楽音を、はじめから丹念に作曲されていたかのように緊密に結びつける。ダーフェルデッカーとホーティンガーの無時間的なノイズは、それだけではポスト前衛のギミックと言われかねないし、ティルパリーのピアノも、それだけではアメリカ実験音楽の情緒過多な演奏のようだと言われかねないが、Sachiko Mが音空間に張りめぐらした糸で両者を縫い合わせると(実際、15kHzの発振音は、もはや音高としては認知されず、音空間を緊張させる触媒としてアンサンブルに作用する)、瞬間の密度はヴェーベルン、天国的な持続はシューベルトを思わせる音楽が浮かび上がった。
松平が正当に評価されるまでは、日本の西洋音楽受容の水準は近代にすら達したとは言えない、と私はしつこく言い続けてきたが、2001年10月の逝去から1年半を経て、その渇きを満たしてくれるディスクがようやく現れた。 1曲目は、雅楽の素材をフランス新古典主義の書法で処理した作品群と、ヨーロッパ前衛の諸語法を雅楽のフィルターを通じて咀嚼した作品群の間に位置する、平均律化された今様雅楽とブギのリズムや十二音技法のごった煮としか言いようのない怪作、《盤渉調越天楽によるピアノと管弦楽のための主題と変奏》(1951)。彼の創作史における孤立特異点と位置付けられるこの作品のインスピレーションは、ラヴェル《ボレロ》をBGMに使ったストリップの、聖俗の混交ぶりから得たのだという。カラヤンが来日公演で取り上げたことも手伝って、この作品が「代表作」とみなされてきたのは、ケージが《4分33秒》の印象だけで語られがちなように、松平にとっては不幸だったのではないか。日本初演者の高良芳枝に学んだ野平一郎は、この作品でも普段通りの明晰で端正なピアノを聴かせる。 だが、このディスクの聴きものは、その後に収録されている《右舞》(1957)、《左舞》(1958)、《典礼舞曲と終曲》(1959)という、同一音列を用いた3部作であり、舞楽の形式にならって「典礼舞曲(振鉾)/左舞/右舞/終曲(長慶子)」の順に収録されている。《右舞》と《左舞》は、松平が総音列技法を初めて全面的に使いこなした作品であり、《右舞》のストラヴィンスキー的な荒々しさと《左舞》のドビュッシー的な繊細さは、オリジナルの雅楽の性格を反映している。これら2曲を挟む《典礼舞曲と終曲》の飄々とした風情は、管理された偶然性の手法を初めて導入し、断片10数個の演奏順序を奏者の選択に委ねた結果である。高関健/大阪センチュリー響の演奏は、時に音が薄く感じられる瞬間もなくはないが、「本当はこういう曲なのだろう」と脳内補間せずに全曲を聴き通せるクオリティを保っている。ただし、本ディスクに収録された50年代の作品群は、松平の創作歴の中ではまだ小手調べに属し、彼の真価は《循環する楽章》(1971)以降の作品群で完全に発揮されることになる。そこに向けた第2弾、第3弾の録音に期待したい。
日本の即興音楽の情報を英語と日本語で発信するウェブサイト「Improvised Music from Japan」は、既にこの世界で確固たる地位を占めているが、2002年末から、CD付き年刊誌の刊行も始めた。ただし、本稿で取り上げるのは増刊号の方。ベテランも若手も同列に扱った本誌とは違い、この増刊号では主に70年代以降に生まれた若手を、エレクトロニクス奏者中心に取り上げている。本誌と値段は同じだが、こちらはCD2枚付きというサービスぶり。計17名の音源が1トラックずつ、2分から10分程度収録されている(さらにボーナストラックとして、インタビューを掲載した50年代生まれのベテラン2名の音源も含まれている)。 この1年はコンピレーションアルバムの当たり年で、80組版でも5組を挙げることになった。この2枚組に収録された音源も、名刺代わり以上のクオリティを持つものが多いが(江崎将史(Tp.)と木下和重(Vn.)の演奏が、私は特に気に入った)、純粋に音だけ取れば、この付録CD2枚組に勝るとも劣らないものは少なくない。雑誌記事も、日本は言うに及ばず、海外のメディアでもまだ取り上げられる機会の少ない音楽家や自主レーベルをまとめて紹介した、という資料的価値以上のものがあるかどうかは微妙なところ(私はHibari Musicを担当したのだが、もちろん自分を棚に上げるつもりはない)。 とは言っても、これらすべてがCD1枚分の価格で手に入るのは画期的である。戦後西欧前衛第1世代や自由即興音楽第1世代の息長い活動は、試行錯誤の時期から発表の機会に恵まれ、賛否両論の中で鍛えられてきたことに多くを依っている。「最近の若い者は....」と言う前に、まず発表の機会を作ろうとする心意気は、2003年のベストのひとつに値するものだと思う。
クセナキスの作品表では長らく《メタスタシス》(1953-54)がトップに来ていたが、彼は最晩年に、これ以前の作品も作品表に載せるようになった。なかでも《アナステナリア》は、その<メタスタシス>を第3部とし、<澄んだ水への行列>(1952-53)、<生贄>(1953)の2曲が加わった3部作であり興味深い。このディスクの評は既に批評サイトに載せているので繰り返しは避けたいが、音楽を時間軸と周波数軸の中のグラフによる建築物と捉える<メタスタシス>のモダンな発想は、<澄んだ水への行列>でオルフ風オスティナートを試み、<生贄>でメシアン風擬似セリー書法を試みた、試行錯誤の末の産物だったことがわかる。 ただし、この3部作でのボーンスタインの指揮は典型的な安全運転であり、演奏面で面白いのはむしろカップリング曲である(オケはいずれもバイエルン放響)。《冥界》(1980)初演のライヴ録音は、タバシュニクがオケをざっくりと豪快に鳴らし、サッカス(Bar.)のファルセットの叫び声も刺すように鋭く、この曲の従来の録音は何だったのだろうか、と思わせる。《トゥルールク》(1991)は、ハイポジションで緩やかな線を描くTb.と、1本の太い線と化して高速で蛇行するオケが「協奏」することなく呼び交わし続ける、今ひとつ掴み所のない作品だが、スヴォボダのきめ細やかな歌い回しとルンデルの迷いのない棒は、この時期のクセナキス作品解釈の方向性を指し示す最初の録音になるかもしれない。
The Sealed Knotは、Burkhard Beins (Perc.), Rhodri Davies (Hp.), Mark Wastell (Vc.)のトリオ。バインスはヨーロッパ各地に神出鬼没、デイヴィスとウォステルはロンドンに根を下ろして活動している。ロンドンのふたりの楽器選択には、同地の自由即興音楽第1世代とは被りたくない、という根強いコンプレックスが透けて見えるが、バインスの存在がそれを中和している。皮質打楽器の摩擦音と金属打楽器の弓弾きを中心とするバインスのプレイはPaul Lyttonを連想させるが、そこに乗ってくる音響の種類が全く違うので、決して自由即興音楽第1世代のコピーにはなっていない。ハープらしい/チェロらしい音が現れる瞬間はごく僅かで、どの楽器がどの音を出しているのか、音だけではわからない時間の方がはるかに多い。 自由即興音楽第1世代の先人たちは、身体の奥底に染み付いたイディオムを振り払うために、微細な運動を休みなく続けるスタイルを選び、イディオムに代わるアイデンティティとして、一音聴けば誰が演奏しているのかわかってしまうような個性的な音色を獲得しようとした。これに対して、音響的即興を支える世代の音楽家たちはそもそも強固なイディオムを持たず、その代償としての「個性」も必要としない。匿名性の中に埋没することを恐れないスタンスは、「日本的」な感性には身近なもので、東京はこの種の即興音楽の中心地のひとつになっている。80組版には彼らと同世代の音楽家たちの音響的即興のディスクが多数ランクインしたが、その魅力をコンパクトに集約したこの1枚は、5盤の締めくくりにふさわしい。 Back to okuzashiki top Back to index.htm |