4.

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The Art of Mitropoulos
( Sony Classical : S2K89658 ; 2CDs )
- Tchaikovsky : Symphony No. 5 in e minor op. 64
- Prokofiev : " Lieutenant Kijé " Suite op. 60
- Prokofiev : Piano Concerto No. 3 in C major op. 26 *
- Shostakovich : Symphony No. 5 in D minor Op. 47
New York Philharmonic Orchestra
Robin Hood Dell Orchestra (The Philadelphia Orchestra) *
Dimitri Mitropoulos (dir, pf*)
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100 Years Dimitri Mitropoulos 19
( EXOUSIA : 189.619-2 )
- Haydn : Symphony No. 100 in G major " Military "
- Haydn : Symphony No. 80 in d minor
- Haydn : An English Opera Overture
- Chimarosa : " La Bella Grecia " Overture
New York Philharmonic Orchestra
Dimitri Mitropoulos (dir)
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... 現代のオーケストラ演奏の品質証明として他にどのような点が挙げられるだろうか。起伏の欠如。突き出てくるものは何ひとつない。心地好く柔らかな音楽の流れを乱すものなど何もない。(中略) 音色も上品で均質だ。
ヴァレリィ・アファナシエフ 『音楽と文学の間−ドッペルゲンガーの鏡像』
下旬のとある土曜。大林師匠と共に、久々に onofrio 師匠宅で久闊を叙す。
師匠は、レコ芸 5 月号「取り憑かれた男たち」に登場した山田さんである。一部写真に顔を出す摩訶不思議なスピーカこそ、昨年来、私が蠱惑され続けている強烈な本性を持つ「鏡のような再生機」だ。師匠がミトプー再生のために追い求めたものという意味は、実のところ、最終的にこのスピーカが「再生という原点に於いて」ミトプーと同じ役割を担っているということに他ならない。
ミトロプーロス蒐集家という側面で同誌には紹介されているが、それも言祝いで?ミトプー録音をあれこれ。また今回の訪問では、大林師匠持ち込みの風琴録音等の吟味、提琴奏者カウフマンとエルマンのアクメー、ついでプーニョ(Raoul Pugno)の歴史録音など。それにしても 1903 年蝋管録音のプーニョのピアノは素晴らしく、アムランがよくアンコールで弾いている(註 4)マスネ「狂ったワルツ(Valse folle)」も格が違うというべきか。
さて、レコ芸 5 月号のミトプー論と音盤評は(お行儀の良い古典音楽ファンの眉を顰めさせる可能性があるとはいえ)破格な面白さがあり、是非ご一読願いたいが、師匠宅スピーカで聴くミトプーには、その論拠をはっきりさせるものがあるのだ。我が家でも導入した同じ大沢師匠の「電流アンプ」を用いたところで、普通の Hi-Fi スピーカを調整した程度では、とても同じ表現力はない。そういう中で、特にこの 2 盤を取り上げたい。のちに私自身も塔音盤店で両盤を買い、自宅でも確かめてみた。
まず、ひと頃話題を呼んだ「The Art of Mitropoulos」。
師匠 「これ世評は良いのですがね、ミトでも面白くない部類です」
儂 「よくまとまっているという点では、多分皆が評価しますよ、これなら」
師匠 「そういうのではないんだな、小綺麗なだけでミトの魅力が死んでいます」
ミトロプーロス自体の軌跡を追いかけていけば、慥かにこれは彼の持ち味がまるで出てこない、詰まらない録音だと「私も」思った。なぜなら、ベートーフェンの第 1 番交響曲、ハイドン、Rogal-Lewizsky 編ショピニアーナ、ヴォツェックと聴き進んだ後で、この録音を聴いたからで、師匠の言わんとすることは首肯できる。これはうまいが「抜け殻」のような音楽なのである。家で聴いても、まるで面白くないとは言わないが、チャイコフスキーもショスタコーヴィチも「真摯なだけで」音楽が肉迫することはない。メッセージや自発性の迸りがない。
次のハイドン。その前に付け加えると、私的にはフランチェスカッティとの提琴協奏曲と共に収録されているベートーフェンの第 1 番には感激してしまった(NYpo、メロドラム盤)。激烈な奔流にして、鋼のような造形。音楽が分解ギリギリまで猛速跳躍するが、楽団の自発性が驚くほど新鮮な音楽を作り出す。
それに近しい味わいが、このハイドンにある。それほど快速ぶりはないものの、音楽の生命というより「合奏の生命力」が筆舌に尽くしがたい見事さ。極めて高い緊張感と集中力に駆られながら、実に軽やかな音楽。普通は相容れないものが、奇跡的なバランスの上に成り立っている音楽の在り方をここに見る。
ミトプーは、楽団が指揮者に完全追従することを指揮+合奏芸術とは考えていなかったのだろう。にも拘わらず、何故にこれほど強靱な「音楽」が生まれるのか? このミトプー聴きの中で「指揮芸術とは何なのか」を、再び私は肉迫して教えてもらったような気がする。
余談。昔、私が聴いて感心と奇天烈さの入り交じった感覚を禁じ得なかった Orfeo 盤の BPO との 60 年ザルツブルク・ライブ(註 5)であるが、師匠曰く、あれは(BPOが)ドイツ人らしい糞真面目さゆえに破綻なく完璧に(あの速度に)追いかけているだけで、まるで自発性に乏しいの由。納得。
3.

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Herbie Nichols Trio
( Blue Note : TOCJ-9046 ; Toshiba-EMI JP )
- The Gig
- House Party Starting
- Chit-Chatting
- The Lady Sings The Blues
- Terpsichole
- Spinning Song *
- Query *
- Wildflower *
- Hangover Triangle
- Mine (Gershwin) *
Herbie Nichols (pf), Al McKibbon (bs), Teddy Kotik (bs) *
Max Roach (dms)
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The Prophetic : Herbie Nichols vol. 1
( Blue Note : TOCJ-9229 ; Toshiba-EMI JP )
- The Third World
- Step Tempest
- Dance Line
- Blue Chopsticks
- Double Exposure
- Cro-Magnon Nights
Herbie Nichols (pf), Al McKibbon (bs), Art Blakey (dms)
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The Prophetic : Herbie Nichols vol. 2
( Blue Note : TOCJ-9230 ; Toshiba-EMI JP )
- Amoeba's Dance
- Crisp Day
- 2300 Skiddoo
- It Did'nt Happen
- Shuffle Montgomery
- Brass Rings
Herbie Nichols (pf), Al McKibbon (bs), Art Blakey (dms)
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3 盤とも石丸電気参号店にて。
onofrio 師匠宅で大林師匠が持ち込んだ「Herbie Nichols Trio」が購入の発端。ハービー・ニコルス自身を聴くのは初めてだが、モンクとともに Misha Mengelberg が高く評価・紹介している先達である。
私はミシャ経由で初めてニコルスを知った。ミシャの『No Idea』(DIW, 96年)にニコルスが 1 曲、次に聴いたのは『Change Of Season』(SOUL NOTE, 84年)で、これは 1 枚が丸ごとニコルス・ナンバー。次いで、録音はその少し前だがモンク&ニコルス集『Regeneration』(SOUL NOTE, 82年)を聴いてきている(註 3)。また、ミシャ主宰の即興集団 ICP でもニコルス・ナンバーを数々紹介している模様(こちらは未聴)。
ニコルスを聴いていると、ミシャがお熱になる理由がよくわかった。不可思議な面白さなのである。まず、jazz とはいえ、かなり個性的な和声の振る舞いが特徴的。この関節の外れたような風変わりな和声感覚は珍しいのではないか。しかもカラリとした快闊な色彩に薄い。凝ったリズム感覚も同様に個性的だ。さらには、彼のアドリブの方向がうまく読めないのである。解説にも書かれているとおり、まさしく「どこに飛んでいくかわからない」のだ。彼の「次」は、想定され得る様々な可能態の中で、あくまで意外な方向に向かうような気がする。
これで、次に私が何を言いたいかおわかりかと思うが、ラングレとニコルスとは、ジャンルは全く別ながら、共通する性格があるのだ。つまり「意外性」に富んだ音楽なのだが、同時にそれが捉えどころ・掴みどころのない音楽ともなっていることだ。この 2 人が一般的な人気を得ない理由がその性質ゆえと思われるが、逆に、それがわかればとことん面白くなる。のめり込むほどに刺激と豊かさがあるのだ(だからこそ、ミシャのような知性の卓れた音楽家には、ニコルスはまさに「創造的源泉」となっているのだろう)。
ただ、ラングレとニコルスには大きな違いもある。ニコルスはピアニスティックな音楽性からは自由で、楽器特質から離れた人だ。その意味で、彼はモンクと同じで、本性的に " instrumentalist " ではない。だから、ピーターソンやテイタムらを信奉するクラシカル・ピアノヲタクが好む余地は「ない」。
私的には「The Prophetic」よりも「Herbie Nichols Trio」の方が、ニコルスの魅力を素直に楽しめた。ガーシュインの「Mine」も個性的というか、人を食ったような面白さも垣間見られる。ニコルスは、不遇の儘 44 歳で逝去したこともあり、リーダー・アルバムが大変少なく、あともう 1 枚程度の由。
2.

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☆管風琴音盤百選推薦盤
The Legendary Jean Langlais
( FESTIVO : 6951842 )
Jean Langlais aux Grandes Orgues de la Basilique Saint-Clothilde à Paris. Improvisations sur des Thèmes Grégoriens enregistrées en 1986-1987
- Improvisation sur le Te Deum et le Kyrié de la Messe XII
- Improvisation sur le Salve Regina
- Improvisation sur l'Alléluia de l'Office du Très Saint Sacrement
- Improvisation sur le Salve Regina
- IImprovisation sur l'Alléluia (Très Saint Sacrement) et "Confitebor tibi" (Saint Nom de Jésus)
Jean Langlais (org : Saint-Clothilde, Paris)
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Jean Langlais : Musique de chambre avec piano
( SOLSTICE : SOCD 180 )
- Suite armoricaine op. 31
- Pièce pour trompette et piano op. 168
- Mouvement perpetuel op. 23
- Cinq Mélodies op.86
- Hommage à Louis Braille op. 184
- Suite pour piano a 4 mains op. 14
- Vitrail pour clarinette et piano op. 241
- Diptyque pour piano et orgue op. 179
Janine Collard (ms : 4,5), Jean Langlais (pf : 4,5)
Alain Raës (pf : 1-3, 6-8), Claude Faucomrez (cl : 7)
David Guerrier (tp : 2), Marie-Louise Langlais (org : 8)
Sylvie Mallet (pf : 6)
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このラングレ両盤についても、大林師匠にお世話になりました。
ラングレが教育者として恐ろしく大きく深い影響を残していることを改めて知った時(註 2)、我々管風琴音盤百選編輯委員は、ラングレを単に作品のみならず、organist - improvisator の翼をとくと調査すべき時と感じた。
最初は Festivo 盤。ラングレ最晩年にあたる、86 - 87 年のミサの録音から、グレゴリアンに基づく 5 つの即興演奏を拾遺したもの。これほど複雑かつ濃厚な即興も珍しい。ラングレの音楽性を色濃く湛えかつ醇乎とした見事な即興。しかし、一方で掴みどころが困難な人でもある。面白いと思うのは次の 2 点だ。
まず、即興の進行中、次に繰り出されるべき和声やパッセージ展開がどんどん聴き手の予想を裏切ってゆくことだ。これは高度に sophisticated なジャズの即興すら彷彿させ、ミサでの即興であるにも拘わらず、ラングレは、実に意外性に富んだ illusionist との思いを持ったのだった。
もうひとつは、オルガンという楽器の性質を根柢から捉えながらも、論理的な直線性から乖離し、円環的/循環的な拡張的進行とでもいえるような、不思議な時間感覚に覆われていることだ。ラングレの場合、もじもじしているかと思うと、突如、豁然と次のステージへ音楽は進む。リズムの果たす役割が薄いことも大きな理由であるが、音楽は自在に伸縮、分断と接合を繰り返す変幻を見せながら、壮麗な伽藍と化してゆく。ラングレは、オルガンという楽器の音色・音響をとことん知悉した上での、あまりにユニックな improvisator であり、コシュローとは逆に、彼は本性的に " instrumentalist " だったのである。
こういう人がオルガン以外の作品、殊に室内楽はどうかという興味で、次はピアノを伴う室内楽曲集。
実のところ、室内楽とはいえ、ここに収録されている作品は 4 手のピアノかピアノと独奏楽器(声)なので、これだけでは概括はできない。しかし敢えて言えば、ラングレは実に jazzy な感覚の持ち主だったのではないかと、なお感じる結果となった。それは、jazz 風の音楽という意味ではなく、ソリストにとって、本質的にインプロバイズを「必要とする」音楽のように思える。音色上でも音符上でも、だ。トランペットとピアノの小品集は、まさにそんな感じ。一方、ピアノとオルガンの " Diptyque(2 枚折りの屏風絵のこと) " は、音の色彩感を鋭敏に差異化し、精妙な遠近をもたらす。どちらが影で日向というものでもないところが、また面白い。しかし、歌曲だけはどうも私の波長と最後まで合わず、共倒れとなった...
ラングレとは、単に美国的健全な「教育者たる教育者」の鑑として、多くの弟子に恵まれたという次元では決してないだろう。異能でありながらも、多彩な後進を輩出できたのは、彼のこの非常に柔軟な(特に伝統古典を知りつつも、そこから自由でもあったという意味で)音楽的塑性と感性があったからこそではなかろうか。
1.

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Leif Kayser: Works for Organ
( dacapo : 8.224167 )
- Kirkeruder (1975)
- Hymne til hertug Knud (1986)
- Concerto per Organo (1965)
Jørgen Ellegård Frederiksen (org)
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Pierre Cochereau : 12 improvisations inédites
( SOLSTICE : SOCD 200/1 ; 2CDs )
- Les Baux-de-Provence (16 jul, 1969)
- Canet-Plage (22 jul, 1969)
- Collioure (23 jul, 1969)
- Gruissan (24 jul, 1969)
- Nissan-lez-Ensérune (28 jul, 1969)
- Cap-Ferret (08 aug, 1969)
- Arcachon (09 aug, 1969)
- Concarneau (11 aug, 1969)
- Dinard (13 aug, 1969)
- Chirens (22 aug, 1969)
- Saint-Raphael (28 jul, 1969)
- Juan-les-Pins (29 aug, 1969)
Pierre Cochereau (org : positif P. Hartmann)
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カイサーは、毎度、大林師匠にお世話になりました。コシュローは頒布会での購入。
レイフ・カイサー(1919 - 2001)は、デンマークの高名な organist - composer であるが、あまり国際的に名は知られていない。私も初めて聴いた。ローカリティ(のようなもの)は特別感じなかったが、前半 2 曲には健全なエクスタシスがあり、私的好感度は大。ランゴーとは対極的な内容で、トゥルヌミールがエーレルトの質感を以て、きれいに融和したような雰囲気。「Concerto per Organo」は、技巧性はともかく、音楽がモザイックな組み合わせの儘で、本質的な浪漫、エロスや生命の雀躍には届かないのが残念。でも、大抵のオルガニストは、前半 2 曲よりもこういう曲を弾きたがると思うが...
次はコシュロー。コシュローがアルトマン製作の可搬型ポジティフで 1969 年夏のコンサート・ツァーを行った記録である。" inédite " というだけあり、殆ど初出の由。これは 2 つの意味で非常に面白かった。
ひとつは、コシュローにとって、オルガンという楽器は、残響を豊かに伴う「響き」の要素がなくとも、確実な自己の音楽表現手段になり得ている凄さである。オルガンという楽器の本性を考える上で、オルガニストにとっては非常に重要な分水嶺となるのではなかろうか。
もうひとつ。作品を「書くこと」がコンポーザの要件としても、コシュローは作品を書くのではなく、「録音によってコンポーザとなった人」だということである(しかも現今、それが可能ならしむるはジャズや即興だけだ)。
コシュローにも幾つかの「書かれた」作品があるが(註 1)、彼はむしろ自作を「書く」のでなく「記録する」ことによってその音楽的爪痕を残した。「作曲」という意識を広く延長して彼の即興を省みるならば、メシアンがサン=トリニテに終生拘泥したのとは違い、これはノートルダムだけが彼の全てではないことの証左となる。
コシュローの音楽性は、オルガンという楽器の内側のみならず、普遍的に拡張するべく力がやはりあった。つまり、彼は偉大なるオルガン奏者ではありながらも、本性の根本から " instrumentalist " ではなかったことを実感したのである。その意味では、時代の制約もあろうが、彼がクラシカルの世界に止住していたのは、全く惜しいことだと言わねばなるまい。
今月のオスティナート的傍白。
最近、自分がのめり込む「音楽」とは、或る意味で、演奏者が産み出す強烈な人格(或いはその乖離)であり、彼等の真摯な言葉やコミュニケーションであって、どの楽器をどれだけ魅惑的な音色で上手にこなすか、見事な作品のアナリーゼなどなど、そういった内容はもはやどうでもよくなっている。
内容に変更は全くありませんが、一部、見苦しい表記を隠蔽しました。(2002.05.19 識)
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