(2003.01) 草野 厚 『癒しの楽器パイプオルガンと政治』



草野 厚『癒しの楽器パイプオルガンと政治』


草野 厚 『癒しの楽器パイプオルガンと政治』
( 文春新書 298 ; 192 頁 新書判)
( 平成 15 年 1 月 20 日 第 1 刷)
    第一章 なぜパイプオルガンなのか
    第二章 どこにオルガンはあるのか
    第三章 パイプオルガンという楽器
    第四章 こうしてオルガンは導入された
    第五章 市民はオルガンに触れるか
    第六章 オルガンは誰のものか
    第七章 誰がオルガンを選ぶのか
    第八章 なぜガルニエが選ばれるのか
    終 章 オルガンから政治が見えたか
    あとがき


今回は、音盤ではなく書籍である。本稿は、某 ML に投稿した書評記事に加筆したものである。内容的にさらに細かく検証したい箇所が山ほどあるにせよ、私にはサバティカルはない(苦笑)ので、その時間はない。但し、その後の議論が追補できるよう、下欄で補遺を設けた。

■ 本書の評価

ほぼ日本の公共ホール、国公立施設におけるオルガンに的を絞って、楽器と自治体の実態・運営問題を活写した点では、おそらく初めての書籍であり、一般人の問題意識の掘り起こしとしては高く評価できる。
また、某 ML でも屡々俎上にあがってきたガルニエ問題(芸劇、芸大新奏楽堂など)に鋭く論鋒を向けたあたり (註1) は、確固として日本の行政を視野に含めた問題提起の側面からも、評価できるだろう。
但し、オルガンと政治の相関を「日本固有の問題」と「オルガン固有の問題」とに分別して前提検証していないため、そもそもオルガンと政治の癒着そのものが、あたかも日本に限ったの話のように読めるが、それは正しいとは言えない。著者が第三章で書かなくてはならなかった歴史の内容は、その検証であるべきだった。

本書の価値は、ほぼ第六章後半から第八章までだけだ、と私には思われる。そして、この内容を行政とシステムに照らし合わせ、さらに突っ込んで分析する方が、本来語られるべき筈の問題意識が、ずっときれいに浮かび上がるだろう。
問題の核心は、設置委員会・評価委員会の委員選定と構成メンバ、またその討議過程について、問題点を徹底して抽出してから整理分析することにある筈だ。私なら、日本オルガニスト協会に於ける芸大出身者偏頗分析と批判よりも遙かに意味があると思う。 (註2)

本書では、意義深い問題の発掘が多々なされる反面、多くの分析・批判が一部的な範囲と深度にとどまり、かつ不十分な消化のまま放置されており、結論はまだるいままに終わっている。特に、これら実情に関心の薄い読者には、行政に対する批判なのか、個人や学閥に対する批判なのか、誰が/何が悪いのかを明快に把握できないかもしれない。この程度であれば、淡々と事実列挙にとどめるべきだったろうし、実際、著者のフィールドワーク分析よりも、第八章のような情報公開資料の事実列挙の方が説得力があるのは、皮肉な結果ではなかろうか。

こうした瑕疵の多さにも拘わらず、この問題提起本が江湖に問われたことの波紋は、決して小さくない筈である。私としては、問題行為者には責任を取っていただきたいものの、今さら特定組織や個人を断罪するより、斯界を知悉したクライテリアを早急に育成することを、行政側に切に望みたいところである。だが、本格的に問われなければならないのは「コンサートホール全体の活動と運営」なのであり、本書の領域は一部的なものでしかないのである。


■ 記載の問題

幾つかの自治体の楽器と楽器公開環境、市民へのオルガン公開の取り組み実例、また多くのオルガンが現状は専門家の手にしか触れられない問題をまとめた第四章〜第六章については、以前の朝日新聞記事でも既に問題提起されていたように (註3) 、「公共ホールの楽器を市民に開放することが最善」程度の単純な結論を言いたいだけなら、これでは長すぎる。それに、第四章でとりあげた自治体と楽器は一体どういう基準から選ばれたのか、どうも釈然としない。そもそも、素人対象のオルガンスクール以外に重要な楽器公開であるコンサート活動に関し、中新田の半端な紹介程度以外、積極的な活動・貢献に対する内容評価・分析がまるでなされていないことは、本書の最大の弱点である。

また、自治体またその首長、行政の意思決定システムや運用体制、既得権益構造、学閥など問題点が列挙・揶揄されただけで、批判対象が曖昧なままである。本書の場合では、批判の矛先を行政とシステムだけに絞り込んだ方が、問題の稜線がはっきり辿れてよかったのではないかと思われる。それは、第四・五章のようなケーススタディが中途半端だからであり (註4) 、設置自治体によって問題の所在が異なるのなら、ケーススタディを多数積み上げてから、一般論へと昇華させるべきだろう。何より、オルガン設置・運営側を批判するには、当事者側の見解は対置されてしかるべきにも拘わらず、ほとんどまとめられていないことには驚いた。それを経た上で、類型別に問題点を整理してから批判すべきを批判していかないことには、独善的な批判と非難されても仕方がないのではないか。

さらに、現状改善のための方策など、建設的見解に希薄であることが気になる。
私見では、このことは単なる政治や既得権益からの問題分析で終らせず、日本の教育・文化まで敷衍すべき話と考える。著者の論旨である「公共施設のオルガンはもっと開放されるべきだ」はよいとして「そのためには、一般に敷居を低くして、例えば映画音楽のアレンジでも増やした方がいい」程度の結論に逢着するのは、実に怠惰な意見ではないか。そもそも、オルガン音楽本来の面白さをどう浸透させていけば良いのか?という本質的な意義は何も語られていないのだ。


■ 著者への疑問

言いたいことは多々あるが、2 点にとどめよう。
ひとつには、本書は著者を含むアマチャー演奏家と楽器という視点でしか捉えられておらず、なぜリスナーの立場を切り捨てて書かれたのか、という疑問である。
著者のオルガン「音楽」に対する知見は、せいぜいオルガン音楽をバロックや宗教音楽程度と見なす程度(敢えてここで例示はしないが、ほぼ全章でその手の記述が散見される)である。従って、著者の楽器への趣向らしきものも、明解に隠見するわけである。だが、これでは、オルガン音楽=バッハ程度の認識でしかない山之口洋『オルガニスト』(新潮文庫)などと同レベルである。結局、ロマン派以降の卓れたオルガン作品に対する多少の理解も共感も知見もない人がこうした本を書くのを、私は全く感心しない。こういう方にこそ、無心に「百選」を聴いてほしいものだ。 (註5)

もうひとつは、表記の問題。例えば、ビルダーを個人名で書いたり、社名で書いたり不統一なのはよろしくなかろう。中でも一番気になったのは「クラシック音楽の愛好者は、日本の全人口の一%にしか過ぎない」という記述である。一体、どこにそんな統計や根拠があるというのだ? むしろ是非、出所をお教えいただきたいものである。一般論にとどめるならわかるが、これを「人口四万人なら四百人」など具体的に記述してしまうのは、窮めて乱暴な議論だ。それと、巻末に文献一覧くらいは用意いただけると嬉しいところだ。

Last but not least。そもそも、タイトルの「癒しの楽器」には苦笑するよりほかない。この方々の耳にヘッドホンをあてがって、フルボリュームでエスケシュの即興やクセナキスの「GMEEOORH」を聴かせて差し上げたいものである。さぞ癒されるに違いない。




■ 註 ■

(註1) ガルニエに対する一連の事実記載については全く異論はないが、リサーチの深度はやはり浅い。松蔭女子学院の楽器製作に、当時日本では全く無名だったガルニエがなぜ選ばれたのか、その背景と経緯、また松蔭の楽器に対する多角的な評価をすべきだったろうと私は強く感じる。発注者(松蔭)側での明解なオルガン建造理念実現のためのビルダーとしてガルニエが指名されたことを鑑みれば、彼の負だけではなく正の側面にも言及し、ガルニエ自身の「落差」がいつ・なぜ・どのように産まれたのかを分析しなければ、この問題を本質的に見据えたことにはならないのである。東京都はガルニエに対し、返金等により毅然として糺す必要はあるが、単に彼をスケープゴートとしてしまわないようにすべきだ。そうでなければ、日本側で胸をなで下ろす人間を作るだけのことになりかねない。
しかも彼は、元からダメなビルダーだったわけではない。ガルニエに「付け入らせた」のも「彼をスポイルした」のも、実態は(松蔭以後の)日本の設置者側の前例盲従主義にこそ原因があったことを明確に書かなければならないのだ。このように、松蔭の楽器に対して個人の趣向の違いで片づける(p.137)べきではないし、また、松蔭以後のガルニエの犯罪的頽廃ぶりが「日本人の責任」として描かれなければ、鈴木雅明に対する批判も的を得ないだけである。


(註2) そもそも、芸大閥の功罪を論ずるならば、何が罪で何が功なのかを分別明示すべきであるが、本書はどうもその点歯切れが悪い。いくら学閥の結束が固いとはいえ、無関係者も含まれるような集団で、皆が独占行為をしている具合にまとめられても、私にはピンと来ないのである。追求すべき問題とは、あくまで「顔の見える」話ではなかろうか。設置委員会、評価委員会等のメンバー選定の過程、さらに最終的に委員個々人における責任の所在がどうなっているのかを辿る方が、問題の根はわかりやすい。但し、それをやると個人批判に及ぶのは必定であるから、それはそれで大変な勇気の要る話である。


(註3) 『歌を忘れた豪華楽器 各地のホールで泣く』(1999年 3 月 18 日付「朝日新聞」朝刊)。詳細に一部謬見が見られるものの、これが公共音楽ホールに設置するオルガンの利活用実態について、恐らく日本で初めて問題提起した public な記述かと思われる。なお、第四章〜第六章部分は、この先達記事を読んで書かれたかどうかは不明である。


(註4) 特に著者は本書でフィールドワークを標榜(否、強調)しておられるが、そもそも取材第一主義など当たり前のことではないか。だが、本書のケーススタディを通読する限り、その取材内容自体、また取捨選択自体が恣意的といえるほどの精粗混淆ぶりなのは如何なものだろう。全対象を同じ深度で「公平に」調査したとは思えないのである。


(註5) オルガンの場合、音楽史に関する知識と楽器知識がともに必要なのは、楽器によって演奏できる作品が限定されたり、演奏に支障をきたす場合があるためである。そういう内容は本書では書かれていない。例えば、アクション方式の違い、エクスプレッションペダルやコンビネーションボタン等の有無をはじめ、楽器が採るスタイルによって構成ストップの内容も大きく異なってくる。単にストップの数だけで解決できる単純な話ではない。スタイルの違いまで視野に入れないと、その楽器のレパートリー的限界がわかりにくいのである。本書はリスナーを対置させて「演奏されるべき楽器」としての役割を見落としているからこそ、「もっと素人が触れられるべき」程度しか議論が届かないのではないか。
余談だが、例えば、公共のコンサートホールにオルガンを置く以上、盛岡のように北ドイツ様式の楽器を導入する方がよほど特殊な話である(類似しているとはいえ、アーレントの楽器を有するカザルスホールは私設ホールである以上、前例にならない)。本来の意義からすれば、古典もロマン派も、ドイツもフランスも、問題なく弾けるヴァーサタイルな楽器の方がまだ「望ましい」税金の使い方ではないかと私なら思う。こうした判断の是非も含め、本書で克明に触れられると良かったと思うのだが...




■ 補遺 ■

以下、上記後にわかったこと、議論系、風聞系後日譚などを補遺補足します。

1. 文中誤謬の発見について (2002.01.26 識)
  • 9 頁:上部の写真は「白根桃源文化会館」のオルガンではない(盛岡のガルニエ・オルガンの模様:伝聞系)。
  • 131 頁:井上圭子氏はすみだトリフォニーホールのオルガン選定委員ではない。
  • 132頁:馬淵久夫氏は相愛大学教授ではなく、くらしき作陽大学教授の誤り。

2. 補足しようと思い忘れていました。朝日新聞記事に関する「脚注 (3) 」を追加しました。 (2002.02.10 識)

3. 脚注 5 の修正。 (2002.02.14 識)

4. 羮に懲りて鱠を吹く(自爆)で、少し本文の無用な表記を削除。 (2002.05.04 識)

5. 本書が社会的に大きな波紋を呼び起こしたお陰か、急転直下、いよいよ国会にまで「ガルニエ問題」が拡がりをみせた。さる 4 月 16 日の衆議院・決算行政監視委員会において、当件に関わる民主党の木下厚議員による質疑があった。東京都芸術劇場のオルガンの不具合を知りながら、なぜガルニエに奏楽堂のオルガンを発注したかという内容である。詳しくは、当該委員会の会議録をご覧いただきたい。 (2002.05.10 識)
第 156 回国会 決算行政監視委員会 第 3 号 における民主党・木下厚議員の質疑応答を参照。

6. 「ガルニエ芸劇オルガン問題」について、外部調査報告が出たとの新聞記事(産経新聞 040910)。これについては、余計な話題も含めて、拙ウェブログで簡単に触れている。






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