Bi ha Rancho ni ari / 2001. 06



西所正道 : 「上海東亜同文書院」風雲録
西所正道 『「上海東亜同文書院」風雲録』
[ 角川書店 : 323頁、初版 2001年5月25日 ]

プロローグ −一瞬の交錯−
第一章 「日中共存共栄」を目指した東亜同文書院
第二章 「思源」の人
第三章 利敵行為をしてまで守りたかったこと
第四章 文革の実態をスクープしたボーン上田賞記者
第五章 戦後日中貿易をつなぎ止めた周恩来秘話
第六章 理由なき逮捕・中国獄中の五年間
第七章 足して二で割る交渉術
第八章 朋友
第九章 カントリーリスク・ウォッチャー
第十章 賄賂とは何か? 中国版「忠臣蔵」論争
第十一章 外国語を学ぶということ
第十二章 中国に”ノー”と言わないメンタリティの危険度
第十三章 「存異求同」のアジア論
エピローグ
あとがき
付録・参考文献


梅原正紀 : 近代奇人伝
梅原正紀 『近代奇人伝』
[ 大陸書房 : 254頁、初版 1978年6月6日 ... 絶版 ]

宮武外骨 −過激と猥褻の人
伊藤晴雨 −非体制の責め絵師
小倉清三郎 −性の求道者
高橋 鐵 −教祖型の性ジャーナリスト
梅原北明 −好色型反骨派の猥本屋
あとがき


奥波一秀 : クナッパーツブッシュ−芸術と政治−
奥波一秀 『クナッパーツブッシュ−芸術と政治−』
[ みすず書房 : 232頁、初版 2001年5月25日 ]

はじめに
序文 「秘史」−知られざる婚約者
I 「巨匠」への道
II 政治と音楽

あとがき
付録・参考文献


此処では新刊本だけを扱うわけではないし、逐一の買い物を全て列挙している訳ではないので、過去に遡って書き直すのもかったるい。というわけで、再スタート出来るところからやり直すことにした。
さて、一番本の探しやすい東京堂で暇潰しをしていた時のこと。せりか書房から、ジョージ・スタイナー『言語と沈黙』が合本版で再刊されていた。スタイナーが本書の中で提起している問題は、勿論、現在でも通じる内容はあるが、なぜ今頃なのだと思ってしまう。


新たな「東亜同文書院」本が新聞広告に出ていたので、買ってきた。スタートは興味津々で進む。期待して頁を繰るが、次第に違和感が募り始める。私がなめるように知りたいのは、この本で第一章として扱っている内容なのである。残りの章は全て、インタビューをベースに、書院卒業生の軌跡を日中関係史から浮き彫りにするという内容。だが、それは、残念ながら、私の興味の埒外だ。
書院と直接関係のない第三者が書いたものとして、栗田尚弥の『上海東亜同文書院』が先例となっているが、同じような構成は確かに取りにくいことだろう。しかし、私が読みたいのは「同時代として書院に生きていた群像であり点描」であって、個人の立場での回顧的日中関係評価ではない。その時、その場所にあった書院自体が、どういう歴史的事実であり現象であったのか...第三者による総括なのである。


とある男から氏家幹人読みを使嗾され、新書を数冊読む。偶々『武士道とエロス』で敵討の話が冒頭章に書かれており、少しその辺りの文献を調べようと考える。平出鏗二郎『敵討』、千葉亀雄『新版日本仇討』、直木三十五『仇討千一夜』あたりはわかるが、梅原北明『変態仇討史』とは何だ? ということになり、「閑話究題 ××文学の館」も手がかりに、北明について調べた。北明は、野坂昭如の小説のモデルにもなっている人だが、まずは彼の子息、梅原正紀が著した『近代奇人伝』から拾うことにした(息子である旨、著者ご本人がマニフェストしている)。
この本は、性、猥褻と出版に拘わる 5 人の生涯の梗概である。人物の格からしても、両端が痛快。
外骨は既に再評価されて久しいが、こうして一生涯を観望してみると、やはり大の附く人物である。公然と開き直る力こそが、人間の格の違いになるのだろうか。外骨と並んで無類に面白いのは、北明だ。猥本出版というより、権力への徹底的に funny な抗戦がために生きる、天邪鬼を超えた痛快な反骨精神の大先達というわけだ。吃驚したのは、旧金沢一中で、あの島田清次郎と一緒にストをやった経歴の持ち主だったということ。しかしその後、久々につげ義春を読み返して、北明の名が挙がっていたのには参った...


最後に、奥波さんのクナ本については、多くの音楽愛好家も絶賛しているので簡単に。
月刊『みすず』の著述も読んでいたので、彼の指揮や音楽に関する演奏論が著者主観で構成されぬ安心感を、初めから得て読めた。特にナチとのグレーな関係を保持せざるを得なかった指揮者であるだけに、広汎に資料を操りながら、クナに関する伝記成分を歴史資料の中から剔抉させるのは、面白いし意味がある。クナ個人の肖像より、クナを取り巻く時代の流れが、彼を通じて一層明快にわかるから面白いのである。逆に言えば、本書のピントは背後の歴史の流れにあるのであり、クナ本人は流れる背景のコマ割りの上で、読み手の想像力(音楽的知識という意味だが)を掴んで、より明確に結像する仕組みとなっている。
しかし、脚注以外に資料文献表が一切ないというのは、音楽家の生涯を辿る上ではやはり寂しい。演奏会データや演目、録音(可能であればディスコグラフィ)といった資料は、そこから演奏家本人の関心や周囲からの圧力、時代の空気をさらに明快に語らしむるものと私は確信している。





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