4.

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Szell's Last Salzburg Festival 1969
( ORFEO D'OR : C 484 981 B )
- Beethoven : "Egmont" Overture op. 84
- Beethoven : Piano Concerto No. 3 in c minor op. 37
- Beethoven : Symphony No. 5 in c minor op. 67
Emile Gilels (pf)
Wiener Philharmoniker
George Szell (dir)
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この演奏会は、以前、カナダのロココ・レーベルから交響曲第 5 番だけリリースされていたが、演奏会全曲目が高品位な音質で甦った。セルが水も漏らさぬ完璧主義者というイメージを払拭したくなるようなライブである。オルケストラの首根っこを掴み回しながらも、豊潤な味わいと自由奔放な力感を放出しており、セルのライブの面白さを堪能できる筆頭の 1 枚といえよう。
「エグモント」序曲は、VPO の演奏会初曲につきもののアインザッツの不揃いや金管バランスの悪さなどはあるが、他演との圧倒的な違いは求心力の高さである。同じ VPO との全曲盤を聴くと、うんざりするほどきっちりしたフレージングとアウフタクトによって安定進行するが、ここではそれが薄らぎ、スリリングな躍動感とパッションに溢れる。全曲盤を聴くより VPO 的音の至福を感じるのもこちらだ。そういう意味では、全曲盤もヴィーン芸術週間でのライブを編輯すればよかったのにと思う。
次は、ギレリスとのピアノ協奏曲第 3 番であるが、これは聴きものである。とにかくギレリスのピアノが凄まじい。音楽のスケラビリティが、これほどまで堂々たる演奏はなかなか聴けないだろう。バックも然りで、VPO のクレシェンドや ff の破壊力が、ギレリスのソロとまさに火花を散らすかのようである。全体を覆う深く滋味溢れる歌と強靭な刻みを筆頭に、第 1 楽章 230 小節や 310 小節手前のトゥッティ直前からの呼吸のつなぎ方、500 小節手前からの強烈なトゥッティなど、クリーヴランド管との録音にはない魅力である。ギレリスのカデンツも息を呑む。第 2 楽章では、40 小節以降の木管の歌を支えるピチカートの美しさ、それに乗るギレリスの珠のような硬質な音がとても美しい。そして第 3 楽章では、46 小節や 172 小節あたりを筆頭に、弦の強引ともいえるクレシェンド、また 220 小節、257 小節でのギレリスの豪快な導入、そしてラストの破壊力! しかし豪快ながら実に明快なテクスチュアを保持しており、この曲の名演のひとつとして賞揚したい。
最後は、5 番交響曲。従来の演奏が直線的と言うならば、これは螺旋的直線とでも言うべきか。血湧き肉踊る凄演で、これぞ「ショーマン(Showman)」セルのライブ姿だろう。
解釈は従来の録音同様。コンセルトヘボウとの録音に近いが、特筆すべきは、VPO の激走ぶり。いつもどおりがっちり手綱を締めながら、奔放な推進力を引き出す。アクセントの大胆な切り方、急激なクレシェンドの巻き上げ、金管の無天井的炸裂、そして深く奧行きのある響きと歌... 通例の玲瓏厳格なる音楽構築こそ幾分後退するものの、全てのダイナミクスはデフォルメといえるくらいに硬柔高低が奔放に放出され、一瞬たりとも弛緩せず強靭な推進力で描かれる。
第 1 楽章。特徴的なのは、細かなテンポと求心的な勢いだろう。特に 400 小節からの斬り込み方が、快活感を全く殺すことなく、クリーヴランド、コンセルトヘボウより遙かに重厚に粘りながら沈み込み、力づくでねじ伏せる勢いがある。さらに 423〜431 小節のテインパニの咆哮が効果を加える。また、478〜482 小節の ff での主題再現をテンポを落として強調しているのはこの盤だけだ。さらに 491 小節からのクライマックス部を通常テンポに戻すことで、ラストの畳み込みがより一層冴える。
第 2 楽章には、テンポの膨らみも全体的に普段より大きく、深く朗々と謳いあげる主題と変奏に VPO とのコンビネーションの妙味を見る。この 2 楽章は、いつもながらの端正さは多少後退するが、セルの演奏記録の中でも呼吸の大きく深い美しさがある。セルの場合、豊かな氾がりを持つ緩徐楽章の指揮は、なかなかスタジオ録音には現れない...
第 3・4 楽章。聴き手は、とりわけ 4 楽章での驀進する音塊と尋常ならぬ VPO の底力 − 割れ放題の金管、豪快なティムパニなどなど − に釘付けとなろう。何よりセルには珍しく、4 楽章 134・136 小節のピッコロが聞えないほどのホットぶりである。80 小節からの ff の爆裂、そして 144 小節からのセルお定まりのリタルダントでは金管とティムパニの ff の咆哮が興奮を掻き立てる。しかし、いつも軽妙に突っ切る 250 小節や 270 小節前後を、パワーダウンさせずに振り抜くのはライブならではの凄味だ。VPO もまたよく 317 小節まで、息切れもせずパワーが持続するものと感心。そしてラストもラスト、438 小節からのテンポダウンと最後のフェルマータの長さも、通例のセルには見られない大見得切りなのだが、これまた圧巻。煽動的過ぎてわざとらしさも感じぬではないが、50 年代のセルのような強引なドライブを彷彿させる。
晩年の EMI 録音を筆頭に、我々は必要以上に当時のクリーヴランド管の響きに耳を奪われ「泰然明晰に流るるが如し」が彼の姿だと思い込みがちである。しかし実のところ、セル自身の指揮ぶりは、晩年になってもさして変わっていないのである。この録音こそ、その証左だ。
吉田秀和の言う「高僧のような遙かな高みを指向する音楽的潔癖さ」というような評言はわからぬでもないが、それはあくまで一部的な見方でしかなく、クリーヴランド・トーンが彼を包摂したことと、無意識にオーバーラップしているだけのように思う。彼自身は、もっと逞しい生命力と聴衆を心から楽しませる術を完璧に心得た強力なアッピールを持っていたのである。
[附記 : 990816 / 20030223]
これは削除を主として、大幅に修正補筆、特に表現の紊れを正した。これを纏めた時は、日本での発売より先に聴いたため、故意に煽動的に激賞したのである。
セルを思うに、私自身、彼のライブは実に計算尽くされたショーマン精神の賜であり、芸術的高潔さとは少々違う趨勢と感じている。セルのライブの本当の面白さとは、彼が聴衆の機微を的確に読み、期待どおり、またそれ以上の内容を見事にサーブして呉れる、その恐るべきサービス精神にこそあるのだ。その意味で、一口に彼のライブといっても、音楽解釈は同一機軸であっても、聴衆の反応によっては最終的な落としどころがかなり違ったりする。だからこそ、私にとってジョージ・セルという指揮者は、偉大なる芸術家というよりは、超一流の楽師という感覚なのである。彼のショーマン精神は、当然、そこから自然に発出するものである。そして、この指揮者の持つ偉大さはむしろそこにあるのであり、どうもそこを理解できずに勘違いしている聴き手が相変わらず多いようだ。それがゆえに「このライブを聴け」と私は薦めてきたのである。
クリーヴランド管とのセットだけではなく、一人の指揮者としての彼自身が持っている音楽創造の在り方をきちんと把握することが肝要だと思う。
3.

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Debussy : Nocturnes, La Mer [ SUPRAPHON Recordings 1 ]
( COLUMBIA : COCO-80865 )
- Debussy : Nocturnes
- Debussy : La Mer
Czech Philharmonic Orchestra and Chorus
Jean Fournet (dir)
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Debussy and Falla [ SUPRAPHON Recordings 2 ]
( COLUMBIA : COCO-80866 )
- Debussy : Iberia
- Falla : 3 dances from " El sombrero de tres picos "
- Debussy : Rondes de printemps
Czech Philharmonic Orchestra and Chorus
Jean Fournet (dir)
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フルネは実演でも音盤でも、仏国作品を主体に、穏健ながら職人的明晰さと洗練さを持っている。彼の指揮姿を見ればすぐわかるが、洗練さといっても、仏国らしき所謂エレガンスの精華や瀟洒な芳香を強意する人ではなく、むしろ端正かつ実直なタクトであるから、クリュイタンスばりの香り高き風情などを期待すれば、なにがしか物足りぬ思いを持つ人があっても仕方あるまい。
そのフルネの 60 年代のチェコ・フィル、プラハ響とのスプラフォン録音が国内盤で 4 枚分復刻した。ラムルー管などとの 50 年代の録音同様、フルネの本性的原点がくっきり現れていて非常に面白い。ここでも、彼は本然的に知性派指揮者であると聴ける筈である。チェコ・フィルの硬質な響きと相俟って、壮年期の彼は緊迫度の高く、剃刀が如き分析性に富む味わいが強い。録音がかなりデッドで分離が良いせいか、我々がイメージするフルネ毎度の微温的洗練さには薄く、精確なフレージング、和音や旋律線の推移など明細・巧緻で、ずっと冷ややかな印象である。しかもオケへの指示が細部に亘り徹底しており、緻密すぎかと思うほど。特にドビュッシィではその感が強かった。
まず 1・2 集。このドビュッシィは見事ではあるが、中間色のパレットに乏しく、また明晰すぎるがゆえに、地に足のつき切った感触が押し出てしまう。しかし、私にはそれが面白く、この妙味を特筆したい。
「ノクチュルヌ」は、一聴、面食らったが、モノクロームな精細動画に焼き付けられたかの如き明晰性。聴きようによってはこんなにスリリングな曲だったかと思った。印象的なのは、「雲」での柔らかい陰翳がくっきりしたコントラストに分離していること。「祭」はリズムの明晰さ・活力は素晴らしい。「シレーヌ」は、かなり評価に迷う解釈といえる。薄化(フェイド)してゆく音楽の游泳過程が、まるでコマ送りの映像を見ているようにくっきり動いてゆくのだ! でもこれは実に面白い。
「海」もユニックである。印象画にまるであらず、細部の練り上げが見事というか、完全に部分の運動体の集積という感じ。加えてバーチカルの分解能が窮めてよく、初めてブレーズの旧盤を聴いた時以上の驚きを禁じ得ない。特に「波の戯れ」はイメージの喚起ではなく、音の運動性が完璧に剔抉されており、楽器間の受け渡しと分離が手に取るようにわかる。「対話」も最初のポーズ前のティムパニの一撃が効果あり、f や ff などへの展開も鋭角的だ。
「イベリア」はリズム処理の精密さを筆頭に、全く模糊としたところのない演奏で、上記盤と同傾向。スペイン的印象たる色合いは遠のき、徹底して切れ味のよい感覚を醸し出す。オケの音が硬すぎて細やかなニュアンスに薄いこともあるだろう。「祭の朝」の闊達なリズムの扱いなどはっとさせられるのだが、「夜の香り」など情緒が物足りない。「春のロンド」もくっきりした音の構図が聴け、この作品はかような具合いにできているのかと蒙を啓かれる思い。水平的な細かな位相がきれいに泛かびあがるが、音の濃淡がはっきりしすぎ、全体的な音響の奧行きに浅くなり、暖色系の色合いに乏しい気もする。「イベリア」でもそうだが、特にこの曲の終盤などホルンにもっと深いコクがあれば... なお、ファリャの「三角帽子」は、私的にはフルネの 50 年代録音での刺々しい鋭敏さを思い起こす程度に止まった。

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Franck : Psyché [ SUPRAPHON Recordings 3 ]
( COLUMBIA : COCO-80867 )
- Symphonic poem for chorus & orchestra " Psyché "
Prague Symphony Orchestra, Czech Philharmonic Chorus
Jean Fournet (dir)
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Franck : Symphonic Works [ SUPRAPHON Recordings 4 ]
( COLUMBIA : COCO-80868 )
- Symphonic poem " Le chasseur maudit "
- Symphonic poem " Les Éolides "
- Interméde symphonic from the Oratrio " Rédemption "
- Symphonic poem " Les Djinns "
Frantisek Maxian (4 : pf)
Czech Philharmonic Orchestra and Chorus
Jean Fournet (dir)
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次は 3・4 集。フランクの録音が−特に「プシシェ」の全曲版−あったとは知らなかった。通例、フランクに展開されがちな重厚・濃密なフレームから離脱し、清澄・繊細な世界すら開示しており、そもそもが数の少ないフランクの管弦楽作品音盤上、屈指の録音と言っても過言ではない。
まず「プシシェ」。全曲盤としては、以前、尾高盤やポール・ストロース盤について触れたが、私はフルネ盤が気に入った。尾高盤もフランクらしからぬ澄明な叙情表現に長けていたが、フルネはさらに端正に清廉に響かせる。それだけでなく、翳りや沈鬱な情念の高まりが、激しさではなくテンションの高さで表現されているのが見事だ。全体、ともすれば統率感が鼻につくかもしれないが、丁寧に音色の複合性を紡ぎ出してゆくのがフルネの味わいである。「西風」の繊細さ、「庭」の粘着しない爽やかな官能、そして「エロスとプシシェ」の清潔な情感が好ましい。さらにフルネのコーラスを扱う手腕も見事だ。フランクがなぜバスを外したか、フルネ盤を聴けばその意味はわかる筈だ。
その他交響詩など管弦楽作品について。「プシシェ」でもそうだが、彼の端正・清廉は、徒に濃い表情づけに踏み込まない中庸さとイコールだろう。ヴァグナー的要素の指摘されるフランクの管弦楽作品では、バレンボイムのようにその傾向を濃密に進めた演奏もあるが、フルネ盤はその対極的位置にあるのではないか。
むしろフルネは、フランクをフランス音楽史のフレームに位置づけたと言えよう。「呪われた狩人」の緊迫感の高まり、「アイオリスの人々」の透明感溢れる叙情など、私はこのようなフランクももっと広く聴かれるべきと思う。チェコ・フィルの音も、心なしかドビュッシィ盤より硬さが解れたように聞える。
ところで、この時期、やはりスプラフォンに同じ仏国のセルジュ・ボドがチェコ・フィルとオネゲル、ドビュッシィやラヴェルなどを録音しているが、その味わいにはどこか類似する味わいを感じる。しかし、同じ曖昧さを廃しながらも、徹頭徹尾無駄なくクールでタイトなボドに比べ、フルネはドビュッシィもフランクも、見事な工芸品を思わせる気品と清廉さが漂っているように思う。
2.

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Messiaen : Turangalîla-symphonie
( CHANDOS : CHAN 9678 )
- Messiaen : Turangalîla - symphonie
Howard Shelley (pf), Valerie Hartmann-Claverie (onde marteno)
BBC Philharmonic
Yan Pascal Tortelier (dir)
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意欲的にレペルトワールを拡げてきているヤン・パスカル・トルトゥリエ。今度はメシアン。メシアンが激賞した小澤盤など、既に古層の段階に入ったかもしれない。近年、この「汚らしき」メシアン像を払拭する解釈が現れたからである。ひとつはミュンフン盤(DGG)、もうひとつはサロネン盤(SONY)である。ミュンフン盤は、メシアンの粘着性きつい汚さをバネの強い緊迫感へと置き換えたスリリングな快演。しかしながら、ミュンフンは従来のメシアン解釈のフレームに連なるものであったのに対し、サロネン盤はあの猥雑で分厚い垢のような混濁をよくぞここまでというほど芟除し、リズムの明晰でクリアな音構造を剔抉した。
このトルトゥリエ盤は、オケの洗練度・密度にイマイチの部分はあるものの、サロネンのクリアさを基柢とし、ミュンフンの力感をミックスしたような味わいで、メシアン独特の汚らしさを感じることなく、がっちりしたアーチキュレーションとリズム、しなやかなダイナミズムを堪能できる演奏となっている。全体的に緩徐楽章などで、澄明な管弦バランスの上に、音響の錯綜を隈取り明晰に描いてゆくが、サロネン盤ではかなり後退した官能性も復権している。

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Schubert and Berwald
( DGG : 457 705-2 )
- Berwald : Symphony No.3 in C major "Singulière"
- Berwald : Symphony No.4 in E-flat major
- Schubert : Symphony No.4 in C minor
Berliner Philharmoniker
Igor Markevitch (dir)
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次はベルワルト。交響曲第 3 番「風変わりな」は、セロ弾きの安富さんに教えていただいた中から、これも個人的に宿題に位置づけたものである。3・4 番については、最近復刻したこのマルケヴィチ盤が良かった。
以前、フィルハーモニア管時代のマルケヴィチについて記したが、ここでもタイトでバネの強い響きと運動性を得て、軽やかに変転する楽想を飛びまわる。フルトヴェングラー時代の重厚な BPO とマルケヴィチとのコンビはかなり格闘した模様で、時に BPO が彼のキューについていけないところも散見される。天晴れマルケヴィチというべきだが、BPO でなくともよかったような気がするが...
ベルワルトの揮発性高く、簡素なロマンチシズムからすれば、マルケヴィチはタイトに締め過ぎのきらいはあるが、清冽なる運動に蠱惑される魅力は捨てがたいところ。

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Franck Bridge : Orchestral Works
( EMI : CDM 5 66855 2 )
- Suite for orchestra " The Sea "
- Tone Poem " Summer "
- Cherry Ripe
- Rhapsody " Enter Spring "
- Lament
Royal Liverpool Philharmonic Orchestra
Sir Charles Groves (dir)
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ブリトゥンの師フランク・ブリッジの管弦楽作品集。ブリッジの同時代を見まわせば、相対的に彼は随分と保守的な作曲家といえるが、パリーあたりの平穏なロマンチシズムからは一歩進み、自然写実的、文芸喚起的源泉に位置づけられるべき人だ。しかしベルワルトを聴いた後だった所為か、一聴、北欧ロマン派作曲家風の抒情に聴き紛う。英国音楽と北欧音楽との親和性は、グリーグとグレンジャーとの邂逅のみならず、この辺からシムパシィとして存するのかもしれない。
まず、組曲「The Sea」。ドビュッシィの名作と比べても詮なしだが、こちらは平凡なストーリーの上に成り立つ。部分部分の楽想には爽やかな甘さや美しさはあるが、構成感が浅薄との感が強い。それが良い形で現れたのが「Summer」と「Enter Spring」であろう。音楽は自由度を増しつつ、形式的な起伏から乖離してゆく。特に「Enter Spring」はラプソディと謳っていることもあるが、「Summer」に残存していたディリアス風の詩情から、少々晦渋で大袈裟ではあるが、心象風景的抽象性へと脱皮し、音のパレットもより深く広くなっている。
ブリッジは、英国音楽独特のノスタルジックな色合いもその基礎に存在しているが、バターワースやフィンジなどよりシンフォニックな手法がうまく、音の陰翳も豊富である。弦楽の「Cherry Ripe」は小品ながらその最たるもの。グローブスの指揮は丁寧に暖かく描く。反面、「Lament」での彼岸的悲哀を穏やかな情感に支配させすぎたり、「Summer」ではシンフォニックな響きに傾いてしまい、もう少し繊細なテクスチュアを引き出して呉れたら... と感じさせなくもない。
1.

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Françaix : A huit, Divertissement etc.
( Hyperion : CDA 67036 )
- A huit
- Divertissement pour basson et quintette à cordes
- Clarinet Quintet
- L'heure du berger
Susan Tomes (pf)
The Gaudier Ensemble
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Françaix : L'Octuor de France
( EROL : ER 96004 ; 2CDs )
- Quatuor à cordes
- Sonatine pour violon & piano
- Thème & variations pour clarinette & piano
- Divertissement pour trio à cordes & piano
- Dixtuor pour quintette à vents & quintette à cordes
- Huit bagatelles pour quatuor à cordes & piano
- Nonetto - d'apràs le Quintette KV.452 de Mozart - pour 4 vents & quintette à cordes
Yuriko Naganuma (vn), Jean-Louis Sajot (cl)
Jean Françaix (pf)
L'Octuor de France
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Françaix : Octuor, Divertissement etc.
( Pierre Verany : PV.792102 )
- Octuor (A huit)
- Clarinet Quintet
- Divertissement pour basson et quintette à cordes
Jean-Louis Sajot (cl), Amaury Wallez (fg)
Ensemble Carl Stamitz
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Françaix : Orchestre de chambre national de Toulouse
( Pierre Verany : PV.794103 )
- Symphonie d'archets
- 6 Prèludes
- Sèrènade B E A
- 15 Portraits d'enfants
Orchestre de chambre national de Toulouse
Alain Moglia (dir)
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Jacques Around the Clock ( Ibert : Chamber music for flute)
( Albany : TROY 145 )
- Entr'acte (1937)
- Jeux: Sonatine (1923)
- Deux Mouvements (1922)
- Deux Interludes (1946)
- Aria (1930)
- Pièce pour flûte seule (1936)
- Histoires (1933)
- Deux Stèles orientées (1925)
- Pastral (1934)
- Aria (1930)
- Entr'acte (1937)
Sue Ann Kahn (fl)
Andrew Willis (pf), Susan Jolles (hp), Frederic Hand (gt)
Curtis Macomber (vn), Christine Schadeberg (sp), David Krakuer (cl)
Lauren Goldstein (fg), Peggy Schecter, Eleanor Lawrence (fl)
Rie Schmidt (alt-fl)
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... と申すのも、鵞鳥の雛の産毛の柔らかさと言い、そのほどよい加減の暖かさと言い、お尻の穴に、得も言われぬ心地良さをお感じになりましょうし、鳥の体の暖かさが、忽ち直腸(くそぶくろ)やその他の臓腑にも伝わり、ついには心臓や脳味噌のあるところにまで達するからでございます。
ラブレー 『ガルガンチュア物語』第 13 章より(渡辺一夫 訳)
[附記 : 990814]
本文は、実際の会話をもとにアレンジした「対話篇」であったが、再録の価値に非ずと考え、割愛した。
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