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Vierne : Symphony No. 1, Pièces de fantaisie op.54
( PHILIPS : 422 058-2 )
- Symphony No. 1 op. 14
Pièces de fantaisie op.54
- No. 1 Dédicace
- No. 2 Impromptu
- No. 3 Etoile du soir
- No. 6 Carillon de Westminster
Daniel Chorzempa ( org : St-Sernin, Toulouse )
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1. 結論的導入部
【Q】 ヴィエルヌのオルガン交響曲第 1 番 op.14 について、おすすめの CD がありましたらお願いします。
【A】 実は、百選編集委員会でこのテーマを検討するうちに、話しはヴィエルヌの 1 番だけでなく、ヴィエルヌやヴィドール等も含めたオルガン交響曲全般の問題に及び、委員会でも久しぶりに盛り上がりのある議論となりました。
それはさておき、ご質問の件:ルイ・ヴィエルヌ(1870-1937)のオルガン交響曲 第 1 番 ニ短調 op.14 (1899) のおすすめの CD との件ですが、まず以下のような演奏が対象となりました。ごく最近の録音を除き、これ以外のもので演奏として良さそうなものは、まずありません:
- Pierre LABRIC (MHS, St-Sernin, Toulouse, 1969?) *LP*
- Pierre COCHEREAU (Solstice, Notre-Dame, Paris, 1975 ) CD化
- Ben van OOSTEN (MD+G,St-François-de Sales, Lyon, 1985 ) CD
- Daniel CHORZEMPA (Philips, St-Sernin, Toulouse, 1987 ) CD
- Murray STEWART (KontraPunkt, Parr Hall, Warrington, 1990?) CD
- Michael MURRAY (Telarc, St-Ouen, Rouen, 1992?) CD
まず 1) は CD ではなく LP であり、とうの昔に廃盤のためとりあえず除外します。残りの CD の中で、演奏が優れていると言えるのは 4) のコルゼンパのみです。これは入手も容易だと思います。以下、個々の盤について簡単に述べます:
2) コシュローはかなり冴えない演奏です。以前紹介した '55 年の演奏(第 2 番)よりかなり落ちます。
3) オーステン、5) スチュアート、ともにコシュローよりは聴けるが凡庸。
6) マイケル・マレー:この人の録音は店頭ででよく見かけます。演奏は確かに楽譜通りに弾いており(笑)、ひどくつまらない。
4) コルゼンパは、アーティキュレーション〜フレージングが完璧で、隙の無い構成感のある演奏です。良くも悪くも優等生的と言ってよいでしょう。ただし、なぜかまた聴きたいという気が起こらないのです。たぶん、ツボにはまっていて、それ以上のもの... 即興性が感じられないのだと思います。それともう一つ、彼の演奏からは音色感というものを殆ど感じないのも確かです。つまり、「オルガン(を生かした)演奏」ではありません。
そういう訳で、これら CD の中では最も説得力のあるコルゼンパ盤を一応推しますが、優等生的演奏なので積極的推薦ではありません。
以上、編集委員のだいたい一致した意見です。1) のラブリック盤は CD 化されていません。本当はこれが抜群に良い演奏なのですが、入手、あるいは再生困難な LP です。ここではこれ以上触れませんが、これは全く無視できない録音なので、後ほど詳しく投稿します。
ラブリックは取り敢えず置いておくとして、我々百選編集委員の本音としては、交響曲全楽章を通して繰り返して聴きたいと思うような演奏見つかりません。なぜなのか、探ってみようということに...
結論は、交響曲という形式に囚われた冗長度が問題なのではないか、ということになりました。その意味では、ヴィドールの交響曲も、より大きな問題を抱えているでしょう。それで思い出したのは、ギルマンが実質的には同じ様な作品を書いていながら、交響曲でなくてソナタという呼称を使っていることです。
ヴィエルヌの良さを味わうには、むしろ、多様な表現の中に彼の個性が生きている「幻想小曲集」を聴いてみられてはいかがでしょうか。
※以上、2002 年 12 月、Pipe-Organ ML 上にて大林師匠が回答した。なお本 web 用に一部編集を佐々木が行った。

2. 過程的結論部
■ 出席者 : 百選編集委員(大林、佐々木)、客員(廣川)
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大林
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ヴィエルヌのオルガン交響曲第 1 番 op.14 について、おすすめの CD の質問をいただきました。ヴィエルヌは、なぜかあまり聴かないんですね。コシュロー、オーステン、コルゼンパ、マレー・スチュアート、ラブリック(LP) といったところは持っているけど。私が聴かないのは、ヴィドール程でないにせよ、冗長度が高いと思うんですよ。どの楽章も効率が悪い。勿論、演奏が悪いとも言えるんですが。ラブリックを除いて、駆け足で比較試聴しましたが、意外な結果になりました。
勿体ぶっていますが、別途発表します。皆さんは実際に聴かれていますか? あるいはどのように予想されますか? しかし、作品そのものに優劣はないんじゃないかと改めて感じますけどね。
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廣川
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第 1 番に関してはマイケル・マレーとコルゼンパのみですが、コシュローとオーステンは他録音から推測してみます。ただ、第 1 番の曲そのものが退屈なので(特に Fugue の後から Final の前まで)、最近殆ど聴いていません。マイケル・マレーに関しては単調で退屈な演奏ですが、St-Ouen の音が非常に美しく捉えられている点では好印象です。速度はコルゼンパより若干遅い程度です。

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Vierne : Symphony No. 1 & 3
( TELARC : CD-80329 )
- Symphony No. 3 op. 28
- Symphony No. 1 op. 14
Michael Murray ( org : St-Ouen, Rouen )
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一方、コルゼンパですが、マレーよりも結構柔軟な音楽ではないかと思います。ただ、彼の演奏を聴いていつも思うのですが、速度(ヴィエルヌの時は遅め)や全体的なまとまりはなかなかいいのですが、使用する音が単調だと思いませんか? 不思議と聴き飽きてしまう演奏なんですよね... 同じ場所で彼が若い頃に録音されたヴィドールの第 5 番の第 1 楽章前半は即物的で大変気に入っております。マレーは単調、コルゼンパは余裕といった印象です。
コシュローはノートルダムのオルガンが強烈によく響いていますが、音楽になっていないと感じますいかがでしょうか? オーステンも、多分、楽器の響きのみで音楽的には期待できないんですが... で、予想結果は、スチュアートかコルゼンパですか?

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Louis Vierne : L'oeuvre d'orgue 1
( SOLSTICE : SOCD 811 )
- Symphony No. 1 op. 14 ( 6 movements )
- Symphony No. 2 op. 20 ( 5 movements )
Pierre Cochereau ( org : Notre-Dame, Paris )
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ところで、私が持っている録音の中でこれ!というものがないんですが、他に何かありますでしょうか?
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佐々木
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それにしても、全集、第 1 番ともども意外と録音が少ないですね。 (註1)
オルガン音楽が好きな人でも、これらを聴き通す人はほとんどいないでしょう。だから、この曲の場合は、多くは終曲しかとりあげられないんですね... 私自身、ヴィドールはそこそこ聴きましたけれど、ヴィエルヌの方は、風琴音楽史で最後に行き着いて勉強しようと思っています。それだけ、これらを聴くのは大儀だし、オルガン音楽の醍醐味を遡及し直すとしても、表現の多様性の点からも敷居が高すぎるからです。
ヴィエルヌのサンフォニーをさして買う気になれない理由も、大林さんのおっしゃる「冗長度の高さ」です。とりわけ、どんな演奏で聴いても 1 曲通して聴くと、これらは音楽としてのメリハリがとてもわかりにくい...
で、予想ですが、スチュアートは残念ながら聴いていませんので、意外な結果というところから予想すると、コルゼンパですか? 彼は音楽的にはわかりやすくして呉れるように思いますが。
廣川 一方、コルゼンパですが、マレーよりも結構柔軟な音楽ではないかと思います。(中略)使用する音が単調だと思いませんか?
バッハの録音でもそうですが、きっちりフォームがあるんですよ、コルゼンパは。だから、非常に丁寧でわかりやすい音楽になっています。反面、たしかに音響的には紋切り型です。しかし、それ以前に即興性とか和声感覚とか、大切な何かが鈍重なのだろうという気がします。実のところ、まだ彼のヴィエルヌの方は、私は聴いていないのですよ。ヴィドールでの印象を捉えると、ヴィエルヌも丁寧に整理してまとめられているのではないかな... と思います。その意味で、音楽形式とのマッチングから理知的なコルゼンパかなと。
廣川 同じ場所で彼が若い頃に録音されたヴィドールの第 5 番の第 1 楽章前半は即物的で大変気に入っておりますが。
私の聴いているものと同じですね。ただどちらかといえば、或る意味で技巧に走ら(れ)ない分、理知的に整然とうまくまとめたという印象を受けます。「即物的」ということでは、フィルセルなんか、ヴィエルヌの第 3 番ですが、その意味でうまいですね。指や足がよく回って、さらさら行ってしまいます。ウェイン・マーシャルはヴィドールで、もう少し表現の肉は付くけれど、その手のうまさですね。
廣川 コシュローはノートルダムのオルガンが強烈によく響いていますが、音楽になっていないと感じますいかがでしょうか?
そうですね。ヴィエルヌのサンフォニーはコシュローには全く向いていないですよ。あざとすぎるというか。コシュローは形式美を離反する方が、音楽になります。でも、若き頃の録音(第 2 番)はどうなんでしょう。

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Pierre Cochereau : Les incunables
( SOLSTICE : SOCD-177/8 ; 2CDs )
- Cochereau : Improvised Symphony in four movements
- Vierne : Symphony No. 2 op. 20
- Dupré : Symphonie-Passion op. 23
- Liszt : Fantaisie et Fugue sur " Ad nos "
Pierre Cochereau
( org : Symphony Hall, Boston : 1 / Notre-Dame, Paris : others )
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廣川 私が持っている録音の中でこれ!というものがないんですが、他に何かありますでしょうか?
多分、これ!といった録音は、まだ全部聴いていませんが(笑)ラブリックによる全集のうち、出来映えの良い部分を除けば、ヴィエルヌの交響曲に関してはまだ出ていないと思いますね。オリヴィエ・ラトリが続編をやると思っていたんですが、どうも全集の腰は上がらないようです。
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大林
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廣川 マイケル・マレーに関しては相変わらず単調で退屈な演奏です。
やはりそうですか。作曲家に関する執筆などもかなりある人なんですが、アメリカの識者の間ではトーマス・マレーよりは遙かに評価は低いようです。テラークの CD はよく見かけるので、日本ではマイケルの方しか知られていないでしょうね。
廣川 が、St-Ouen の音が非常に美しく捕らえられている点では好印象です。
流石はテラークでしょうか?!
廣川 一方、コルゼンパですがこれに対して結構柔軟な音楽ではないかと思います。
実は、私が大変感心したのはコルゼンパでした。純粋にタイミング(音符をどこで鳴らしてどこで切るか)あるいは、フレージングと言ってよいかもしれませんが、そういった面からだけ攻めていって、完璧にきっちりと構成された演奏になっています。オルガン演奏ではめったにないことですが、これは彼がオルガニストである以前に、ピアニストとしても一応まともな演奏家であることを示しているように思います。いずれにせよ、どの楽章もほとんど冗長なところなく聴けました。
廣川 不思議と聴き飽きてしまう演奏なんですよね
以前から言っていると思いますが、私の場合、純粋に音楽的な部分だけを聴いて満足してしまう傾向があります。そういう場合は、オルガンとしての演奏法、つまりストップの操作などによる音色感などには目をつむってしまうんですね。
多分、彼の演奏は、オルガンの特色が生かされていないので極端に言えば、全編灰色の世界といったようなものなのかもしれませんね... 結局、音楽を音色から切り離してオルガンを弾く・聴く意味はないということなんでしょう。私のように、音楽と音色を(良く言えば器用に、悪く言えば勝手に)切り替えてオルガンを聴く人はあまりいないでしょうから。
廣川 マレーは単調、コルゼンパは余裕と言った印象です。
たしかに、後者の演奏は余裕があり、安定しています。そのこと自身はオルガン演奏(家)としては、優れた資質だと思うんですよ。安定感と言いますかね。
廣川 コシュローはノートルダムのオルガンが強烈によく響いていますが、音楽になっていない
その推測は妥当だと思いますよ。ヴィエルヌの教会(及び楽器)で弾いているのだから、音響的には最も authentic な筈です。けれども、インタープリテイタとしてはコシュローは、往々にして杜撰ですね。前に述べたように '55年に録音された 2 番には、素晴らしいところがあります。多分、その後、彼は忙しくなりすぎたんでしょうね。即興しかしなくなったのも、単にそういうことだったのかもしれないですね。
廣川 オーステンも多分楽器の響きのみで音楽的には期待できないんですが...
ヴィエルヌには、必要な時にはシャープな音も要求されるように思うんですが、フランソワ・ド・サルのカヴァイエ=コルはおしなべて柔らかいですからね。ですから、オーステン盤は、響きがよく捉えられてはいますが、演奏が単調なこともあって、退屈ですね。

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Louis Vierne : Complete Organ Symphonies
( MD+G : 316 0732-2 ; 4CDs )
- Symphony No. 1 op. 14 ( 6 movements )
- Symphony No. 2 op. 20 ( 5 movements )
- Symphony No. 3 op. 28 ( 5 movements )
- Symphony No. 4 op. 32 ( 5 movements )
- Symphony No. 5 op. 47 ( 5 movements )
- Symphony No. 6 op. 59 ( 5 movements )
Ben van Oosten ( org )
___( No. 1 & 4 ) St- François des Sales, Lyon
___( No. 2 & 6 ) St-Ouen, Rouen
___( No. 3 & 5 ) St-Sernin, Toulouse
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廣川 で、予想結果は、スチュアートかコルゼンパですか?
というわけで、コルゼンパです。
スチュアートが弾いている楽器は、英国の Warrington のホールにある、ほぼオリジナルのカヴァイエ=コルで、なかなかよい響きです。デンマークの Kontrapunkt レーベルです。比較した CD の中ではまあ、ましな方かもしれませんが、全体が軟弱ですからねえ...

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Vierne : Organ Symphony No. 1 op. 14
( Kontrapunkt : KON 32067 )
- Vierne : Berceuse
- Vierne : Carillon
- Vierne : Symphony No. 1 op. 14
Murray Stewart
( org : Parr Hall, Warrington, England )
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廣川 私が持っている録音の中でこれ!というものがないんですが、他に何かありますでしょうか?
非常に欠点の多い録音かつ演奏ですが(従って誰にも薦められるものではありませんが)、全集ではラブリックしかないでしょうね。第 1 番だけでも答は同じですね。
「ロマン派の演奏が上手いオルガニストは誰か」と以前シャピュイに質問した際に教えてくれた( 2 人のうちの 1 人)のが、このラブリックです。全然練習も何もしないで、ぶっつけ本番で初見弾きで録音したようなものですから、ダメな楽章も多いですが、上手く行った場合には、インスピレーションに満ちた素晴らしく即興性のある演奏になっており、他の奏者の録音とは比較になりません。これを編集して 1 枚の CD にすれば、とんでもないものができると思うんですが... 緩徐楽章は弱いかもしれません。

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Louis Vierne : The Complete Symphonies for Organ
( The Musical Heritage Society : OR 425/430 ; 6LPs )
- Symphony No. 1 op. 14 ( 6 movements )
- Symphony No. 2 op. 20 ( 5 movements )
- Symphony No. 3 op. 28 ( 5 movements )
- Symphony No. 4 op. 32 ( 5 movements )
- Symphony No. 5 op. 47 ( 5 movements )
- Symphony No. 6 op. 59 ( 5 movements )
Pierre Labric
( org : St-Sernin, Toulouse )
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佐々木 オルガン音楽が好きな人でも、これらを聴き通す人はほとんどいないでしょう。だから、この曲の場合は、終曲しかとりあげられないんですね...
もともと、通して演奏されるなんてことは想定されていないんですよ。ヴィエルヌ自身だって、コンサートでは 1 曲( 1 つの楽章)か 2 曲、プログラムに挟む程度ですね。自分が弾きたい楽章だけ弾いていただけばよいと思います。全曲録音するなら、初見で全部弾けるくらいのキャパシティのある奏者でなければ...
佐々木 どんな演奏で聴いても 1 曲通して聴くと、これらは音楽としてのメリハリがとてもわかりにくい...
にも拘わらず最後に行き着いて勉強すべきものであると...?
演奏中心で、コルゼンパやラブリックの(一部の)録音を聴けばそうも思えないのですが、作品そのものの評価をすれば、やはり冗長度が高いことは否めない(ヴィドールも同様)のだと思います。多様な表現を行っている割には、表現そのものが効果的でないと思うんですね。フレーズが長くて、繰り返しも多い割には、何をやっているのか訳の判らぬ音楽だという気がしませんか? 何か、一人でぶつぶつ言っているような(笑)。
佐々木 オルガン音楽の醍醐味を遡及し直すとしても、表現の多様性の点からも敷居が高すぎる
よく言えばそうですが、人類の過去の技術遺産の蓄積は増える一方ですから、直截的な表現を取らない作品は、淘汰されるのか、あるいは、我々受容する側が分化分業していくのでしょうか...
佐々木 意外な結果というところから予想すると、コルゼンパですか? 彼は音楽的にはわかりやすくして呉れるように思いますが。
まさに、ご推察のとおりです。
佐々木 バッハの録音でもそうですが、きっちりフォームがあるんですよ、コルゼンパは。だから、非常に丁寧でわかりやすい音楽になっています。
そういうことですね。
佐々木 反面、たしかに音響的には紋切り型です。しかし、それ以前に即興性とか和声感覚とか、大切な何かが鈍重なのだろうという気がします。
そうです。というか、即興性と構成感とは、恐らくは相反関係にあるのでは?
その場合、和声感というのも、多分即興性に寄り添うものなんでしょうね。そう考えたらどうでしょうか?
佐々木 実のところ、まだ彼のヴィエルヌの方は、私は聴いていないのですよ。(中略)音楽形式とのマッチングから理知的なコルゼンパかなと。
それで間違いないと思います。私は今回初めて、コルゼンパの演奏を真面目に聴きました。自分の通常の聴き方が「即興的」であるということの傍証かもしれませんが、コルゼンパは 2 〜 3 枚しか持ってないと思います。ではなぜ、コルゼンパはその形式美にも拘わらず、また聴こうという気が起こらないのか... これはそのうちに、もう少し深く突っ込んで考えてみたいと思っています。
佐々木 ヴィエルヌのサンフォニーはコシュローには全く向いていないですよ。あざとすぎるというか。コシュローは形式美を離反する方が、音楽になります。
私の意見は上述のとおりですが、'60 年代以降の彼の演奏は、もはや他人の作品の取り上げてどうこうというレベルで論じられるものではなくなっていますね。ちょっと厳しい見方かもしれませんが、強いて言えば、誠実ではないと。そのカウンターバランスとして、彼の即興演奏があるんだと思うわけです。
佐々木 でも、若き頃の録音(第 2 番)はどうなんでしょう。
あの頃は、インタープリテイタとしての誠実さが感じられますよ。
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廣川
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佐々木 オリヴィエ・ラトリが続編をやると思っていたんですが、どうも全集の腰は上がらないようです。
ラトリのヴィエルヌ(第 2、3 番)もすごい大音響です... オルガン(ノートルダム)の極端な音響が音楽として捉えられていません。ヴィエルヌはこういう音楽なのかな?と気にせず聴いてはいましたが...
第 3 番(特に Final )は逆に単調な演奏が効を奏し、マレーの方が神秘的な雰囲気たっぷりと色彩感覚がかえって好印象です(退屈にはなりますが)。また、第 3 番の第 1 楽章の冒頭(だけ)ですが、ギュンター・カウンツィンガーの演奏が爆発するような感じでとても面白いです。

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Vierne : Symphony No. 2 & No. 3
( BNL : 112741 )
- Symphony No. 2 op. 20 ( 5 movements )
- Symphony No. 3 op. 28 ( 5 movements )
Oliver Latry ( org : Notre-Dame, Paris )
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コルゼンパで思い出したのですが、ヴィドール第 5 番にカプリングされた「ロマネスク」交響曲がとても良いと思います。特に Final を流れるような音楽でドラマティックに表現する演奏者は少ないと思うのですが。

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Widor : Symphony No. 5 & No. 10
( PHILIPS : 410 054-2 )
- Symphony No. 5 op. 42 ( 5 movements )
- Symphony No. 10 " Romane " op. 73 ( 4 movements )
Daniel Chorzempa ( org : St-Sernin, Toulouse )
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佐々木
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大林 実は、私が大変感心したのはコルゼンパでした。
コルゼンパは、アーチキュレーション全体が非常にてきぱきしています。ですから、Philips から出たブレダでのバッハの録音は、特に BWV532 など大変フレージングがわかりやすいし、ヴィドールもそうでした。「ワルキューレの騎行」が入ったアルバム(ウェストポイント)もそういう感じです。彼のいいところ(?)は、アルバムによってその感覚の裏切りがないんですよ。一番わかりよいのは、バッハの「WTK I/II」でしょう。

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Bach : Orgelwerke
( PHILIPS : 9502 0802 ; LP )
- Toccata und Fuge d-moll BWV 565
- Passacaglia und Fuge c-moll BWV 582
- Präludium und Fuge D-dur BWV 532
- Präludium und Fuge a-moll BWV 543
Daniel Chorzempa ( org : Liebfrauenkirche, Breda )
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この辺を総合して、聴いていないスチュアートを除けば、多分、大林さんの耳にすんなりくるのはコルゼンパだろうと確信予測した次第です。多分、私もそういう答えになると思いますよ。
廣川 不思議と聴き飽きてしまう演奏なんですよね
大林 多分彼の演奏は、オルガンの特色が生かされていないので極端に言えば、全編灰色の世界といったようなものなのかもしれませんね... 結局、音楽を音色から切り離してオルガンを弾く・聴く意味はないということなんでしょう。
確かに「聴かなくなる演奏」とは思うんですよ。ただ、それは音色感だけではないように思うわけですが...
佐々木 オルガン音楽が好きな人でも、これらを聴き通す人はほとんどいないでしょう。だから、この曲の場合は、終曲しかとりあげられないんですね...
大林 もともと、通して演奏されるなんてことは想定されていないんですよ。
各番 1 作すらですか(私が言っている「通し」とは 1 作ずつのことです)?? 勿論、バラで演奏する方が多いとは思いますが、全部を一気に通して聴くような人はいませんよね、もちろん。
大林 全曲録音するなら、初見で全部弾けるくらいのキャパシティのある奏者でなければ...
全体の構成或いは構築に対する確固たる分析力が一番必要なのでしょうね。つまりロジックや書法の発見であって、感覚的なものとはちと違うという...
佐々木 どんな演奏で聴いても 1 曲通して聴くと、これらは音楽としてのメリハリがとてもわかりにくい...
大林 にも拘わらず最後に行き着いて勉強すべきものであると...?
特に重要だからという意味ではありません。「最後に行き着いて勉強」というよりも、それだけ関わるのに面倒なものであるという話でして、後回しにしているという意味なんですよ(苦笑)。
大林 演奏中心で、コルゼンパやラブリックの(一部の)録音を聴けばそうも思えないのですが、作品そのものの評価をすれば、やはり冗長度が高いことは否めない(ヴィドールも同様)のだと思います。多様な表現を行っているわりには、表現そのものが効果的でないと思うんですよね。
私には今のところ、オルガン音楽史を通じて、或る意味で一番面白そうで中身のない試みだったのではないかと思っています。ここでやっている「多様な表現」も、結果的には形式主義の中で窒息していますから...
似たような「多様な表現」なら、ヴィエルヌであれば、「幻想小曲集」あたりの方が遙かに素晴らしいわけです。こういう作品集が残せるのに、彼の交響曲の存在意義がますます理解できないわけですね...
ロマンチックオルガン後、フル管弦楽のような壮大な音響は「偽装」できるようになりましたが、音楽形式を剽窃したところで、そこに何の意味があるのか? 純粋器楽として突き詰めた姿として何があるのか? その良い方の答えは、演奏側がまだ出していないと思うわけですね。形式美とオルガンという楽器の特性といった 2 つの間で様々な無理・矛盾を孕んでいるのは間違いありません。
しかも、なぜコルゼンパがいいのかということが、それに係ってくるのではないかと思うわけですよ。考えられることは色々ありますが、ひとつ言えるのは、管弦楽での古典的な交響曲の一番の面白さとは、絢爛豪華な響きや音色の交差以上に、対位声部の明快性とか、結果的にはフレージングやリズムといった側面での管弦楽的解決だと思います。というと、比較的モノクロームな世界の方が、明解・明晰で受け入れられやすいんですよ... コルゼンパの話も、それと類比可能なことではないかと思います。ただ、コルゼンパが抱える問題としては、やはり音楽が持つ本質的な即興性に欠け、落ち着いたテンポで巧まず弾くために、何やら「説教くさい」音楽になってしまう... だから聴き返すことが少ないのではないでしょうか。
大林 フレーズが長くて、繰り返しも多いわりには、何をやっているのか訳の判らぬ音楽だという気がしませんか? 何か、一人でぶつぶつ言っているような(笑)。
そこに本来の作曲家の姿勢と形式主義の矛盾というか、葛藤があるんじゃないですかねぇ。ヴィエルヌの室内楽など世俗作品を聴くと、彼の本性周りがよくわかります。
佐々木 それだけ、これらを聴いてオルガン音楽の醍醐味を味わうには、表現の多様性の点からも敷居が高すぎるからです。
大林 よく言えばそうですが、人類の過去の技術遺産の蓄積は増える一方ですから、直截的な表現を取らない作品は、淘汰されるのか、あるいは、我々受容する側が分化分業していくのでしょうか...
はい、まぁ、ここで私が言いたいことは、サンフォニーという古典音楽形式の中でも非常に形式主義的な音楽である姿を、オルガンのような非常に表現豊かな楽器で作り上げるのは、或る種の「音響的似ねごと」にすぎないだけではないか?ということですね。
つまり、楽想がそれほど豊かでもないのに形式で延々引き延ばしているだけでは、オルガン音楽としてのレゾン・デートルを持ち得ていない、借り物のままに終わったような気がしますし、聴き手に無駄に敷居を高くするだけではないかと思うのです。弾きやすい楽章だけ、分解して弾かれるだけで確かに十分なのではないか?ということです。
佐々木 反面、たしかに音響的には紋切り型です。しかし、それ以前に即興性とか和声感覚とか、大切なものが何かが鈍重なのだろうという気がします。
大林 そうです。というか、即興性と構成感とは、恐らくは相反関係にあるのでは?
むしろこれらは「相補的な関係」ではないかと思いますよ。構成感なくして、即興はますます得られにくいのではありませんか? 多分、構成感というより、大林さんのおっしゃりたいのは、「ロジック」という意味だと思うのですが...
大林 その場合、和声感というのも、多分即興性に寄り添うものなんでしょうね。
そうですね。コルゼンパはレジストレーション自体がダメなのではなく、非常に前例に忠実にやっているだけなのでしょう。ただ、彼の音楽性はロジックが明快であるだけに、そうした性向から外れる浮動的な音楽要素は、あまり省みられないということになるんでしょうね。
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大林
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さて、マイケル・マレーの録音を聴いています。マレーというのは、多数本を書いているだけあって、アカデミックなきちんとした演奏をする人ですね、いわゆる優等生的な。しかし、この人には「格」というものが感じられませんね。恐らく、譜面には相当忠実なんでしょうね。生真面目と言ってよいかもしれません。
廣川 また、第 3 番の第 1 楽章の冒頭(だけ)ですが、ギュンター・カウンツィンガーの演奏が爆発するような感じでとても面白いです。
う〜む、面白いが全体の中でそれが奏功しているわけじゃないのですよ。カウンツィンガーは、指は大変よく回るのですが、リストを聴いて辟易して以来、敬遠しています。勿論、彼にも「合った」音楽はあると思うのですが...
廣川 コルゼンパで思い出したのですが、ヴィドール第 5 番にカプリングされた「ロマネスク」交響曲がとても良いと思います。
なるほど、聴いてみます。彼は何を弾いても(いい意味で)優等生的で説得力ある演奏をすると思います。ウェイン・マーシャルになると、表現がやや過多になって、イヤミに感じるギリギリのアブない演奏という感じですかね(笑)... でも彼は、録音でも生でも、毎回随分違いますね。何か安定していない...
佐々木 彼のいいところ(?)は、アルバムによってその感覚の裏切りがないんですよ。
いいところだと思いますね。良くない物を聴くよりは(笑)... (最近の)アランよりこの種の演奏が推薦されるなら、まだ理解できますけどね。
大林 もともと、通して演奏されるなんてことは想定されていないんですよ。
佐々木 各番 1 作すらですか(私が言っている「通し」とは 1 作ずつのことです)??
そうです。各作曲家の事情にもよるでしょうが、楽章間のコヒージョン(結合力)は、そんなにないと思うんですよ。調性を合わせてあとから適当に組み合わせる作曲家だっているかしれません。遅筆か、速筆かにもよるでしょうが、第 1 楽章から順を追って一気に作曲する人は少ないと思います。
ですから、全部一緒に演奏しなければいけないという必然性もまたないんです。実際にそれを強要している作曲家もないでしょう。全曲録音の主な理由は、商業的なものでしょう。バッハの全オルガン作品の録音でさえ馬鹿らしいと思う人が多いのと同様、ロマン派以降のオルガン作曲家の全交響曲も、ということですね。
ヴィエルヌが第 1 番を作曲したのは、1899年、そして (ヴィエルヌの赴任とは無関係ですが) パリのノートル=ダムに電動送風機が設置されたのは、それから四半世紀を経た1924年なのです。
これらの事実から推測しても、作曲当時、長時間録音はおろか、全楽章を通してコンサートでこれらの曲を弾ける・聴けるということは、夢のまた夢なのです。管弦楽のための交響曲が、全楽章を通して演奏されるようになったのは、いつ頃のことなんでしょうか? 少なくとも19世紀以降であることは確かでしょうが...
佐々木 全体の構成或いは構築に対する確固たる分析力が一番必要なのでしょうね。つまりロジックや書法の発見であって、感覚的なものとはちと違うという...
それもそうなのでしょうが、そもそも作品自体に構成力があるのかどうか? それは発見すべき物でなくて、演奏家が創出するものだとすれば、分析力は必ずしも必要だとは思えないのですが(もちろん、作品によって違うので一概には言えないでしょうが)。
佐々木 私には今のところ、オルガン音楽史を通じて、或る意味で一番面白そうで中身のない試みだったのではないかと思っています。
ははあ...
佐々木 ここでやっている「多様な表現」も、結果的には形式主義の中で窒息していますから...
なるほど!
佐々木 似たような「多様な表現」なら、ヴィエルヌであれば、「幻想小曲集」あたりの方が遙かに素晴らしいわけです。
同感ですね。
佐々木 しかも、なぜコルゼンパがいいのかということが、それに係ってくるのではないか
コルゼンパの話はそれとはやや違うように思われるので、取り敢えずは置いておきます。
で、「古典的な交響曲の一番の面白さ」に関する説明に関して言えば、実はデイビッド・ブリッグスの記事の中で同じことが強調されています。つまりは、(そうは明言していませんが)オルガン交響曲でまともなものがないなら、音楽としてもっと上等な管弦楽のための交響曲を
オルガンの機能に完全に即して作り直せば、もっと上等なオルガン交響曲になるだろう、と言いたげなわけです。ブリッグスのマーラー 5 番を聴く限り、ピアノでやるより、オルガンでやる方が遙かに面白く、成功していると思います。

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Mahler : Symphony No. 5
( Priory :PRCD 649 )
- Mahler : Symphony No. 5 ( transcribed by David Briggs )
David Briggs ( org : Gloucester Cathedral )
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そこら辺に、オルガン音楽のレパートリの抱える問題が垣間見られる訳ですね。そしてそこに、成熟したシンフォニック・オルガンの音色機能を最大限に生かすことのできる(オーケストラ曲の)トランスクリプションのレゾンデートルがある筈です。残念ながら、オリジナル尊重派の主張が破綻していることを物語っているのではないでしょうか。
佐々木 サンフォニーという古典音楽形式の中でも非常に形式主義的な音楽である姿を、オルガンのような非常に表現豊かな楽器で作り上げるのは、或る種の「音響的似ねごと」にすぎないだけではないか?
そうですね。その辺に、ヴィエルヌの失敗の本質が見えるわけですね。
佐々木 楽想がそれほど豊かでもないのに形式で延々引き延ばしているだけでは、オルガン音楽としてのレゾン・デートルを持ち得ていない、借り物のままに終わったような気がします
でも、形式といっても、もっと簡潔な書法はある筈です。ですから、形式そのものというより、形式の解釈に問題があったわけですね。というかまあ、形式的なものはヴィエルヌの肌に合っていなかった、と言えるでしょうか? そういえば、ラングレの第 2 交響曲は、4 楽章で合計 5 分ですが、あれはウェーベルンへのオマージュであると同時に、形骸化した形式へのアイロニーかもしれないですね。トゥルヌミールも勿論そうですが、ラングレの場合はより一層、そういった形式や因習への反発が強そうですね。
佐々木 むしろこれらは「相補的な関係」ではないかと思いますよ。構成感なくして、即興はますます得られにくいのではありませんか?
そうですね。「音楽性=即興性」という場合は、もちろん構成感も含んでいるわけですし。
佐々木 多分、構成感というより、大林さんのおっしゃりたいのは、「ロジック」という意味だと思うのですが...
ええ、「感覚的」vs「ロジカル」と対置させればはっきりしますね。
佐々木さんが言われたことをさらに敷衍したいと思います。結論を先に言えば、ヴィエルヌ(やヴィドール)は「交響曲」という作品群だけを(リスナー側から芸術作品としてみて)評価するならば、作曲家オルガニストとしてはやはり一流とは言えないだろうということでしょう。
そういえば、ギルマンは自分の「サンフォニー」をなぜ交響曲と言わずにソナタと呼んだのか、判ったような気がしてきましたね。これは意外な発見と言ってよいかもしれません。少なくとも、ギルマンのソナタはヴィエルヌやヴィドールよりは冗長度が低いわけですから。ひょっとして(冗談ではなく)ある程度長い作品を書かないといけないという馬鹿げた風潮があって、それがファッショナブルなことだったのかもしれませんね。
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佐々木
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さて、コルゼンパとマレーの録音を廣川さんからいただきましたので、早速聴きました。確かにコルゼンパは、ヴィドールで受けていた感覚どおり、安定した音楽、実にアーチキュレーションが緻密です。分節(アーチキュレイト)がうまいんですね。しかし、彼がこの音楽を音楽たらしめんとすればするほど、何か新鮮な輝きというものから遠のいていく、そういう背反を感じた次第です。ですが、私としてはコルゼンパのこういう攻め方こそ「正攻法である」と断言しておきましょう。辛うじて音楽が面白いのは彼のお陰です。
ところが、op.54 の何と詰まらないこと! 私は「 Impromptu 」が好きなんですが、これくらい面白くない演奏はないですね(笑)。コルゼンパの性格が、第 1 番 と op.54 でかくも落差が出るとは、まぁ驚きでした。
廣川 第 3 番(特に Final )は逆に単調な演奏が効を奏し、マレーの方が神秘的な雰囲気たっぷりと色彩感覚がかえって好印象です(退屈にはなりますが)。
単調とか退屈とか以上に、私は廣川さんが「神秘的な雰囲気」などと言う意味がよくわからなかったんですが、聴いてみてよくわかりました。マレーの演奏は真面目一徹ではありますが、「ダニエル・ロートの退屈さ」に通じる趣きがありますね(笑)。いや、デュプレその人の演奏に近いといってもいいかもしれない...
とはいえ他盤を聴いた印象からすれば、マレーはここまで退屈な人ではなかったと思うのですが、もう少し生命力があってもよさそうかな、という気はしました。何はともあれいい勉強になりました。廣川さん、どうもありがとうございました。
さて、ちょっとくどいですが、最近の私の問題意識に絡むので、ご容赦ください。
佐々木 彼のいいところ(?)は、アルバムによってその感覚の裏切りがないんですよ。
大林 いいところだと思いますね。良くない物を聴くよりは(笑)... (最近の)アランよりこの種の演奏が推薦されるなら、まだ理解できますけどね。
ええ。そして「裏切らないまま新録音も出なくなった... 」というのも、或る意味では「良心的」なのかもしれません(笑)。でも、コルゼンパが日本の評論家から高い評価を受けた記憶もありませんね。
大林 各作曲家の事情にもよるでしょうが、楽章間のコヒージョン(結合力)は、そんなにないと思うんですよ。調性を合わせてあとから適当に組み合わせる作曲家だっているかしれません。
なるほど、そういう意味では確かにそうですね。
大林 実際にそれを強要している作曲家もないでしょう。
ヴィエルヌの場合、例えば、楽譜の扉にそういう趣旨が書かれているのでしょうか?
大林さんのおっしゃりたいことはよくわかります。しかし、古典期初期の作曲家ならいざ知らず、交響曲という形式が確立して随分時間が経った時点での作品が、もともと「バラ演奏で可」を標榜しているのであれば、なおさらサンフォニスト達は自家撞着、否、自己欺瞞だったとすらいえます。私が気に入らない理由もそこにあるのかもしれません...
大林 ヴィエルヌが第 1 番を作曲したのは、1899年、(中略)これらの事実から推測しても、作曲当時、長時間録音はおろか、全楽章を通してコンサートでこれらの曲を弾ける・聴けるということは、夢のまた夢
現実の問題としては、そのとおりです。まぁ、私が拘泥してるのは、複数楽章の「交響曲」として、作曲家がとりまとめたその意志は何なのか?ということなんですよ。通して演奏することもままならない時代に、何ゆえにそんな大それた形式主義の産物を出版してまで世に問う結果となったのか... サンフォニストのそうした矛盾を知りたいわけです、いずれは。勉強といっていることの大きな論点のひとつがまさにここです。
大林 管弦楽のための交響曲が、全楽章を通して演奏されるようになったのは、いつ頃
渡辺裕 『聴衆の誕生』(春秋社)に書いていませんでしたっけ? ヴィドールやヴィエルヌの時代は、完全にではなくとも、すでに交響曲の中のメヌエットだけが演奏会で取り上げられるとか、そういうことばかりではなかった筈ですよね。
佐々木 全体の構成或いは構築に対する確固たる分析力が一番必要なのでしょうね。つまりロジックや書法の発見であって、感覚的なものとはちと違うという...
大林 それもそうなのでしょうが、そもそも作品自体に構成力があるのかどうか? それは発見すべき物でなくて、演奏家が創出するものだとすれば、分析力は必ずしも必要だとは思えないのですが
ここら辺は、演奏家が創造性を差し挟めるような「作品演奏」というものではなく、あくまで古典演奏に限っての話ですので、演奏というものをどう捉えるかの大林さんと私の考え方の違いはありますが、この話は恐らく、言葉の違いだけのように思われます。
譜読みとは「発見」(勿論、アナリーゼということを前提にしていますが)であって、演奏はその発見に従うべく、己の技術を組み合わせていくことだと私は考えています。それが音楽を作り出す大きな力になるわけですが、分析がままならない演奏はどれだけ技術にすぐれていても、やはり作品そのものの姿はうまく立ち上がってはこないですね。作品のロジックを演奏が引き出すのは、技術なくしては到底無理ですが、それ以上にアナリーゼの多様性を演奏家が求められるかどうかにあるのでは?と思うんですよ。
大林 オルガン交響曲でまともなものがないなら、音楽としてもっと上等な管弦楽のための交響曲をオルガンの機能に完全に即して作り直せば、もっと上等なオルガン交響曲になるだろう、と言いたげなわけです。ブリッグスのマーラー 5 番を聴く限り、ピアノでやるより、オルガンでやる方が遙かに面白く、成功していると思います。
その話はよくわかるのですが、あくまで「演奏家側からの手法論」なのですね。決して聴き手からの問題ではありません。私の意見は、聴き手として(管弦楽での)交響曲演奏の突き詰められた演奏の形とは何かということで、オルガンへの編曲はまた別の話になります...
ただ、「(オリジナルの)オルガン交響曲でまともなものがない」のは何故なのかということに立ち返ることと、交響曲という作品形態の音楽美が何によって表されるかということについては、トランスクリプションの意義はさておき、決してピアノよりオルガンが常に卓れているとは、私は必ずしも賛同できません。
大林 そこら辺に、オルガン音楽のレパートリの抱える問題が垣間見られる訳ですね。
そうですね。そのとおりです。
大林 そしてそこに、成熟したシンフォニック・オルガンの音色機能を最大限に生かすことのできる(オーケストラ曲の)トランスクリプションのレゾンデートルがある筈です。
同感です。トランスクリプション自体を疑問視する意見に今では私は与していませんが、あくまでオルガンによる交響曲を例にして、「音楽形式・様式」を移送してくる際、移送先での音楽土壌の諸問題がそれによって解決されたのか、解決するには何が必要なのか、また移送によって元の形態とどのような違いが生じるのか、詳しく歴史的に精査していく必要があるのではないか、というあたりの問題意識と考えてください。
佐々木 サンフォニーという古典音楽形式の中でも非常に形式主義的な音楽である姿を、オルガンのような非常に表現豊かな楽器で作り上げるのは、或る種の「音響的似ねごと」にすぎないだけではないか?
大林 そうですね。その辺に、ヴィエルヌの失敗の本質が見えるわけですね。
はい。私には、彼の(風琴以外のものを含め)作品を大方聴いていますと、彼(ヴィドー
ルもですね)は交響曲として「アタマで」考えたこととは、実のところ意地悪く見れば、単なる形式的パロディであって、単に重厚長大な作品構成だけだったのではないかという気がします。確かに「ある程度長い作品を書かないといけないという馬鹿げた風潮があった」のかもしれませんね(笑)。
しかし、それはあくまで「そのような表現が可能なほど楽器環境が生育した」ということとは不可分ですが、作曲のメンタリティそのものは実のところ、頽廃とデュフルクが批判するフランス革命期のセジャンやラスーあたりとどう違うのか... ここがずっと私の疑問の焦点になっているのですよ(そのくせデュフルクは、サンフォニストに対しては特に革命期作曲家たちと同列には批判していません)。
佐々木 楽想がそれほど豊かでもないのに形式で延々引き延ばしているだけでは、オルガン音楽としてのレゾン・デートルを持ち得ていない、借り物のままに終わったような気がします
大林 でも、形式といっても、もっと簡潔な書法はある筈です。ですから、形式そのものというより、形式の解釈に問題があったわけですね。
問題点ということでは、私も大林さんがおっしゃっていることを言いたかったわけです。
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廣川
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佐々木 確かにコルゼンパは、ヴィドールで受けていた感覚どおり、安定した音楽、実にアーチキュレーションが緻密です。分節(アーチキュレイト)がうまいんですね。
実はこの CD は 10 年ぐらい前に興味本位でヴィドールと一緒に買ったのですが、ヴィドールと比べると時の隔たりがあって、その分の貫禄というか、余裕をもった演奏だったんですよね。
佐々木 マレーの演奏は真面目一徹ではありますが、
サン・シュルピスでの交響的大作はすごい正直ですよ! 音符一個一個を確認してなぞっているような演奏です。この前にサン・セルナンでのフランク全曲録音があるんですが、
これも終結部が元気がなくてがっくりです。

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Dupré, Franck & Widor
( TELARC : CD-80516 )
- Dupré : Gloria (Finale) from Magnificat VI op. 18-15
- Dupré : Carillon op. 27-4
- Dupré : Choral et Fugue op. 57
- Dupré : Trés lent et sans rigueur from Antiphon III op. 18-3
- Dupré : Cortege et Litanie op. 19-2
- Dupré : Final op. 27-7
- Franck : Grande Pièce Symphonique op. 17
- Widor : Finale from Symphony No. 6 op. 42
Michael Murray ( org : St-Sulpice, Paris )
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Franck: The Complete Masterworks for Organ
( TELARC : CD-80234 ; 2CDs )
- Fantasy in A
- Cantabile
- Piece heroïque
- Fantasy in C Major op. 16
- Prélude, Fugue and Variation op. 18
- Prière op. 20
- Final in B-flat major op. 21
- Pastorale op. 19
- Grande Pièce Symphonique op. 17
- Chorale No. 1
- Chorale No. 2
- Chorale No. 3
Michael Murray ( org : St-Sernin, Toulouse )
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大林
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佐々木 コルゼンパが日本の評論家から高い評価を受けた記憶もありませんね。
そうですね。本来なら、少なくとも、我々が今まで述べたことくらいに関しては、しかるべき評価を受けても良さそうなものです。やはり、オルガンの録音に関してはきちんと科学的なアプローチで評論できる人がいないんでしょうね。あるいはいたとしても、他に聴くべきものが沢山あるから、概してレベルの低いオルガン録音は断るようにしているのでしょう。外国でもそういう評論家は多いでしょうね。結果として、オルガンを担当するのは、二流、三流のクリティックになるんだと思います。
佐々木 大林さんのおっしゃりたいことはよくわかります。しかし、古典期初期の作曲家ならいざ知らず、交響曲という形式が確立して随分時間が経った時点での作品が、もともと「バラ演奏で可」を標榜しているのであれば、
私が言いたかったのは、もともとバラで可か否かといった問題意識自体を作曲の時点で作家自身が持っているとは限らない、ということですね。
何人かのオルガニスト作曲家の伝記を読んだり、あるいは実際に会ってみたりした結果感じるのですが、作曲のフィロソフィー、あるいはその作品が誰がどのように演奏されることを望んでいるのか、などといった点について、それぞれの作曲家によってかなり差があるように思えるわけです。人さまざまだということです。
ヴィエルヌに関しては、米国ツアーに際して、シンフォニーの一つの楽章だけを含んだプログラム( 1 つだけ)で各地の演奏を押し通しています。それが聴衆のレベルを考慮した結果なのか、あるいはヴィエルヌ自身の都合によるものなのか判りません。たぶん後者でしょう。彼は記憶力は良かったとしても、音色・音量操作では、明らかにハンディキャップがありますから。
佐々木 私が拘泥してるのは、複数楽章の「交響曲」として、作曲家がとりまとめたその意志は何なのか?ということなんですよ。
伝記を読み終えてからまた考えたいと思いますが、それが時代の潮流であり、自分もその「偉大な」伝統に貢献しようと思ったのですかねえ... トレンド、ファッション...
佐々木 サンフォニストのそうした矛盾を知りたいわけです、いずれは。
ヴィエルヌに関してはとにかく、ローリン・スミスの著書 (註2) は必読かと...
佐々木 譜読みとは「発見」(勿論、アナリーゼということを前提にしていますが)であって、演奏はその発見に従うべく、己の技術を組み合わせていくことだと私は考えています。(中略)やはり作品そのものの姿はうまく立ち上がってはこないですね。
そういうことだと思います。
佐々木 作品のロジックを演奏が引き出すのは、技術なくしては到底無理ですが、それ以上にアナリーゼの多様性を演奏家が求められるかどうかにあるのでは?
そうです。重要なのは多様性ですが、音楽教育界の中には、特にそれを認めない教師が多いようです。
佐々木 ただ、「(オリジナルの)オルガン交響曲でまともなものがない」のは何故なのかということに立ち返ることと、(中略)決してピアノよりオルガンが常にすぐれているとは、私は必ずしも賛同できません。
そもそも、交響曲とは何なんでしょう。私にとっては、クラシック音楽を遠ざけている最大の理由(の一つ)が交響曲なのかもしれません。それと、私は記憶力が悪いので、他人がこの種の音楽を聴いて理解しているのかどうか不思議でならないのですが、記憶力が悪くても理解できるのでしょうか? ソナタ形式、なども...
一般的に、こういった複雑な音楽は繰り返して聴かないと、その面白さが判らないのではありませんか? あるいは、慣れてしまえば(記憶力が悪くても)初めて聴いた時でも理解できるものなのでしょうか? そういう問題があって、音楽が直截的でないので、CD を買っても結局は聴かないのかなあ(苦笑)...
佐々木 あくまでオルガンによる交響曲を例にして、「音楽形式・様式」を移送してくる際、移送先での音楽土壌の諸問題がそれによって解決されたのか、解決するには何が必要なのか、また移送によって元の形態とどのような違いが生じるのか、詳しく歴史的に精査していく必要があるのではないか
根本に立ち帰って考えてみると、やはり、オルガンの音が基本的に定常音である(つまり単調である)という特性が、大掛かりな構成による形式と相容れない(なかった)ということなんでしょう。少なくとも、ヴィドールや、ヴィエルヌはその問題を解決できなかった。それ以後については、以前述べたとおりです。やはり、エーベン辺りになって、ようやく解決を見たと言えるのではないでしょうか? もっとも私自身は、オルガンでなくても、ブルックナーの交響曲などの通常の演奏では、ほとんど解決しているとは思えないのですが...
佐々木 それはあくまで「そのような表現が可能なほど楽器環境が生育した」ということとは不可分ですが、作曲のメンタリティそのものは実のところ、頽廃とデュフルクが批判するフランス革命期のセジャンやラスーあたりとどう違うのか... ここがずっと私の疑問の焦点になっている
まあ、分かりやすさという点では、明らかに差がありますが、そうでなけれ同じようなものかも。分かり難く、しかも効率の悪い音楽だとすれば、むしろより低いメンタリティといえるかもしれません。しかし、この種の評価は常に相対的なものだし、時代の差でなくて作曲家自身のメンタリティの問題ですね。
佐々木 そのくせデュフルクは
F・クープランのオルガン音楽をあれほど持ち上げている人であり、かつあれほどバランスの悪いオルガンの音を本物だと平気で思ってた人ですから、私はデュフルクの音響的、および音楽的な審美眼はかなり歪曲したものだと思っていますが...
ところで、やはりラブリックはいいですよ。第 2 番は第 1 番よりずっといいなあ... この録音のメリットは、残響が殆ど(邪魔し)ないことです!!! マイクはかなりオンですが、バランスは自然ですね。彼は、サン・セルナンの楽器を巧く使っています。それにしても、ラブリックの録音(MHS)はどれくらい商業的なのでしょうね。恰もライヴ録音のような一過性の良さがあることだけは確かです。同じ意味で欠点(集中力を欠くところ)も散見されるわけですが。録音は悪いですが、音色感は豊かです。
ただ、ラブリックは、特に(作曲者が想像だにしなかったような)オリジナルな音色を使っているわけではなさそうです。ただし彼は、耳が非常に良いのか、レジストレーションにおいてかなり知的な調整をしていると思いますね。つまりは、音響も含めオルガンという楽器の特性を熟知しているといえます。
ラブリックの演奏は、フォルテの楽章の強音部分がいずれも歯切れ良く、聴きごたえがありますが、それ以外の部分(第 3 番の)は、作品そのもののがかなりひどいですね。作品でなくて、演奏が悪いのかな。第 3 番、特に1、2 楽章は...
さて、そろそろ本題に戻って、交響曲第 1 番ベスト録音のアドヴァイスとしてはこんな感じでしょうか?
『(強いて言えば、×××による面白い演奏もあるが)交響曲第 1 番全楽章を通して繰り返して聴きたいと思うような演奏は見つからない。その理由は、形式に囚われた作品の冗長度にあると思われる。むしろ、多様な表現の中に彼の個性が生きている幻想小曲集を聴くことをお奨めする。』
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佐々木
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さて、余計な議論ばかりに皆さんを振り回してしまいましたが、ひとつだけレスします。
佐々木 しかし、古典期初期の作曲家ならいざ知らず、交響曲という形式が確立して随分時間が経った時点での作品が、もともと「バラ演奏で可」を標榜しているのであれば、
大林 私が言いたかったのは、もともとバラで可か否かといった問題意識自体を作曲の時点で作家自身が持っているとは限らない、ということですね。
ええ、全くそのとおりだと思うのです。しかし、そうであれば何も「交響曲」という枠組みに拘泥しなくとも、「(交響)組曲」でも「××サンフォニック」でも良かったのではないか... まぁ、そういう疑問なんですよ。でも、スミスの本も熟読していないので確証はありませんが、結局、シンフォニック・オルガンの音響から形式を類比して「交響曲」がインパクトはあるだろう程度の、いわば「はやり」だったように思えてきました...
それにしても、大林さんの話から思うに、逆に、我々は交響曲或いはソナタといった「形式が詰襟になったような」作品群を「始めから終いまで全部通して聴いてなんぼのもの」という、妙な教条主義が染みついただけかも... などと考えてしまいました。私なんぞは交響曲でも大して聴きたくもない楽章は、よく飛ばして聴きますけどねぇ(笑)...
さて、回答の方です。ヴィエルヌの作品に対する百選編集委員としての問題意識はそのとおりで良いのですが、回答的には、(強いて言えば、×××による面白い演奏もあるが)部分を、「作品演奏として考えれば、既存録音では(かくかくしかじかの理由で)コルゼンパが群を抜いていると思うが」とした上で、「百選編集委員の本音としては」ということで、上記をつなげていただければ良いのではないでしょうか?
大林 ところで、やはりラブリックはいいですよ。
ヴィエルヌとともにヴィドールの全集の方もちゃんと聴き直したいので、早いところアナログ・プレーヤを修理しなくてはなぁ... と言いつつ、もう▲年になりますが(苦笑)...
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■ 註 ■
(註1) そもそも、ヴィエルヌのサンフォニー全集は、入手の可不可を別として、ヴィエルヌのサイト http://www.netreach.net/‾druid/LVe/Enregistr_1.html を見ると、
- Jacques Boucher etc. (REM)
- David Sanger (Meridian)
- Ben van Oosten (MD+G)
- Marie-Andree Morisset-Balier (Motette)
- Pierre Cochereau (Solstice)
- Günther Kaunzinger (Koch-Schwann)
- Pierre Labric (Musical Heritage Society)
と、意外に数が少ないのに改めて気づいた。
続いて、交響曲第 1 番単独の録音をhttp://www.california.com/‾eameece/viernediscography.htm で見てみると、
- Marie-Claire Alain
- Bjorn Boysen
- Margrit Brinchen-Schuler
- Daniel Chorzempa
- Jacques Boucher
- Pierre Cochereau
- Francois Houbart
- Günther Kaunzinger
- Pierre Labric
- Michael Murray
- Ben van Oosten
- David Sanger, at London's La Chiesa Italiana di San Pietro
- David Sanger
- Murray Stewart
サンガーの 2 枚は同じソースか別物かはわからない。それでも、単独録音にしたところで意外とあるようでなく、上記全集の重複分を除けば、7 つしか録音がないことになる。勿論、終曲だけなど一部抜萃録音は ASV のパーカー=スミスを始め、多々あるだろう。
(註2) Rollin Smith 「Louis Vierne, Organist of Notre Dame Cathedral (The Complete Organ Series Vol 3)」 (Pendragon Press, 1998) を指す。なお、Amazon.com では、まさに本編に於ける渦中人物のひとりマイケル・マレーがレヴューしているので、是非、ご一読を。
■ 関係作曲者年代譜 ■
省略
■ 関係風琴 ■
やはりヴィエルヌだけあって、パリのノートルダム大聖堂とカヴァイユ=コルの楽器が録音では主流である。ここでは 3 楽器について絞る。
(1) まずはトゥールーズの聖セルナンとルーアンの聖ウーアンを取り上げた。大林さんの解説によると:
St-Sernin は、ロマネスクの会堂で、長さだけはかなりあるのですが、高さも幅もあまりありません。このような空間ではオルガンから離れると減衰が激しく、非常に好ましくない条件です。たぶん、近くでは煩く、遠くでは寝ぼけた感じの音になると思われます。マイクは比較的近くに設置する必要がありますが、そうすると残響は殆ど捉えられなくなるでしょう。例えばコルゼンパのヴィドールなど、そういう感じで録れているはずです。
一方、St- Ouen はカヴァイエ=コルの晩年の作品ですが、空間にヴォリュームがあるのです。だから非常にゆとりがあり、「鳴りっぷり」がよい。オットーボイレンのようなバロックの空間もそうです。それにしても、St- Ouen はゴシックの理想に近い美しい空間です。しかし、オーステンによる MD+G 録音では、すぐ近くに聞こえるポジティフに対して、他のディヴィジョンはひどく遠くに聞こえ、非常に拙いと思います。とにかくこの録音はバランスが悪い上に、そのオルガンの特長を掴んでいない。
(2) 次に、マレー・スチュアート盤で使用した Warrington の Parr Hall の楽器もカヴァイユ=コルであり、これについてコメントしておこう:
1870 年 Cavaillé-Coll が Bracewell Hall に納めたもので、その後 Ketton Hall に 1875 年に拡張・移送され、1883 年に現在の場所となった。詳細は、The British Institute of Organ Studies (BIOS) の The National Pipe Organ Register at Cambridge の中に当楽器の記事があるのでご参照願いたい。
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