5.

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J. S. Bach : Wohltemperierte Klavier I
( KING : KICC 204/5 ; 2CDs )
Das Wohltemperierte Klavier I
( Praeludium und Fuge Nr.1-24 BWV846-869 )
Masa-aki Suzuki (cem)
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鈴木雅明師が JSB の「Wohltemperierte Klavier」第 1 巻を録音した話は聞いていた。師のチェンバロは一度も生では聴いていないので、コープマンを師に持つこの人のチェンバロ演奏を楽しみにしていたのだが、思ったとおり、非常に生き生きと、しかもこの曲集ならではの曲調の性格を明快に弾き分けている。
誤解を懼れずに言わせていただければ、この演奏は最盛時のコープマンに極めて近いものを感じる。師の影響力ということもあろうが、鈴木師とコープマンにはやはり共通するパッショネイトな源泉があつて、音楽の躍動感も同じようにそこから生まれている。コープマンにも「Wohltemperierte Klavier」の録音はあり、こんなに美しい演奏もないが、この曲集の 1 曲 1 曲の性格の違いを咀嚼して弾き分けた気がしないし、コープマンが常に過剰な装飾音符を付し、珍妙な愉悦感に統一しがちになる一本調子感も好ましくない。しかし、鈴木師の演奏は、そうした近年のコープマンにありがちな惰性はないが、音楽の力感といい、表現の精妙さといい、80 年代始め頃まではコープマンが持っていたよさを、なぜか投影してしまうのである。
また師コープマンと同じクルスベルヘンの楽器の乾いてくすんだ音も、時にはクラヴィコードのように聴こえる効果があって面白いが、私としてはもっと輝きと光沢ある(リュッカース系のような)楽器の音がよかったような気もする。ともあれ、第 2 巻のリリースが楽しみである。
4.

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J.S.Bach : Clavierubung I & II
( Harmonia Mundi : 05472 77306 2 ; 3CDs )
- Partita No.1 - 6 BWV 825 - 830
- Italienisches Konzert F-dur BWV 971
- Partita h-moll BWV 831
Andreas Staier (cem)
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J.S.Bach : Clavierfantasien
( Harmonia Mundi : 77039-2-RC )
- Fantasie a-moll BWV 922
- Fantasie und Fuge a-moll BWV 904
- Fantasie c-moll BWV 921
- Fantasie c-moll BWV 919
- Praeludium und Fuge a-moll BWV 894
- Praeludium und Fughetta G-dur BWV 894
- Praeludium und Fuge F-dur BWV 901
- Chromatische Fantasie und Fuge d-moll BWV 903
- Fantasie "duobus subiectis" g-moll BWV 917
- Fantasie und unvollendete Fuge c-moll BWV 906
Andreas Staier (cem)
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アンドレアス・シュタイアの JSB を聴く。
結論から言うと、パルティータの録音については、確かに卓れた演奏だと思う。各舞曲の性格を表現力豊かに弾き分けている。例えば、6 番のトッカータ主題の 32 分音符の扱い方といい、クーラントでのスタッカートを効果的に交えながら、スラーでつながれたリズムを巧妙に聴かせるなど非常に面白い。例えば、同じ 6 番のクーラントをスコット・ロス盤と聴き比べると、ロスの方が安定感がある分、やや念を押されるようなくどさを感じる。またピノックのように、ただ一直線に速く弾くことしか考えていない演奏に比べ、シュタイアの演奏は気儘すぎるきらいもあるほど、生き生きした舞曲の力感を巧みに載せこんでいる。
パルティータ全曲を通しての印象は、ともかく闊達であり、舞曲のダイナミズムを鷲づかみに捉えた演奏。タッチに粗さがあっても、ストレートに音楽表現に向かっていることの方を取りたい。イタリア協奏曲とパルティータロ短調もユニックな演奏である。どちらかというと、この人は「閃き」型の演奏家ではないだろうか。
一方、「ファンタジー集」。88 年の録音の割に音が悪く線も細いが、この人の「閃き」の良さを期待して聴いた。が、まぁまぁというところ。半音階的幻想曲とフーガなどかなり意欲的な解釈で、曲趣の枠を大きくはみ出すユニックさがあるが、シュタイアの意図が十分活かされた演奏ながら、私は今ひとつ半端な印象を受けた。確かに度がすぎると曲のクリアな響きが失われるが、ギリギリより少し手前で止めてしまっているといった感じ。やるなら、ニューマンくらい大胆にやってほしかった。幻想曲と未完フーガハ短調 BWV 906 は、アクセンフェルト以来、初めてフーガまで弾いている演奏を聴いた。シャープでいいが、この曲の不思議な情感がほしい。或いはアクセンフェルトのように、剛直に鳴らし切った方がよい。しかし、全般にタッチが粗すぎ、音が汚い。
以上からして、シュタイアという人は、オーセンティックな古楽の新機軸を目指しているのか、もっと次元の違うダイナミックな演奏家を目途としているのかよくわからないが、パルティータの録音と併せて考えるに、最近の「去勢された」折り目正しき古楽の中では、大胆でイマジネーションに覚醒した人とは言えよう。
しかし、ニューマンを経験した者からすると、大胆な解釈を入れ込む余地はさらにある筈。こういう演奏家なので、やはりチェンバロの響かせ方においては、ヒストリカル楽器を使ったタッチの素晴らしさを具現できる気配はない。その点、アレッサンドリーニやアンタイの方がよい。仕方がないが、こればかりは両立しないようだ。
[附記 : 990817]
今にして思えば、シュタイアがチェンバロからフォルテピアノの世界に移行(逃避)したのは、彼の音楽性からすれば、自然なことだと思われる。尤も、それはレペルトワールとしての話で、楽器の問題ではない。
彼の場合、シュトルム・ウント・ドランク以降の作曲家の方が、音楽的感興を自由に、多彩に引き出すことが可能なように思う。しかし、彼のフォルテピアノは、チェンバロ同様、タッチやアーチキュレイションに、相変わらず粗さが残っている。どうこれを克服するかこそ、今後の彼の切実なる課題ではないかと思う。
3.

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Delius : Violin Concerto
( Argo : POCL-1221 )
- Violin Concerto
- Two Aquarelles
- Two Pieces for Small Orchestra
- Intermezzo ( from "Fennimore and Gerda" )
- Irmelin Prelude
- Dance Rapsody No. 2
- Dance Rapsody No. 1
Tasmin Little (vn)
Welsh National Opre Orchestra
Sir Charles Mackerras (dir)
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Delius : Violin Concerto
( UNICORN-KANCHANA : DKP(CD)9040 )
- Violin Concerto
- Suite for Violin and Orchestra
- Legende for Violin and Orchestra
Ralph Holmes (vn)
Royal Philharmonic Orchestra
Vernon Handley (dir)
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ディリアスはよい。独自の詩情と握れば崩れそうな繊細な感触は、日本人の抒情の琴線に触れるものがあるように思う。ただ、日本人の抒情が或る種の「間」の取り方に特性があるとすれば、ディリアスは息の長く、しかもシームレスで緩やかな呼吸のように感じる。しかも、内視的イメージに富んでいるのも魅力的だ。
マッケラス& WNO によるディリアス・シリーズが続いているが、先日、このバイオリン協奏曲を買う。以前「海流」の入つたこの argo のシリーズを聴いた。呼吸の長く、巧妙な表情づけとデュナーミクは、ディリアスらしい情緒に仕上がっていた。このバイオリン協奏曲の録音もなかなか素晴らしい。ソロのリトルは、まだ漂い感のような表現はやや足りないが、マッケラスに支えられての瑞々しい情感がよい。超技巧的名人芸を要するカデンツがあるわけでもなく、ひたすら持続的な想像力を弾きき込まねばならいこの曲は、却って若手には難しいかもしれない。リトルの不足分は、マッケラスの精妙なサポートで補われている。というより、マッケラスのサポートがリトルの想像力を掻き立てながら、曲に情感の分断を許さない。
しかし、これを聴くと、どうしてもホームズの名演を聴きたくなった。ホームズは 20 世紀のバイオリン協奏曲の演奏にかけては肩を並べる者はいなかったとのことだが、84 年に 47 歳で急逝した。久々に聴き直してみると、温かな中に豐かな情感があり、ふんわりとさまよい、そして静かに消え行くさまは見事だつた。こちらは完全にハンドリーがホームズに名サポートをしている感があり、リトル&マツケラスのような、相互にイマジネーションを高めあうという感じではない。それでも、やはりホームズの方が好きである。
2.

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J. S. Bach : Wohltemperierte Klavier II
( DENON : COCO-80079/80 ; 2CDs )
Das Wohltemperierte Klavier II
( Praeludium und Fuge Nr.1-24 BWV 870-893 )
Huguette Dreyfus (cem)
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J. S. Bach : Toccatas for Harpshichord
( VASTRÉE : E 8539 ; 2CDs )
Les Clavier Bien Tempere II
( Preludes et Fugues I-XXIV BWV870-893 )
Blandine Verlet (cem)
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ヴェルレはドレフュスにパリで師事しており、一応、ふたりは師弟関係にある。ドレフュスは、DENON や ARCHIV の JSB やフランスもので馴染み深いが、ヴェルレは国内盤リリースされたアルバムが少なく、またそれが主力録音ではないので、知らない人は意外に多い。このふたりを知ったのは、時期は全然違うが、ともに伴奏からである。ドレフュスは、ラルデとの JSB のフルート・ソナタのオブリガード、ヴェルレは、ヴェランとのヴィヴァルディの「忠実なる羊飼い」の通奏低音である。
ヴェルレのソロを聴いたのは、80 年代後半である。F. クープラン全集、JSB のフランス組曲やフローベルガーなどたて続けに聴いたが、とにかくアクが強い。摩訶不思議な解釈、情緒よりは喜遊性さえ感じさせる独特のイネガルがヤミツキになってしまい、それ以来、すっかりこのおばさんが好きなってしまった。それに比べると、ドレフュスはやはり貴婦人然とした、穩やかで情緒深い演奏家という感がある。この御両人を何の脈絡もなく「Wohltemperierte Klavier」、それも第 2 巻で対決させてみる。
まづ、ドレフュス。音楽全体の表現はやはり嫋やかなのだが、女性らしい優美さという次元よりも、チェンバロの深みのある響きと一体化した、丁寧かつ表情細やかな演奏であり、品格と饒かさがある。録音も秀逸。タッチが素晴らしい。ARCHIV の JSB のような、どこか物足りなさをほとんど感じなかった。使用楽器はギョーム・エムシュ (1763) で、調律法はヴェルクマイスターIII。よくよく土台は練られている。ただ不満を言えば、曲調の性格の出し方が調律法の割に弱いように思うし、やや一本調子。
次にヴェルレ。相変わらず「我が道を行く」であるが、こちらも通常の弾き方とはかなり違った、ユニックな解釈が聴ける(ユニックといえば、パルティータやゴルドベルクもかなり独特な解釈だが...)。例えば、3 番の前奏曲などかなり大胆にあっさり弾き切るし、ドレフュスが自然な美しさを醸し出す 7 番や 9 番の前奏曲では、田園的な明るさから滑稽味に変容する不思議さ。全体に、短調曲のフーガなど聴かせ方はいいが、14 番や 24 番前奏曲のかなり長めのパウゼは心臓に悪い。こちらはコルマーの博物館にあるハンス・リュッカースII (1624) で、記載はないが、古典調律を使用している筈。多分ピッチは、392Hz 付近だろう。全音近く低いので、調性取得に多少戸惑うが、こちらもしっかり土台は練られている。
1.

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Scriabin : The complete piano sonatas
( NONESUCH : 73035-2 ; 2CDs )
- Piano Sonata No. 1 - 10
- Etude op. 1-2
- Eight Etude op. 42
- Desir op. 57-1
- Caresse Dansee op. 57-2
- Vers la Flamme op. 72
Ruth Laredo (pf)
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ラレードのスクリヤビンは 70 年代に出た録音で、前々から一度は聴きたいと思っていた。最近、ノンサッチから廉価盤で復刻したので、早速聴く。
アムランのすぐ後では申し訳ないと思うが、改めて、このようにぼってり厚化粧をした演奏の時代は過ぎたと実感。録音のせいもあるが、比較的鈍く重い色合いになつている。特に後期の作品は、音の輪郭が靄っているようにも聞こえる。しかし、毒気はかなり少ない。ラレードの場合、スクリヤビンはラフマニノフと同軸上にあると感じられ、骨太の後期ロマンの解釈に傾いているようだ。2−4 番ソナタあたりはまだ許容範囲だが、後期は全然違った曲にすら感じられる。さりとて初期のソナタにしても清澄さに欠け、泥臭さから抜け出せずにいる。
瞑観的要素を盛り込みながらも、スクリヤビンが拘泥した色彩感を追求した演奏をしつこく素め続けている。
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