3.

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Mozart * Ligeti / Ma'alot Quintett
( Berlin Classics : BC 1041-2 )
- Ligeti : Sechs Bagatellen für Bläserquintett (1953)
- Mozart : Adagio & Allegro für ein Orgalwerk in einer Uhr f-moll KV.594
- Mozart : Orgelstück für eine Uhr f-moll KV.608
- Mozart : Andante für eine Walze in eine kleine Orgel F-dur KV.616
- Ligeti : Zehn Stücke für Bläserquintett
Ma'alot Quintett
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蒸し暑くなり、加齢症群(aging)に歯向かうべく、over clocked の吾が脳味噌も、冷却不足の熱暴走、はてまた単なる耄碌か。この盤に就いて触れることを悉皆(すっかり)忘れておった。
このマーロット五重奏団盤、時は丁度、奥座敷開闢の頃、鈴木秀三さんが、通称「バリバリ」其の十にてご推奨していたものである。某店のデータベースを検索(くく)っていたところ、この盤が引っ掛かり、ふと思い出した次第である。Backorder を重ね、3 ヵ月以上も掛かる。多分、重版のため、時間が掛ったのではないかと推測(おも)う。
慥かに、このリゲティとモーツァルトという不思議な取り合せ、否、対比の妙は無上に面白いと云うべきで、「モーツァルトを聞いて、リゲティの10の小品を聞くと変に人間くさく聞こえてしまうから不思議だ」(鈴木氏、原文ママ)とは、実に首肯できるものである。
リゲティは、人脂に塗れぬ、cool な色感とエッジを以て颯爽と奏される。楽音の怜悧さを賞でつつ、愉悦も上質。かくなるビブラートの瀰漫を抑えた少々堅目の質感は、さらにモーツァルトでは、透徹度が高く美しい。特に KV.594 を管楽合奏で聴くと、音楽自体の蠱惑的陰翳、可憐な哀愁が存するものと改めて感ず。但し、KV.608 あたりは、日頃からオルガンで聴いているせいか、窮めて人工的かつ勁さを持った美しさという点では、風琴に軍配。それはさておき、妙趣ある佳演の一盤。
2.

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Duruflé : Requiem etc.
( ARS MUSICI : AM 1256-2 )
- Requiem op. 9
- Quatre Motets sur des themes gregoriens op. 10
- Suite op. 5
Barbara Meldau-Dziewierz (org)
Susi Peterson (ms), Stefano Kunz-Annoff (br)
Krakauer Kammerchor
Stanislaw Krawczynski (dir)
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Duruflé : Intégrale de l'uvre pour Orgue
( MOTETTE : CD 3277541 )
- Scherzo op.2
- Prélude, Adagio et Choral Varié sur le Veni Creator op.4
- Suite op.5
- Prélude et Fugue sur le nom d'Alain op.7
- Prélude sur l'Introït de l'Epiphanie op.13
- Hommage à Jean Gallon
- Fugue sur le callion des heures de la cathédrale de Soissons op.12
Pierre Pincemaille
( org : St-Joseph, Bonn-Beul )
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下記コシュローとともに、2 盤とも jpc にて。ARS MUSICI 盤は、かなり前から存在は知っていたが、「Cum Jubilo」がなく「Requiem」だけなので放置していた。
ARS MUSICI の「Requiem」は第 2 版による。クラカウの演奏者達だが、録音はスイス。オルガニストも現在スイス在住らしい。音のプレゼンスは非常によく、オルガン・パートが非常に肌理細かく聴き取れる。分析的な趣すらあり、録音的には花丸だが、演奏の方はかなり「生真面目」な印象。ソロはともかく、オルガンがしっかりリードしたよい演奏なのだが、音楽の本然が殆ど伝わってこないのは何故か? 理由は、op.5 を聴いてよくわかった。演奏に少しも破綻がないものの、音楽学生が丹念に演奏したような感覚であって、「Toccata」あたりは、音楽の奔放な意匠がすっぱり切り捨てられている。op.5 のバランス感覚の絶妙さが、何ら破綻なく完全に地に足がついてしまうと、全く違う作品の印象になる。
結局、第 2 版では、BIS のグラーデン盤のように、清澄さだけで当たり障りのない音楽になるほど良しとしがちだ。その矛盾を勘考すべき楔として打ち込まれたのが、結果的に、この演奏のような気がしてならない。
もう 1 盤は、パンスメイユによるデュリュフレ。出るべき人からやっと出たという感じ。だが、何ゆえ仏国レーベルではなく MOTETTE からなのだろう? パイスメイユの感性は、彼の即興アルバム以来気に入っている。しかし、このデュリュフレ・アルバムは、うまいのだが個性的主張に欠ける出来映えで、少々腑に落ちず。パンスメイユのような巧者がやるからには、op. 5 もスリリングな味わいを期待していたのだが、意外や意外、全く型どおりなのである。よくよく聴いてみると、演奏自体も余裕綽々で、細部では「裏地に凝る」的な面白さはある。但し、それらをストレートに聴き取ることは難しい。
1.

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Pierre Cochereau : l'organiste de Notre-Dame
( SOLSTICE : SOCD 94/96 ; 3CDs )
- L'INTERPRETE / L'ORGANISTE "OFFICIEL"
- L'IMPROVISATEUR EN CONCERT
- L'ORGANISTE LITURGIQUE
Pierre Cochereau (org)
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先月、続きを書くべく到着を鶴首していた音盤がこれ。この「Cochereau Retrospective」は、別件発註を抱き合わせるため、jpc から買う。却って割高だった。昨年夏、Jane Parker-Smith 姐の白石 CUBE における来日公演。コシュローの即興をフィルセル(Jeremy Filsell)が録音から採譜した「Scherzo symphonique」がトリで演奏され、大変面白かった。そこでコシュローのオリジナルを聴きたいと探したが、誤情報に誘導され別の録音を買うなどで面倒になり、音盤の存在を知った後も、買う機会を逸してしまっていた。最近、大林師匠が痛く感心した由、ようやく再び腰を上げる気になった。
内容の詳細は、OHS か SOLSTICE でお調べ頂きたい。このセットは、カルブ(Yvette Carbou)がプロデュースしたコシュローのライブ録音の中から、オルガニストのパンスメイユ(Pierre Pincemaille)が編んだものである。解説も写真豊富で奢っており、カルブとパンスメイユの回想の他、コシュローと関係のある人物−シャピュイはわかるが、グラッペリまで!−も寄稿。大林師匠によると、写真と寄稿は「Yvette Carbou : Pierre Cochereau / Temoignages」本に含まれている由。
1 枚目は「(作品)演奏者としてのコシュロー」ということで、バッハ、メシアン、デュプレ、自作。作品解釈者としてのオルガニスト・コシュローについては、取り立てて語るべき内容はない。特に JSB は Philips にも録音があるが、今やほぼ大時代的。アランの最初の全集を除けば、デュプレ(本人も含む)門下生による JSB 解釈には特別なものはない。厚化粧した仰々しきレジストレーションでの JSB は、今聴くと何だか懐かしささえ感じる。しかし、圧巻なのは、2 枚目と 3 枚目である。
2 枚目は「即興演奏家としてのコシュロー」。ノートルダムとシャルトルでのリサイタルにおける即興で、唖然としてしまうほど濃い内容だ。不気味な深淵、暴力的な推進、全く弛緩することのない音響構築... コシュロー的個性の洪水に黙って呑まれ溺死する以外、聴き手に取るべき途はない。
特に 74 年の「スケルツォ・サンフォニック」は、噴煙の代わりに絢爛たる意匠を螺旋的に撒き散らしてゆく機関車の突進が如し。これはこの集成の中でもピカイチ。また、この中でトラック 5 (「O Filii et Filiae」によるコラールと変奏)のラストのラスト。全く関係ない音が鳴りっぱなしになるという事故(オルガンでは屡々起こる)が発生しているが、クラスタをかますことにより事故を回避。このクラスタも立派に「音楽のうち」になっているのが面白いではないか。
3 枚目は「典礼オルガニストとしてのコシュロー」。ノートルダムにおけるミサの録音。こちらはぐっと沈降する精神性に溢れた音楽になっているが、通例のコシュローらしく力で押しに押す内容とはかなり違った印象を受けもする。例えば「ノートルダムのクリスマス」での即興などと比較すると、音楽は無軌道な明るさとでもいうべき色彩に満ちており、音楽の姿態も軟体のようだ。だからこそ、聴き手も不気味な深淵を幻視する力が増す。
そして私的に感心したのは、コシュロー=ノートルダムという一体性以外のところ、他所の楽器ではどうなのか? という疑問も、シャルトルの録音を聴いて多少氷解できたことである。コシュローはやはりどこで弾いてもコシュロー。本当に強烈な個性なのである。それは、ノートルダムと全く同じ感覚の音響設計ではないが、「カタストロフ的咆哮」を自分の音楽に強く引き寄せるオルガン操縦能力、とでもいうべきものだ。
さて、こうした数多く録音されているコシュローの即興は、かつてデュリュフレがトゥルヌミールやヴィエルヌの即興録音からそうしたように、録音から聞き取り採譜・出版され、現在多くのオルガニストによって演奏されるようになった。先述の Jeremy Filsell や David Briggs がそれらを録音したアルバムも出ている。だが、デュリュフレ採譜のトゥルヌミールやヴィエルヌの演奏と全く同じように、採譜を元に再現された即興ほど、音楽の原姿が遠のいてゆくものはない。来月はそれらを取り上げる心算。
買い物記と当初は書きながら、かなり以前の書き具合になっていることは自分自身でもわかっている。だから、まぁ、この体たらくは「業」であって致し方ないと割り切ることにしている。
先月から、音盤には全く熱心ではない。特段食指が動かぬからか、殆ど買っていない。
私自身、可処分所得の大半を音盤に当てるお莫迦はもうしていないが、食指が動かぬ現況では CD 代を基準に物欲を代替化し、さらに買う量を減らしている。偶々、データを焼くために PLEXTOR の CD-R を買う。だが、精々輸入盤 7−8 枚程度の値段なのである。或いは、Berkshire Record Outlet あたりで一回に私が買う程度の金額だ。意外にも、この事実に改めて驚かされたからである。
それでいけば、ショップブランドの PC 、さらにはスーツや安価な海外旅行とて、精々 CD ** 枚程度... という勘定が可能な範囲なのだ。二桁以内で済むのだから、吉野家の特盛何百何十杯分より現実的な勘定になる。つまり音盤を何枚我慢すれば買えるか? という勘定で、物欲を一本にすり替える訳である。それだけ、音盤価格は相対的に未だに廉価に非ず、ということでもあるが...。
なるほど、complete collection の一環などと称し、CD 10 数枚を一気に買うなどの行為は、一般生活者の経済感覚からすれば、慥かに愚昧性浪費の極北なのだろう。だから懐も心も安堵できる交差点を選べとの鞭撻は、道理である。しかし私には、そのバランスを崩すほどに欲しいものがないことの方が、悲しいと思わなくもない。音盤を買う・聴くということは、知的刺激や外的刺激に反応している証左だからである。回遊しないマグロにはなれないということだ...。
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