4.

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Holst : The Evening Watch
( Hyperion : CDA 66329 )
- Two Psalms
- Six Choruses
- The Evening Watch
- Seven Partsongs
- Nunc Dimittis
The Holst Singers, The Holst Orchestra
Hilary Davan Wetton (dir)
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This have I done for my true love
( Hyperion : CDA 66705 )
- Nine Partsongs
- Songs from "T he Princess "
- Two Eastern Pictures
- Six Choral Folk Songs etc.
The Holst Singers
Stephen Layton (dir)
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ホルストと言えば「惑星」の致命的な知名度の高さ、或いは精々「セントポール組曲」程度のさして深みのない作品ばかりしか思い泛かばれないのが残念だ。彼の作品には長大な作品は多くないものの、比較的短いがゆえにこそ、求心的に凝縮され、独特かつ独創の発明があると思われる。その最も完成度の高いものが、数々の合唱作品であろう。特に管弦楽付合唱曲、例えばリグ・ヴェーダやイエスの賛歌、コーラル・バレエ、それからパートソングの見事な出来映えなどを聴かないのは勿体ない。
そこで、ここではホルストの合唱作品アルバムを紹介すべく、たまには余計な啓蒙活動をしようという目論見である。この手はほとんど英国レーベルが主となる。
今回は 2 盤。まず「The Evening Watch」と題された作品集。
最初の「詩篇」 2 作、これが実に良い味わい。管弦楽付だが、合唱を主とし、徒に音楽編成のプロポーションが大きくならず、却って滋味溢れた佳品となっている。詩篇と言えば、バロック期以降の作品、例えばブルックナーの一本調子(150番)、ツェムリンスキーの多少大袈裟な荘厳さ(13・23 番)やリリー・ブーランジェの自在なる重さ(130 番など)とはまるで違う。一度ブリトゥンなどとも検討してみたいが、詩篇の意味の流れに自然に乗った軽やかで深い情緒を持つ。
特に 2 つのモテットのひとつ「The Evening Watch」は筆舌に尽くしがたい。17 世紀の Henry Vaughan による肉体と魂の対話になる形而上詩であるが、詩の内容と音楽とが径庭なく、神秘的なイントネーションとハーモニー、游泳感によって外延されている。最後の和声は気が遠くなる官能すら、私には感じられる。私はハウエルズあたりにそうした面白さを感じていただけに、このホルストの発明には驚く。
そして、女声と弦楽による「7 つのパートソング」。簡素な構成なのだが、弦の役割が最小限だけ効果的に「添えられて」いるのが絶妙。
次は「This have I done for my true love」なるパートソングや小品を輯めたアルバム。
ホルストも英国作曲家の系譜に連なり、パートソングを数々遺しているが、エルガーやディリアスなどの味わいに近くもあり、やや乖離してもいる。まず、彼のパートソングは世俗詩だけではない。また音楽的に必ずしも軽い小品ばかりでもない。むしろ形式に囚われない自由な感興の点で独特の境位を持ちつつも、気楽に演奏可能な作品というべきか。このアルバムの中では、和声的な妙味を感じるものは「 O Spiritual Pilgrim 」程度だろう。ここでの聴きものの一つは、ハープの伴奏になる女声曲「2 つの東洋の絵」だ。カーリダーサの詩をホルスト自らが訳したものである。ここでも伴奏であるハープの役割はかなり抑えられていて、詩の情緒がよく表出されている。最後の「6 つのフォークソング」あたりは、グレンジャーなどの持ち味と是非比べていただきたい。
ホルストがセントポールのために遺した中では、あの弦楽組曲だけは有名だけれど、このようなパートソングや女声曲など沢山の名品がある。こうした曲たちは、ホルストの本性的な深遠さと気難しさの混合体から少し離れ、実に簡潔で、英国的伝統と情緒に心地よく遊ぶものである。
ホルストは詩と音楽の融合を、バターワースと同じように、詩を味読できるように詩の本性に沿って素直にまとめている。しかし、ホルストの妙味はやはり「深遠さと気難しさ」の神秘的な内省性にある。作品の数からすれば、ブリトゥンも多くの合唱作品を書いているが、私はブリトゥンのそれらにインスパイアされることはあまりない。むしろホルストの波動の方がかなり共鳴できる。
[附記 : 990814]
実際、この後に続くべき「その 2 」は書かれず仕舞いだった。詩の理解が必要と回り道をしているうちに、面倒になってしまった。また、これらのアルバムのどこが面白いのか理解できぬと野々村氏などからご意見をいただいた。クセナキスの合唱作品アルバムの評価と同じだったので、趣向が前提的に違う。
私としては、ホルストの持つ「詩の音」に非常に肌が合う、それだけのことかもしれない。これらの「単純にして深淵」なるホルストの作品群を、音楽理論的・声楽構成的なる妙味で測ってもわからない。そこから乖離した秘教的徒花なのである。
3.

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Janáček : Klavierwerke
( COLUMBIA : ML4740 ; LP )
- On an overgrown path (Part 1)
- Sonata 1. X. 1905
- In the threshing house (In the mist)
Rudolf Firkušný (pf)
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Janáček : Concertino, Mladi
( COLUMBIA : ML 4995 ; LP )
- Concertino
- Mladi (Youth Suite)
Rudolf Firkušný (pf)
The Philadelphia Woodwind Quintet etc.
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先にクーベリックのヤナーチェクについて認めたが、今回はフィルクシュニのヤナーチェクの古い足跡について書いておこう。私はヤナーチェク盤史を知悉している訳ではないが、そもそもヤナーチェクの音楽が盤として一般に膾炙するようになったのは、70 年代以降と言ってよい。しかも主は管弦楽曲(といつてもシンフォニエッタくらい)か一部のオペラであった。演奏家の中でのエポックメーカは、やはりクーベリックが嚆矢であり、続いてマッケラスというところだ。他方、独奏・室内楽ともなると、69 〜 70 年あたりに録音された Supraphon の「室内楽選集」までまともなものはなかった状態だった。
最初から余談で恐縮だが、たまにはアタマの良い振りなどして、ヤナーチェク研究書誌について、60 年代までを大概してみよう。
私が知る限りで最も古い文献は、Daniel Muller による『 Leoš Janáček 』(Paris, 1930)で Maitres de la musique ancienne et moderne というシリーズの 6 巻目として出版されたものである。ところがこれ以後は、50 年代までヤナーチェク研究は見当たらず、「万民のための音楽叢書」の 1 冊である Horst Richter 『 Leoš Janáček 』(Leipzig, 1958)のほかは、Bohumir Stedron 『 Leoš Janáček v obrazech 』(Prague, 1958)、Jaroslav Prochazka 『 Leoš Janáček 』(Prague, 1959)といった地元チェコの出版くらいだった。
60 年以降、ヤナーチェク研究家で名高い Jaroslav Vogel による『 Leoš Janáček 』(London, 1962)が英訳され、また Hans Hollander 『 Leoš Janáček ; his life and work 』(New York, 1963)も Hamburger の英訳で刊行されるなど、60 年代にやっと開花、そして 68 年にはブルノでのヤナーチェク・コロキアム(『 Colloquium Leoš Janáček et Musica Europaea - Brno 1968 』 Brno, 1970 にまとめられている)を境に、大きく認識が進んだ。
それでも、研究書の大半は 80 年代後半以降に集中しており、ほぼディスク史と棹差してきたと云えよう。なお、ディスコグラフィがついた書籍は、あの懐かしきレクラム文庫、Jan Racek 『 Leoš Janáček 』(Leipzig, 1971)まではなかったのではないだろうか。
研究関係がこのような状況であったから、フィルクシュニがヤナーチェクのピアノ音楽を 50 年代に録音したことは、時期尚早ながら、炯眼であったと言えよう。
フィルクシュニの上記盤は、ピアノ作品選集が 53 年、「コンチェルティーノ」が 55 年頃のリリースである。
まずはピアノ作品集であるが、これは米 Columbia 5 周年記念の一環でパブリッシュされたもので、当時のヤナーチェクの知名度を推察すれば、かなり大胆な企画であったと思われる。しかし、このヤナーチェクはフィルクシュニという人の素性がわかって面白い。彼は温もりある叙情の旨みに長けた人と思っていたのだが、もともとは冷やかで硬質なピアニズムの持ち主だったことがはっきりわかる。ジョージ・セルとのドゥボルジャックのピアノ協奏曲の録音(54 年)あたりにも、それを感じなくはない。後年の DGG 盤に比べ、録音を考慮してもより一層硬質−否、怜悧なピアニズムと叙情であった。逆に彼の音楽的な推移の端緒が、この盤のお陰でよく理解し得たのである。
「草蔭の小径を通って」はさすがに第 1 部の 10 曲だけである。最後の RCA 盤と比べれば、情感の豊かさにはまるで及ばないものの、「霧の中で」あたりは意外に、その硬いタッチが冴え冴えと活きて面白い。DGG 盤でも或る程度きりりとした光沢と冷たさを感じるが、それをさらに堅く緻密な味わいにしたものと思えばよい。「 1905 年」は同じ傾向だが、深みに欠ける。蛇足ながら、フィルクシュニはこれまでここでご紹介した DGG 盤(72 年)、RCA 盤(90 年)のほか、80 年 Audio Lab からリリースされた(ALC-1071)「草蔭の小径を通って」の抜萃、83 年 4 月来日時に石橋メモリアルホールで菅野沖彦の録音なる「Estampes」(Sugano Disc)があるようだ。勿論、私はどちらも聴いていない。
さて、次に「コンチェルティーノ」の方に移る。
しかし、その前にまたまた余談。ヤナーチェクの室内楽の盤史について、以前調べたことがある。私が発見できた最も古いものは、本家ヤナーチェクQ による第 2 番四重奏曲(Decca : DL 9851)であり、これが 56 年であった。第 1 番は、以前報告した盤が 63 年の録音で(第 2 番も同時に再録音した)、Supraphon からリリースされた。スメタナQ も 4 度にわたり録音しており、こちらの初盤はわからぬ。
このように、弦楽四重奏曲でも殆ど録音のなかった時代、精々あっても Supraphon 程度であった時代に、美国演奏家の録音で、しかも「コンチェルティーノ」と「青春」をカプリングした盤が刊行されたとは驚きである。
実はフィルクシュニには、Concert Hall から 1950 年頃にリリースされた「コンチェルティーノ」盤があるらしい(CHS-1076)。この Columbia 盤と同一ソースか否かは定かではないが、もし異盤であれば、Concert Hall 盤が最初に録音されたものとなる。また、「コンチェルティーノ」については、このフィルクシュニの Columbia 盤から以後は、ヨゼフ・パレニチェク(彼は後年 Supraphon : 11 0768-2 より素晴らしい演奏を再録音した)のピアノによる 67 年の Supraphon 盤までなく、次いで先に挙げた Supraphon のクヴァピル盤、そして前回のフィルクシュニ&クーベリック盤(DGG)などが続くといった具合いである。
演奏の方だが、フィルクシュニはともあれ、やはりバックに少々難がある。フィラデルフィア管の黄金時代のトップ奏者によるアンサンブルではあるが(フルートのキンケイド、オーボエのデ・ランシィ、ホルンのジョーンズなど)、これだけ難しい作品なのだから、指揮者が振るべきだった。音楽の気紛れな霊感と密度に薄い。フィルクシュニの方も、後年のクーベリック盤に見られる意欲的なノリにはあらず、結構大人しい。現代の管楽アンサンブル盤の方が遙かにうまく感じるものの、「青春」は昔の管楽の味わいを想起させてくれて面白かった。厚みのある音なのである。
2.

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Janáček : Klavierwerke
( Deutsche Grammophon : 449 764-2 ; 2CDs )
- Tema con variazioni
- Auf verwachsenem Pfade
- Erinnerung
- Sonata 1. X. 1905
- Im Nebel
- Concertino
- Capriccio
Rudolf Firkušný (pf)
Mitglieder des Symphonieorchesters des Bayerischen Rundfunks
Rafael Kubelik (dir)
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Janáček : Tagebuch Eines Verschollenen
( Deutsche Grammophon : 138 904 ; LP )
- Tagebuch Eines Verschollenen
Kay Griffel (alt), Ernst Haefliger (tn)
Rafael Kubelik (pf & dir)
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久々にヤナーチェクのことなど。
クーベリックによるヤナーチェクの録音には、この他に「シンフォニエッタ」と「タラス・ブーリバ」の 1 盤、そして「グラゴル・ミサ」がある。尠くとも 60 〜 70 年前半の「マッケラス以前」、ヤナーチェクのまともな録音はほとんどクーベリックだけであった。クーベリックのさすがなるところは、オケものだけではなく、カプリチョとコンチェルティーノ、さらには「消えた男の日記」まで録音していることである。フィルクシュニによるピアノ作品については、以前、国内盤について感想を述べているので、詳しくはそちらをご覧いただきたいが、ほんの短い「Erinnerung」がこちらの盤に加えられている。
ここでのピアノを伴う室内楽 2 作品であるが、録音の古さを感じさせぬ見事な出来映えである。特に「カプリチョ」がよい。クーベリックのバックは、幻想的感興を誘いながらも実体的に肉薄した勁さを持っていて、焦点の暈けない絶妙なもやいと温もりとを醸し出す。しかもヤナーチェク独特の不条理な憂いが、妙な衒いなく表現されている。私が感心したのは、「カプリチョ」での木管と金管のバランスとイントネーションの綿密さである。ピアノに対して二重のレイヤーを敷いているかのようで、特に金管のレイヤーの抜き出し・被せ具合が実にうまい。幻想的風味に散りやすい中、4 楽章など力感も溢れた太い筆致にまとめながら、重苦しさに傾かないところが、不思議なほど品位を持たせる結果となっている。フィルクシュニのピアノも低域の弾きっぷりなどなかなか大胆だが、全般、硬質な磨かれ方が好ましい。「カプリチョ」では、バックとの音質の硬軟の対照が見事な奥行きを作る。録音のせいでピアノの高域がハウり気味なのが残念。
しかし逆に、ピアノ以外にソロの多い「コンチェルティーノ」の場合、やや穏当にまとまってしまうのが勿体ない。2 楽章などクラの表情が落ち着き過ぎである。しかし、やっと 3 楽章で合奏が併走しはじめた途端、精気が蘇生し、弦のニュアンスとアタックの味わいなど素晴らしい。しかし、フィルクシュニの表現に比べ、クーベリックのバックは少々大人しく感じられる。対峙する妙味よりは、包み込むような味わいというべきか。
もうひとつは、CD 化されていない「消えた男の日記」。かなり前に、海外の中古盤屋で購ったものだが、併せて久々に聴き直してみる。クーベリックが珍しくピアノを弾いており、マックス・ブロートによる独語版である。ヤナーチェクお得意の心理劇的なツボの押え方がこの作品の妙味なのだが、クーベリックのドラマの植え付けは抒情の描き方においてはうまい反面、どきりとする玄さには欠ける。ドラマの底流にある不条理さを不条理なるままに剔出するところまではやはりいかず、こういうところは、先の「コンチェルティーノ」での穏当さに通づるクーベリックのヤナーチェク解釈のフレームであると言えよう。ヘフリガーも、むしろ伏流になっているカフカ的(或いはヴァルザー的というべきかも)不気味さが薄いように感じるのは私だけだろうか。
そういう意味で、クーベリックにヤナーチェクのオペラ録音でもあればと残念に思う。デフォルメぎりぎりまで詰めた心理ドラマを濃く描くのは、クーベリックの役割ではなかったかもしれないが、先の室内楽 2 品も含め、クーベリックのヤナーチェクはやはり彼ならではの持ち味が色濃く出ているところがよいのである。
1.
白昼、想念のまどろみと夢想的現実のはざまの游泳のひととき。
理性の花弁は少しく萎み、茶の精たちの会話か、或いは遐い漣であろうか、
仄かに甘い音どもが浮游しては消える。
時にまどろみは、艶夢を見ようとしてフリードリヒの墓標に馳せさせ、
叙情を受けんとしてフュースリの夢魔と戯る意地悪さ。
記憶の大罷業か、叡知(ヌース)の疲弊か、
始原からの流出は一時的に停流している。
いっそ、ボッシュの尻の中の人間のような心持ちで、
眩暈と快悦の極楽飛行と行こう。
... 事実私は、何ごとかを窮めて明晰に認知している間は、それを真であると信じないわけにはゆかない、という本性を備えているものの、しかし、精神の眼を釘付けにして、絶えず同じことを明晰に認知しているわけにはゆかない、という本性をも備えているので、以前に下した判断の記憶が戻ってくることが屡々ある。
デカルト 『省察 (Meditationes De Prima Philosophia) 』 5 より
かなしき所感
ぼくが女のことでものを言うとすれば、それはみな、
理智の冷静な観察と心のかなしき所感
の結果にすぎないのだ。
レールモントフ 『現代の英雄』 6月11日より

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Marc-Antoine Charpentier : Messe pour le Port-Royal
( ASTRÉE : E 8598 )
- Messe pour le Port-Royal
Michel Chapuis (org)
Les Demoiselles de Saint-Cyr
Emmanuel Mandrin (dir)
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レクイエムでの M-A.シヤルパンティエはとにかく重い薬液のような嫋々たる情感だが、
これは箱庭の中の静謐であるのに、縹渺とした味わいが幽馥とする。
レールモントフの「女」を「音楽」という言葉に入れ替えてみるとよい。音楽との付き合いは量か質かではない。「心のかなしき所感」を得るためには、量も質も必要なのだ。
映画マニアは貪欲だ、彼らはジャンルを選んで観ることはない、全てを観ようとする。
音楽マニアは「理智の冷静な観察」に拘泥し過ぎる。その活力はルサンチマンでしかない。
胸の振子
煙草のけむりも もつれる思い
胸の振子が つぶやく
やさしき その名
君の明るい 笑顔浮べ
暗いこの世の つらさ忘れ
煙草のけむりも もつれる思い
胸の振子が つぶやく
やさしき その名
作詞:サトウ・ハチロー 作曲:服部良一 編曲:キャラメル・ママ/服部克久

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雪村いづみ スーパー・ジェネレーション
( COLUMBIA : COCA 12155 )
- 序曲(香港夜曲)
- 昔のあなた
- ヘイヘイブギー
- バラのルムバ
- 銀座カンカン娘
- 東京ブギウギ
- 胸の振子
- 一杯のコーヒーから
- 蘇州夜曲
- 東京の屋根の下
雪村いづみ&キャラメル・ママ
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『フーコー振子』
... この知識は、いかなる尺度をもってしても捉えられない揮発性のもので、だからこそ、当時の勝利の神はヘルメスだったのです。彼はあらゆる権謀術策の創造主で、旅人にとっての塞の神であると同時に盗賊にとっての守護神でもあり、(略)とにかく彼はすべてを創造する神だったのです。ところで、このヘルメスは今はどこにいるかおわかりですか。ここにいるのです。
ウンベルト・エーコ 『フーコー振子』28 (藤村昌昭 訳)

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永遠なるチェに捧ぐ
( TAKE-OFF : TKF-2904 )
- 今はいないあの人に
- 夢見る男
- いったい誰が出来るのか?
- ラ・ボンビージャ
- 穏やかな怒り
- 死なないためのサンバ
- 30年後
- 導く人
- チェのサンバ
- 永遠に
以上は歌のみ。その他カストロの演説などあり。
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外気は体感できないが、くちなしの白い花たちが、そっとしかし厚かましく漂香させてくる。
それは清涼ならぬ精たち。漠とした意識の地平線から闖入してくるものたち。
艶女の吐息が如く濃厚な香り。なぜ薄まらぬ? 法悦を知った邪性か淫蕩か...
そんな中、私の薄汚れたスクリーンには、チェ・ゲバラはヘルメスになっていた。 『導く人』では彼はリバイアタンと歌われている。リバイアタンなのに「地平線のはるかかなたから」(西村秀人 訳)やってくるらしい。
彼は幻想の地平線からやってくるヘルメス。
そして、やってきては帰り、帰りてはまたやってくる人心の振子。
国王の鹵簿
それでは、ということで、急遽、狩猟中の国王の隊列の後を追う。モンゴル語でガクトー、ペルシャ語でワキャーロードという川の畔りで、やっと国王の鹵簿に追いつく。この鹵簿には、昨日の修道院出発以来、僧院長ら高僧たちも随行していた。
那谷敏郎 『十三世紀の西方見聞録』 IV より

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Manuel Cardoso and Durante Lôbo
( COLLINS : 14072 )
- Cardoso : Sitivit anima mea
- Cardoso : Tulerunt lapides ut iacerent in eum
- Cardoso : Non mrtui qui sunt in inferno
- Cardoso : Missa Regina caeli
- Lôbo : Audivi vocem de caelo
- Lôbo : Pater peccavi
- Lôbo : Missa pro defunctis à 8
The Sixteen
Harry Christophers (dir)
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この鹵簿(ろぼ)という詞を、今や我々が使用する機会はまずない。
音韻から出る不可思議なるイメージの独歩。言霊とはまず音なり。
かのジャンヌ=ダルクの話。ランスに向かう国王の鹵簿。
鳴り響くのは、オルレアン解放に酔い痴れる民衆の歓喜。そして司祭の呼びかけで聖誕祭前夜、響き渡るラテン語聖歌。しかし、1429 年に歌われたものなど我が耳の記憶に呼び出はしない。
一転して映像は、16世紀後半の有馬や安土のセミナリオ。
安土にはオルガンがあったというが、信長の頃は『サクラメント提要』はなかった。聖歌隊がラダイニャスやマグニヒカトを歌う。残響はなく、乾いた音ながら清澄無比なる和声。しかし、少年少女たちの驚嘆すべき模倣と無知とが、西欧の異神をほめ歌っていたのである。座敷芸のように。
映像はさらに同時期のイベリア半島に混在(オーバーラップ)する。
遣欧少年使節ならば、ポルトガルに着きし頃、国王の鹵簿に連なりてロボを耳にしたやもしれぬ。だが、後年、マカオの日本イエズス会の音楽資料の中に、デュランテ・ロボのミサの目録名も発見される。日本では歌われていないかもしれぬ。でも、今ここ、セミナリオでロボが歌われている。ただ、その和声に神秘はない。

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Villa-Lobos : Missa São Sebastião
( Hyperion : CDA 6663 )
- Missa São Sebastião
- Bendita Sabedoria
- Ave maria
- Magnicat-Alleluia etc.
Corydon Singers, Corydon Orchestra
Matthew Best (dir)
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映像の時代は勝手に下り、加えて移民までしていた。ロボの精神の残滓を索めて航海したのであろうか。
ヴィラ=ロボスにこんな名品があったとは知らなかった。
文化の周縁説が正しいと思うほどに、ポルトガル黄金時代の香りがこの国の、この作曲家の中に古層として、少しだけ高い体温と共に残存している。だが、それは石の伽藍ではなく、日本のセミナリオの如く、香しき木の薫香か。
A Shropshire Lad
Yes, lad, I lie easy
I lie as lads would choose.
I cheer a dead man's sweetheart
Never ask me whose.
"Is My Team Ploughing ?" from « On Wenlock Edge »

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A Shropshire Lad
( Hyperion : CDA 66385 )
- Vaughan Williams : On Wenlock Edge
- Gurney : The Western Playland
- Gurney : Ludlow And Teme
Adrian Thompson (tn), Stephen Varcoe (br)
The Delmé string quartet, Iain Burnside (pf)
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... この詩(註:上記最後のスタンザをさす)が感動的なのは、その簡潔さゆえである。ヴォーン=ウィリアムスはテノールに「そうだ、若者よ、そうだ、若者よ」と烈しく歌わせて、「たれの愛人かと質すことなかれ」の後では、弦が高音を劇的にふりしぼる。バターワースには、まったく反復はない。「たれの愛人かと質すことなかれ」を静かに歌わせ、そののち、ピアノで消え入らぬばかりの音を少々付け加える以外は、他のすべてのスタンザと同じく、音楽的な効果は狙っていない。
コリン・ウィルスン 『オン・ミュージック』 より
弓馬の極意
朋友と交るには、信あるを以善とす。万づの是非を諌め合て、益ある事多し。大かた浮世の風俗を見るに、心友は寡く、面友は多し。苟(まこと)に君子の交りは水のごとく、小人の交りは醴(あまざけ)のごとしといへり。
都の錦 『當世智恵鑑』「弓馬の極意」より

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FRIENDS FOREVER
( KEYSTONE : VACY-1014 )
- HUSHABYE
- KENNY
- SOMEDAY MY PRICE WILL COME
- ELVIRA MADIGAN
- LULLABY OF THE LEAVES
- THE SHADOW OF YOUR SMILE
- SOMETIME AGO
- DAYS OF WINE AND ROSES
- FUTURE CHILD - FRIENDS FOREVER
Niels.H.Ø. Pedersen (bs)
Renee Rosnes (pf), Jonas Johansen (drm)
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... 心は水の中の月に似たり、形は鏡の上の影の如し。
右の句を兵法に用ゐる心持は、水にはつきのかげをやどす物也。鏡には身のかげをやどす物也。人の心の物にうつる事は、月の水にうつるごとく也。いかにもすみやかにうつる物也。
柳生宗矩 『兵法家傳書』「活人劍」下より
何を以て「友情」というべきだろう。
死んだ友人の愛人を引き継ぐ男、かたや音楽でつながった師弟関係の如き敬意と友情。
ハウスマンの『シュロップシャの若者』は、なぜ英国の作曲家を惹きつけるのだろうか。
バターワースは言うまでもなく、ガーニィ然り、フィンジ然り、ハウエルズ然り。V=W の強意も特別悪くはないが、折角の詩を普段の浪漫にしてしまうと申すウィルスンの言も、またよくわかるような気がする。
そしてペデルセンによる、ケニー・ドリューへのトリビュート。亡き人への思いが深甚なるからこそ、ペデルセン自身ではなく、ロスネスの硬質で熱きピアノにその思いを憑依させているのではないだろうか。
Canti di liberazione
Vocasti, et clamasti, et rupisti surditatem meam.
Coruscasti, splenduisi, et fugasti caecitatem mean.
Frabrasti, et duxi spiritum, et anhelo Tibi.
Guastavi; et esurio, et sitio.
Tetigisti me, et exarsi in pacem Tuam.
Luigi Dallapiccola "Canti di liberazione" Nr.3
(Sebastiano Castellio : Lettera a un amico, 1555)

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Hartmann, Dallapiccola
( EMI : 5 56468 2 )
- K.A.Hartmann : Miserae (1933/34)
- K.A.Hartmann : Gesangsszene (1963)
- Luigi Dallapiccola : "Canti di liberazione" (1955)
Wolfgang Schöne (br), Hermann Pfister (fl)
Chor des Süddeutschen Rundfunks, RIAS Kammerchor
Bamberger Symphoniker
Ingo Metzmacher (dir)
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... いずれにせよ想起される過去はしばしば誤解されるように知覚に類するものではなく、数学の場合と同様に「思われる(concieve, meinen)」命題なのであり、その「思い方」は小説や物語りにおいて誰もが熟知している経験なのである。
大森荘蔵 『時は流れず』「物語りとしての過去」より
外光の淀みがかった皓さがめずらしい。
昼の中の自己意識。
外延の喧騒と内在の静謐。対照ではなく、合一。
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「父よ、私は叡知(ヌース)のうちに全(ト・パン)と自分自身とを見ます」
「子よ、これが再生、即ち 3 次元の体としてもはや描くことのできない事態なのである。 <……> それは再生に関する以上の教えによったのだ。<私はこの教えについては、(簡略な)覚え書きとした>。そうしたのは、我々が大衆のために全(ト・パン)をあばく者とならぬためである」
『コルプス・ヘルメティクム』 CH.XIII.13
[附記 : 990814]
この夢想記録は、ある複雑な状況下で書かれた。そして一番の私のお気に入りである。
実のところ、藤原さん@彼岸の楽堂に、私が勝手にインスパイヤされて書いたものであり、幾つか「彼岸の楽堂」に存する主題・単語が、新たなる物語として transfigured されている。
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