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Duruflé : Requiem etc.
( Herald : HAVPCD 234 )
- Duruflé : Requiem op. 9
- Duruflé : Notre Père
- Massini : Déploration sur le nom de Duruflé
- Massini : Puisses-tu, ô Seigneur
- Massini : La vie éternelle *
Cambridge Voices etc.
Ian de Massini (dir)
Vincent Warnier, Thierry Escaich * (org : St-Étienne-du-Mont, Paris)
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Samuel Barber : Knoxville : Summer of 1915 etc.
( SONY : MPK 46727 )
- Knoxville : Summer of 1915
- Dover Beach op. 3
- Hermit Songs
- Andromache's Farewell op. 39
1 : Eleanor Steber (sp)
____Dumbarton Oaks Orchestra, William Strickland (dir)
2 : Dietrich Fischer-Dieskau (br), The Juilliard Quartet
3 : Leontyne Price (sp), Samuel Barber (pf)
4 : Martina Arroyo (sp)
____New York Philharmonic, Thomas Shippers (dir)
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途中経過のつもりだが、今、発註中の音盤到着次第では、これで終わるかもしれない。
まず、ヴァルニエ 2 つめのデュリュフレ「レクイエム」。第 2 版による。
ヴァルニエは、既にスーリッス合唱団と Syrius に録音しているが、今度はエチエンヌ=デュ=モンでの録音。だが、Cambridge Voices とやらのコーラスの出来はイマイチ。妙に鄙くさい音楽になってしまい、ヴァルニエのオルガンだけが雄弁。このサイトの評価はよい。他盤でも、ここと私の評価とはかなり違うようだ。理由は下記に。
この作品は、私が思うに、作品の本然に求められるものと演奏技術に求められるものは全く別である。詰まり、フォーレと同様、合唱は確かに透明度の高さが厳しく要求されるが、音楽はもっと濃厚なのである。マドレーヌのオルガニストであったにも拘わらず、フォーレは実のところ、カトリシズムの血の流れぬ人であった。だが、デュリュフレは、臆面なく、ドラマチックで脂ぎった仏国カトリシズムの体質を具有した作曲家である。「レクイエム」同士で、編成や作品構成の類似に惑わされ、同じ雛形で考えるのは土台無理がある。
日本では、第 2 版が最も賞揚される傾向にあるようだが、どうしたって第 1 版が最も面白いに決まっている。しかし録音となると、現在のところ、第 3 版の DELOS のキーン盤を私は推す。デュリュフレの持つ音楽の内包、原色が溢出しているからだ。デュリュフレに蒸留水のようなヒーリングを渇望(もと)めても詮なしなのだ。
フィルアップに Cambridge Voices の指揮者 マッシニの作品が 3 曲組まれている。「Déploration」は、彼の憧憬の人、デュリュフレに対するオマージュのような作品。これを聴いて、彼がデュリュフレをどう捉えていたかを透過できるように思う。敷衍すれば、この作品に対する聴き手の感性が、そのまま聴き手自身のデュリュフレとの対峙の在り方を象徴しているといえる。私的には、この音楽は面白くなかったが、この人のデュリュフレの見方は正しいと思う。先に挙げた米国のキーンもそうである。
もうひとつは、ちと古い盤だが、バーバーの歌曲集を拾遺したアルバム。
バーバーの歌曲集というと、ジョイスの詩による作品が思い浮かぶが、ここでは管弦楽歌曲が 2 作と、ピアノ伴奏、SQ 伴奏が各 1 曲となる。「Dover Beach」以外の 3 曲とも、独唱者は初演者である(特に後半 2 曲は初演メンバーそのまま)。蛇足ながら、 Eleanor Steber は、バーバーのオペラ「ヴァネッサ」(1958)のメトロポリタン初演でタイトル・ロールを歌った人である。
「Knoxville」や「Dover Beach」あたりは、よく知るクラシカルで、ロマンチシズムに満ちたバーバーであり、特にバリトンと SQ による「Dover Beach」は、実にきめ細やかな空気感がある。
この盤の中では「Andromache's Farewell」をとりたい。エウリピデスによる。運命に翻弄されるアンドロマケー譚では、トロイヤから連行された後の話である『アンドロマケー』ではなく、トロイヤ戦争直後、ヘクトールと彼女との子で、やがて殺されるだろうアステュアナクスに別れを告げる『トロヤーデス(トロイヤの女たち)』の一場面である。このテクストの取り方も、バーバーらしい。何が「バーバーらしい」かって? 彼は高潔な怒りと悲しみは描けても、本来のエウリピデス的持ち味である、人間情念のドロドロした中身にはご縁がないだろうからだ。その意味では、バーバーならラシーヌの方が感度は噛み合う気もするんだが...。
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