3.

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J.S.Bach : Goldberg Variations
( ERATO : 3894 20972 2 )
- Bach : Goldberg Variations BWV 988
- Scarlatti : Sonata G Major K 14
Scott Ross ( cem ; Live in Ottava, 1985 )
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J.S.Bach : Goldberg Variations
( SONY : SK 60527 )
- Bach : Goldberg Variations BWV 988
Kurt Rodarmer (gt)
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提灯評論家によるレッテル貼りに「ロスはチェンバロ界のグールド」というのがあるらしい。驚いた。
ロスのゴルトベルクと言えば、EMI の名盤があるが、これは 85 年オタワ大学でのライブという貴重な音源。例の『スコット・ロスの神髄』という悪評高い 7 枚組に、この録音ともうひとつモントルー音楽祭のライブが入っている。てっきりこの金山は分売しないものと思い込み、リリースされていることを知らなかった。
さて、ロスのこのライブ録音だが、実に素晴らしい。ロスのライブを聴くのも初めてだが(放送やスタジオライブを除く)、ライブ的な瑕疵もなく、程よい緊張感と音楽の意志的推進力の力勁さに溢れている。EMI 盤が練りに練った洗練窮まるタッチで、チェンバロという楽器の表現可能性を追求した妙味があるとすれば、この盤は音楽に没入していくロスの率直で熱い姿を彷彿させる。ロスの技芸の精華がここにあり、その意味でもゴルトベルクのチェンバロ演奏での筆頭に挙げても良いだろう。比較的速めのテンポでさくさくと進むが、きめの細かな装飾とアーチキュレーションがふんだん。緊密かつテンションの極めて高い演奏が放つ意匠に、ぐんぐんと引き込まれていく。グールドのゴルトベルクが彼流のマニエーレンの一大所産とすれば、ロスの場合、ホットに研磨された調和美的感性の所産であり、マニエリスチックな気概とは全く逆の趨勢だろう。だからこそ、グールドとロスとが「何が似ているのか」「何が同根なのか」、私にはわからない。
もう一枚。これは前評判が非常に高かったカート・ロダマーによる、ギター版ゴルトベルクである。勿論、移調・編曲したもので、況して 1 本のギター・ソロではなく、ロダマーが 2 本のギターを使って多重録音したもの。ギターのテクは素晴らしいし、ギターによるこの曲の表情の別の側面を垣間見たが、旋律線の切り替えやバスラインの明晰性など疑問も多い。多重録音で、その辺が美しく解決されていないのでは、洒落にならない。
しかしこの演奏は、あくまで雰囲気を享受する−不眠症の憂いを慰める−だけであれば、非常に楽しめる逸品とは言えるだろう。ただ、どんなに見事でも、結局、作り物という桎梏からは逃れられない。これが 4 人での重奏ならまだ評価しようもあるが、結果的に多重録音では「ああ、見事なできばえですね」という以上に言いようはない。ロダマーのライナーを読んで驚いたのは、ここにもグールドの影あり、ということだ。全くグールドのゴルトベルクの影響力は測りし得ない裾野があるわけである。
[附記 : 990818 / 20030222]
ロダマー盤については、David J. Grossman 氏が、リリース前から、美国 early music-ML で大騷ぎしていたので、期待が大きすぎたのかも知れない。後日、エトヴェシュ盤を聴き、こうしたイロモノ・アレジー( allergy )は漸くなくなり、溜飲を下した。
それにしてもなぜ金山変奏曲ばかりが、多種多様なるアーチストを魅惑してやまないのか。グールドの影響なしに成立した金山変奏曲録音は果たしてあるのだろうか、など「何でだろう」の疑問は果てなく続く。
2.

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F. Martin & I. Pizzetti
( Hyperion : CDA 67017 )
- Frank Martin : Mass for double choir
- Frank Martin : Passacaille
- Ildebrando Pizzetti : Missa di Requiem
- Ildebrando Pizzetti : De profundis
The Choir of Westminster Cathedral
James O'donnell (dir, org)
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Pizzetti : Missa di Requiem
( CHANDOS : CHAN 8964 )
- Missa di Requiem
- Tre Composizioni corali
- Due Composizioni corali
The Danish National Radio Chamber Choir
Stefan Parkman (dir)
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Vierne : Mélodies
( TIMPANI : 1C1040 )
- Spleens et Détresses (1916)
- Quatre Poèmes Grecs (1930)
- Cinq Poèmes de Baudelaire (1921)
Mireille Delunsch (sp), Christine Icart (hp)
François Kerdoncuff (pf)
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先日、斉諧生@松宮さんがすすめていたピツェッティの「ミサ・ディ・レクイエム」を聴く。知らない作曲家はまだかなり多いのだが、ピツェッティもその一人。斉諧生さんによれば「フォーレやデュルフレのレクイエムを愛好される方には、ぜひお聴きいただきたい美しい曲である」とのことで、紹介されていたオドンネル盤とデンマーク国立放送室内 cho 盤とを入手し、楽しみに聴いた。
フォーレやデュルフレが挙げられていたのだから、管弦楽かオルガン伴奏が付くのかと思いきや、アカペラであった。まるでバロック後期の声楽作品に見紛う。勿論、よく聴くと、ポリフォニー部では現代的要素もわかるが、初めての目隠し聴きではわからないかもしれない。「レクイエム」は 2 曲目の「ディエス・イラエ(イレ)」が質量ともヤマか。斉諧生さん曰く「少年合唱の技術的限界か、細部が混濁気味なのは否定できない」のは首肯できるとしても、やはりデンマーク盤に比べ、ボーイ・ソプラノの方がベターに聞えるのは、人的混濁のない世界に遊びたいせいであろう。レクイエムのほか、3 つの合唱曲、2 つの合唱曲も悪くないが、特に響きの上での特長は感じられなかった。ピツェッティがダヌンチオと交流があったことを知った。
こういう俗韻から離れた作品を聴くと、もう少し続けて清澄な世界に遊びたい。仏ティムパニ・レーベルの『フランスのメロディ(歌曲)』シリーズの第 8 集としてリリースされた、ヴィエルヌの歌曲集を聴く。
世俗歌曲集であるが、ヴェルレーヌとボードレールの詩による 2 つの歌曲集の間に、ソプラノとハープのための「4 つのギリシャの詩」という愛らしい小品がある。ピアノではなくハープを使うところがミソで、とても素樸な美しさがある。いつものヴィエルヌにはない地中海的明るさが、ハープのたおやかな情感によって否応にも引き出される。少々くすんではいるが、心地よく碧色と白色の世界に浸れる。地中海からパリに戻り、ヴェルレーヌとボードレールのピアノ歌曲。ヴィエルヌの場合、フォーレやショーソンとは違い、底にはどこかくすんだ陰翳がずっと横臥している。彼のピアノ作品のように、どこか鈍重な空気感を持ちながらも、憂いの簡素な色合いは好ましい。ヴィエルヌの世界は、教会を離れたところでも、同質的なカラーに包まれている。
[附記 : 990817]
何度聴いても、実のところピツェッティという作曲家に対し、残念ながら私はエクスタシスを捉えることができなかった。ピツェッティに比べると、プーランクのアカペラの方がやはり素晴らしいと思わざるを得ない。
1.

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Ernest Pingoud : Symphonic Poems
( ONDINE : ODE 875-2 )
- Le Prophète (1921)
- Chantecler (1918)
- Flambeaux éteints (1919)
- Le fétich (1917)
- Le chant de l'espace (1931/38)
Finnish Radio Symphony Orchestra
Sakari Oramo (dir)
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Ibert : Orchestral Works
( NAXOS : 8.554222 )
- Bacchanale, Scherzo (1956)
- Divertissement (1928)
- Ouverture de Fête (1940)
- Symphonie Marine (1931)
- Escales (1922)
Orchestre des Concerts Lamoureux
Yutaka Sado (dir)
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『レコード芸術』 1 月号の「海外盤試聴記」に、片山杜秀によるフィンランドのモダニスト、ピンゴウド(片山は仏語読みでパングーと表記。作品名が仏語表記といっても、解説くらい読んでいれば、人名の適切な日本語表記くらいわかるだろう)の作品集の紹介記事があった。以前、北欧音楽協会を通じて頂戴した『フィンランドの音楽』(オタヴァ)という新書本を読んだ際、ピンゴウド、メリカント、ライティオの 3 人のフィンランド・モダニストをいづれ聴いてみたいと私は思っていた。
エルネスト・ピンゴウド(1887 - 1942)は、ペテルブルク生まれのロシア−フィン人で、18 年の革命を避けフィンランドに移民、42 年にヘルシンキで鉄道自殺した(鉄道マニアたるものそんなことをしてはいけない)。彼はフィンランドにモダニズムを初めて持ち込んだ人であるが、ロシアでは R=コルサコフやグラズノフらに師事、1906 年から 5 年間、ドイツ各地で音楽・文学・哲学・地質学などを修めたコズモポリタン的教養人でもあり、フーゴー・リーマン、レーガーに師事した由。彼の作曲の中核は管弦楽作品だそうだが、交響曲が 3 曲あるほか、メインの作品群はここにも録音されている交響詩・ファンタジーで、15 曲程度あるとのことである。彼は、フィンランド作曲家の中で、珍しくカレワラに題材を求めなかった人であり、フィンランドの民族性強調を批判、シベリウスでさえ回避し始め、人々に忘れられていった。
(以上、『フィンランドの音楽』と CD のライナーとによる)
作風は各曲で異なるが、モダニズムといっても無調ではなく、むしろロシア・ロマン派あたりの色合いを基調とし、それに当時の音楽思潮がミックスされているといった感じで、同じ頃のロスラヴェツ、いやプロコフィエフと比べてですら、かなり穏当な調性音楽だ。但し、影響という点では、底辺に濃厚なのは R・シユトラウスとスクリアビンで、特に前者からは標題性を、後者からは病的な官能性を得たという感じ。1920 年代の芸術思潮に浴した者ならではの鋭敏なるセンスは慥かに感じられるのではあるが...
しかし、私的には「スクリアビン風リャードフ」のように思える。標題が指し示すほど深遠な寓意と構成を 5 曲とも感じられなかった。何となく映画音楽っぽい感じがしないでもない。スクリアビン風というのも、厚ぼったいオルケストレーションによる精神病例のミメーシスだけなのではと思う。「消された炬火」の色調がこの中ではまだよいが、「予言者」や「物神」は、イマジネーションと構成力が中途半端で、リャードフなみの力量しかないように思えるし、3 部作のひとつ「宇宙の歌」も音響的には面白いが、音楽的展開が退屈。しかし、今後も他の交響詩や交響曲なども聴いてみたいものだ。
さて、このところ評判の佐渡&ラムルー管による「イベール集」を聴く。溌剌とした明るい音色と意欲的表現の演奏で、特にイベールを初めて聴くなら CP も含めておすすめだろう。中でも「ディベルティスマン」の出来映えが良い。トルトゥリエによる同曲の演奏(Chandos)もクリアな響きと明快な愉悦に溢れ非常によかったが、佐渡の指揮はとにかくノリが良いというか、自然体での熱演である。さすがに「寄港地」はパレー盤、マルティノン盤あたりに敵わないが、他にマルティノンでしか聴いていない「祝典序曲」の活き活きとした動きと清々しさがいい。またフレモー盤しか聴いたことのない「海の交響曲」では、場面描写に肉迫しようとするひたむきさ、「バッカナール」も洒落たセンスも素敵だ。
私が感心したのは、デビュー?盤に NAXOS を使ったこと。別に NAXOS ではなくともよいが、不透明なメジャーの呼びを待たずして、佐渡の今の生きのよさを録れてくれたのは良かった。今後も現メジャー・レーベル軽視(笑)の姿勢がクラシカル音楽界にさらにほしいものである。
[附記 : 990817]
後日談だが、ピンゴウドを奥座敷の課題盤に推薦したところ、鈴木さんから猛反発を喰らった。理由は簡単。全員が入手しやすいものでなくてはいかん!ということである。今はなくなった「Music Boulevard」から、発売日予約で買った。でも ONDINE レーベルは、Tower Records や HMV でよく見かけるし、この盤もその後あちこちで見かけた。まぁ、それを言っても、東京と大阪では音盤事情が違うと一蹴されたであろうが...
また佐渡さんのイベールは、後にどこかで読んだが、NAXOS を使ったというのではなく、もともとラムルー管の自主録音なのださうだ。「販」権だけか。なるほど、それでその後はラムルー管ではないオケで、ERATO 録音が続いたわけですか...
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