5.

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Tournemire : uvres pour piano
( ACCORD : 201312 )
- Etudes de chanque jour op. 70
- Douze Préludes-Poèmes op. 58
Marie-Catherine Girod (pf)
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Delius : The Complete Part-Songs
( CONTINUUM : CCD1054 )
- Early Part-Songs (1887)
- Durch den Wald
- An den Sonnenschein
- Ave Maria
- Sonnensheinlied
- Frühlingsanbruch
- Her ute skal gildet staa (1891)
- Chorus from the opera "Irmelin" Act I (1890 - 92)
- Irmelin (1896?)
- Wedding Music from "A Village Romeo and Juliet" (1900 - 01)
- Chorus from "Appalachia" (1902)
- On Craig Ddu (1907)
- Wanderer's Song (1908)
- Midsummer Song (1908)
- Two Songs for children (1913)
- Little Birdie
- The Streamlet's Slumber Song
- Two Songs to be sung of a summer night on the water (1917)
- Two choruses from the music to Hassan (1920 - 23)
- The Splendour falls on Castle Walls (1923)
Elysian Singers of London
Matthew Greenall (dir), Andrew Ball (pf)
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別段、神経がおかしくなった話ではない。このところ、2 種類の類型的な夢を見る。
ひとつはジョン・マーチンの版画に出てくるような、壮麗な建造物を遠くに眺望するロケーションにいる夢。マーチンのミルトン『失楽園』の挿絵画などをご存知の方なら、すぐわかろう。あの風景が、夢の中で総天然色であらわれる。実に素晴らしく、他人に見せたいほどだ。我が夢にしては珍しく音まで覚えていて、必ず、上記トゥルヌミールの『12の前奏詩曲』のうちの終曲「Glorification de la trinite」のパッセージのような曲がかかっている。最初はロスラヴェツかと思ったが、ふと思い出し、聴き返してわかったのは、同じ頃に聴いたこのギロのトゥルヌミールだつた。この場でも、最初の頃にとりあげたドゥルバレのトゥルヌミールより、音の性質はピアノだと思った。この録音を無心に聴いていると、何だかドビュッシィでも聴いているかのような錯覚におちいる。時折、左手の和声にゾクゾクしながら反芻する。
2 つめは、水の上をさらさらと歩く夢。こちらは水上なのに、四囲の風景はピラミッドが続く。足の裏が冷ややかに感じる仮想現実?つき。これにも音が入り、ウェーベルンのヨーネの詩によるカンタータと思っていたら、ディリアスの「夏の夜、水の上にて歌える」の 1 曲目らしきもの。この「水の上にて歌える」に、ハッサンのメロディが複合したような感じか。ディリアスのパートソング集を聴き直す。このディスクの女声は、ほぼノンヴィブラートで、ディリアスの虚構的詩情−音楽の Hanging Garden −を清澄に引き出す。特に無言詩曲。ボーイソプラノがあうのもそういう性質からだろう。
[附記 : 990822]
この頃、フィリップ・カーの『殺人探求』を読むうち、ヴィトゲンシュタインを調べはじめ、面白くなっていた頃である。学生時代、ヴィトゲンシュタインには全く興味がなかった。
それにしても、この 9・10 月は粗製濫造、矢鱈と更新だけは重ねたものだと呆れる。多分、奥座敷の談論風発が非常に刺激的だった頃だからだろう。そして、各々のサイトでも、そこで影響しあった内容が反映されていたのだった。それにしても、このような蜜月時代も、各人の状況変化が加わり、長くは続かぬものとなる...
4.

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Satie : Parade, Gymnopédie, Relâche
( EMI : EAC-40124 ; LP )
- " Parade " Ballet
- Gymnopédie n°1 & n°3
- " Relâche " Ballet (Instantaneous)
Orchestre de la Société des Concerts du Concervatoire
Louis Auriacombe (dir)
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Satie : Mercure, Socrate
( EMI : EAC-40123 ; LP )
- " Mercure " Poses plastiques en trois tableaux
- " Socrate " Drame Symphonique en trois partes
Danielle Millet (ms), Andrea Guiot (sp), Andrée Esposito (sp), Mady Mesple (sp)
Orchestre de Paris
Pierre Dervaux (dir)
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スパイク・ジョーンズ・スタイル
( COLUMBIA : COCA-12581 )
- ウィリアム・テル序曲
- かっぽれ
- 黒い瞳
- ヤットン節
- シナの夜
- 炭坑節
- 芸者フラ
- おこさ節
- こんなべっぴん見たことない
- カルメン
- 黒い瞳(別バージョン)
- 芸者フラ(別バージョン)
- こんなべっぴん見たことない(別バージョン)
フランキー堺とシティ・スリッカーズ
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... 絢爛豪華な支那の寄席藝人は、觀客の想像力を開花させるだらうし、「アメリカ娘」は空想の自動車の警笛を鳴らすとき觀客の日常生活の呪法を表現するであらう。青と白のタイツに身を包んだアクロバツトは、彼等の無言の儀禮をえもいはれぬ、思はず息を呑ませるがごとくの敏捷さで祝福するのである。
ディアギレフ舞踏団 『パラード』公演プログラム1917より アポリネール序文
エリック・サティといえば、80年代前半、『ユリイカ』『現代思想』グループに持ち上げられて一時はディスクも繚乱していたのだが、今やすっかりなりを潜めた。その『ユリイカ』には、別冊で「音楽の手帖」というシリーズがあり、「サティ」の巻も出た。面白く拝読したものである。
それまでのサティについては、ノルベール・デュフルクの『フランス音楽史』などに読めるとおり、道化と皮肉と嘲笑のアンデパンダンという程度であった。シャンピニュールの『音楽史』では「ボヘミアンのエリック・サティ」で片付いているとか。精々ある程度ちゃんと記載されていたのは、シュトゥッケンシュミット『現代音楽の創造者たち』くらいか。しかし、私もサティの音楽そのものが面白かったというより、1920 年代の芸術家・思想家など、多様な流れと生きざまに興味を持っていた複線に過ぎない。
そういう中で、先日聴いたアブラヴァネル盤が記憶の撃鉄を起こし、この 2 枚を引っ張り出した。先日の用語によれば、オーリアコンブ盤については「シドニイ」。アブラヴァネルとはアプローチは違い、音楽の中にこれまで入り込まなかった「騒音」効果のリアリズムを、同化ではなく異化させる知的な妙味があり、「見世物」の宇宙を冴えに冴えた感覚で引き出す。その点、アブラヴァネルはもっと雑なままであるが、逆にアポリネールが喝破した「パラード」の神話的感受性に迫る混沌さに近づく(あくまで結果論)。
オーリアコンブ盤では、「ルラーシュ(本日休演)」がよい。幕間に上映されたルネ・クレールの『シネマ』の中での、葬列の展開と音楽の皮肉っぽいドタバタ展開の一体性がよい。この曲の初演では、アダムとイブよろしく全裸の男女が立っていたそうだが、その男はマルセル・デュシャンだったそうで。クレールの『シネマ』では、他にも有名な芸術家の出演多数だった。
もう 1 枚はデルヴォー&パリ管の「メルキュール」と「ソクラテス」。前者はぴりっと冴えた音のつくりであるが、アブラヴァネル盤のいい加減さの方を私は好む。「メルキュール」はヘルメスのことである。解説の故岡俊雄さんは「メルクリウスは水星のことである。また水銀のこともいう」と頓珍漢な解説を書いているが、逃走・混沌といったヘルメスのドタバタ的神話世界に見合う、ディヴェルティスマン風のノリだと解したい。
デルヴォー盤は、やや真面目かもしれぬ。しかし「ソクラテス」のカプリングというのが面白い。ソクラテスも、或る意味では、トリックスター的要素があるわけで、そう考えた上でこのアルパムをリリースしたというのなら、なかなかのプロデュースだろう。
牽強付会な余談。こういうサティのドタバタからいきなり飛ぶ。「騒音」効果を異化ではなく同化させる「見世物」的宇宙といえば、美国 1940 年に結成されたスパイク・ジョーンズ&シティ・スリッカーズを想起する。今でいうコミック・バンドであるが、ピストルやサイレンのほかフライパン、バケツ、ノコギリからくさめ・奇声・笑い声と、日常家庭の「騒音」を巧みに利用し、徹底した音楽の戯画化をやってのけた。
この日本版を編成したのがフランキー堺で、主なメンバーは、後のクレージィ・キャッツへ。ここでは、本家よりもジャズバンドらしい味わいが散見できる。アレンジャーは、ブラバン界では知らぬ者のない岩井直博。特に日本民謡の奇抜なアレンジが、我が国版シティ・スリッカーズの妙味か。本家もそうだが、多重ミキシングなどできなかった時代、これだけの効果音をズレなく演奏しきるこの人たちは凄い。とりわけ「ウィリアム・テル序曲」が楽しい。効果音も日本版はフランキーの「うがい」や植木等の「いま仕事中」、谷啓のピストルや木琴、奇声とまぁ凄まじい。
[附記 : 020420]
当時、職場のレクリェーション部隊の幹事をやっていた。上記文章は、私が勝手に書いていた「編輯後記」にもともと掲載、修正したものである。原文はこれに、スパイク・ジョーンズ&シティ・スリッカーズをちゃんと加えていたのだが、原文を散逸して了った。フラさんがジャズ・ドラマーだったことなど知らぬ人も多い。写楽の研究か、精々「幕末太陽傳」だもんなぁ...
3.

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Britten : Serenade and Les Illuminations
( EMI : SXLP 30194 ; LP )
- Serenade for tenor, horn and strings
- Les Illuminations ( for high-voice and strings )
Heather Harper (sp), Robert Tear (tn), Aran Civil (hrn)
Northern Sinfonia Orchestra
Neville Marriner (dir)
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Marriner conducts Martin & Bloch
( EMI : EAC-80550 ; LP )
- F. Martin : Petite Symphonie Concertante
- Bloch : Concerto Grosso No. 1
Osian Ellis (hp), Simon Preston (cem), Philip Ledger (pf), Francis Grier (pf-2)
Academy of St.Martin-in-the-fields
Neville Marriner (dir)
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... 既に今までに何度か感じ気がついているこうした昔の生活の沸騰がどうして起こるのかと考えてみた。こうした唐突な記憶喚起にはいつでも一つの原因が、物質的な単純な原因が存在していた。物の匂いとか香りといったようなものが一番多かった。
モーパッサン 『死の如く強し』
風邪で昼間ずっと寝ながら、久々に杉捷夫さん訳の上掲書(岩波文庫)を読み直していた。フランス人は、記憶の喚起の表現が的確。
ブリトゥンを記憶の底から蘇生させたのは、最近聴いたケーゲル盤が素晴らしかったからで、是非比較したいと思ったからである。ケーゲル盤は「イリュミナシオン」がテノールだったが、マリナーはソプラノ。最近、小澤が新日本フィルとこの曲をやった時は、ソプラノだった。私的には、テノールの方が好ましい。マリナーは、ケーゲルに比べると抉りとるような激性や彫琢された深さはないものの、微細な表情がきめ細やかに描かれており、これはこれでブリトゥンの世界らしいのかもしれない。主観的だが、直截的なランボー的世界というなら、ケーゲル盤の方がいい。しかし「セレナーデ」は、ケーゲルが厳格な味わいに過ぎる分、マリナーの方が心地よく、シヴィルのホルンもいい。しかし、4 曲目のブレイクの詩による「Elegy」はケーゲル盤、いやシュライアに軍配をあげる。マリナーもティアーも、テニスンやキーツ寄りだ。ブレイクもそんなおどろおどろしい詩ではないが、同列の叙情ではない... あまり気に留めていなかったが、ここではなぜアカデミーではなかったのか、この曲を聴いて何となく理解できた。
マリナーがブロッホを録音していたとは、露知らずであった。この時期のマリナーは、ロスアンジェルス室内管などとも並行して録音、20 世紀ものまでレペルトワールを拡げた頃で、質のよいものがある。これもその 1 枚。ブロッホのコンチェルト・グロッソは、マリナーにお誂え向きとも言えるベストレコーディングと思う。ブロッホは、強引なフレージングなど無縁ながら、活き活きとした音楽の展開が素晴らしい。いかにもマリナーらしい、タッチの軽く明快な演奏。これにもう少し緻密なアタックが加われば、云うことはない。マルタンの小協奏交響曲も佳演だが、欲を言うと、もうすこし香りがほしいところだ。
2.

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Bach Works for Violin Solo
( WELL*TEMPERED : WTP5180 )
- Partita No.2 D-minor BWV1004
- Partita No.3 C-major BWV1005
Lara St.John (vn)
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「つまり」重三郎が言った。
「切った燕がどれだけの距離を飛ぶか。切られたも知らず飛翔するほど、勝ちというわけで。飛んで来た捷さにもよりましょうが」
五味康祐 『燕落し』
昨年だったろうか、Dave's J.S. Bach Page で激賞していた盤である。普段はソロ・ヴァイオリンなどろくに聴かないが、偶々、音盤屋に並んでいたので、今年のはじめに購入。最近、また取り出して酒を飲みつつ、夜半に聴き直しているのだが、なかなかいい。濃密系・濃厚系演奏で食傷気味だった JSB のパルティータも、こういう演奏で聴くと飽きがこない。
セント・ジョンのこの演奏を表現するのは難しいのだが、一言で言えば、凛とした情感と鋭すぎない音楽の運び、そして瑞々しさということになろう。
瑞々しくクリアな響き、くっきり浮かび上がる和声造形や明暗、各舞曲のリズム収斂など、テクニックは申し分なし。しやなかな運動性と爽快なパッションが心地よい。表現は積極的だが、全然押しつけがましくなく、生気に充ち盈ちている。深々と情感的な「濃い」表現とは違った鮮烈さがおいしく、却ってそれだけで充足感を生む。2 番のシャコンヌなども、沈むように暗くなりがちな曲調に流されず、温度が高く新鮮な光沢を得ている。
[附記 : 990822]
奥座敷の関西オフでも漏らしたのだが、なぜかセント・ジョンのこの演奏に、この時はハマってしまったのだが、聴き直すと、瑞々しく爽快な味わいは良いとしても、はて何がそんなに良かったかと拱手思案。たかがこの程度のジャケ写真にエロスを感じたわけでもないし、さては媚薬込みの CD か?
まぁ「情熱的な女の蠱惑に浸りたかったのだろう」ということにしよう。そう云えば、熊本マリのゴルドベルクもそんなだった。女の沸々としたパッションというものは、魂を救って呉れることが多いのである。
[附記 : 020421]
あとで聞いた話だが、四方さんに拠れば、Dave 氏は単に可愛い女性が好きなだけではないかとの率直なご意見なり。四方さんが彼に曽根麻矢子のゴルドベルク盤をプレゼントしたところ、大変喜んでいた由。何を喜んでいたのか?は愚問だろう。
[附記 : 020504]
最近、セント=ジョンを聴き返してみた。やはり素晴らしい演奏と改めて思う。特に速いパッセージの快闊さ、心地よく伸びるボウの美しさは魅力的だ。仔細に聴いてみると、ヴィブラートを抑えたバロック奏法風の背景(勿論、使用楽器はバロックヴァイオリンではない)があり、それが秘訣なのかもしれない。
ヴァーチュオジティ好みの vn ファンには慥かに受けにくいのだろうが、実はセント=ジョン再評価の背景には、先日、1940/50 年代のカウフマン(Louis Kaufman)の素晴らしく伸び伸びした音を聴き、ヴァイオリンの面白さとは何だろうと改めて考え直したことが大きいようである。
1.

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Die 12 Cellisten der Berliner Philharmoniker
( ACANTA EA22.798 ; LP )
- Funck : Suite D-dur
- Klengel : Hymnus op. 57
- Blacher : Blues - Espagnola - Rumba philharmonica
- Françaix : Aubade
Die 12 Cellisten der Berliner Philharmoniker
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Villa-Lobos : Bachianas Brasileiras and Funck
( ARION : ARN 68075 )
- Villa-Lobos : Bachianas Brasileiras No. 5
- Villa-Lobos : Bachianas Brasileiras No. 1
- Bach (Villa-Lobos) : Prélude n°8 en ré mineur BWV853
- Bach (Villa-Lobos) : Prélude n°22 en sol mineur BWV867
- Funck : Suite D-dur
Nicole Fournié (sp), Ensemble Tempo di Cello
Jaques Bernaert (dir)
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チェロ軍団の其ノ弍。多分、其ノ参はない。
先日、聴けなかったアルバムということだが、BPO の 12 人チェロ軍団のアカンタの LP を少し前に中古屋で見つけた。ひと頃はどこでも転がっていたのに、今ではなかなか見つけるのも大変。しかし、CD 盤の方がむしろ絶望的に手に入らない。4 曲の中ではクレンゲルの「ヒムヌス」が名演。先日のサイトウ・キネンに比べ、抉りとる音の力感とアンサンブルの出来が違う。フランセもこちらの方がやはりうまい。ピッチや和声の取り方ひとつとっても、BPO のアンサンブル・アイデンティファイが格段に違う証左である。でもどんなに名アンサンブルでも、詰まらぬ作品はやはり詰まらぬもので、ブラッヒャーの作品は面白くなかった。
もうひとつの Ensemble Tempo di Cello のヴィラ=ロボスだが、指揮者がいることもあり、フランスらしいアンサンブル。しかし、音楽の愉悦感に薄く、ピッチの安定感も弱いように思う。「ブラジル風バッハ」第 1 番は、1 楽章の主題の彎きや 3 楽章の主題の掛け合いなど鳴りが軽く、楽器が鳴りきった BPO チェロ軍団のような勁さがなく、音楽も恬淡として甘めになってしまった。そういう点、フンクの組曲のような作品の方が体質的にあっている。しかし、BPO チェロ軍団盤を聴いた後では... 似たような盤ということでは、私なら前回とりあげた The Pleeth Cello Octet 盤をとるが、好みの問題。
[附記 : 990822]
後日、この ACANTA 盤は、新橋の安売り CD 屋で手に入れることができた。でも CD 盤は音がどうも堅くなり、LP の方がやはり音が良い。
[附記 : 020421]
その新橋の安売り CD 屋もとうの以前に潰れてしまった...
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