Wagakokoro no Ressentiment / 2002. 09
2.
Händel : Les Huit Grandes Suites
( AUVIDIS / ASTRÉE : E 8655 ; 2CDs )
Suite I en la majeur
Suite II en fa majeur
Suite III en ré mineur
Suite IV en mi mineur
Suite V en mi majeur
Suite VI en fa dièse mineur
Suite VII en sol mineur
Suite VIII en fa mineur
Blandine Verlet (cem)
Louis Couperin : Les piéces de clavessin
( AUVIDIS / Naïve : E 8819 ; 5CDs )
Blandine Verlet (cem)
久々にヴェルレの 2 盤。これもともに
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から。ASTRÉE の JSB 録音を纏めた箱ものも出ていた。私がヴェルレを気に入っているのは、どこかケーゲルと似たような存在感を感じているからかもしれない。詰まり、音楽演奏においても母国語がアプリオリにあり、コズモポリタン的共通言語が必ずしも前提されない側面である。だからこそ、解釈に地域的な演奏常識が噛み合わないような演奏も出てくるが、逆に言えば、それは恐ろしく明解なクライテリアが両者両様に存在しているということではなかろうか。面白いのはそこなのだ。
まずヘンデル。なんと 73 年録音で( (P) は98 年)、音盤の存在すら知らなかった。ヴァロワ原盤にしては音もよく、良好な保存だったか、単に忘れ去られていただけか。ヴァロワには、同じ 73 年にフレスコバルディ集を、75 年にはフローベルガー集を録音している(後者は何故か早くから CD 化されていたのだが...)。
彼女の録音では、Philips でのジャン=クロード・ヴェランとのヴィヴァルディ「忠実なる羊飼い」が 71 年の録音で、私が知る中では最も古い。それ以降、バロック室内楽、デュフリとバルバートルの 1 枚などが精々知るところで、JSB やスカルラッティなどが録音されたのはもう少し後だから、ソロ録音初期の貴重な? 1 盤である。
彼女はフランスもの以外、特にバッハ(Philips 盤)やフローベルガーでは、破天荒な解釈に驚かされたものだが、ヘンデルではそれほど違和感がなかった。尤も、有名な 5 番組曲あたり、少々珍妙なフレージングにその片鱗は見せるものの、ダウドの重く深い音色と相俟って、これでうまく纏まっているのではないか。
他方、80 年代後半から 90 年代初期にかけて録音したルイ・クープラン集は、近年、廉価盤セットとなったもの。単独リリースされていた頃に 1 枚買ってはいたが、面倒なのでセットで買い直した。これはヴェルレの持ち味がよく出ており、ラモー集とともに彼女の代表盤といってよいだろう。こちらは、コルマールの博物館にあるハンス・リュカース II。特にヴェルレの弾き癖とマッチした、短調で渋目の色彩を持つ作品の出来映えがよく、低域の伸びのよい響きが気に入っている。
ルイ・クープランはオルガン作品同様、穏やかで柔らかい響きだけではどうも物足りないところがある。その点、彼女の響きの勁さが、ルイの質実で素朴な音楽の力をうまく引き出せているのではないか。時にフローベルガーを聴いているような感覚すら覚えるのだった...
1.
J.S.Bach : Clavier-Übung Teil III
( BIS : CD-1091/2 ; 2CDs )
BWV 552/1
BWV 669 - 689
BWV 802 - 805
BWV 552/2
Bach Collegium Japan Choir
Masa'aki Suzuki (org)
[ org : Sogakudo, Tokyo National University of Fine Arts and Music ]
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から。BCJ のカンタータ集を揃える心算のない者には、ここで待てば鈴木ものは出てくる。
最近、ひょんなことで『ユリイカ』 78 年 1 月号「バッハ−バロックと現代」を入手できた。ところが読んでみて、随分時間が経ってしまったものだと実感した。バッハ研究は、大きな発見や成果があり、ほぼ 10 年サイクルで変貌し続けているそうだ。しかし、我々が JSB に対して最も変化を感じるクライテリアとは、学究よりもむしろ「録音演奏」そのものではないだろうか。78 年当時では、鍵盤ものではグールドを除けば、リヒター、ヴァルヒャ、アランにルージィチコヴァあたりが、録音としてまだ瀰漫していた頃と記憶している。
この録音、トータルの出来映えは悪くないかもしれないが、はっきり言えば、演奏上で(関)心を強く惹くものが意外にも何もないことに、我ながら驚いてしまった。チェンバリスト、オルガニストである鈴木雅明の演奏の中に、彼自身の顔は見えても、語っている音楽の顔が全く見えない。彼は JSB の何に共感し、何を求めんとしているのか、私にはよく理解できなくなった。
ここでの蘊蓄ある BCJ の質の高いコラールと彼のオルガン演奏との間には、不思議と相関も調和もない。その意味では、以前挙げた
小糸盤
も同じかもしれないが、肝腎のオルガン演奏の説得性には大きな差がある。藝大奏楽堂のガルニエ・オルガンも、私はまだ実演で聴いていないのだが、この楽器が使われる意義は何も感じなかったし、少なくともこの録音を聴く限りでは、魅力的な評価を与えることは難しい。
結局、7・8月と書けず仕舞い。甲乙丙で申すならば、自分の中身が丙だったため、甲や乙の内容を書ける筈もなく、況して書かねばならない期待も存在しないから、あっさりやめた。そもそも今、どうにも音楽に情熱を持てなくなっている。再び元の鞘に戻るまで、無理せず、充電期間が延長されるだろう。
では、長い余談でも。クライテリア(criteria)ということについて考えている。
田中耕一氏ノーベル化学賞受賞のニューズを聞き、アカデミズムではなくサラリーマンの受賞にはめでたし、めでたし。だが、その後の報道やご本人とは無関係の一連の騒ぎには食傷するも、興味深い事実が多々あることに気づく。折角だから、この騒ぎがもっとニッポン体質の自己批判を兼ねて昂じてもらいたい。
偶々、ジミー・カーターが平和賞を受賞。平和賞の存在自体に疑問はあるが、「現在の米政権への批判と解釈されるべき」とする受賞には、カーターもちと忸怩たる思いかもしれない。しかし結果的には、田中氏の受賞も、我が国の体質が無言裡に批判されているのと同義なのではないか、そう私には思えた。
まず「日本は捨てたものじゃない」という首相の弁。井深だ本田だと胸を張ってきたニッポン国の総代たる者、そんな言葉を述べてはいかんのだ。「やっと当たり前に評価された」と言えばいい。
しかし、そもそもこんな発言が飛び出す背景には、日本には科学や技術、そして勿論芸術もだが、純粋な評価機関や信頼に足るクライテリア(評価基準)が、国家にも民間にも存在しないことに端を発しているからではないかと思うのである(精々 NPO や NGO にその萌芽が見られる程度だ)。しかし、それを「純国産」で設置・培養するのも、この国ではさらに不可能に思える。なぜなら、この国では、評価というものは、どうやら「おかみ」から「下賜」されるものと決まっているらしいからである。
結局、今回の受賞は(も)、日本国内での成果評価が自然に海外へと拡散された結果というより、欧米での成果評価が先にあって、それを逆輸入した形となってしまった。ノーベル賞ではないが「世界の冨田(勲)」と同じ構図だ。相も変わらぬ、我が国のクライテリア不在のなせる技であり、それがゆえに無能な評論家たちが跋扈できるわけだ... 首相に謁見した田中氏・小柴氏が意見したとおり「業績に対する国内での評価能力を高めること」が実現されない限り、今後も今回と似たような徒花にしかならないだろう。
さらに、サラリーマン悲話... ですかね。
単に立身出世の意味ではなく、上記クライテリア問題のミクロ的な視点での話である。彼の研究成果としての功績が、かくも世界に通用する高い水準であったことを、会社ですら本当に理解していたわけではないという悲しさである。自分の職場は、正しく自分の功績を認めていないのだろう的サラリーマンの悲哀が、皮肉にも露見してしまった。我が身を省みるに及ばず、この有りようは「どこにでもある」日本のサラリーマン社会そのままである。つまり、日本のサラリーマンの多くは、良くも悪くも、本当に納得できる考課を頂戴することがほとんどないのではないのか? こうした我が国企業の社員能力考課の実態も、いずれ海外にも知られ、虚仮にされることとなるのだろう。
尤も島津製作所は、田中氏の処遇について「役員待遇」など大幅に昇格させ、特別褒賞金も支給する由。ノーベル賞受賞者としては当然の栄誉回復だろう。報道曰く「田中氏は現在、課長級よりも下の主任」は致し方ないとしても、「研究成果に対する褒賞金もほとんど支給されていなかった」とはひどい話だ。今や会社としても株価が上がり、十分もとは取れるだろうから、褒賞金は億単位でもいいくらいだ。だが、これらの処遇改善も、実のところ、本人意思の不在ままに進められた話ではなかろうか?
況してそういう評価にとどめてきた側の人間が、今や平気でカメラの前で彼を神の如く賛美するわけだ。しかもこれに便乗して、国内学会もこの「学士さま」に名誉称号を贈ろうと動き始めている由。敗戦前と敗戦後の日本国豹変のメンタリティと何が違うというのだろう... 結局、裏返すと、日本のアカデミズムも島津製作所も世界に赤っ恥を曝しているとすれば、その後手後手ぶりよりも、成果評価の実態そのものということである。
例えば韓国のように、五輪のマラソンで金メダルをとったらいきなり役員なり社長になる... そんな大袈裟な飛躍と今回とは無縁だと思っていたが、蓋を開ければ、同じ程度でしかなかった。そして残念ながら、日本のクライテリア問題が、国であろうと職場であろうと、これを機に変わることは決してないことが明らかにも拘わらず、しかし、我が国に最も必要なブレイクスルーとは、まさにここなのではないのか?
(2002.10.12 記)
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